2024/07/01
150. シグナル
前回に引き続き、ヨハネの黙示録の預言的構成(下図参照)の「聖霊の霊性の預言」(黙示録21~22章)についての考察を続ける。これは、ヨハネの黙示録の最後の預言である。ここには、これまで黙示録の預言の書としての働きを支え、伝達してきたシグナルとなる言葉が集まってきている。
黙示録21章3節の、著者に玉座から語りかける大きな声は、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)が実現するに至ったすべての労苦、死と悲しみや嘆きが過ぎ去ったことを告げた。ここは、ミサ典礼完成直後の場面である。そこで、「玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた」(黙示録21:5)。
したがって、使徒言行録でペトロが神殿で説教をした時、「このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています」(使徒言行録3:21)と述べた「万物が新しくなるその時」とは、ヨハネの黙示録において、「ミサ典礼の完成の預言」が実現されるときである。
そこで「玉座に座っておられる方」は、続けて、著者に次のように言った。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(黙示録21:6~7)。著者に向かってこのように言ったのは、「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」と言った「これらのもの」が何であるかを著者が知っていたからだ。
著者がこの黙示録を書くきっかけは、主の日に、著者が、「霊に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた」(1:10)ことから始まった。彼はその声に、見ていることを巻物に書いて七つの教会に送れと命じられた。この七つの手紙に共通して書かれているのが、「勝利を得る者」に与えられる報いであった(2:7、2:11、2:17、2:26~28、3:5、3:12、3:21参照)。
ここで、最後の手紙の報いが「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」(3:21)と書かれており、今回の「わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(21:7)とつながって意味を成していることが分かる。それは、最後の手紙の送り主が、「神に創造された万物の源である方」(3:14)であり、上記の「玉座に座っておられる方」(21:5)の言葉と主題が合致するからだ。
さらに、最後の手紙の「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう」の直前の句は、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(3:20)である。「戸口に立って、たたいている」方は、その方が入るに相応しい食卓が完成するのを心待ちにしているのだ。なぜなら、この方が、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」(ルカ22:15~16)と言ったキリストだからである。
ゆえに、ここで「勝利を得る者」とは、ミサ典礼を完成したキリスト者なのである。「ヨハネの黙示録の預言的構成」の図に示したように、ミサ典礼を完成するために、今分かっているだけでも、3つの必須要件を上げることができる。これらは、教会において未だ達成されていないか議論中のものばかりである。確かに私たちは、「教会の堕落の預言」の只中にいるのである。
上記の「勝利を得る者」の二つの句は、次のようにつながる。「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。」
ここで示されたことは、イエスが最期の夕食で、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14:20)と言った言葉と合致する。イエスのみ心は、彼が「わたしの兄弟姉妹、母、友」と呼んだキリスト者が、「わたしの子」となることにあったのである。
Maria K. M.