2025/01/06
177. 預言された者 その2
ヨハネ福音書の主の復活の場面には、7つのエピソードが描かれている。前々回、№175で初めの2つのエピソードを考察し、「わたしが、あの方を引き取ります」と言ったマグダラのマリアの言葉を、1000年以上たって、聖痕を受けた聖フランシスコが、身をもって実現したという結論を得た。フランシスコを捉えたサン・ダミアーノの十字架像には、フランシスコの登場が預言されていた(本ブログ№174参照)。彼は、難解とされていたヨハネ福音書と黙示録の真理を身に着けた者として、その時代に現れるべく呼ばれたのだ。聖霊は、フランシスコが生きている間も、また彼の死後も、彼の書き物や伝記から浮かび上がってくる真理によって当時の教会を鼓舞した。それは今も続いている。このような理解に立って、ヨハネ福音書の復活の場面を続けて考察していく。
マグダラのマリアは、イエスの十字架のそばに立ち、彼の最期に立ち会い、その血と水を受けて、新しい契約の証人、また、誕生した教会の最初の四人の一人となった。彼女の召命については、これまで何度も考察してきた。そして、彼女が、復活したイエスに初めに出会い、それがイエスとは気付かず、図らずもイエスに向かって、イエスのご遺体を「引き取る」と宣言したことは、彼女の召命を証ししていると確信した。しかし、この場面でイエスが「マリア」と声をかけ、振り向いた彼女に、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハ20:17)と言った言葉の意味が見えてこなかった。それがここにきて、サン・ダミアーノの十字架像と、聖痕を受けたフランシスコの召命についての考察によって明らかになってきた。
イエスの声に振り向いたマグダラのマリアが思わず「先生」と言ったように、また、イエスご自身も「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである」(ヨハ13:13)と断言したように、イエスはその人生を救い主として生きたのではなく、ましてや司祭として生きたのでもなかった。だから当時の人々は、イエスを預言者だと思っていたのだ。このイエスに多くの弟子たちが従っていた。その中には婦人たちもいたのである。
彼女たちは、自分の持ち物を出し合ってイエスの一行に奉仕していた(ルカ8:1~3参照)。これらの女性たちは、復活したイエスから「イエスの召命」を受けたマグダラのマリアを筆頭に、イエスの前でイエスが誰であるかを告白したマルタ(ヨハ11:17~27参照)や、イエスとの問答から命の水と新しい礼拝のテーマを引き出したサマリアの女(ヨハ4:1~30参照)のように、イエスに導かれながら彼から具体的に対話を引き出し、自発的に神の言葉を求め、その実りを自身の言動に結び付けていく女性たちだった。こうして男女の弟子たちが対等に「イエスの召命」を継承することができるようになっていた。一方で、当時の人々が、イエスを預言者だと思っていた間も、イエスは、私たちと共にいる神の子であり、救い主であり、彼の短い人生の終わりにその姿を現す司祭であった。イエスのこれらの隠れた特徴は、「マリアの召命」によって明らかになる。
ヨハネ福音書と黙示録の真理を身に着けたフランシスコは、サン・ダミアーノの十字架像に描かれたヨハネ福音書の描写が実現するために、「イエスの召命」を身をもって表現することで、十字架のそばに生まれた教会の召命をあらわにすることになった。ゆえに彼は、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言ったイエスの言葉の意味を悟っていたに違いない。「イエスの召命」に呼ばれたにもかかわらず、彼は教会の勧めに従って助祭職を受けたからだ。教会への愛のためにキリスト者の男性としての使命を受け入れたのだ。この言葉には、キリストの体となるために特別に取り分けられたパンとぶどう酒は、ご聖体として司祭の手によって上げられるまで、触れてはならないという戒めが込められていた。マグダラのマリアが女性だったからである。
つづく