イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/11/24

223. 3羽の鷲と新約の司祭職

「イエス・キリストの黙示」(黙1:1)で始まるヨハネの黙示録は、その独特の構成によって、その意図がはっきり示されている。7つの預言で構成されている黙示録は、大きく二つの部分に分かれており、前半(第1から第3の預言、1~11章)は、新約聖書の成立に向かう預言、後半(第4から第7の預言、12~22章)は、ミサ典礼の完成と聖霊の霊性に向かう預言となっている。黙示録には、3羽の鷲が登場する。最初は、4つの福音書に見立てた四つの生き物の描写に登場する、鷲のような「第四の生き物」であり、それはヨハネ福音書を表していた(4:7参照)。 

次に、7つの封印が次々と開かれるが、これらは新約聖書の7つの書を表している(公同書簡は除かれている・・黙10:4参照)。黙示録を示唆する最後の封印が開かれると、7人の天使が次々に7つのラッパを吹く場面が展開する。それらは再び新約聖書の7つの書に見立てられる。ヨハネ福音書に見立てられた4つ目のラッパが吹かれると、「また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた」(8:13)とある。二番目の鷲の登場である。 

その後12章で、「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)というしるしとして、「新約の司祭職」が現れた。共観福音書の聖体制定の場面で、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と言って、御聖体と表裏一体を成し、使徒たちと切り離すことのできないものとしてイエスが制定した「新約の司祭職」である。続けて、「女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた」(黙12:2)と描写された。この「女」は、「新約の司祭職」を受け取った使徒たちであり、「子」はキリストの体である。迫害者たちはその秘密に迫ろうとするが及ばない(12:3~4参照)。ご聖体は神のもとへ隠され、「新約の司祭職」は、使徒たちの記憶に隠されたからである(12:5~6参照)。 

彼らに向かって迫害の手はさらに伸びる。しかし、「彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった」(黙12:11)。使徒たちの記憶が失われないうちに、それを具体的に残す必要があった。福音書である。黙示録は、「女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである」(12:14)と書いている。ここで最後の鷲が登場したのは、「新約の司祭職」が、ヨハネ福音書に隠されたことを暗示するためであった。 

ヨハネ福音書は、「新約の司祭職」をテーマとしている。しかし、この福音書を手にした者が、それとすぐ気づかぬように、ヨハネ福音書は「使徒」という言葉を使わず、聖体制定の場面を描かなかった。その一方で、イエスが十字架上でご自身の母と使徒を親子の絆で結ぶ場面を描くことで(ヨハ19:26~27参照)、「新約の司祭職」を公にした。「新約の司祭職」を授かった使徒たちは、聖霊に満たされ、男性でありながら、御聖体が生まれるための母となる。彼らは御聖体の誕生をイエスの名によって御父に願い、与えられ、喜びで満たされる者たちであった(16:20~24参照)。 

前回、ヨハネ福音書の中で、洗礼者ヨハネが、「新約の司祭職」を「花嫁」にたとえて預言したことを見た。今回、黙示録も、ヨハネ福音書のテーマが「新約の司祭職」であることを示唆していることが分かった。次回は、このことを念頭に、ヨハネ福音書を見直してみたい。 

Maria K. M.


 2025/11/17



222. 洗礼者ヨハネの預言

洗礼者ヨハネは、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハ1:32)と言い、重ねて、「わたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た」(1:33~34)と言って、「見た」ことを繰り返し主張した。ヨハネ福音記者が洗礼者ヨハネについて、「光ではなく、光について証しをするために来た」(1:8)と書いたように、彼は、「光」、すなわち真理の霊である聖霊を「見た」ことを証ししたのだ。そこでイエスは、後に、「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした」(5:33)と言われたのである。 

そして、福音記者が、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハ1:9)と続けた言葉は、彼自身が体験した聖霊降臨の出来事を示唆している。彼が、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(1:17)と書いたように、またイエスご自身が、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(12:46)と証ししているとおり、恵みと真理の「光」である聖霊は、イエスを通して世に現れたのである。こういう訳で、洗礼者ヨハネは、イエスを証しするためにきたのではなかった。 

