2025/03/31
189. 7人の弟子と7つの手紙(第4の手紙)
手紙の初めに、「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる」(黙2:18)と、この手紙の送り主の姿が描写されている。この描写は、黙示録の著者ヨハネが、主の日に“霊”に満たされて聞いた声の主の描写の一部、「目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き・・」(1:14~15)と酷似している。この手掛かりは、著者ヨハネに語りかけた声の主が「神の子」であることを示すと同時に、第4の手紙の「ティアティラにある教会の天使」が、著者ヨハネに似た者であることを示唆している。それは、ヤコブである。
ヤコブは、イエスが重要な場面でペトロとヨハネと共にいつも伴っていた特別な弟子の一人だった。そこで、「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている」(黙2:19)と書かれている。その一方でイエスは、ヤコブとその兄弟ヨハネに「雷の子ら」(マコ3:17)という名を付けた。実際、彼らには強気に先走りする傾向があって、イエスにたしなめられている(マコ9:38,ルカ9:49,54参照)。その上、彼らは野心家でもあった(マコ10:35~41参照)。彼らは実によく似ていたのである。
手紙で「神の子」は次のように指摘している。「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている」(黙2:20)。ここでは列王記に登場するイスラエルの王アハブの妻イゼベルが引き合いに出されている(王上16:31~21:25,王下9:7~37参照)。この指摘は、教会共同体において、司祭が、アハブ王のように、自分の身近で重宝する女性を重用するなら起こるに違いない悲劇を示唆している。
教会共同体には初めから多くの女性たちが奉仕していた(ルカ8:1~3参照)。司祭がその一人のすることを「大目に見ている」と、共同体のさまざまな思惑が彼女に向かい、彼女が相応の能力を備えていれば、司祭と彼の共同体の間に「イゼベル」が出現する。「自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え」とあるように、司祭の後ろ盾を得た彼女は、信徒に向かって権威ある者として振舞い、自分の仕方で彼らを教える。「また惑わして、みだらなことをさせ」とは、その態度と相応の能力で人を惑わし、自分の言うことを聞くようにさせること。そして、「偶像に献げた肉を食べさせている」とあるのは、彼女の言うことを聞く信徒たちが、信仰の純粋さを損なう彼女の行為に慣れ、平然とそれを受け入れるようになることである。
手紙には「わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない」(黙2:21)と続く。彼女は、「この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らない」(2:24)人々を見つけると、列王記のイゼベルのように彼らに制裁を加える。信徒の中にはそのような共同体から逃げ出す者もいる。司祭が、彼の共同体に何が起こっているのかに気付くには時間がかかる。使徒言行録に、「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」(使12:1~2)とある。ヤコブは、このような状況の中で、虚を突かれたに違いない。
人の思いや判断を見通す「神の子」は、人が行ったことに応じて一人一人に報いる。そして、「この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らない」人々に対して、「わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない。ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。」(黙2:24~25)と励ましている。信者にとって真の権威は、「神の子」が与える「明けの明星」(2:28)であり、それはイエスご自身である(22:16参照)。
つづく
Maria K. M.