2025/05/05
194. 黙示録と新約聖書
黙示録は、その内容を人に暗黙知として記憶させるために、直観的に捉えにくく、理解できないように構成されている。ヨハネ福音記者が、福音書の最後に、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハ21:25)と書いているように、人がイエス・キリストの世界観、すなわち、完全に神であり、人でもあったイエス・キリストの記憶を、意識的に持つことは不可能だからだ。
黙示録の第1章に、「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)と書かれたのは、いわば黙示録が指南書であることを告げているのである。そこで、七つの教会の天使に宛てた手紙には、必ず「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」という勧めの言葉が添えられている。「この預言の言葉を朗読する人」は「“霊”が諸教会に告げること」を声に出し、自身の記憶に流し込むのだ。この訓練を、人は一朝一夕で仕上げることはできない。自分に合った量を、それがたとえ一句ずつでも、来る日も来る日も続けて声に出して朗読し、それを聞くことを、全生涯をかけて続けるのである。たとえ視聴覚や発声に障害があっても、何とか工夫して五感から記憶に注ぎ入れることをするに値する途方もない価値が、黙示録にはある。
聖霊は、イエスが父のもとから私たちに遣わした弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊である。イエスについて証しするために来た聖霊は、私たちキリスト者にも証しすることを求める(ヨハ15:26~27参照)。そのためには、私たちにも、初めからイエスと一緒にいた使徒たちがイエスと共有した世界観が必要である。それは、完全に神であり、人でもあったイエス・キリストの世界観である。この必要に、黙示録は応える。黙示録を五感から記憶に注ぐことによって、イエス・キリストの世界観を暗黙のうちに疑似体験する。だからこの訓練には、人の想像を超える崇高な光景も、また、おどろおどろしい光景も設定されている。黙示録は、このような意図をもって新約聖書に置かれている。
黙示録の構成は次のようである。第1章は、私たち教会と共にいるイエス・キリストについて預言的に書かれている。次に七つの教会の天使に宛てた手紙では、教会共同体が抱えた問題とその解決が預言されている(2~3章)。その解決は、新約聖書の成立の預言(4~11章)によって示される。しかし、司祭職とご聖体の秘儀は、荒れ野と天に隠され明らかにならない。そこに教会がたどる運命の預言(12~16章)が起こり、歴史の流れに翻弄された教会の堕落の預言(17~18章)が続く。それは、教会が抱え、隠されていたさまざまな問題が暴露されることによって、その闇に光が当る預言である。その先にはミサ典礼の完成の預言(19~20章)があって、それは、真理に向かう希望となる。しかし、同時に厳しい裁きの預言が入っていのは、神に造られたすべての人が、神の命と神の愛を悟らせる「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の只中に入るためである。
このように、黙示録は、7つの預言によって構成されている。その中で、最も驚くべきことは、1世紀に書かれた黙示録が、4世紀に成立した新約聖書を預言していることである。それも、現在私たちが手にしている聖書の順に預言しているのだ。まず天に玉座があって、座っている方がいる(黙4:1~6参照)。そこにはすでに四つの福音書のイメージが、「四つの生き物」で暗示され、それらがすでに天にあることが示唆されている(4:7~11参照)。黙示録の筆者は、玉座に座っている方の右の手に、七つの封印で封じられている巻物を見る。そして、「屠られたような小羊」、すなわちイエスの名によって遣わされた聖霊がこの封印を解いて巻物、すなわち新約聖書を開くのである(5:1~14参照)。
7つの封印が次々解かれると、そこには、四つの福音書(黙6:1~8参照)、使徒言行録(6:9~11参照)、パウロの書簡(6:12~17参照)がこの順に預言的な言葉で紹介される。最後の封印が解かれると黙示録が紹介され、その中で公同書簡も言及される(8~11章参照)。それらは、直観的に捉えにくく、理解できないように構成されているが、これまでに検証した七つの教会の天使に宛てた手紙に見られたように、その記述内容と、それに関連付けられ、ここで証しされようとしている新約聖書の内容が、コインの裏表のように同時に存在しながら物語が進んでいく。黙示録の特徴的な技法で書かれているのだ。
次回から、各封印が解かれた時の記述と、それらに関連する新約聖書の内容をまとめながら、ヨハネの黙示録が、イエス・キリストの世界観を暗黙のうちに疑似体験させる可能性を考察していきたい。
Maria K. M.
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