イエスは、「わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」(ヨハ5:34~35)と言われた。洗礼者ヨハネは、「燃えて輝くともし火」の光を放っていたのである。その光には、最後の預言者としての使命が現れていた。 

洗礼者ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった時、洗礼者ヨハネが弟子たちに次のように言った。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハ3:29~30)。この文脈の「花嫁」という言葉は、福音書の中ではここにしか登場しない特別な言葉であった。洗礼者ヨハネは、ある神の計画を、「花嫁」にたとえて預言したのである。 

この計画こそが、すべてを成し遂げたイエスが証ししたもの、新しい契約として新約聖書が意図するもの、「新約の司祭職」である。「花嫁」は、御父の御言葉であるイエス・キリストにおいて成し遂げられた新しい契約の司祭職をたとえていた。それは、イエスが渡される夜に使徒たちに授け、記念として行うよう命じた聖体を制定したイエスの御業である(ルカ22:14~20参照)。そこで、イエスが昇天した後、「花婿」にたとえることのできる方は、イエスの名によって新たに遣わされる聖霊である。その夜、使徒たちだけが授かった聖体制定の御言葉が現実のものになるためには、聖霊降臨を待たねばならなかった。 

「新約の司祭職」が実践されるためには、使徒として選ばれた男性の存在が必須であった。創世記でアダムをエデンの園から追放した時から、使徒たちだけを集めたイエスの最期の食卓に至るまで、人間にとって気の遠くなるような長い歴史を通じて、神は人々を導いて来た。イエスが「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ22:15)と言われたとおりである。そして、神の御業である人の創造の担い手として造られた女性たちは、創世記の初めから、人の命を生み支えながら神に従ってきた。女性たちも共に発展してきたのである。 

「新約の司祭職」を授けられた司祭たちは、洗礼者ヨハネのように「花婿の介添え人」として聖霊のそばに立って、聖霊の声に耳を傾け、その声が聞こえると大いに喜ぶ。新約の「花婿の介添え人」は、「聖霊の介添え人」である。イエスは彼らを、「愛する者」という意味を込めて「友」と呼んだ(ヨハ15:14~16参照)。そこにイエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)という言葉を添えられた。 

そして、彼ら自身が、イエスの聖体を支える食卓となり、イエスを支えた十字架の木となるために、イエスは十字架上で、母と使徒を親子の絆で結んだ。その母は、神の子が人となったイエスご自身の身体を身ごもって支えたイエスの母であった。ここに新約の司祭が誕生した。やがて聖霊が降れば、彼らには、天使がイエスの母に告げた、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)という言葉が実現する。彼らのために、イエスは御父に次のように祈った。 

「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハ17:16~19)。

 Maria K. M.



 2025/11/10

221. 聖霊によって洗礼を授ける人

ヨハネ福音書は、初めに洗礼者ヨハネを次のように紹介した。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(ヨハ1:6~8)。「光」とは、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(1:4)と先に書かれた「光」である。 

洗礼者ヨハネは、「わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」(ヨハ1:31)と言って、洗礼を授ける理由を説明した。そして、「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(1:33~34)と告げた。「聖霊によって洗礼を授ける人」とは、イエスであった。 

洗礼者ヨハネが証ししたように、聖霊がイエスにとどまったのは、神であっても人として語るイエスの言葉が、生きた御言葉となるように、聖霊が共に働くためであった。こうして「言」の内にある命が、人間を内奥から照らす光となるのである。ここでヨハネ福音記者は、「わたしはこの方を知らなかった」という洗礼者ヨハネの言葉を二回繰り返して強調している。それは、洗礼者ヨハネが母エリザベトの胎内で6か月だったとき、イエスを身ごもって来訪したイエスの母マリアの挨拶に、胎内でおどったと書かれているルカ福音書の場面に、読者の目を向けさせるためであった。その時、マリアが言ったマニフィカトの言葉が、「聖霊によって洗礼を授ける」事の意味をよく説明しているからである。 

マニフィカトは次のように始まる。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカ1:46~49)。マリアは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)という天使の言葉が実現したことを悟り、聖霊の力によって救い主である神を喜びたたえたのである。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」という実感こそが、聖霊によって洗礼を授かった者であることの証しである。 

続くマリアの言葉は、その実感を人がどのようにして得るかを説明している。「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1:49~53)。 

