2024/07/29
154. 司祭職と十字架
「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)の第7の預言、「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の初めの段落(黙示録21:1~8)は、前回考察したように、第4の預言で天に隠されたご聖体が姿を現す「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の最後の段落(20:11~15)と同じ構造を取っている。このことから、「聖霊の霊性の預言」の初めの段落が、ご聖体の秘儀を明らかにしていることが分かった。
続く「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の二つ目の段落は、「さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。『ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。』」(黙示録21:9)で始まる。ここで、「小羊の妻である花嫁」は、イエスご自身のからだを釘付け、支えた十字架を表している(本ブログ№149参照)。この十字架は、イエスの言葉を記念として行う司祭自身が背負っている職務、司祭職である。そこでイエスは、使徒たちを選んで派遣するとき、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:38)と言っておいたのである。
イエスの名によってパンとぶどう酒が御からだと御血になるように御父に願った司祭が、そのパンを取り、信徒と共に囲む祭壇の上で持ち上げる時、司祭の身体が、イエスのからだを釘付け、支えた十字架になる。福音書には、「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」(ヨハネ19:25)と書かれている。イエスは十字架上から彼らを見て語りかけた(ヨハネ19:26~27参照)。ゆえに、司祭は、共に祭壇を囲む信徒に向けてご聖体を示すのである。
イエスによって成し遂げられたすべての出来事は、彼の最期の食卓で「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と言ったものの、それを実現できなかった使徒たちの記憶に刻み込まれた。一方でそこには、御父のみ名が、これからも使徒たちを守ってくださるようにと願ったイエスの祈りがあった(ヨハネ17:11~19参照)。
イエスは、使徒たちに、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:13~14)と言い、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:15)と続けた。そして、御父に、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハネ17:19)と祈ったのである。
「真理」とは、イエスご自身である(ヨハネ14:6参照)。真理であるイエスが、ご自身をささげたのは、十字架上であった。ゆえに、司祭の祈りに応えてキリストのからだとなったご聖体を、司祭が、信徒と共に囲む祭壇の上に持ち上げる時、まさに、ご聖体を支える司祭の身体が、イエスのからだを支える十字架となって、イエスに釘づけにされ、共にささげられた者になるのである。こうして、「彼らも、真理によってささげられた者となるためです」というイエスの祈りが実現する。
イエスが「友のために自分の命を捨てる」と言った友とは、司祭職を担うことになる使徒たちである。それは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ15:16)と言った使徒たちを、一人も失わないためのイエスの決意だったのである(ヨハネ18:9参照)。
Maria K. M.