イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/09/01



211. まず、世の誤りを明らかにしておくこと


前回話したように、「イエス・キリストの黙示」(黙1:1)は、黙示録を霊的訓練の書として受け取る一人一人の信者に働きかけ、新約聖書の他の書と一体となって、聖霊の霊性にまで導き、完全なキリスト者となる体験を味わわせる。このことが、聖霊によってなされることから、その過程を考察する前に、まず、聖霊についてイエスが最後に証しした、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハ16:7~8)という言葉を確認しておきたい。

「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(ヨハ16:9)とある。それは、イエスが、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」(6:35~36)と言った言葉から明らかになる。この箇所でイエスが、「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言った言葉は、未来の私たち信者にも向けられていることに気付かされる。

イエスは、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(6:40)と言った。そして、その仕方を次に具体的に語ると、ユダヤ人たちは混乱状態に陥った。しかしイエスは、さらに、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:54)と言って話を進めた。これを聞いていた弟子たちの多くが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6:60)と言ったとある。彼らは、生きているイエスが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」と言ったのを聞いて、それを信じることができなかった。彼らは、「大変な思い違い」(マコ12:27)をしていたのだ。これが「世の誤り」である。

私たち信者は、パンとぶどう酒のかたちを取るご聖体を見て、「わたしが命のパンである」と言ったイエスの言葉を信じているだろうか。ご聖体が生きているイエスだと言えるだろうか。言えるのであれば、それをどこで証しするのだろうか。それは、イエスの名によって遣わされた聖霊が、司祭の手を通してミサの中で明らかに示すご聖体を前にしてである。信者たちが、ご聖体を前にして、「あなたは、神の子、キリストです」(マタ16:16、ヨハ11:27参照)と宣言する場面がないなら、それは「世の誤り」に惑わされているからだ。

イエスは、ファリサイ派の人々に、「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」(ヨハ8:17~18)と言った。ミサの中で教会全体がご聖体を「神の子、キリストです」と宣言することは、信者一人一人が御父と御子の証しに加わって、聖霊と協働して全世界を救うほどの業になる。ご聖体を前にした私たちが、もしそれを宣言しないでいるなら、イエスから「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言われ続けるだろう。それは罪について問われているのである。

「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」(ヨハ16:10)である。ヨハネ福音書を読むと、イエスが、「見る」という感覚の働きと「信じる」ことの関係に特別に注意を払っていたことが分かる。イエスがご聖体を定め、地上に残した理由は、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである」(6:40)。「子を見て信じる者」となること、すなわち、感謝の典礼の中で、聖霊と協働する司祭が会衆に示すご聖体を見て信じる者になることは、私たちが、ご聖体に向かって、ご聖体が「神の子、キリスト」であると宣言したとき実現する。この宣言をミサのたびに繰り返すことによって、信者一人一人が「子を見て信じる者」となったという認識を固めていくのである。

しかし、イエスを見ないで信じたにもかかわらず、御父のみ旨を完全に成し遂げたイエスのイメージが頭から離れず、ご聖体をよそに、そのイエスを知りたい、そのイエスを見たい、そのイエスと合一したいという思いに惑わされる者がいる。「世の誤り」からくるその思いは、義について「もはやわたしを見なくなること」と言ったイエスの言葉に反して、見たこともないはずのイエスの姿をその人に感じさせる。それは、その人自身の執拗な欲求と欲望が見せているものだ。これらの欲求や欲望は、人の最も高次の欲求と言われる自己実現の欲求から生じる。そしてそれは、一度達成されたと感じても終わりがなく、生涯にわたってそのプロセスを幾重にも編み出す。その都度あらゆる欲望を総動員して、「世の誤り」を認識せず、「大変な思い違いをしている」(マコ12:27)信者たちへ向かう。そして、彼らがこの自己実現の欲求を自分と同一視すれば、自己実現の欲求は、その人の支配者となる。

イエスは、「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」(ヨハ16:11)と証しした。自己実現の欲求に支配された信者たちに、それを知る機会を、黙示録の霊的訓練は与える。この訓練を続けるうちに、「鋭い両刃の剣を持っている方」(黙2:12)に、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通されて、自分の心の思いや考えを見分けることができるようになっていくのだ(ヘブ4:12参照)。やがて、自分のあるがままの姿を見る時がくる。イエスは、信者たちが、自身の自己実現の欲求を断罪する言葉を、生きている神の言葉であると気付いて受け取ることを切に願ったに違いない。それが可能となるために、イエスは、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハ16:7)と言ったのである。その弁護者こそが、「神の言葉は生きており、力を発揮」(ヘブ4:12)することを教え、悟らせる聖霊なのである。

聖霊に従って黙示録の霊的訓練を行うこと、それは言い換えれば聖霊と協働して訓練することである。人が聖霊と協働するとき、人は本来持っている可能性を発揮し、真に自分らしく生きることができる。聖霊の霊的訓練によって、やがて私たち信者は、自分がイエスに似たもの、神の似姿になるのを見ることになる。これこそが真の自己実現であり、ここにイエスが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハ14:27)と約束した神の平和がある。

Maria K. M.

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