イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/07/28



206. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題(人間の情報)


ヘブライ人への手紙2章の終わりには、「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(ヘブ2:14~15)とある。私たちが筆者の言葉を理解するには、「悪魔」の正体を知っている必要がある。悪魔やサタンは情報であって、人に取り込まれて人間の思いになる。黙示録には、悪魔とかサタンとか呼ばれるものは、「年を経たあの蛇」(黙20:2)であると書かれ、創世記の初めの男と女の物語に注意を向けるよう促している。

人と人の関わり合いから発生する情報は、人の記憶と親和性が高く、取り込まれると容易に人間の思いが形成される。そういう風にして、初めに「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創2:16~17)と命じた神の言葉は、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」(3:2~3)という人間の思いに取って代わられていた。創世記の初めの男と女が先に持っていた神の言葉の記憶は、上書きされてしまったのだ。

二人は、神の思いをよそに、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(創3:4~5)という人間の思いを持って行為に至った。そして、事実その通りになった。彼らは善悪の知識の木から食べても死ななかったし、目も開けた。しかし、目が開けたことによって、やがて彼らは、塵にすぎない自分たちの肉体が、塵に返ることを知ることになる(3:19参照)。「食べると必ず死んでしまう」とは、肉体の死を知って、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態になることを意味していた。神のことを思えば、それは死んだも同然であった。これらの人々を開放するために、神の子イエスは人となった。そして、ご自身の受難と死と復活について初めて弟子たちに打ち明けた時、それをいさめたペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタ16:23)と厳しい言葉で対応している。

福音書は、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で40日の断食をした後に起こった出来事を記載し、神の子であるイエスが、悪魔とかサタンとか呼ばれる人間の情報とどのように対峙したか明らかにしている。まさに公生活に入ろうとするイエスの脳裏には、御父から任された神の計画があって、それを遂行する決意に満ちていたにちがいない。しかし、断食後に空腹を感じたイエスの頭には、神の子の思いに、人として生きてきた人間の思いが相まって、石がパンになるように命じるという奇妙な発想が起こった(マタ4:1参照)。イエスには、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハ6:54)という言葉を実現するために、パンとぶどう酒が御言葉によって御体と御血になるように命じるという、聖体制定の計画があったからだ。イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタ4:4)と答えて、人間の思いを神の計画と区別した。

こうしている間に、すでに肉体の限界を超えていたイエスの人性は、幻覚を見る。彼は神殿の屋根の端に立っている。彼が持った「神の子なら、飛び降りたらどうだ」(マタ4:6)という発想には、十字架につけられたイエスを見た人々が、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(27:40)とののしる姿が生起されているように見える。イエスも、肉体を備えた人間として、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちと同じ思いでご自分の死と向き合わねばならなかったのである。しかしイエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(4:7)と言って、神の計画を背負ったご自身の思いを人間の思いと区別した。

幻覚は続く。イエスは非常に高い山に連れて行かれ、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見ている。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マタ4:9)という発想が起こる。ここでは、「神の子なら」という提案形式が使われていない。神の子イエスには、この言葉の前にひざを折り、あらゆる偶像崇拝に身を任せ、滅んでいった人々の記憶があったからだ。これは、イエスの記憶の中に区別して置かれている人間の情報である。イエスは、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(4:10)とその名を呼んで、この情報を完全に他者として扱った。そこで、人間の情報は離れ去った。「すると、天使たちが来てイエスに仕えた」(4:11)とある。平安が訪れたのだ。

ヘブライ人への手紙に、「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブ2:18)と書かれているように、荒れ野でのイエスの体験は、私たちにとって大きな助けである。イエスは、自らの内に生じる人間の思いに対して、それに応じた神の言葉によって対処した。彼は旧約聖書の言葉を保持していたからだ。しかし、旧約聖書にはイエスの名はない。体系的な新約聖書が未成立の時代にあって、イエスの名によって遣わされた聖霊と生きる信者たちが、イエスの荒れ野での体験に倣うためには、イエスの言葉を保持するための現実的で具体的な方法が必要だった。これがなかったことが、前回に続いて、教会共同体に影響を与える第2の問題となる。

Maria K. M.

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