2024/06/17
148. 大きな白い玉座と悪霊の救い
悪霊は、もともと人であり、悪魔やサタンとは異なる。そこで、悪魔やサタンを情報と捉えて悪霊を理解するという発想は、世の中の「悪」といわれる現象が、情報と人の間の強い因果関係によって引き起こされる人間の仕業であることに、私たちの注意を向ける。だから、たとえ悪霊が人に取りついて引き起こす超自然的な現象を見たとしても、聖霊と共働するという超自然的な体験を念頭において生きるキリスト者たちにとっては、想像を絶する出来事とは言えない。今回から黙示録に戻り、「ミサ典礼の完成の預言」の考察を終わらせたい(下記「ヨハネの黙示の預言的構成」の図参照)。一方で、ミサ典礼に向かおうとする信者たちの途上には、多くの情報群が待ち受ける(黙示録20:7~10参照)。「その数は海の砂のように多い」(黙示録20:8)。それらに信者たちは絶え間なく惑わされ、ミサ典礼に入ってしまうまで付きまとわれる。しかし、信者たちはミサ典礼に入ってしまうとそこに集中するために、すべての情報は忘れ去られる。まるで「天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした」(黙示録20:9)かのようだ。彼らが惑わされた情報は、「火と硫黄の池に投げ込まれ」(黙示録20:10)、処分されたのだ。
続けて、「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった」(黙示録20:11)とある。著者は「大きな白い玉座と、そこに座っておられる方」、すなわちご聖体を見たと書いているところから、実際のミサ典礼の場では、感謝の典礼に入り、ご聖体が上げられているところである。この場は神と人の現実である。続けて、「天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった」のは、ご聖体は見えていても、そこは聖霊と信者たちが協働する実際のミサ典礼とは異なる場であったからである。この場は神の現実である。
そこで著者は、人が死んで、「人の知識と記憶」に張り付かれた「命の息」が、肉体を離れ天の父のもとに帰る神の命令(~あれ)について行けず、地上に残ってさまよう悪霊となって「玉座の前に立っているのを見た」(黙示録20:12)。彼らは、なんとかして「王たちの道」を見つけ、ここまでやってきたのだ。ご聖体の前は、彼らが生きている間に、彼らの「人の知識と記憶」が「命の息」に張り付いて行ったことを、神から明らかに示されたうえで、引きはがされる場となっている(黙示録20:12参照)。引きはがされた彼らの「人の知識と記憶」は、「その名が命の書に記されていない者」として、「火の池に投げ込まれ」(黙示録20:15)処分されるのである。
このとき実際のミサ典礼の場では、信者たちがご聖体を拝領している。神の現存するイエス・キリストの体は、いわば第二の受肉の神秘によって生きている神である。この神が、信者に食べられ死ぬとき、「私はある」という神の自発性と神の知識が、「人の情報と記憶」をはがされた「命の息」を連れて天の父のもとへ戻る。聖霊と信者たちが協働するミサ典礼は、悪霊をも救うのである。ミサ典礼を行うことは、世の中の「悪」といわれる現象を内側から制する力の源になる。
これらのことから、また、教会が未だとどまっている「教会の堕落の預言」の段階を抜け出るためにも、私たちキリスト者は、ミサ典礼の完成を目指さねばならない。そして、先人たちが新約聖書を成立させ、ヨハネの黙示の預言を実証したように、私たちも「ミサ典礼の完成の預言」を実証するのだ。
Maria K. M.