イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/09/16


161. 使徒ヨハネの後継者

このごろ、聖フランシスコに語りかけたと言われているサン・ダミアーノの十字架に描かれた構図は、ヨハネの福音書を題材にしていることを知った。さらにそこには、黙示録の場面も挿入された特別なメッセージがあることに気付く。 

上端に描かれた指は、「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11:20)とイエスが言ったように、神の国の到来を指し示している。その指が指している先には、十人の聖人の一人が、ボタンの付いた筒のようなものを持って、下から手を差し伸べているイエス・キリストに渡そうとしている。これは、「七つの封印で封じられていた」(黙示録5:1)巻物である。ゆえにこのイエス・キリストは、「わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である」(5:6)と書かれた黙示録の小羊で、イエスの名によって遣わされた聖霊を表現している。

黙示録の中では、「小羊は進み出て、玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った」(5:7)とあるが、ここでは神の右の手の指が聖人を指し、この聖人の右の手から受け取っている。ヨハネの黙示録に注意を向けさせるためだ。この七つの封印で封じられていた巻物が新約聖書だったからである(本ブログ№13~16参照)。また、十字架の両端にも二人の聖人が描かれているところから、合わせて十二名の聖人たちは、黙示録に、「都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった」(21:14)とある十二使徒である。 

また、中央のイエス・キリスト像の頭上には、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれている。これはヨハネ福音書だけにみられる罪状書きで(ヨハネ19:19参照)、祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」(19:21)と求めたが、ピラトが取り合わず、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」(19:22)と答えたときのものだ。イエスが自ら「ユダヤ人の王」と称しなかったこと、「お前はどこから来たのか」(19:9)と問うても答えなかったことがピラトの脳裏にはあった。一方で彼は、イエスの言葉に、「真理とは何か」(18:38)と問い返し、「神の子」という言葉を恐れた(19:7~8参照)。 

前回考察したように、イエスとピラトの問答を神学的に深めて見せたヨハネ福音書は、そこに、キリスト者のためにイエスが求め、パウロを派遣したローマ帝国を暗示している。そこで、十字架上のイエスのそばに描かれた人々の最右に百人隊長と書かれているローマ人が立っており、彼の上にもキリストの血が流れ落ちている。ヨハネ福音書には、「百人隊長」の記載はないが、この百人隊長は、神のものとなったローマ帝国の象徴として描かれているのである。 

このようにヨハネの黙示録とヨハネ福音書をつないで描いた画家は、黙示録の著者ヨハネと愛する弟子を同一人物とみていたようだ。上記の巻物を渡している聖人の富士額が、唯一イエスの右側にイエスの母と共に立っている「愛する弟子」のものと同一であることからそれが見て取れる。十字架上のイエスの左右に描かれたイエスの母と愛する弟子、そしてマグダラのマリアとクロパの妻マリアは、息を引き取ったイエスのわき腹を兵士が槍で刺したとき血と水が流れ出たことの証人である(19:35参照)。そして彼らは、そのわき腹から誕生した教会そのものである。 

これらの事柄の上に降り注ぐ御血は、多くの人のために流されて罪の赦しとなる新しい永遠の契約の血である。ゆえに、浮き上がって見えるように描かれ、前を見つめる十字架上のキリストは、ご聖体である。その眼差しはご聖体を見る者に常に次のように問い、その応えを待っている。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:25~26)。その応えはひとつである。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(11:27)。 

十字架の構図は、神の指が示しているように、新約聖書に現れた神の国を視覚化している。フランシスコは、それを見て受け取り、声を聞いたと伝えられている。黙示録の著者ヨハネのように“霊”に満たされたのだ。彼は生まれた時、ヨハネという名で洗礼を受けた。不思議なめぐりあわせである。 

つづく

Maria K. M.


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