2024/05/27
145. ケルビムときらめく剣の炎
人と被造物が神の言葉「あれ」に応えて存在するようになった自発性も、神が人をご自分に似せて造るために吹き入れた「命の息」も、「わたしはある」という神の自発性がその源泉であるために、自由である。そこで、神は、実際の園の中央に「命の木」と「善悪の知識の木」を生え出でさせ、創世記の二人がどのようにそれらの実を取って食べるかによって、どのように自発性が発揮されるかを見極めようとした。
二人は情報を共有し、「善悪の知識の木」の実を取って食べた。そこで、神は、「女」と情報の間に「敵意」を置いて、これが子孫に遺伝するように対処し、新しい計画を打ち出した。このため、「女」のはらみの苦しみは大きなものになったが、情報に騙されたことを認めた「女」は、神の言葉に背いた過ちを赦されたのである。
一方、自分が「女」の手からその実を取って食べたという過ちと、その原因を神に帰したという二つの過ちを犯した「男」に対し、神は、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」(創世記3:17)と言ってその贖いを求めた。しかし、神の言葉には、「お前は顔に汗を流してパンを得る」(創世記3:19)という未来が織り込まれていた。「女」によってもたらされた「神の置いた敵意」を持つ彼らの子孫に希望が託されたのである。
唯一人「神の置いた敵意」を持たない者となった「男」は、その後「女」をエバと名付けた。これで彼は、先の二つの過ちの上にさらに過ちを重ね、過ちは三度に及んだ。神が、「男」を「女」とともにエデンの園から追い出したのは、彼に、自分がそこから取られた土を耕させ、彼の子孫にそれを引き継がせるためであった。
ペトロは、イエスの予告どおり彼を三回否み、それを泣いて後悔した。イエスは、復活後に、「わたしを愛しているか」と三回ペトロに問うことによって、創世記の「男」の過ちを消去した。神が未来に託した希望は神への愛として実現し、その贖いから神の命が再び宿るキリストの体が生まれる。
イエスが選び、使徒と名付けた者たちが、ペトロを筆頭に「顔に汗を流してパンを得る」者、「永遠の命に至る食べ物のために」(ヨハネ6:27)働く者となり、イエスが十字架上で成し遂げた新しい契約を更新するのである。
「男」の贖いを継承した男性は、キリストの体を創造する神の助け手として働くことになった。イエスはここに「天の国のために結婚しない者」(マタイ19:12)という勧めを置いた。彼らの体が神の命に向き合うためである。このようにして、「女」のはらみの苦しみを継承し、その体が人の命に向き合い、人の体を創造する神の助け手として働く女性との間に、真の平等が築かれていくのである。
創世記の「男」以外のすべての人は、遺伝によって「神が置いた敵意」を持っている。しかし、この「敵意」がどのように働くかは未知数である。それは、人相応の知識と記憶の裏には、情報を取り込む感覚機能や体の機能があって、それらも神が命じる「あれ」に応える自発性によって維持されており、それらと結ばれた知識と記憶が肥大するにつれ、本能を超える欲望が表出する強い傾きを、人が持っているからである。
多くの人が、イエスの言葉を受け取れないのは、「神が置いた敵意」によって知る自分自身の真の姿を見るに堪えないからだ(ヨハネ8:31~59参照)。情報と悪霊(汚れた霊)の間の因果関係は尽きることがない。人が「神が置いた敵意」を持っていても、それを見ようとも知ろうともしないならば、その人は、創世記の「男」に追従することになる。その人の肉体の死は、悪霊を生む。このため、神は、「男」のために、また、これら「男」の追従者たちのために、命の木に至る道を守り、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置いたのである。
つづく
Maria K. M.