2025/05/19
196. 王の王、主の主
私は、ある日、黙示録の「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)というフレーズを読んだとき、この書が訓練の書になっていることに気付いた。試しにそれを始めてからその効力を知り、続けて4年近くになる。このごろ使徒パウロのテモテへの手紙の「王の王、主の主」(一テモ6:15)という言葉を読んだとき、黙示録にも同じ言葉が一か所あることを思い出した(黙19:16参照)。そこで、聖書検索をかけてみると、この言葉は、全聖書の中で黙示録と使徒パウロのテモテへの手紙にだけ載せられていることが分かった。
この言葉があるパウロのテモテへの手紙は、「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン」(一テモテ6:15~16)という祈りになっている。同じく黙示録の箇所を見てみると、次のようにパウロの祈りに答えているように見える。
「そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『誠実』および『真実』と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。・・この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。・・その名は『神の言葉』と呼ばれた。・・この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。・・この方の衣と腿のあたりには、『王の王、主の主』という名が記されていた」(黙19:11~16)。
この手紙で、使徒パウロは、弟子のテモテに具体的にさまざまな勧めを与えている。その中で「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」(一テモ4:13)と命じ、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(二テモ3:15~16)と教えている。パウロがここで書いている「聖書」は、旧約聖書である。そこには、「キリスト」の預言はあるが、「キリスト・イエス」の名はない。自身の信仰体験から、パウロにとって救いに導く知恵が与えられるのは、キリストとイエスの名が結びついたときであった(使9:4~5参照)。そこで彼は、「与えることができます」、「訓練をするうえに有益です」といった消極的な表現をしているのである。
イエスは、使徒たちを選び、公生活を共に過ごし、彼の受難、死、復活、昇天に遭遇させ、聖霊の降臨を体験させた。しかし、使徒パウロは、彼らとは全く異なる神の選びの上に立っていた。他の使徒たちのようなイエスとの実際の体験がなかった。彼は、イエスが「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)と言った「わたしが話したこと」の記憶を持っていなかったのだ。そこで彼は自分からエルサレムへ行って、使徒たちから多くの聞き取りをした。彼の努力は、彼自身の益よりも未来のキリスト者の益となった。
パウロは、彼自身が「キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから」(二テモ1:1)と書いているように、いわばイエスに先立ってその道を整えた洗礼者ヨハネのような役割を神から与えられていた。キリスト者の未来を、崩壊するエルサレムから救い出し、ローマを新しい都とする神の計画のために選ばれたのである。聖霊の特別な導きによって、パウロの歩いた道はローマに向かっていた。彼は、「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」(使22:21)、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(23:11)と主が命じるままに前進し、「異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(9:15)というイエスの言葉を証しした。
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