2025/09/08
212. 完全なキリスト者の体験を味わう過程を知る手掛かり
イエスがご聖体を定め、地上に残した理由は、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」(ヨハ6:40)である。前回考察したように、「子を見て信じる者」になるには、感謝の典礼の中で、聖霊と協働する司祭が会衆に示すご聖体を見て信じる者になること以外にはない。ご聖体に向かって、「あなたは、神の子、キリストです」(マタ16:16、ヨハ11:27参照)と宣言することを、ミサのたびに繰り返すことによって、信者一人一人の記憶に、「子を見て信じる者」となった事実が焼き付いていく。しかしこの重要な場面で、私たち教会は、世界中が百人隊長の信仰を宣言してきた。このテーマは、これから、黙示録がどのようにして完全なキリスト者の体験を味わわせるのか、その過程を考察するにあたって、重要な課題を含んでいるので、もう一度別の角度から考察してから先に進むことにする。
ヨハネ福音書は、イエスとピラトのやり取りを詳しく伝えている。その最期の時に、イエスがローマ総督ピラトと関わる場面を残すことによって、神が、ローマをキリスト者のものにするという狙いがあったことを印象付けようとしたと捉えると、すべてがはっきりとしてくる。イエスは、ヤコブの井戸で出会ったサマリアの女に、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハ4:21)と証しした。それは、結果的にローマだった。エルサレムが崩壊することを知っていた神は、新しい契約の上に、イエスが生み出し、聖霊が設立する教会のために、初めからローマに新しい都を計画していた。
百人隊長のエピソードは、マタイ福音書とルカ福音書にある。僕の癒しを願ったルカ福音書の百人隊長は、イエスに家に来てほしくないという状況に遭遇した。イエスと長老たちに加えて「群衆」も付いて来ていたからだ(ルカ7:9参照)。そこで彼らが、「その家からほど遠からぬ所」(7:6)まで来たとき、百人隊長は、友人たちを送って、次のように言わせて、イエスの来訪を断った。マタイ福音書の場合は、イエスに付いて来たのは、「群衆」ではなく「従っていた人々」(マタ8:10)であったが、それでも百人隊長は、イエスの来訪を断っている。
「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(ルカ7:6~8)。
神がローマに新しい都を計画していたことを念頭に置いてこの伝言を聞くと、百人隊長の言葉は、そのままローマ帝国の未来にあてはめることができる。イエスはこれを聞いて驚き、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(ルカ7:9)と言った。ローマの兵隊であった百人隊長が、預言者のように語ったからだ。「主よ、御足労には及びません・・」とあるように、ローマ帝国は、十字架上で亡くなったイエスを迎え入れることはない。しかし、イエスがローマ帝国の刑罰である十字架刑を受けたことは、ローマにイエスの名を刻印することになった。こうして、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」という言葉は実現した。御言葉は、パウロより先にローマに辿り着き、すでにその民に働きかけていた(ロマ1:6~7参照)。
また、百人隊長の軍務体験から出た言葉は、一見平凡なものに見えるかもしれない。しかし、その言葉の裏には、当時のローマ帝国が持つ法律や軍事に関する、合理的なシステムがあった。そこに、神が十字架上で成し遂げた新しい契約を生きる教会のために、都をローマに求めた理由がある。神の子が地上に来たために起こる、人類の急速な進歩を受け止める器が、ローマ人の文化や伝統、気質にはあったのだ。今、歴史を経た私たちは、新約聖書の中に新しい預言があったことを知る。
イエスの驚きの言葉は、百人隊長の僕に届き、僕は元気になっていた。イエスを信じる百人隊長の気持ちは、直観的で純粋であった。それはイエスが、「また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」(ルカ4:27)と言って引用した、アラムの王の軍司令官ナアマンのようだ。彼が、妻の召使のイスラエルの少女から聞いて預言者エリシャを信じたように、百人隊長は、長老たちからイエスのことを聞いて信じたのだ。
イエスが、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」(ヨハ6:44~45)と言った言葉は、旧約の預言が実現したことを証ししている。当時イエスが関わった人々は、御父の引き寄せる力によってイエスのもとに来ることができた人々であった。百人隊長もその一人であり、その信仰は、旧約の民の信仰の延長線上にあった。
しかし、百人隊長は、その信仰に留まっていることはできなかった。後にイエスが、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハ12:32)と証ししたように、十字架上のイエスに、その見張りを一緒にしていた人々と共に引き寄せられ、「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)と言うことになったからだ。ルカ福音書では、「『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」(ルカ23:47)と書かれている。
御父に引き寄せられてイエスのもとに来た百人隊長は、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。・・ひと言おっしゃってください」と言った。それは、旧約の民の預言に支えられた信仰であった。やがて、十字架上のイエスに引き寄せられ、「本当に、この人は神の子だった」と言った言葉は、まさにイエスが今成し遂げたばかりの、新しい契約に向かっていた。さらに、聖霊が降臨した後の私たち信者は、ご聖体を前にして、「子を見て信じる者」の信仰を告白するのである。ここに、黙示録が完全なキリスト者の体験を味わわせる過程を知る手がかりがある。
Maria K. M.
(お知らせ)
今回の内容は、本ブログ執筆者が、インターネットマガジン「カトリック・あい」に投稿した内容と一部重複しています。➡ 「パトモスの風➂」

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