イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/06/23


201. 黙示録7章と11

黙示録は、主の昇天までを記述する四つの福音書に加えて、使徒言行録とパウロの書簡が新約聖書に載ることを預言した。その理由を述べた7章と、これら二つの書が天に上げられるてんまつが描かれている11章を考察する。 

7章の初めに「この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた」(黙7:1)と書かれている。ここで2回出てくる「四隅」という言葉が、新約聖書では使徒言行録だけに同じく2回出てくる「四隅」を暗示している(使10:11,11:5参照)。それは、ペトロがヤッファの町で祈っているとき見た幻の中に出てくる。ペトロは、幻の意味を、聖霊が働きかけた異邦人との出会いから悟った(10:1~48参照)。彼がこの体験を、エルサレムの教会に帰って報告すると(11:1~17参照)、それを聞いた人びとは、「『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した」(11:18)とある。これを機にエルサレムの教会は異邦人への宣教にも向かっていくことになる。この方針転換が、「大地の四隅から吹く風」である。 

四人の天使が、大地の四隅から吹く風を吹き付けないようにしていたのは、回心した後タルソスへ行ったパウロを、バルナバが見つけ出してくるまで、異邦人への宣教を待つためであった(使11:19~26参照)。主がパウロの回心を助けたアナニアに、「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(9:15)と言ったように、また、パウロがローマへ船出する前にアグリッパ王に語り掛け、「こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました」(26:19~20)と証ししたように、パウロは、異邦人だけではなく、イスラエルの子らにもイエスの名を伝える使命を帯びていた。

 ここで黙示録を見ると、パウロの宣教は、イスラエルの子らの全部族の中から十四万四千人を選んで神の刻印を押すためであるとともに(黙7:2~4参照)、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」(7:9)が、「玉座の前と小羊の前」(同)に立つことができるようになるためであった。ここから、11章の初めに、筆者が、杖のような物差しを与えられ、「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ」(11:1)と命じられたのは、イスラエルの子らの全部族の中から、神の刻印を押す人々を選ぶためであったことが分かる。 

続けて、「しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう」(黙11:2)という預言があって、これはイエスのエルサレム崩壊の預言を示唆している(ルカ13:34~35参照)そこで、「わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう。この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である」(黙11:3~4)と続いている。「粗布をまとわせ」は、「自分の二人の証人」が書物や手紙であることを示唆し、「千二百六十日の間、預言させよう」とは、「四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじる」ことになるローマ帝国で、この預言が実現することを暗示している。時間を示すこれら二つの表現は、神の忍耐の時を表している。 

また、黙示録で「燭台」が、教会を指すことから(黙1:20参照)、「二本のオリーブの木、また二つの燭台」は、使徒パウロのローマの信徒への手紙に登場する「野生であるオリーブの木」と「栽培されているオリーブの木」でたとえられた二つの教会(ロマ11:24参照)、すなわちユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の教会共同体を暗示している。そして、これら二つの教会を支えるものとして、すでに使徒言行録とパウロの書簡が、「地上の主の御前に立つ」、すなわち、イエスの名によって地上に遣わされた聖霊に認められていることを証ししている。ゆえに、大きな効能を発揮するこれら二つの書に害を加える者は、神から敵とみなされる(黙11:5~6参照)。 

そして、「二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう」(黙11:7)とある。これら二つの書が世に出ると、「一匹の獣」が、「底なしの淵」、すなわち、過去の世界の知識を使って、これら二つの書を解釈し、彼らが伝える真実を改ざんしてしまう。続けて、「彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである」(11:8)と書かれたように、その「獣」は、主の十字架の教えさえも過去の知識で解釈する。パウロが書いたものが、「難しく理解しにくい箇所があって」(二ペト3:16)、「地上の人々を苦しめたからである」(黙11:10)。

 しかし、これら二つの書から真実を悟って救われ、天上にいる人々が(黙7:9~17参照)、「三日半の間」(11:9)この成り行きを見守り、二つの書の真実を伝える力が墓に葬られないよう祈り支えている。一方、地上の人々は、「獣」が行った改ざんを大いに喜ぶ。「贈り物をやり取りするであろう」(11:10)とあるように、その解釈によって、金品や富が行きかい、権力や権威が売り買いされる未来が予告されている。そこで、「三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた」(11:11)とある。「三日半」とは、ここでも神の忍耐の時である。 

「二人は、天から大きな声があって、『ここに上って来い』と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た」(黙11:12)とは、やがて、これらの書が四つの福音書と関連付けられて、すべての人々に正当に解釈される日が来ることを預言している。黙示録の前半の訓練が新約聖書の暗黙知を、その人の記憶に創り始めるからだ。

 Maria K. M.


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