イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/08/25


210. イエス・キリストの黙示と霊的訓練の書

聖霊が降臨した後、イエスを直接知る証人たちは、言葉や業によってイエスが証ししたことが、新しい預言となって実現していくのを目の当たりにした。イエスの名によって遣わされた聖霊は、彼らの体験の記憶を、イエスを見ないで信じる者たちに授けるために、新約聖書を成立させ、その中に黙示録を置いた。黙示録に「イエスの証しは預言の霊なのだ」(黙19:10)とあるように、黙示録は、イエスの証ししたことが新しい預言として信者の記憶に注入される霊的訓練の書である。 

黙示録の記述は、新約聖書の他の書の内容を暗示し、それらの箇所とつながって、そこでイエスが証ししたことを、新しい預言として信者の記憶に入れる。そのうえで聖霊は、信者があらためて新約聖書の他の書を味わうとき、その人を教え導いて、イエスが証ししたことが、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟らせる(ヨハ16:13参照)。このような黙示録の霊的訓練を継続的に行いながら、新約聖書の他の書を味わうことによって、信者の内に、イエスが証ししたことが、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟るという循環が起こる。この循環が、イエスを直接知る証人たちが保持していた体験の記憶を、訓練者の内に創り、保持させる暗黙知となる。このことは、これまで検討してきたヘブライ人への手紙からも分かる。 

黙示録の筆者ヨハネは、初めに彼に語りかけた声の主を、「右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙1:16)と描写した。また、ペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙にも、「鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる」(2:12)と書いている。この「鋭い両刃の剣」は、ヘブライ人への手紙の筆者も、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブ4:12)と書いた。黙示録の霊的訓練を繰り返し続ける信者は、ヘブライ人への手紙の筆者が書いたこと、すなわち、新約聖書の他の書に書かれたことが、イエスが証ししたこととして、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟る。 

ヘブライ人への手紙の筆者は、今は御父の右に座しておられる神の子イエスを永遠の祭司として、なんとかして教会共同体の「集会」の中心に位置付けようと試みた。イエスは、最期の過ぎ越しの食事のとき、パンとぶどう酒を準備した使徒たちに、新しい契約の司祭職を示した。イエスが司祭職を、ご聖体の制定と同時に使徒たちに授けることによって、また、使徒たちがその職務を受け継いでいくことで、司祭職は、永遠の司祭職となっていく。このイエスの証しは、黙示録において新しい預言となって、実現していく。こうして黙示録の後半は、次のように始まる。「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)。 

図にあるように、黙示録は7つの預言によって構成されている。その後半は、「司祭職とご聖体の神秘が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」から始まる。黙示録の霊的訓練は、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)という言葉を信じて、自分の声で朗読し、朗読している自分の声に集中するようにするだけのことだ。しかし、毎日少しずつしかできないことが多い。それでも、たとえ1行でもやると決めて続けるうちに、この黙示録の習慣が「幸い」となる日が来る。「イエス・キリストの黙示」(1:1)として壮大な預言的構成を持つ黙示録は、それを霊的訓練の書として受け取る一人一人の信者に働きかけ、聖霊の霊性の預言(図第7の預言参照)まで導き、完全なキリスト者の体験を味わわせることができる。次回からその過程を考察する。 

Maria K. M.



 2025/08/18



209. ヘブライ人への手紙から黙示録へ

ヘブライ人への手紙は、今は御父の右に座しておられる神の子イエスを永遠の祭司として、なんとかして教会共同体の「集会」の中心に位置付けようとする試みであった。それは、イエスが兄弟(姉妹)と呼ぶ信者たちが成長して、しまいにイエスから、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」(ヘブ2:13)と言われるまでになるためであった。筆者が、「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています・・・御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(10:19~20)と書いた思いには、イエスが制定したご聖体の意味と、イエスの名によって遣わされた聖霊が働くミサ典礼のイメージが見える。また、彼の「天に登録されている長子たちの集会」(12:23)の描写には、天上の「集会」のイメージがある(12:22~24参照)。