「その御名は尊く」というのは、聖霊のことである(マタ12:31~32参照)。聖霊の働きで命の言葉となったイエスの言葉は、主を畏れ、その声を聴く者に働きかける。その者の内奥で、人間を照らす光となった御言葉は、その腕、すなわち諸刃の剣をもって力を振るい、その人を思い上がらせる記憶を打ち散らし、自分が権力者であるという錯覚から引き降ろす。その人が、神の御前で身分の低い者であることを自覚するまで。それは、神の子の立場に上げるためである。このようにして、神は、御言葉に飢えた人を良い物で満たし、人間の知識で満たされている者を無知のまま追い返すのである。 

ルカ福音書で、イエスがペトロの舟から群衆に教えを語り終え、ペトロに漁をするように指示した時、ペトロは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)と答えた。また、大漁に驚いたペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(5:8)と言った。このように、イエスご自身を前にし、主を畏れ、その声を聴く者となった彼らに、イエスは、マニフィカトの体験をさせたのである。 

イエスは最期の食卓で、「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハ14:17)と言って、弟子たちがこの時すでに聖霊を受けていたことを証しした。彼らはイエスから聖霊による洗礼を授かっていたのだ。 

ヨハネ福音記者は、仮庵祭でイエスが、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハ7:37~38)と言ったと述べている。そして、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」(7:39)と説明している。「御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”」とは、聖霊降臨のことであり、イエスが言われた「聖書に書いてあるとおり」とは、未来の新約聖書を指している。そこで「新約の司祭職」が明らかにされるのである。 

Maria K. M.


 2025/11/03


220. 新約の司祭職

ヨハネ福音書には「使徒」という言葉が登場しない。それは、ヨハネ福音書のテーマが「新約の司祭職」だからである。しかし「新約の司祭職」は、使徒職と切り離すことのできないように神が計画されたので(ヨハ19:26~27参照)、そのテーマだけに注目しにくく、この福音書がただ高度な霊的問題を扱っているだけのように見える。 

さらに、私たちがヨハネ福音書に難しさを感じるのは、「新約の司祭職」が御聖体と表裏一体を成していることだ。そこには、人間の情報と知識では、現代でもとても追いつけない未知の領域がある。それが明確にならないために、たとえば、「自分はご聖体製造機ではない」、「自分には目指す使徒職がある」というような、「新約の司祭職」とそれを受け取る男性との間には、ご聖体に関する特別な葛藤が起こることもあるのではないだろうか。 

それは、妊娠とそれを受け取る女性との間に起こる葛藤とよく似ているように思う。たとえば、「自分は子供製造機ではない」、「自分には自分の人生がある」というような、自分の体に宿った子に関する特別な葛藤が起こることもあるのではないだろうか。一見結び付かないようでも、この二つのケースにおいて起こるさまざまな問題にも、共通点があるかもしれない。このように葛藤を感じ、問題が起こること自体は、それぞれが永遠の命と人の命について、無意識であっても真摯に係わっていることの証しである。この証しは、これらの問題にさしあたり直接関わることのない周囲の人々の、真摯な対応によって支えられる。この人々の支える力を増大させるのも、究極的に「新約の司祭職」についての真実が明らかになることにあると考える。 

ルカ福音書には、イエスがご聖体を制定した時、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。・・この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:19~20)と言われたと書かれている。「あなたがたのために」と言われた「新しい契約」は、「新約の司祭職」なのである。それを「行いなさい」とイエスは命じた。これは、イエスの名によって集うすべての信者に向けられている。ヨハネ福音書は、共観福音書の「新約の司祭職」を浮き彫りにすべく、自身は聖体制定の場面を描いていない。 

共感福音書の書き出しを見てみると、マタイ福音書はアブラハムから始め、マルコ福音書は預言者イザヤの引用から入り、ルカ福音書は報告書のかたちを取っている。ここだけに注目して区別するなら、マタイ福音書には神の計画を意図する御父、マルコ福音書には預言を成就する御子、そして、ルカ福音書には結果(悟り)に導く聖霊の姿をイメージすることもできる。そして、それぞれに別な方向を向いているようで、それでいて使徒職という同じテーマを扱っているところから、これらの福音書の特徴は捉えやすい。 

