2025/12/15
226. ヨハネ福音書と新約の司祭職 ニコデモ
ヨハネ福音書は、初めに三位一体の神のイメージをもって、イエスが神であることをはっきりと伝えた。前回考察したように、洗礼者ヨハネの言葉と、カナの婚礼でイエスの母のために行った最初のしるし、エルサレムの神殿でのエピソードの内に、私たちの教会が教える4つの秘跡、洗礼、堅信、叙階、聖体がその姿を現していたことを確認した。イエスを受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えるための道が、新約聖書の中にできているのだ(ヨハ1:12参照)。そして、2章の最後に次のような解説を入れ、3章のエピソードへとつなげている。
「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハ2:23~25)。
イエスが彼らを信用されなかったのは、しるしを見てイエスの名を信じても、イエスを受け入れないからである。そこで3章では、イエスとニコデモの対話から、「何が人間の心の中にあるか」を見せている。この中でイエスは、人の真の必要を満たす神の仕方が、洗礼、堅信、聖体の秘跡にあることを示していく。そしてニコデモに、彼が闇から出て、光の方に来ていることを気づかせようとする。3章の最後には、洗礼者ヨハネが再び登場し、そのエピソードの内に、新約の司祭職が預言されている(ヨハ3:22~36/本ブログ№222参照)。これらの出来事によって、1~2章のテーマを固めたのである。
ニコデモはイエスに会うと、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(ヨハ3:2)と言った。「わたしども」という表現に、彼が無意識に自分の共同体を背負っていることが分かる。そこでイエスは、彼の「神が共におられる」という言葉を捉えて、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)と返した。
イエスの言葉にニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(ヨハ3:4)と問うた。彼は、次にイエスが指摘しているように、イエスが言った「新たに生まれなければ」という言葉に驚いて、「神の国」という言葉に注意が向かなかった。それは、彼が口にした「神が共におられる」という言葉が虚しいものであったことを示している。彼の環境ではラビと見なされる人に対しての常套句になっていたのかもしれない。しかし彼は、自分が属している環境に疑問を持っていて、解決しなければならない気持ちを背負っていた。それは現代の私たちにも通じる。
そこで、イエスは、再び、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハ3:5)と言われ、洗礼と堅信の恵みを暗示した。そして、続けて次のように言って、聖霊の働きを証しした。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(3:6~8)。ここで重要なことは、「その音を聞く」ということである。
しかし、イエスのこれらの言葉に認識が追い付かないニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」(ヨハ3:9)と言うよりなかった。彼は、自分を包む闇が重いことに気付かずにいる。彼はユダヤ人の議員でファリサイ派に属する者であったが、その共同体の価値観と体質に彼はマッチしていなかったのだ(7:45~52参照)。このような重荷のために、彼が本来持っている個性や能力、また獲得した知識などからくる自己認識は委縮していた。イエスは、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」(3:10)と言って、彼が目を覚まし、自分の状態に気づき、自発的に行動するように励ました。彼は、今、神と共にいるのである。
イエスは続けて語り、ご聖体についての暗示から、「永遠の命」にまで言及した(ヨハ3:14~15参照)。今、私たちは、それを知っており、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)と言ったイエスの言葉が、後の、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(6:51)という言葉につながっていくことが分かっている。
ニコデモには、これらの話が分からなかったとしても、聞いた御言葉は記憶に入った。それが神の仕方である。霊が告げることを聞く耳を神は求めている。ニコデモは、自分から光の方に来た。ゆえに、最後にイエスが言った次の言葉は、ニコデモの心に届いた。彼がその後登場する場面を見ると、彼が次第に自由になり、霊が告げることを聞く耳のある者となっていく姿が見える。御言葉は、彼が、自分の所属する共同体が重荷であることに気付き(ヨハ7:45~52参照)、決断を支える自発性が御言葉と結びついて、真の自己実現に至るようにと(19:38~42参照)、静かに、力強く働きかけていったのである。
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(ヨハ3:19~21)。
Maria K. M.
