イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/05/13


143. 情報と悪霊(汚れた霊)

情報という言葉が生まれ、情報が人の外に存在するものとして、いわば見えるようになって、私たちはやっと、黙示録に、「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」(黙示録12:9)と書かれたものが、情報であったことに気付いた。 

万物は神の言によって創造された。だから被造物は、その初めから情報の塊だと言える。さらに、創造主、すなわち親である神が、父と子と聖霊の三位一体なのであるから、同一種の生き物同士が交われば、その関係性の内に偶発的に情報が発現するのは当然の成り行きなのだ。 

だから、神にかたどり、神に似せて創造された私たちは、まず自分の感覚から記憶に入るありとあらゆる情報のすべてを、すぐに自分の知識とみなさず、ただ情報として区別し、自分自身と切り離しておく習慣が必須だ。それは、この情報の只中で、私たちにアピールする神の仕方を見つけるためだ。 

黙示録には「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした」(黙示録1:2)と書かれている。著者は、「神の言葉とイエス・キリストの証し」を「霊に満たされ」受け取って黙示録を書いた(黙示録1:104:217:321:10参照)。彼が描写した事柄は、すべて神の目から見た事柄である。すなわち、それは、人の情報の中で働く神の姿を描き出しているのだ。新約聖書の内でヨハネの黙示だけに備わっているエクササイズを行うメリットは、ここにある。 

ヨハネの黙示を子どものように無心に朗読し、その声を聞いて、黙示録の「預言の言葉」が自分の記憶に入るに任せる。毎日わずかでも、水を飲むようにしてこのエクササイズを続け、自分の記憶にこの「預言の言葉」を注ぎ入れ、この言葉を保ち続けるように守るのである。「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙示録1:3)と書いてある通りである。ここで、「時が迫っている」とあるのは、人と人の交わりに端を発する情報が、目を見張るほどの進化を遂げることを予見していたのだ。 

イエス・キリストによって、弟子たちに仕込まれていた彼の世界観が、聖霊の降臨を受け取る弟子たちの人間性を根底から支えたように、このエクササイズが、日々信者たちの記憶にイエス・キリストの世界観を注ぎ入れ、聖霊と協働する彼らの人間性を支える。イエス・キリストの世界観に支えられた信者たちの人間性は、聖霊とつながり、イエスの言葉が分かり、聞くことができるようになる。「神に属する者」(ヨハネ8:47)となったのである。 

情報は、その受け手の状態や状況によって善にも悪にもなりうるうえに、人が情報を自分に気持ちよく、都合よく利用しているうちに、災いに転じることがある。ときには、そこから「人間の仕業」が起こって、人を死に追いやることさえある。 

イエスは神のもとから来た、神から遣わされた言である。人が、イエスの言葉が分からず、聞くことに堪えられないのは、その人の知識が情報から出たものであり、その情報によって欲望を満たしたいと思っているからだ。ゆえに、情報は初めから人を殺すものである。情報は真理をよりどころとしていない。情報の内には真理がないからだ。情報はその本性から情報であり、偽りの情報もまた情報なのである。このように、情報を区別せず取り込み、自分の知識とする多くの人は、イエスが真理を語るから、イエスを信じない(ヨハネ8:42~45参照)。これが罪なのである(ヨハネ16:9参照)。 

情報は、それが引き起こす作用から、霊のように感じることがあるかもしれないが、自発性を持たない情報は霊ではない。一方、悪霊(汚れた霊)は自発性を持つ霊である。情報と悪霊(汚れた霊)の間には、強い因果関係がある。

つづく

Maria K. M.


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