イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/07/08


151. 無限大へのループ

ヨハネの黙示録の大きな特徴は、啓示の書、預言の書でありながらも、養成の書でもあるということだ。前回みたように、これまで黙示録の働きを支え、伝達してきたシグナルとなる言葉が、最後の「聖霊の霊性の預言」(黙示録21~22/下図参照)の章に集まってきている。それは、養成の書として持つ、いわばコンピュータプログラムのループ構造のようである。繰り返し実行される命令は、信者に神の無限の大きさとつながる準備をさせるために、この世に現れたイエス・キリストの世界観を刻み込む無意識の領域を、信者の記憶内に創造する。人の意識の中だけでは、神であるイエス・キリストの世界観を収めることができないからだ。ここで前回に続き、いくつか例を挙げながら考察を進めたい。 

「聖霊の霊性の預言」(黙示録21~22章)の、「私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」(21:6)という句は、次に「私はアルファでありオメガ、最初の者にして最後の者、初めであり終わりである」(22:13)という強化された形で繰り返され、この最終章が初めの章へ力強く戻っていく力となる。それは、「私はアルファであり、オメガである」(1:8)という句が、「教会と共にいるイエス・キリストの預言」(黙示録1/下図参照)にあるからである。この力は、ヨハネの黙示録を養成の書として心得る者の、日々反復する修行がもたらす無意識の力に還元される。それは、キリストの名を受けたキリスト者が、イエスの名によって遣わされた聖霊と協働するためである。 

また、「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」(21:8)、「しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」(21:27)、「犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる」(22:15)と繰り返される句は、再び養成の初めに戻り、修行に向かって身を引き締めるように諭すのである。 

これらの諭しは、これまで考察したように、悪霊の救いはただ「大きな白い玉座」(20:11)であるご聖体により頼む以外にないことを思い出させる。ヨハネの黙示録の修行によって、イエス・キリストの世界観を着る信者たちは、ミサ典礼に向かう日常のルーティンを生きながら、悪霊たちにとりつかれることなく、死ぬ前は人であった悪霊たちがご聖体にたどり着くための「王たちの道」(16:12)を、身をもって指し示すのである。 

この養成の善き同伴者として黙示録の随所に登場する「幸い」も、ヨハネの黙示録のループを支えている。第6の「幸い」、「見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである」(22:7)は、第1の「幸い」の「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(1:3)に再び向かう勇気を与える。ヨハネの黙示録を朗読し、これを聞くことで、無意識の内に身に着けるイエス・キリストの世界観は、格別にミサ典礼に向かうルーティン上で生かされる。そこに苦労もあるが、この修行によって、その人自身が清められるだけではなく、その人の足跡がその時代をも清めていく。 

最後の第7の「幸い」は、「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」(22:14)と書かれている。ここで「命の木に対する権利」とは、私たちの内に置かれた「命の木」が「命の息」とつながる権利である。神の自発性から分与された「命の息」とつながった「命の木」は、聖霊からの神の知識を受け取り、インターフェースとしてその機能を発揮する。そして、「命の息」とともに準備のできた信者たちの魂に向かう。こうして神の知識を受けた信者たちに、「門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める」ことが始まる。そこには、イエスが次のように約束した大きな報いと励ましが待っている。 

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)。 

Maria K. M.




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