イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/12/12

69. 神学

アヤソフィア(イスタンブール)
前回考察した、20167月のモレロ司教とレポン氏によるアラス神父との面談記録の中で、神父は、叙階式と初ミサの時を回想しながら、「現実とつながりが断たれた本当の自分ではない自分がいました。けれどもその後、神学を学ぶことで立ち直ることができました。神学は、私が直面していた問いに答えてくれたのです。」と語っている。奇しくも、同年128日付で、ローマ聖職者省から司祭養成基本要綱「司祭召命のたまもの」が出された。2002年の米国における報道以来立て続けに発覚した司祭による性的虐待問題への対応が、その背景にあると思われる。しかしながら、ここで、次の表現が注書きに引用されて置かれていることから、あれほどの大惨事を目の当たりにし続けていながら、教会は、今もこれらの表現に問題があると思い至っていないということがわかる。「教会の意志は、司祭の独身の究極の根拠を、司祭を教会の頭であり花婿であるイエス・キリストに似た者とする聖なる叙階とのつながりの中に見出します。教会はイエス・キリストの花嫁として、頭であり花婿であるキリストから全身全霊を込めて愛されたように、司祭からも愛されることを望んでいます。」(『現代の司祭養成』29)。

これまで見てきたように、婚姻のイメージを使った表現は、司祭の対人関係において、性愛的なバイアスがかかる危険をはらんでいる(本ブログ№64参照)。アラス神父のように、初めから問題を抱えた司祭にとっては、火に油を注ぐような表現だと言える。これらの表現が司祭養成の根幹にあることによって、司祭たちは、信徒たちを、司祭から愛されることを望んでいる教会そのものだと見るようになる。だからアラス神父は、たった今素晴らしい説教をしたばかりなのに、そのすぐ後、香部屋でダニエルを虐待することができた。同時に、ミサにおいて信徒たちが司祭とともに唱える、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」という言葉と(本ブログ№68参照)、彼の前で唇を開き、舌の上にご聖体を乗せてもらう信徒の姿は(本ブログ№67参照)、いやがうえにも彼の支配欲を満足させ、彼を「司祭からも愛されることを望んで」いる教会に、すなわち少年信徒たちに向かって駆り立てる要素になり得た。アラス神父が叙階式の後、学ぶことで立ち直ることができたという神学は、彼の猥褻な行為を、このように正当化していったと考えられる。

彼は、76歳になって、「どうして神は私を止めてくれなかったのか」という疑問を発したが、彼を止めてくれなかったのは、神ではなく神学だったのだ。だから彼は、「これだけの罪を犯した原因が、自分には決して分からないという事実を、受け入れなければならないのだと思います」と無責任に言うことができた。神を天の父と呼ぶ教会が、21世紀になっても、上記のように婚姻のイメージで表現する神学を改めないなら、司祭に誠実であってほしいと望むあらゆる立場に置かれた多くの犠牲者たちに、真実を示すことはないだろう。

Maria K. M.


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