2025/09/29
215. 実体変化
ご聖体はキリストの御体と御血である。第二バチカン公会議の教会憲章は、ご聖体が、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である」(「教会憲章」№11)と書いている。従って、ご聖体がキリストの体と血であることを信じることは、私たちの信仰の核心である。しかし、私たち信者は、このことを理解し実感を持って受け入れているだろうか。
司祭は祭壇上で聖霊の働きを御父に願い、パンと杯を手に取って、「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである」、「これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である」と言って、イエスの最後の食卓での言葉を繰り返す(「ミサ典礼書」参照)。こうして御父への願いはかなえられ、パンとぶどう酒はキリストの体と血に変わる。これを教会は古くから「実体変化」と呼んできた。この言葉をトリエント公会議は次のように明確に定義した。「すなわち、パンとぶどう酒の聖別によって、パンの全実体が私たちの主キリストの実体となり、ぶどう酒の全実体がその血の実体に変化します。聖なるカトリック教会は、この変化をまさしく適切に全実体変化と呼びます」(トリエント公会議第13総会『聖体についての教令』4、DS1642)。
このことは、パウロ6世教皇の回勅「ミステリウム・フィデイ」(1965年9月)であらためて確認されている。パンとぶどう酒という、キリストの体と血とは似ても似つかぬものが、御父がイエスの名によって遣わした聖霊と司祭が一つになって働くことで、ご聖体に変わるという「実体変化」は、変わるだけではなく、主ご自身が現存する体そのものになることを意味している。司祭は聖霊と一つになって働き、ご聖体が生まれる。司祭なくしてご聖体は生まれないのである。
「実体変化」という言葉は、妊娠と出産を体験した女性にとって、深い共感を呼び起こす言葉である。受精卵という、人の体とは似ても似つかぬものが、女性の胎に守られて、やがて人の体となって生まれ出るからである。胎児の体には、「在れ」という御言葉と、聖霊の働きによって、神が望んだ人の命がある。今も女性なくして人の命は生まれないのである。
ルカ福音書によれば、「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」(ルカ1:41)と書かれている。母の胎内で洗礼者ヨハネは、この時、人となったイエスを証ししたのだ。受精卵という、人とは似ても似つかぬものが、女性の体内で成長し、胎動するようになる。それは、またもう一つの「実体変化」と言えるのではないだろうか。ゆえに、イエスは、最期の食卓で使徒たちに、女が子供を産むときのたとえを語り、一人の人間が世に生まれ出た喜びに言及したのである。
「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(ヨハ16:21)と言ったイエスは続けて、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(16:22)と言って、ご自身の復活と同時に、ご聖体の誕生を予告した。
そして、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハ16:23~24)と保証した。教会はこの世で最高のものを願ってきた。「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」と願って祈り、イエスのこの言葉に応えてきた。「父に願うならば、父はお与えになる」という言葉は即座に実現する。このとき司祭は、聖霊とひとつになって、イエスの言葉を実証しているのである。
このように考えてくると、祭壇上でパンとぶどう酒がキリストの御からだと御血に「実体変化」するということは、現代人にとっても、受け入れがたいことではない。私たち信者は、ご聖体を拝領した時、神の現存するキリストの体と一体になったことを実感しなければならない。そこに、新たな「実体変化」に呼ばれる未来への希望がある。
Maria K. M.
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