2023/01/16
74. 苦悶の大聖堂
ヨハネ福音書の中には、これまで考察したベタニアのマリア(本ブログ№71,№72参照)のような女性がもう一人いる。姦淫の現場で捕らえられた女性だ(ヨハネ8:1~11参照)。この出来事は、安息日に病人を癒したイエスが(ヨハネ5:1~18参照)、モーセの律法を盾にご自分を弁護したこと、また、ご自分を証ししようとしたこととつながっている(ヨハネ7:14~39参照)。それを聞いた祭司長たちとファリサイ派の人々は下役たちを遣わしたが、イエスを捕らえることができなかった(ヨハネ7:32~53参照)。そこで、今度は、律法学者やファリサイ派の人々が、イエスが民衆に教え始めたその時を狙って、この女性を連れてきてイエスに問うた。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(ヨハネ8:5)。しかし彼らは、イエスの予想外の反応に狼狽し、その場から一人、二人と去り、最後にはイエスとこの女性だけが残った。このとき、「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」(ヨハネ8:10)と問うイエスに対し、彼女が落ち着いており、自分が助かったことの驚きも感情も表明していないことから、この女性は彼らと申し合わせていたと思われる。だからイエスは、「私もあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:11)と言ったのだ。そして、「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない」と続けたのは、律法学者やファリサイ派の人々のそばにいて、彼らの陰謀に加担してはならないという勧告だ。
この後(ヨハネ8:12~20参照)、イエスは、このファリサイ派の人々に、「あなたがたは肉に従って裁くが、私は誰をも裁かない。しかし、もし私が裁くとすれば、私の裁きは真実である。なぜなら私は独りではなく、私をお遣わしになった父と共にいるからである」(ヨハネ8:15~16)と言った。次に、イエスを信じないユダヤ人たちには(ヨハネ8:21~30参照)、「あなたがたは、人の子を上げたときに初めて、『私はある』ということ、また私が、自分勝手には何もせず、父に教えられたとおりに、話していることが分かるだろう」(ヨハネ8:28)と諭した。そして、イエスを信じたユダヤ人たちにも(ヨハネ8:31~59参照)、「私が自分に栄光を帰するなら、私の栄光は空しい。私に栄光を与えてくださるのは私の父であって、あなたがたはこの方について、『我々の神だ』と言っている」(ヨハネ8:54)と説明した。
イエスがこれほどまでに父である神の名を伝え、ご自身が誰かを宣教し続けたのは、「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6:40)というみ言葉のためであった。イエスは、その宣教の初めから天の父について話してきた(ヨハネ2:16参照)。彼は、論争をいとわず、常に真理を真摯に懸命に語った。苦悶するような激しいやりとりの只中でも、天の父の名とご自身が誰であるかを知らせ続けた。しかし、このイエスの意志を引き継いだ教会は、婚姻のイメージによって、自らそのかかとを砕いた(創世記3:15参照)。
Maria K. M.
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