2025/08/04
207. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題から解決へ(集会)
ヘブライ人の手紙の筆者は、迫害や社会的圧力の中で(ヘブ10:32~34参照)、旧約の習慣に回帰しがちな共同体の人々を(2:1参照)、手紙で支えければならなかった。そこで彼は、「集会」という言葉を用いて、キリストを中心とした新しい神の民の共同体をイメージさせようとした。それこそが「これほど大きな救い」(2:3)と彼が呼ぶものだからである。この「集会」において神は、イエスの名によって遣わされた「聖霊の賜物を御心に従って分け与え」(2:4)、その礼拝と賛美の中心にいるキリストは、信者を「兄弟」と呼び、共に神を賛美する(2:12参照)。そして、「見よ、私と神が私に与えてくださった子たちがいます」(2:13)と言われる。黙示録にも、「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(黙21:7)とある。「集会」という場こそが、人々が神の安息にあずかる約束の地、「新しいエルサレム」になるはずのものである(21:2~6参照)。
筆者は、信者たちが「集会」に与るよう努力することを勧めた。そこで聖霊は、神を父と呼んでキリストの子となった信者に、御父の御心に従ってその賜物を分け与えようとする。しかし、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブ4:12)と彼が確信しているその力は、信者にとっては厳しい鍛錬に感じ、気持ちがなえることもある。それを乗り越えることは、当時の環境の中で難しかった(10:32~34参照)。さらに、「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(4:13)という神の現実を突き付けられることは、人間的な恐れにつながることもある。
筆者は、「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている」(ヘブ4:14)ことや、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(4:15)と諭し、「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(4:16)と言って励ましている。だからこそ筆者は、この「集会」の中心にイエス・キリストがあることを徹底的に証しするために、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(5:6)というテーマを展開し力説したのだ。
しかしながら、前号まで考察したように、筆者の共同体には、育った環境から植え付けられた習慣的な思考に強く巻き戻ってしまうという人元来の性質が教会共同体に大きな影響を与える問題や、悪魔やサタンと呼ばれる情報に対峙するためにイエスの助けをどのように受けるのかといった問題があった。これらの問題は、むしろ「集会」の外で起こるものだと言える。これらを解決し、イエスの名によって遣わされた聖霊とともに生きる信者たちが、イエスの言葉を保持するためには、現実的で具体的な養成方法が必要である。それは、筆者の確信していた「集会」を支え、生きた教会である信者一人一人がそれを信じて実行することによって、「集会」自体を完成に向かわせ、筆者の確信を実現するものとなるはずの養成である。それにはまず新約聖書が成立しなければならない。旧約聖書にはイエスの名が存在しないのである。
彼は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブ11:1~3)と書いた。ここには、信仰について二つの在り方が見える。ここに現実的で具体的な養成方法につながる手掛かりが隠されていると思う。次回はここから考察をしていきたい。
Maria K. M.
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