一方、ヨハネ福音書の書き出しは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(ヨハ1:1~2)である。これは、御父と御子が一つであることを示唆している。イエスがご聖体と共に授けた「新約の司祭職」が、御父の御心であったことの証しである。続く「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(1:3)という言葉は、天地創造の時と同じく、イエスの最期の食卓で、キリストの体と御血が御言葉によって成ったことを示している。 

そして、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハ1:4~5)とあるように、命のパンについてイエスが証しした言葉を聞いた弟子たちの多くの者が、イエスの言葉を理解しなかった(6:60参照)。同様に、「新約の司祭職」を理解することも難しい。しかし、御言葉によって成ったご聖体と共にある「新約の司祭職」の内に命があって、それは、人間を照らす光である。光は暗闇の中で輝いている。命のパンについての場面の終わりには、次のように書かれている。 

「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』」(ヨハ6:66~69)。 

Maria K. M.

(お知らせ)

 インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。 「パトモスの風


 2025/10/27

219. 司祭職とヨハネ福音書

御言葉を聞いてイエスに従い、使徒となった漁師たちは、それまで誰も食べることのなかった「命の木」から取って食べた“初めの人”になった。こうしてイエス・キリストは、神がアダムを追放し、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置いて守った「命の木に至る道」(創3:24)を世に示した。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)と言ったとおりである。このイエスの言葉は、ヨハネ福音書で語られた。 

ヨハネ福音書において、司祭職は主要なテーマである。司祭が祭壇上で御父に向かって、「主イエス・キリストの御体と御血になりますように」と願う言葉は、イエスの母マリアに起こったことと同じ現象を司祭に引き起こす。この時、聖霊が司祭に降り、いと高き方の力が司祭を包む。だから、生まれる子、すなわちご聖体は、「聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)。聖霊に満たされてこの世にイエスを生んだ母は、司祭職を象徴しているのだ。十字架上で、イエスは、母と弟子を親子の絆で結び、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハ19:27)とある。この場面は、イエスが新しい司祭職を使徒に授け、使徒がそれを受け取ったことの証がここにあることを、使徒の後継者たちに、知らせている。 

ヨハネ福音書の内容は、次のようにたびたび三共観福音書と関わりながら展開される。それは、司祭職のテーマに迫るためである。前回考察したように、ルカ福音書で、イエスが初めの弟子たちを召し出した場面でのイエスとペトロのやりとりには、司祭職に関わる重大な文脈が含まれていた。イエスは、ペトロの舟から群衆に教えを語り終えると、ペトロに漁をするように指示した。それに対し、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)と答えたペトロの言葉は、多くの人の罪のもととなったアダムの神への不従順を、後に司祭職を受ける一人の人の従順によって打ち消すものとなった。イエスに導かれて生じたこの従順は、使徒の後継者たちによって継承され、多くの人が正しいものとされる礎となる。 

大漁に驚いたペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5:8)と言った。この言葉は、神の御心にかなう言葉として受け入れられ、神に対するアダムの背きを覆った。ペトロは、創世記で神がアダムに言った、「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:19)という言葉を実現する者、すなわち司祭職を担う者として選ばれたのである。「お前は顔に汗を流してパンを得る」とは、司祭職を指している。続く神の言葉には、人が土に返る生き物の自然の体をもっていても、神が土の塵から形づくられ、「命の息」(2:7)を吹き入れられた塵の体に返る人として、復活の希望が暗示されている。新しい司祭職は、この希望をすべての人にもたらす責務がある。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)と言ったイエスの言葉がそのことを証ししている。 

ペトロは、使徒の頭、教会の岩として選ばれただけではなく、神が「祝福し、聖別された」日を(創2:3参照)、人々とともに祝うための司祭職を与えるべく、旧約聖書の歴史が準備したいわば第二のアダムであった。ルカ福音書におけるイエスとペトロのこの重要なやり取りは、ヨハネ福音書における、初めの弟子たちを召し出した場面と次のようにつなげることで、より明確に理解される。そして、この重要な場面にペトロの兄弟アンデレの名が記載されていないことも補うことができる。 

ヨハネ福音書によると、洗礼者ヨハネの弟子で、初めてイエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼はシモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」(ヨハ1:42)と言われたのである。この事を前提にルカ福音書の漁師たちの場面を読むと、イエスとペトロが初対面ではなかったことがわかり、ここでの二人のやり取りに注目することになる。 

Maria K. M.


