2025/07/14
204. 黙示録とヘブライ人への手紙
黙示録の後半には、その冒頭に、司祭職が十二の星の冠をかぶった女のかたちで、象徴的に現れる(黙12:1~2参照)。ヘブライ人への手紙は、創世記14章を引用しながら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(ヘブ5:6他)というテーマを展開している。前回考察したように、戦いに勝利したアブラハムに、パンとぶどう酒を持って来た「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」の存在は(創14:1~18参照)、イエスの最後の過ぎ越しの食事のとき、パンとぶどう酒を準備した使徒たちに示した、新しい契約の司祭職を象徴している。このときイエスは、創世記の場面におけるアブラハムの位置にあったのだ。イエスはこれを、聖体の制定と同時に使徒たちに授けることによって、永遠の司祭職を設定した。
イエスがヤコブの井戸のところでサマリアの婦人に、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハ4:21)と語ったように、この司祭職は、旧い契約の祭司職とは全く異なる発想であった。ヘブライ人への手紙の中で著者が、「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(ヘブ7:3)と書いて、メルキゼデクの祭司職を力説しているのは、異邦人の共同体のために、また、ユダヤ人の共同体のためにも、イエス・キリストという、律法の枠を超えた完全な祭司を渇望していたからに違いない。
創世記で、アブラハムとメルキゼデクのやりとりの場面が終わると、「これらのことの後で・・」(創15:1)との出だしで、アブラハムが、神の命じたように、三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とを神のもとに持って来た場面が語られる(15:9参照)。この場面は、ヨハネ福音書のイエスの十字架のそばに来た人々を想起させる(ヨハ19:25~26参照)。三歳の雌牛はクロパの妻マリアに、三歳の雌山羊はマグダラのマリアに、三歳の雄羊は愛する弟子に、また、山鳩と、鳩の雛はイエスの母に対応している。イエスの母は、夫ヨセフと共に、イエスが聖別される日に「主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げる」(ルカ2:24)ために、エルサレムにイエスを連れて行ったからである。これらの場面の相似性も、イエスが、アブラハムの位置に置かれていたことを物語っている。
ヤコブの井戸の場面でイエスは、サマリアの婦人に、「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ」(ヨハ4:22)と続けた。イエスは旧い契約の祭司職とつながっている。そこには、人を創造した神の計画と、預言があるからだ。イエスの母が、祭司ザカリアとその妻でアロン家の娘エリザベトの親類である必要もそこにあった(ルカ1:5参照)。
なぜ、司祭職を人に与えなければならなかったか、その理由をイエスは、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:23~24)と言っている。父である神は、真理を望む人が聖霊と協働して神を礼拝する姿を求めているのである。これこそがミサを執り行う新しい契約の司祭の姿である。「今がその時である」とは、そのように礼拝されるイエスがここに“ある”ことを示している。
このように見ていくと、ヘブライ人への手紙には、今は御父の右に座しておられる神の子イエス・キリストを、なんとかして教会共同体の永遠の祭司として位置付けようとする試みがあったことが読み取れる。ここで、メルキゼデクの祭司職が力説されている根底には、当時の教会共同体のために、また、福音を受け取るすべての人が納得できる「祭司制度」(ヘブ7:11~12参照)を著者が求めていたことがあったのではないかと考えられる。しかし、それだけではない。この手紙には、別の流れがあって、信仰をテーマに際立った考察を広げている。次回は、そこに焦点を当てる。
Maria K. M.