イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/10/07


164. 配置

サン・ダミアーノの十字架の構図には、「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)にある二つの到達点が見える。第3の預言、「新約聖書成立の預言」(4~11章)と、第6の預言、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)である。その中央には、十字架につけられ、血を流すイエスの姿がご聖体を暗示している。そして、イエスの血によって結ばれた新しい契約が、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)という御言葉によって現在化されていることが、その浮かび上がるようなキリストの体の描写に表れている。 

ここで、ご聖体を暗示した十字架のイエスの両側に描かれた4人は、ヨハネ福音書で十字架のそばにいた、イエスの母と「愛する弟子」、クロパの妻とマグダラのマリアである(ヨハネ19:25参照)。さらにイエスの左端にいて彼らに寄り添い、十字架上のキリストを見上げ、下に百人隊長と書かれている人は、改宗したローマ帝国を表している。彼の立てている三本の指は、「キリスト教的な文脈においていえば、これは『わたしはイエスが主であることを証ししている』と言う意味」(注)だという。

(注)マイケル・グーナン著、小平正寿訳(2001)『聖フランシスコに語りかけた十字架』サンパウロ, p.20 

この4人は、「ヨハネの黙示録の預言的構成」の第6の預言、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の中にいる。イエスを挟んで左右に分かれて描かれているのは、ミサ典礼における人の配置を示している。この十字架像には十字架の木がはっきりと描かれていない。キリストの体がご聖体であって、その下には祭壇があるはずだからだ。祭壇の上のご聖体として描かれたイエスの右に表されているのは、イエスの母と彼女を自分の家に引き取った「愛する弟子」である使徒、すなわち司祭職とそれを受けた司祭である。左には、クロパの妻が既婚の信者たちを表し、地名であるマグダラで呼ばれているマリアは独身の信者たちを表していると考えられる。 

ご聖体の右と左に描かれた彼らには、イエスが、「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」(マタイ20:23)と言った言葉が実現している。この御言葉は、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来てひれ伏し、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(20:21)と願った言葉にイエスが答えたものだ。権力や支配力を求めるのは、男も女も変わりはない。世界のグローバル化が進んだ現代にあっても、男尊女卑や、家父長制の伝統が残り、真の男女平等が見えにくくなっている。 

アダムは、妻をエバと名付けて支配し、権威と権力を得ようとした(創世記3:20参照)。エバは、カインが生まれると「わたしは主によって男子を得た」(4:1)と言って、自分を神聖化し権威を持とうとした。この両親のもとで、カインは妬みによって、「弟アベルを襲って殺した」(4:8)。福音書には、ゼベダイの息子たちとその母の出来事について、「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」(マタイ20:24)とある。ヨハネは、この出来事を決して忘れることがなかったに違いない。使徒たちの間にさえ、人間関係の負の連鎖が始まるのを見たからだ。 

サン・ダミアーノの十字架像の右と左に描かれた人々は、三次元的に描けば、ご聖体とそれを支える祭壇を囲んだ構図になる。このような配置は、互いの姿を見て、「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(ヨハネ17:23)というイエスの祈りを実感することを可能にする。そうすると信者たちの関係に透明性が出てきて、次第に負の連鎖を抑止する新しい人間関係が生まれてくる。教会が独特な伝統の中で隠蔽し続けてきたさまざまな事柄が、今日明るみに出されている現実が、それを証ししている。それらがあまりにも耐えがたい経験であったとしても、私たち教会は、確かに浄化の道を歩み始めている。聖体の制定が過ぎ越しの食卓を囲んで行われたからだけではなく、信者がご聖体とそれを支える祭壇を囲んで行うミサ典礼の重要性がここにもある。 

私は、第二バチカン公会議後の信者であり、ミサ典礼は司祭と信徒が祭壇を囲むこの様式しか知らない。だから、教会が皆で祭壇に向かってミサ典礼を挙行していた時代から一世紀もたっていないことを知った時は、少なからずショックを感じた。一方で、このような改革を行った教会は、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)に向かって大きな一歩を踏み出していたと知って、大変うれしかった。これらを思い出し、フランシスコの時代に思いを馳せ、ずいぶんと考えさせられた。 

つづく 

Maria K. M.




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