イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/11/11


169. 暗黙知

聖フランシスコの時代に教会ではご聖体への関心が高まり、新しい修道生活の形態が起こっていた。このような折に、聖霊がフランシスコを導いて、サン・ダミアーノの十字架像から、ヨハネ福音書と黙示録の真理を悟らせたとすれば、それは時宜に適っていたにちがいない。しかし、神の啓示を授かる者は、たとえ聖霊と協働している瞬間であっても、ベースはこの世を旅する生身の人であって、黙示録の著者ヨハネが、「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした」(黙示録1:2)と書いたように、その人が見たこと以上のことは伝えてこない。そのことを念頭に、フランシスコに直接関係する資料、『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)を手掛かりに、彼の悟りを考察したい。 

第一章「訓戒の言葉」の最初のテーマ、主の御体」が、ヨハネ福音書の言葉で始まることは注目に値する。フランシスコは、初めに「主イエスは弟子たちに仰せになります」と書いて、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)という句から、イエスとフィリポのやり取りを経て、「わたしを見た者は、父をも見るのである」14:9というところまでイエスの言葉を引用した。そこから彼は、「御子は、御父に等しい方ですから、御父または聖霊を見るのと同じようにしなければだれもその神性を見ることはできません」(『アシジの聖フランシスコの小品集』p29)という結論に導く。 

それは、「主イエスを人間としてだけ見て、その霊と神性において、主がまことの神の子であることを見も、信じもしなかった者は皆、罪に定められました。今もこれと同じように、主の言葉によって祭壇上で、司祭の手を通して、パンとぶどう酒の形色のもとに聖別される秘跡を眺めながら、その霊と神性において、それが本当に私たちの主イエス・キリストのいと聖なる御体と御血であることを見も、信じもしない者は皆、既に罪に定められています」(p29)と諭すためであった。彼は、すでに罪に定められている者のように生きる多くの人を、実際に見ていたのだ。 

一方、彼自身は、「御覧なさい。主は、天の玉座から処女の胎内に降られた時と同じように、毎日へりくだられるのです。毎日謙遜な姿で私たちのところにおいでになるのです。毎日御父の懐から祭壇上の司祭の手のなかにお降りになるのです。かつて主は、まことの肉のうちにご自身を聖なる使徒たちに示されたように、今は聖なるパンのうちにご自身を私たちに示されます」(p30)という境地にいて、「使徒たちは、肉眼では主の肉だけを見ていましたが、霊的な眼で観想し、主が神であることを信じていました。それと同じように、私たちも、肉眼でパンとぶどう酒を見て、これこそキリストのいと聖なる生けるまことの御体と御血であると悟り、堅く信じましょう」(p30~31)と勧めている。この勧めを、フランシスコは自身にも課していたに違いない。しかし、この勧めは、「御子は、御父に等しい方ですから、御父または聖霊を見るのと同じようにしなければだれもその神性を見ることはできません」という結論を持っていた彼にとって難しかったと思う。 

イエスは、群衆に向かって、「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである」(ヨハネ5:37~38)と言っている。 

「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」という言葉が実現したのは、イエスがペトロに次のように言った場面である。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16:17)。それはペトロがイエスに向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えた言葉による。この言葉が「わたしの天の父」が現した言葉であった。この言葉を発したペトロ自身も、またそれを聞いた他の弟子たちも、自分の内に御父の言葉をとどめた。彼らは、「父がお遣わしになった者を」信じていたのである(ヨハネ17:8参照)。 

「あなたはメシア、生ける神の子です」という天の父が現した言葉は、これを聞く者の内にとどまる。そこで、ミサ典礼に集う信者は、司祭が示すご聖体に向かって、司祭と共に、天の父がペトロに現したこの言葉を声に出して宣言し、司祭から手渡されるご聖体を取って食べるとき、「これこそキリストのいと聖なる生けるまことの御体と御血であると悟り、堅く信じましょう」と言ったフランシスコの勧めに応えることができる。 

さらに天の父が現した言葉は、その言葉を声に出して宣言し、それを聞く信者の記憶に、暗黙知を形づくっていく。これが、イエスがペトロに、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16:18)と言った岩である。 

つづく 

Maria K. M.


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