2024/08/26
158. 神の国
使徒パウロは、異邦人が福音によってイエス・キリストにおいて約束されたものを一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるために、彼らに「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェソ4:22~24)と教えた。そして、その生活を支えるためには、「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ5:19)と言って、それらを実行するように勧めたのである。この勧めは、コリントとコロサイの信徒への手紙にも見られる(コリント一14:26、コロサイ3:16参照)。異邦人たちに、未だ救い主を待っている旧約の民の思いを植え付けることは、彼らの記憶に預言の言葉が刷り込まれ、イエス・キリストが預言されたメシアであることを信じさせるために有効であった。それを習慣にしていた自分がイエスから呼び出されたという確信の内にいるパウロは、迷わなかった。
一方、イエスが天から降って来たのは、旧約の預言を成就するためだけではなく、御父の御心を行うためであった(ヨハネ6:38参照)。それは、預言者が立つより遥か昔、エデンの園で起こった出来事を解決するためであった。神は、「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」(創世記3:22)と言って、「アダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」(3:24)。それ以来神は、悠久の時を待っていたのである。「父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6:40)とイエスが言ったように、それは人を死者の中から復活させることではなかった。
イエスにはそのために計画があった。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:54)と言ったご自身の言葉を実現するのである。この言葉は、イエスが最期の食卓で次のように実現した。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」(マタイ26:26~28)。そのときイエスは、「神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)と言っておいた。この予告は、イエスが十字架上で酸いぶどう酒を受けたことによって実現した(ヨハネ19:28~30参照)。神の国はすでに来ているのである。
イエスが述べ伝えた神の国は、4世紀の終わりに、新約聖書の成立とキリスト教がローマ帝国の国教とされたことで、世に見えるようになるための条件が整った。しかし教会は、「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」というパウロの勧めを維持し、それをミサ典礼の骨組みに据えて発展させてきた。イエスの復活の証人たち、イエスと共にいて、直接教えを受け、イエス・キリストの世界観を持っていた人々は遥か昔に亡くなり、彼らの暗黙知を知る術はなかった。このとき、成立した新約聖書に仕込まれていたヨハネの黙示録には思い至らなかったのである。
救い主を待っている旧約の民の思いを繰り返しキリスト者の記憶に刷り込む習慣は、無意識の内に彼らの記憶に、キリストの救いも未来の出来事だという思いを植え付ける。そして、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(コリント一13:12)というパウロの強烈な憧れが伝播する。それは、ご聖体を制定したとき、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と言った言葉によって、ご自身の時を現在化する種を、未来のミサ典礼のために蒔いておいたイエスの思いと決定的に矛盾する。
Maria K. M.