2023/02/20
79. 協働者
伝統的に宦官制度を採り入れなかった日本では、「天の国のために自ら進んで宦官となった者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(マタイ19:12)というイエスの言葉の「宦官」を、「結婚しない者」や「独身者となった者」と訳している。しかし、そうではない。確かにイエスは「宦官となった者」と言っているのだ。この言葉は、当時の男性の弟子にとって身に迫るものがあったにちがいない。「天の国のために自ら進んで宦官となった者」がイエスご自身を意味していたからだ(本ブログ№29参照)。
この勧めは、男性の召命を、人の命の担い手である女性の協働者から、神の現存の担い手である聖霊の協働者へと移行させ、神と教会に親子の関係を与える。また、聖霊の協働者となる男性の召命は、「愛する弟子」としてイエスの十字架のそばに呼ばれるという特別な仕方で、女性に新しい2つの召命を与え(本ブログ№70参照)、イエスの「私の教会」(マタイ16:18)を誕生させた。
「愛する弟子」とは、イエスと同じく、生涯を「天の国のために自ら進んで宦官となった者」として生きる弟子である。イエスは、イエス誕生のために聖霊に満たされて聖霊の協働者となったご自分の母とこの弟子を、親子の絆で結んだ。この絆は、この弟子がイエスの母の後を継ぎ、ご聖体誕生のために聖霊の協働者となることのしるしとなった。ご聖体は復活したイエスの姿を表現している。パンとぶどう酒は、小麦とぶどうが、死んで復活した姿だからである。
ヨハネ福音記者による、復活したイエスが最初にマグダラのマリアに現れたときの描写の中に、次のような節がある。「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である」(ヨハネ20:16)。ここから、マタイ福音書においてイエスが、「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆きょうだいなのだ」(マタイ23:8)と言った「師」が、復活したイエスを指していることが分かる。今、それは、ご聖体である。
イエスが続けて、「また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」(マタイ23:9)と言った言葉は、まず地上の父をイエスの兄弟として見るようにと命じているのだ。それは、ご聖体を囲んで、「あとは皆きょうだい」になるためだ。この言葉は、少年イエスを見失った両親が、エルサレムの神殿で彼を見つけ出したとき、イエスが彼らに「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」(ルカ2:49)と言った言葉にその真意が表れている。
イエスがさらに続けて、「『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」(マタイ23:10)と言った「教師」は、イエスの名によって遣わされ、信者を導き、彼らをキリストに似た者にする聖霊である。こうして、神がダビデに「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サムエル記下7:14)と約束した言葉が、神と教会の間に実現する。
Maria K. M.
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