イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/06/24


149. イエスのみ心と洗礼者ヨハネ

ヨハネの黙示を預言の書(黙示録1:3参照)と見た時の構成上の最後の部分、「聖霊の霊性の預言」(黙示録21~22/下図参照)は、イエスのみ心そのものである。聖霊はイエスの名によって遣わされたからだ(ヨハネ14:26参照)。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(黙示録21:1)という、何かの前兆であるような表現で始まっているのは、著者が「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」(21:2)ためである。 

「花嫁」という言葉は、黙示録の中で5つの場面に登場する。新約聖書の他の箇所では、ヨハネ福音書の洗礼者ヨハネの口から出た次の一言だけである。「花嫁を迎えるのは花婿だ(ヨハネ3:29)。洗礼者ヨハネは、イエスが「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」(マタイ11:13~14)と言ったように、預言者であった。そこで、洗礼者ヨハネの言葉を、黙示録から推測し、解釈することができるのではないだろうか。 

ヨハネの黙示録の中で「花嫁」が初めて登場するのは、「教会の堕落の預言」(17~18章)の最後である。「新約聖書成立の預言」(4~11章)が終わり、新約聖書は成立したものの、「司祭とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」(12~16章)の中で、教会は、情報に翻弄された挙句、「紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、『大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母』という名である」(17:4~5)と描写されるまでに堕落する。 

そして遂に、「ともし火の明かりも、もはや決してお前のうちには輝かない。花婿や花嫁の声も、もはや決してお前のうちには聞かれない。なぜなら、お前の商人たちが地上の権力者となったからであり、また、お前の魔術によってすべての国の民が惑わされ、預言者たちと聖なる者たちの血、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」(18:23~24)と書かれた。これは、洗礼者ヨハネの殉教の場面ともイメージが重なる。 

このような状況を踏まえて、ここでの「花婿」を御言葉、「花嫁」を新しい契約を示す新約聖書と捉えなおしてみると、このフレーズは、教会の内で、御言葉も新約聖書も忘れられていることを憂いているのだということが分かる。そして、洗礼者ヨハネの「花嫁を迎えるのは花婿だ」と言った表現は、御言葉が新約聖書を完成するイメージとなり、旧い契約の最後の預言者として、彼が、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:30)と言ったことが頷ける。 

「花嫁」が次に登場するのは、「小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた」(黙示録19:7~8)というフレーズであり、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の箇所に置かれている。「小羊の婚礼の日」がイエスの最期の夕食の場面であり、ここでご聖体を制定したイエスの言葉を受け取ったのは新約聖書であるから、ここでも「花嫁」は、新約聖書である。 

後の3つは「聖霊の霊性の預言」(黙示録21~22章)にあり、別のイメージが付加されている。「夫のために着飾った花嫁」(21:2)は、イエスの最期の夕食で御言葉によって成ったイエスの身体を支える食卓(祭壇)を、「小羊の妻である花嫁」(21:9)は、その翌日、イエスご自身の身体を支えた十字架を暗示している。 

これらの最後に、「“霊”と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」(22:17)とある。これは、完成したミサ典礼に世界中の人々を招くイエスのみ心の声であり、信者たちにもそうするように命じているのである。このイエスのみ心を実証するのは、私たちキリスト者である。次のイエスの言葉が私たちの内に実現しているからである。 

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』」(ヨハネ7:37~38)。 

Maria K. M.







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