2025/06/30
202. 一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう
黙示録11章に登場する二人の証人は、使徒言行録とパウロの書簡を表していた。これら二つの書が証言を終えると、「一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである」(黙11:7~8)とある。それは、「底なしの淵」すなわち過去の世界の知識を使って、これら二つの書を解釈し、彼らが伝える真実を改ざんしてしまい、主の十字架の教えさえも過去の知識で解釈するようになるという預言である。さらに、その結果、地上の人々は、金品や富を追い求め、権力や権威が売り買いされる未来を予告している。この「一匹の獣」は、黙示録13章で登場する「海の中から上がって来る」(13:1)獣と、「地中から上がって来る」(13:11) 獣が、歴史の中で絡み合っていくことで起こる現象を先取りしている。
「海の中から上がって来る」という言葉に、モーセの時代に紅海を渡ったイスラエルの民を思い出す。「この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した」(黙13:3)とある。「致命的な傷」とは、神がダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サムエル記下7:14)と告げたにもかかわらず、ソロモンが神から離れたために実現しなかったことである(列王記上11:1~10参照)。イスラエルの民は、神との間に父と子の関係を結ぶことで神と等しい者とされる機会を失った。そこで、彼らの歴史から一匹の獣が上がって来る。神と神の民の関係を婚姻にたとえる神学である。この錯覚によってその致命的な傷も癒え、民はこの神学に身を任せた。しかし傷は残った。そのために神を父と呼ぶイエスに、ユダヤ人たちが強い妬みを持って、ますます殺そうと狙うようになったのである(ヨハ5:17~18参照)。
パウロは、フィリピの信徒への手紙の中で、「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」(フィリ3:5~7)と書いている。続けて、「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(3:8~9)と言った言葉に、神と人の関係が父と子、神と子にあることを取り戻した者の姿がある(ヨハ1:12,ロマ8:14~17,ガラ4:6~7,黙21:7参照)。
一方、「地中から上がって来る」獣は、地上のことについて追及したギリシャ哲学である。「この獣は、小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた」(黙13:11)とある。この「二本の角」は、キリスト教に大きな影響を与えたプラトン(紀元前427~347)と、アリストテレス(紀元前384~322)の哲学だと思われる。パウロは、コロサイの信徒への手紙で、「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」(コロ2:8)と書いている。そして続けた次の言葉からは、キリストの体であるご聖体のイメージが読み取れる。「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です」(2:9~10)。
「何とかして死者の中からの復活に達したい」(フィリ3:11)と願っているパウロにとっては、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること」(3:14)以外にはなかった。「しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます」(3:15)と励ましてもいる。それでも彼は、今、自分が到達したところに基づいて皆が前進することを望み、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」(3:17)と強く勧める。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」(3:18)と言っているからである。どこに漂着するかもしれない自己実現を目指し、腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていないような信者は今もいる(3:19参照)。洗礼を受けたにもかかわらず、彼らも「獣の刻印」を押された者たちなのだ(黙13:16参照)。
しかし、パウロはそれらを恐れてはいなかった。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(フィリ3:21)という確信があったからだ。黙示録の後半冒頭には、次のように「万物を支配下に置くことさえできる力」が現わされている。「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)。ゆえにパウロは、次のように力強く励ましている。「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」(フィリ4:1)。
Maria K. M.
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