イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/04/21


192. 7人の弟子と7つの手紙(第7の手紙)

前回考察したように、ティベリアス湖畔で漁をしていて復活したイエスと出会った7人の弟子たちの内、「ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)という言葉に当てはまる一人は、ペトロの兄弟アンデレであった。続けてもう一人の弟子、すなわち黙示録の第7の手紙の「ラオディキアにある教会の天使」に当たる弟子について考察する。 

ここで、ヨハネ福音書の中で名前が挙がっている男性の弟子たちを見ると、ペトロ、アンドレ、フィリポ、ナタナエル、トマス、イスカリオテのユダ、(もう一人の)ユダである。この6人の弟子たちの中で、ティベリアス湖畔の「7人の弟子」としてすでに名前が挙がっている者たちを除くと、フィリポ、イスカリオテのユダ、(もう一人の)ユダとなる。そこで、ヨハネ福音記者が、フィリポが、アンデレとペトロの町、「ベトサイダの出身であった」ことを強調していることを考えると(ヨハ1:44,12:21参照)、この弟子はフィリポだと言える。 

フィリポは、ナタナエルと出会い、すぐに彼をイエスに導いた(ヨハ1:45~46参照)。この時、フィリポがナタナエルに言った「来て、見なさい」(1:46)という言葉は、洗礼者ヨハネの弟子であったアンデレともう一人が付いて来るのを見たイエスが言った言葉、「来なさい。そうすれば分かる」(1:39)と同義である。漁師であった彼は、他の仲間と同じく直観的な人物であった。彼は自分の直観に自信を持っていたに違いない。しかしその姿勢は、時にその背後にある物事の本質を捉える感覚を鈍くする。フィリポはその後、イエスと共にいて、水をぶどう酒に変えたしるし(2:1~11参照)、役人の子をいやしたしるし(4:43~54参照)、病人をいやしたしるし(5:1~9参照)を体験し、それに伴うイエスの教えを見聞きしたにもかかわらず、自分の傾向に気付かないでいた。 

福音書には、「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」(ヨハ6:5~6)とある。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(6:7)と答えた。しかしこの答えは、イエスが群衆のためにパンと魚を増やすしるしには、結びつかなかった。そこで、そのときイエスがしるしを行うきっかけを作ったアンデレの見事な答えを、フィリポは目の当たりにすることになった(6:9参照)。彼は、このとき自分の傾きに気付いたに違いない。そして、それを克服するようになったことが次の場面で分かる。 

イエスがエルサレムに登った時、何人かのギリシア人が来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(ヨハ12:21)と頼んだ。それは、「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた」(12:17)とあるように、イエスの評判が弟子たちを超えて群衆によって遠方まで達したことを意味していた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタ15:24)と語っていたイエスの宣教は終わりに来ていた。このギリシア人たちの申し出を最初に受けたのは、フィリポであったが、直接イエスに取り次ぐことはしなかった。「フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した」(ヨハ12:22)と書かれている。 

そして、最期の食卓では、トマス、イスカリオテでない方のユダとともに、子供のようにイエスに質問し、イエスから多くの御言葉を引き出している(ヨハ14:5~24参照)。フィリポの成長のプロセスは、私たち信者のものでもある。ゆえに、黙示録の第7の手紙の主は、「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方」(黙3:14)と書かれ、これまでとは異なり、私たちが受け取りやすい方として表現されている。この方が、「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(3:15~16)と言われる言葉に、現代の私たち信者は返す言葉がない。その通りだからである。「なまぬるい」状態は、どのようにして起こるのか。 

誰もが、自己充足や自己実現のために、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」(黙3:17)といった感覚を持って行動する。それは同時に人を、「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(3:17)状態に置く。自分の真の姿を自身に隠しているのだ。これが「なまぬるい」状態を生む。ゆえに手紙の主は次のように続ける。「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」(3:18)。さらに、「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」(3:19)と励ます。「わたしから買うがよい」とはどこで実現されるのか。どこで「叱ったり、鍛えたりする」のか。それはこれら7つの手紙を含む黙示録の訓練の場である。 

つづく

Maria K. M.


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