 2025/10/20



218. 和解の成立


キリスト者となった私たちは、今でも創世記に書かれたことから神の計画を読み取ることができる。新約聖書が成立しているからである。

同一種の生き物が複数になったとき、彼らの間に偶発的に情報が発生する。この偶発的情報が初めてその姿を見せたのは、神が創造した「女」を「男」のところへ連れて来た時だ。「男」は、「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」(創2:23)と言った。しかし創世記は、神が「女」の創造に「人」の骨を使ったと記しているが、肉には言及していない。「男」は、神が、あばら骨の一部を抜き取った後、「その跡を肉でふさがれた」(2:21)ことから、偶発的に言葉を発したのだ。

アダムは「男」として特別に神から造られたのではない。あばら骨の一つが取られた後の「人」が「男」である。そこで「人」の体と記憶を受け継ぐ「男」は、3つの記憶を持っていた。神から与えられた「仕事」(創2:15参照)、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16~17)という「知識」、そして「人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」(2:19~20)という「体験」である。しかしこの内の「知識」の記憶について、「男」は「女」と正確に共有できなかったことが後でわかる。二人の間に偶発的情報が絶えず発生し、記憶が新しく上書きされたからだ(3:1~5参照)。

「その日、風の吹くころ」(創3:8)、主なる神が園の中を歩いて来てアダムを呼んだ。神には計画があった。神は、ご自身が「祝福し、聖別された」(2:3)日を人々とともに祝うために、アダムを司祭職に向けて準備しようと考えていた。そのために、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2:15)のであった。しかしアダムと「女」は、記憶が上書きされていたために、「園のすべての木から取って食べなさい」(2:16)という神の言葉を忘れ、「命の木」から取って食べなかった。代わりに、「決して食べてはならない」(2:17)と命じられた「善悪の知識の木」から取って食べたのである。

その後アダムは、自分が名を付けたものには、「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」(創2:20)という「体験」の記憶を無視して、神が「人」から創造した「女」に、他の生き物に名を付けるように名を付けた。「彼女がすべて命あるものの母となったからである」(3:20)と誤った情報を持ったためだ。こうして、女性をすべての生き物と同等に認識したアダムの背きは決定的となって、彼は園を追い出された。しかし、「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた」(3:23)とあるように、神は、アダムに司祭職を与える計画を変更しなかったのである。

やがて、洪水を通り抜けたノアが、主のために祭壇を築き(創8:20参照)、アブラハムが、いと高き神の祭司サレムの王メルキゼデクと出会い(14:18参照)、神は、アロンとその子らを祭司に任職した(出29:9参照)。こうして創世記から始まる旧約聖書の長い物語は、神が目指す司祭職を与えるにふさわしくアダムを、すなわち男性を養成し、成長させる歴史を形づくった。これらの旧約聖書の歴史と旧い祭司職は、洗礼者ヨハネの誕生とその生涯をもって終了する。イエスが、「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」(マタ11:13)と言ったとおりである。そして、神の子イエス・キリストは、その宣教の初めに、遂に新しい契約の司祭職を与える新しいアダムを見つけた。後に使徒と呼ばれる彼らこそが、神との和解を成し遂げるまでに成長したアダムの子孫であった。

「イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた」(ルカ5:2~3)。

漁師たちも聞くとはなしに耳を傾けていたに違いない。「話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。シモンは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた」(ルカ5:4~5)。神は、アダムの子孫とこのようなやり取りをすることを、どれほど待っていただろう。

「そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。・・・これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った」(ルカ5:6~8)。ペトロのこの言葉によって、神は、創世記のあの日、「取って食べるなと命じた木から食べたのか」(創3:11)という問いに対する、「男」の真実な答えを受け取ったのである。

「シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:10~11)。御言葉を聞いてイエスに従った彼らは、「命の木」からその実を取って食べた“初めの人”になった。

Maria K. M.


