2025/06/12
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2025/06/09
第一の預言(1章) 教会と共にいるイエス・キリストの預言
「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3) とあるように、 新約聖書の他の書とつながっている黙示録は、自分の声という直観的な感覚を使って人の五感から入り、新約聖書の暗黙知を創る。イエスの名によって救われ、イエスが神の子であることを信じるということは、それを認知するということである。認知は、受け取った情報が、持っている記憶と合致したとき起こる。そこで、イエスに対する信仰を成長させるためには、新約聖書の言葉を受け取ったとき、それと合致する記憶を持っていることが必要で、黙示録がこれを創る。黙示録が直観的に捉えにくく、理解できないような言葉で書かれているのは、新約聖書とつながりながらもそれを意識させずに、暗黙知としてその記憶を創るためである。やがて信者は、複雑な手順を意識することなく、御言葉を直観的に認知するようになる。そして、その暗黙知は、黙示録の言葉を日々五感から取り込む信者の記憶の内で自己組織化し、成長する。
第二の預言(2~3章) 教会共同体が抱えた問題とその解決の預言
この預言では、7つの教会の天使に宛てた手紙が紹介される。これら7人の天使は、ヨハネ福音書の復活したイエスと出会った7人の使徒たちであり、彼らは皆漁師であった。それは、彼らが、職業がら直観的であったことが重要だったからだ。直感的な彼らの認知力は、漁をするという複雑な手順を、体験から五感をとおして受け取り、暗黙知にしてきた結果である。ルカ福音書で、イエスがペトロに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)と言った場面のやり取りは、このことを証ししている。先にイエスを見て、肉声でその教えを聞き(5:3参照)、その後にこのように声をかけられた彼らは、漁師として磨かれた直観を土台に、イエスの言葉を認知した。こうしてイエスを信じて従っていった後、イエスと共にいて体験した多くのことが彼らの新しい暗黙知になっていったのだ(ヨハ21:25参照)。やがて彼らは、聖霊の声掛けを聴き、その声を直観的に認知するようになっていく。それは、彼らに新約聖書の必要性を強く感じさせたに違いない。黙示録の7つの手紙の内容は、未来から近未来、現在という形で時系列になっており、第三の預言である新約聖書の成立という解決に向かっていた。そして、すべての手紙の結びにある「勝利を得る者」と「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」という言葉は、これらの手紙が、全信者に向けられていることを示している。
第三の預言(4~11章) 新約聖書の成立の預言(黙示録の前まで)
「開かれた門が天にあった」(黙4:1)と書かれた門は、イエスが天から降ってきて、再び天に上り、聖霊が降臨したために開かれたままになっている門である(ヨハ3:13参照)。イエスは、世に命を与える神のパンとなるために天から降って来て(6:33参照)、聖霊を送るために去っていった(16:7参照)。「すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた」(黙4:2)とある、「その玉座の上に座っている方」は御父と御子である(3:21参照)。「玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった」(4:6)とある目は、神の知識の象徴であり、「前にも後ろにも一面に目があった」のは、四つの福音書の神の知識が一体をなしてすべての出来事に対処するためである。それは、七つの角(完全な権威)と七つの目(完全な知識)を持つ「屠られたような小羊」(5:6)と連動して働くためである。「屠られたような」という表現から、この小羊がイエスの名によって遣わされた聖霊を表わしていることが分かる。
Maria K. M.