イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/11/17



222. 洗礼者ヨハネの預言

洗礼者ヨハネは、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハ1:32)と言い、重ねて、「わたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た」(1:33~34)と言って、「見た」ことを繰り返し主張した。ヨハネ福音記者が洗礼者ヨハネについて、「光ではなく、光について証しをするために来た」(1:8)と書いたように、彼は、「光」、すなわち真理の霊である聖霊を「見た」ことを証ししたのだ。そこでイエスは、後に、「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした」(5:33)と言われたのである。 

そして、福音記者が、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハ1:9)と続けた言葉は、彼自身が体験した聖霊降臨の出来事を示唆している。彼が、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(1:17)と書いたように、またイエスご自身が、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(12:46)と証ししているとおり、恵みと真理の「光」である聖霊は、イエスを通して世に現れたのである。こういう訳で、洗礼者ヨハネは、イエスを証しするためにきたのではなかった。 

イエスは、「わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」(ヨハ5:34~35)と言われた。洗礼者ヨハネは、「燃えて輝くともし火」の光を放っていたのである。その光には、最後の預言者としての使命が現れていた。 

洗礼者ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった時、洗礼者ヨハネが弟子たちに次のように言った。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハ3:29~30)。この文脈の「花嫁」という言葉は、福音書の中ではここにしか登場しない特別な言葉であった。洗礼者ヨハネは、ある神の計画を、「花嫁」にたとえて預言したのである。 

この計画こそが、すべてを成し遂げたイエスが証ししたもの、新しい契約として新約聖書が意図するもの、「新約の司祭職」である。「花嫁」は、御父の御言葉であるイエス・キリストにおいて成し遂げられた新しい契約の司祭職をたとえていた。それは、イエスが渡される夜に使徒たちに授け、記念として行うよう命じた聖体を制定したイエスの御業である(ルカ22:14~20参照)。そこで、イエスが昇天した後、「花婿」にたとえることのできる方は、イエスの名によって新たに遣わされる聖霊である。その夜、使徒たちだけが授かった聖体制定の御言葉が現実のものになるためには、聖霊降臨を待たねばならなかった。 

「新約の司祭職」が実践されるためには、使徒として選ばれた男性の存在が必須であった。創世記でアダムをエデンの園から追放した時から、使徒たちだけを集めたイエスの最期の食卓に至るまで、人間にとって気の遠くなるような長い歴史を通じて、神は人々を導いて来た。イエスが「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ22:15)と言われたとおりである。そして、神の御業である人の創造の担い手として造られた女性たちは、創世記の初めから、人の命を生み支えながら神に従ってきた。女性たちも共に発展してきたのである。 

「新約の司祭職」を授けられた司祭たちは、洗礼者ヨハネのように「花婿の介添え人」として聖霊のそばに立って、聖霊の声に耳を傾け、その声が聞こえると大いに喜ぶ。新約の「花婿の介添え人」は、「聖霊の介添え人」である。イエスは彼らを、「愛する者」という意味を込めて「友」と呼んだ(ヨハ15:14~16参照)。そこにイエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)という言葉を添えられた。 

そして、彼ら自身が、イエスの聖体を支える食卓となり、イエスを支えた十字架の木となるために、イエスは十字架上で、母と使徒を親子の絆で結んだ。その母は、神の子が人となったイエスご自身の身体を身ごもって支えたイエスの母であった。ここに新約の司祭が誕生した。やがて聖霊が降れば、彼らには、天使がイエスの母に告げた、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)という言葉が実現する。彼らのために、イエスは御父に次のように祈った。 

「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハ17:16~19)。

 Maria K. M.



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