イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/11/25


171. 自分の意志

『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)の第一章「訓戒の言葉」の第2のテーマ、「我意の悪」は、次のとおりである。 

「神は人に仰せになりました。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木から決して食べてはならない』(創2:16~17参照)。人は、従順に背かない限り、罪を犯すことはなかったので、楽園のすべての木から食べることができました。実に、次のような人こそ、善の知識の木から食べているのです。すなわち、自分の意志を己のものとし、自分の中で神が語ったり、行ったりされる善について誇る人です。このようにして、悪魔のそそのかしと、掟の違反とによって、悪の知識の木の実になります。それで、罰を受けなければならないのです」(『アシジの聖フランシスコの小品集』の第一章「訓戒の言葉」、テーマ2「我意の悪」、p31参照)。 

神は、ご自分に似せて人を創造するために、人に意志を与えた。「命の息」を吹き入れ、園の中央に「命の木」を生え出でさせたのだ。「人は、従順に背かない限り、罪を犯すことはなかったので、楽園のすべての木から食べることができました」とフランシスコが書いた通りである。しかし、人と人の間にすでに「情報」が発現しており、人は神の命令とは異なる認識をしていた。「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない」(創3:3)と捉えていたのだ。それで、「命の木」から取って食べなかったために、「命の息」と「命の木」は結ばれることがなく、人は神が与えた意志を自分のものにすることができなかった。かえって、「善悪の知識の木」から取って食べたことによって、「人間の情報」によって進化する人の知識を「命の息」と結んで「自分の意志」を得たのである。その知識は確かにその人のものであるが、自発性は神のものである。 

一方、聖霊は、協働しようと信者に常に働きかけている。その力に触れた信者の中には、「自分の中で神が語ったり、行ったりされる善について誇る人」が出てくる。「自分の意志を己のものと」しているからである。このような人の実りは、信者であっても「悪の知識の木の実」になる。それで、罰を受けることになる。しかし、すべての救い主である神は、罪とも罰とも無関係である。社会倫理や規則など、すなわち人間の知識がその人を罰するのである。 

神は、ご自身に似せて創造した人の「自分の意志」の自由を保証している。しかしそれは、神が人に自由意志を授けたということではない。神が人に授けたのは、人相応の「神の自発性」である。それは、「命の息」(創2:7)であった。これを神から吹き入れられたことによって、また、この自発性が「命の木」と結ばれることによって、人は神の似姿として生きるようになるのである。自由は神の自発性にある。「意志」は神の与えた自発性と知識の、いわば化合物のようなものだ。そこで、「意志」において神から授かった自発性の自由が発揮されるためには、それにふさわしい知識と結ばれなければならない。それは、神の啓示以外にはないのである。 

フランシスコは人の知識が善悪であることを知っていた。それは、人と人の間に発現する「人間の情報」が、受け取る人によって善にも悪にもなるのを見たからである。この「人間の情報」を、神から与えられた自発性と結んでも、善悪の縛りを受けて、自由な意志となることはない。神の啓示は神の知識であり、イエス・キリストの御言葉であり、真理である。イエスが「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8:31~32)と言ったとおりである。 

信者がイエスの言葉にとどまるために、信者を導いて真理をことごとく悟らせてくださる「真理の霊」(ヨハ16:13)である聖霊は、いつも信者と共にいる。ゆえに、信者が聖霊と協働する時にこそ、そこに自由意志が発現すると言える。前回の考察で、フランシスコがそうであったように、神の啓示と「人間の情報」を区別すること、すなわち聖霊の働きと「人間の情報」を区別することを知っていることは、その前提条件である。そのためにヨハネの黙示録が新約聖書にある。 

つづく 

Maria K. M.

 


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