イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2023/01/02


72. 滅びに至る門 その2

これまで考察してきたように、教会が現在のような惨状に至った道は、人の真の親である神を、婚姻のイメージを持って眺める多くの人々によってつくられてきた。この道を検証するために、前回に続いてヨハネ福音書のベタニアのマリアに焦点を当てる。まず聖書理解の中から、反省の材料を見つけていくためだ。

ヨハネ福音書は、ラザロの復活の物語の冒頭で、「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロと言った。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足を拭った女である」(ヨハネ11:1~2)と、マリアの未来の行為を予告している。これは、4つの福音書が、イスカリオテのユダの悲劇を事前に予告しているのと同じ手法だと考えられる。マリアをユダと同列に置くためだ(本ブログ№71参照)。そうであれば、後の節で「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(ヨハネ11:5)と書いたとき、マリアの名を伏せたのは偶然ではない。

イエスが、ベタニアに着いてすぐ村に入らなかったのは、捕えられる危険があったからだ。兄弟ラザロのことでマルタとマリアを慰めようとして来ていた大勢のユダヤ人の中には、大祭司やファリサイ派の人々からの回し者として遣わされ、イエスの言葉尻を捕らえようと待ち構える者もいたに違いない。彼らは、ラザロの病気の事で助けを求めていた姉妹に、イエスがどう弁明するかを聞きたかったのだ。後で書かれたように、彼らは、マリアのところに来ていた。だから、ヨハネ福音記者は、わざわざ、「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家で座っていた」(ヨハネ11,20)と記載した。この人々は、ラザロが葬られて4日もたっていたので、イエスは家に来ると思いこんでいたのだ。そこへマルタが戻って、マリアに、「先生がいらして、あなたをお呼びです」(ヨハネ11,28)と耳打ちしたので、不意を突かれた彼女は、「すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った」(ヨハネ11:29)。彼女と共にいた人々は、事情をつかめず、墓に泣きに行くと思った。

マリアはイエスを見るなり足元にひれ伏して、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:32)と言った。イエスは、彼女の言葉に答えなかった。イエスを出迎えてすぐ、同じ言葉を言ったマルタと異なり、マリアのこの言葉と振る舞いは、ついてきたユダヤ人たちとともにあったからだ。イエスの弁明を期待して彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見たイエスは、憤りを覚え、心を騒がせて言われた。「どこに葬ったのか」(ヨハネ11:34)。イエスはラザロを復活させることを決心し、天の父に向かって祈るために涙を流した7。イエスにとってこれらすべての出来事は、弟子たちが信じるようになるためであった8

【参考】1. 本ブログ58,59,61~65,69  2. マタイ10:4,マルコ3:19,ルカ6:16,ヨハネ6:71 3. ヨハネ11:19 4. ルカ20:20 5. ヨハネ11:45~46 6. ヨハネ11:21~27 7. ヨハネ11:35, ヘブライ5:7 8. ヨハネ11:14~15

Maria K. M.


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