イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/05/06


142. 隠された記憶

ここで少し道をそれるが、私は以前このブログで、マルコ福音書が、サタンの誘惑を受けた荒れ野でイエスが「野獣と共におられた」(マルコ1:13)と書いていることから、「荒れ野」は、人にも野獣にも共に備わっている無意識の領域を指すと捉えた。 

そして、黙示録の12章に、「女は荒れ野へ逃げた。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった」(黙示録12:6)とある「荒れ野」には、「神の用意された場所があった」と書かれていることから、ここは、使徒たちの無意識の領域であり、そこへ逃げた「女」は、司祭職を表していると考えた。 

今、その手掛かりが、後に書かれている、「しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである。女は蛇から逃れ、そこで一年と二年と半年の間、養われることになっていた」(12:14)という文中にあると気づいた。 

ここで、「鷲」がヨハネ福音書を、「荒れ野にある自分の場所」がイエスの最期の夕食の席を指していると捉えると、イエスが使徒たちの足を洗う場面に至る。

そこで、イエスが、「あなたがたも互いに足を洗い合うべきである」(ヨハネ13:14)と言った言葉に注目すると、この言葉には、「主の復活の証人」(使徒言行録1:21~221になるべき男性が使徒たちに加わるとき、使徒たちがイエスの示した模範に倣って実行することによって(ヨハネ13:4~5参照)、その場所と務めと使徒職を継がせる意向があることが見えてきた。イエスは、彼が使徒と名付けた職務が継承される「しるし」とするために、使徒に足を洗われた者が、次に足を洗う使徒になることを、「互いに足を洗い合う」という言葉で表現したのである。 

イエスはペトロに、「私のしていることは、今あなたには分からないが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13:7)と言って、時がくるまでこの「しるし」が隠されるようにした。さらに、足を洗われるのを断るペトロに、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」(ヨハネ13:8)とまで言って、この「しるし」がイエスと使徒たちの間の絆の保証になることを示した。イエスが後で使徒たちに、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」(ヨハネ13:17)と言ったとおりである。 

そしてその後、使徒たちには、イエスの受難と十字架上の死、そして復活という衝撃的な体験が続き、これらのことは使徒たちの記憶に隠された。 

「ヨハネの黙示の預言的構成」を見ると、黙示録12章は、第4の預言「司祭職とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言(12~16章)」の始まりである。そして教会は、第5の預言「教会の堕落の預言(17~18章)」に向かった。 

聖霊は、イエスが制定した司祭職とご聖体の秘儀、そしてその場所2を、新約聖書の中に隠し、この運命から教会を守ったのである。 

(注1) 現代の「主の復活の証人」とは、ご聖体を見て、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と公に宣言する者である。

(注2) ルカ22:7~13参照

つづく

Maria K. M.







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