2025/05/12
195. 時制を司る神
黙示録の書き出しは次のとおりである。「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」(黙1:1)。「僕ヨハネに」と書かれ、個人に伝えられた黙示録は、それを朗読するとき、初めから個人的に行うことが前提になっているようだ。人は自分で音読した単語は、他人の声で聞くよりも記憶に残る傾向があると言われている。
黙示録には、「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)と書かれているが、ここで一番幸いな者は、「朗読する人」である。自分で朗読し、これを聞く人は、「視覚入力」+「運動出力(話す)」+「聴覚入力(聞く)」が同時に働くことで、記憶ネットワークが強化されやすい。複数の感覚や行動を同時に使って情報を処理・記憶することは非常に効果的なのだ。「中に記されたことを守る」と書かれたのは、このように記憶に保持することを指している。それは、「短く頻繁に」が効果的で、記憶に定着させるためには、長く時間をかけるよりも頻度がカギになると考えられる。ゆえに、黙示録は、自分に合った量を、それがたとえ一句ずつでも、来る日も来る日も続けて声に出して朗読し、それを聞くことを、全生涯をかけて続けるのである。
前回、黙示録の構成について説明したが、第1章は、私たち教会と共にいるイエス・キリストについて預言的に書かれている。ここで、黙示録の「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン」(黙1:7)という記述が、ヨハネ福音書の「しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」(ヨハ19:34)と書かれた記述の未来を示唆していると気づいたとき、それが、黙示録から得た未来の出来事につながる過去の事実として認知される。そして、続けて書かれた「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」(19:35)という言葉に共感し、イエスのわき腹から血と水とが流れ出たことを信じることになるのだ。
同じように、黙示録の「わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。『恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている』」(黙1:17~18)という記述が、ヨハネ福音書の「イエスが『わたしである』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた」(ヨハ18:6)と書かれた記述の未来を示唆していると気づいたとき、それが、黙示録から得た未来の出来事につながる過去の事実として認知される。そして、彼らが「後ずさりして、地に倒れた」のは、イエスが「世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」方であったからだと分かる。このとき死に向かっていたイエスは、今や世々限りなく生きている方となっているのである。彼は確かに私たち教会と共にいるイエス・キリストなのである。
さらに、「7人の弟子と7つの手紙」のテーマで6回に渡り考察したように、黙示録の言葉同士を合成した表現が、新約聖書の該当箇所を示唆することもある。例えば、「七つの燭台は七つの教会である」(黙1:20)と第1の手紙の「あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」(黙2:5)を合成すると、「あなたの教会をその場所から取りのけてしまおう」となる。第1の手紙の宛先である「エフェソにある教会の天使」(黙2:1)は、ペトロであった。そこで、彼にとって「その場所」とは、イエスが「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタ16:18)と言った「この岩の上」を指す。それはすなわち、ペトロから首位権を取りのけてしまうという意である。聖霊は、福音書の未来を生きるペトロを諭し導いているのである。
このように、黙示録に働いている時制は、「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(黙1:8)と書かれ、時制を司る方として表現された神からくる。神の司る時制に伴われて、黙示録は、「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たち」の記憶に、イエス・キリストの世界観を注ぎ込むのである。
Maria K. M.