2025/07/21
205. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題(1~2章)
ヘブライ人への手紙の筆者は、体系的な新約聖書が未成立の時代にあって、伝え聞いたことをもとに信仰の目で見たイエス・キリストと新しい契約を、旧約聖書を使って、なんとかして理論的に説明しようとしているように見える。そこには、前回考察した司祭職についての議論とは別の流れがあって、信仰をテーマに際立った考察を展開している。そこで、筆者が彼の共同体を指導するに当たって抱えていたであろう諸問題を抽出し、最後に解決につなげたいと思う。
筆者は初めに、神の御子であるイエスが誰であるかを明確にし(ヘブ1:1~3参照)、次に、御子と天使の違いを説明している(1:4~14参照)。天使のテーマに筆者がこれほどこだわったのは、ヨセフとマリアに、神の子の到来を告げたのも天使であったように、当時のヘブライ人は、天使が神と人の仲介者であり、神の啓示は天使によって告げられるという認識を持っていたからだ。そこで筆者は、完全に神であっても人でもあったイエス・キリストの人性が天使以下に見えることに対して、本質的には天使を超えた存在であることを丁寧に論証しなければならなかった。ヨハネの黙示録もその初めに、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」(黙1:1)と書いており、キリストが天使を超えた存在であることを明確に示すことが重要であったことを物語っている。
さらに、ヘブライ人への手紙の筆者は、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」(ヘブ1:14)と言っている。それは、黙示録で、天使自身が、「わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である」(黙19:10)、「わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である」(22:9)と言っているとおりである。しかし、続けてヘブライ人への手紙の筆者が、「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」(ヘブ2:1)と書いて克己を促しているように、人は往々にして育った環境から植え付けられた習慣的な思考に強く巻き戻ってしまう。
こう考えると、「わたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう」(ヘブ2:3)と書いた筆者の思いは察するにあまりある。この救いは、天使からではなく、「主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証しして」(2:3~4)いるからである。
ゆえに筆者が、「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」(ヘブ2:10)と言っているとおり、私たち人の前に、神の子であるイエスが、数々の苦しみを通して御父のみ旨を完全に成し遂げていく姿が現されたことによってはじめて、神に創造された人が、万物の目標であり源である方の似姿、すなわち神の似姿に造られたことを受け取ることができたのだ。
このように見ていくと、ここで筆者が彼の共同体を指導するに当たって抱えていたであろう問題の一つは、人は育った環境から植え付けられた習慣的な思考に強く巻き戻ってしまうということにあるといえる。この問題をかかえて、信者は、「これほど大きな救いに対してむとんちゃく」になる。これが教会共同体に影響を与える第1の問題である。
Maria K. M.