 2025/10/13


217. 和解

前回考察したように、司祭が祭壇上で御父に向かって、「主イエス・キリストの御体と御血になりますように」と願う言葉は、イエスの母マリアに起こったことと同じ現象を引き起こす。この時、聖霊が司祭に降り、いと高き方の力が司祭を包む。だから、生まれる子、すなわちご聖体は、「聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)。マリアが天使から受けた言葉は、使徒ペトロがイエスを「メシア、生ける神の子」(マタ16:16)、「神の聖者」(ヨハ6:69)と呼んで証しした。これに倣って、現代も司祭と信者は、ご聖体に向かって、ペトロの言葉を証しし続けるはずである。 

しかし、なぜイエスは、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言った時、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタ16:17)と言って、御父の御心がその言葉にあったことを言ったのだろうか。それは創世記の「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた」(創3:8~9)というところまで引き戻す。神がアダムを呼んだのは、彼に使命を与えるためだったのではないか。しかし、その時すでに二人は神の御心に背いていた。神がそれを知らなかったのは、「ご自分にかたどって人を創造された」(1:27)主なる神は、「その鼻に命の息を吹き入れられ」(2:7)、ご自身の似姿となった人の意志がどう動くかを知ろうとなさらないからだ。 

だから神は、アダムが、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創3:12)と答えた時は、ずいぶんがっかりしたにちがいない。彼は、神に背いたばかりか、その原因を神に帰したからである。そもそもアダムは「男」として特別に神から造られたのではない。神が創造したのは、初めの「人」と「女」であった。そして、人(男と女)を創造する神の御業を継ぐのは胎を持つ「女」である。「男」には、これからの計画があった。神は、「男」と和解することを望んでいたに違いない。 

神は、「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:19)と言ってアダムを励ました。今、私たちはこの言葉が、いつか彼が顔に汗を流して「命のパン」を得るために働き、死んで土に返り、「命の息」を吹き入れられた塵の体が復活する、ということを示唆していたことが分かる。神が園でアダムを呼んで、告げようと思っていた神の計画は、アダムに司祭職を授け、神が「祝福し、聖別された」(2:3)日を、人々とともに祝うことだったのである。この計画は、イエス・キリストが新約の司祭職において実現した。この司祭職の使命は、胎児を身ごもる女性と同じように、命に対する使命である。それは、ご聖体に対する使命である。 

妊娠した女性の子宮に起こる胎盤形成は、受精卵、すなわち胎児側が主導的に働き、母体は受動的に関わって起こる。したがって胎盤を作る主体は母体ではなく胎児なのだ。胎児と胎盤は父方の遺伝子を半分持つために、母体から見れば“異物”だ。それにもかかわらず、母体は胎児を拒絶しない。このことは、「命のパン」について語ったイエスの言葉を拒絶した弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった時も、使徒たちはイエスのもとに留まったことを想起させる(ヨハ6:66~69参照)。 

胎盤形成は、母体側と胎児側の密接な対話の上に成り立っているという。胎児は母体の免疫をいわば “再教育”し、母体は胎児の侵入を“許可しつつ制御”する。子宮が胎盤を受け入れる仕組みは非常に精密で、「母体と胎児の間の和解の奇跡」という、ヒト種特有の胎盤形成プロセスなのである。この微妙な交渉のバランスこそが、「妊娠」という現象の本質であり、ここで起こる和解とは、単なる静的平和ではなく、動的なバランスの維持だというのだ。それはイエスが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハ14:27)と言ったとおりである。この和解は、祭壇の前で聖霊が降る司祭にも起こっているに違いない。 

子宮は単なる“器官”ではない。ヒトの生命の成立を支えている。ヒトという種の発生・免疫・脳・社会性にまで影響するきわめて深い意味をもっている。女性は、ヒト種特有の胎盤形成プロセスという、他の生き物に類を見ない高度な重荷を背負ったのである。それは、新しい契約の司祭職も同じである。聖霊に満たされてご聖体を生むという役割を背負って、イエスの母マリアのように生きる司祭は、神と人の歴史が強く求める「和解」を実現することになる。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と言ったペトロの答えは、御父の御心に適っていたのである。続けてイエスは次のように言った。 

「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタ16:18~19)。 

Maria K. M.


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