このように、旧約聖書と深いつながりを持っているヘブライ人の信者たちを導くために、筆者は「集会」を拠り所とした。新約聖書のないこの時、彼には、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(ヘブ13:7)と言うより他はなかったし、イエスの名がない旧約聖書に頼ることはできなかったのである。

一方、倫理的な問題を抱えた異邦人キリスト者の共同体に関わっていた使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙で、「酒に酔ってはなりません。それは身を持ち崩す元です。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェ5:18~19)と書いて、詩編にもとづいた霊的訓練を行うことを命じた(4:17~5:14参照)。また、コロサイの信徒への手紙にも、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロ3:16)と書いている。しかし旧約聖書の詩編には、「キリストの言葉」はもとより、イエスの名もない。しかも、イエスの再臨を待つキリスト者に、救い主を待つ旧約の人々のぶどう酒を飲ませれば、「だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方が良い』というのである」(ルカ5:39)と言ったイエスの言葉が現実になる。しかし、パウロにとって、他に頼るものは何もなかった。

イエスの公生活を共に過ごした使徒たちは、彼の受難、死、復活、昇天に遭遇し、聖霊の降臨を体験した。しかし、彼らとは全く異なる時に神の選びを受けた使徒パウロは、イエスとの実体験がなかった。彼は、イエスが、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)と言った「わたしが話したこと」の記憶を持っていなかった。これこそが、イエスの名によって遣わされた聖霊と関わるための重大な記憶になるのである。パウロはそのことを良く知っていた。そこで彼は自分からエルサレムへ行って、使徒たちから多くの聞き取りをした。彼の努力は、彼自身の益よりも未来のキリスト者の益となって新約聖書の中で開花した。

やがて、パウロがコリントの信徒への手紙で伝えているように、イエスの復活の証人たちの中ですでに亡くなる人々が出てきていた(一コリ15:6参照)。彼らには、イエスとの実体験があった。その多くは、直接教えを受け、「わたしが話したこと」の記憶を持っていたであろう。聖霊は、イエスを直接知るこれらの証人たちが保持していた記憶を、未来の信者に特別な仕方で注入するために、新約聖書にヨハネの黙示録を加えた。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)とある黙示録は、聖霊が、これらの証人たちに等しい体験を、信者の記憶の奥に格納する霊的訓練の書である。

ヨハネの黙示録は、新約聖書の他の書と強く結びついて、イエスの名によって遣わされた聖霊のために、信者の内奥に重大な記憶を創る。ヘブライ人への手紙の筆者は、この未来を予見したかのように、次のように祈った。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン」(ヘブ13:20~21)。

Maria K. M.

 2025/08/11



208. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題への解決と実り


ヘブライ人への手紙の筆者は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブ11:1~3)と述べている。その上で、この信仰のゆえに神に認められた旧約の人たちの歴史を簡潔に示し(11:4~38参照)、その結果を次のように結論した。「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」(11:39~40)。

ヘブライ人であったイエス・キリストに従うキリスト者の信仰において、旧約の歴史と切り離されることはない。しかし、ここで筆者は、信仰についての二つの在り方を示し、旧約の民の歴史に全く新しい時代が来たことを告げている。このために、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という定義は、「その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした」という結果となった。一方、聖霊によってイエスの名を信じる人々は、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」という状態を受け取る。「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」とはこのようなことであった。

旧約と新約の信仰の在り方についてのこれらの違いを、ヨハネ福音記者は、ガリラヤのカナでイエスが行った最初のしるしと二回目のしるしによって証ししている。聖霊によってイエスを身ごもった母は、夫ヨセフと共に、「その子をイエスと名付けなさい」(マタ1:21,ルカ1:31)という天使の言葉を信じた。その信仰によって、「この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないこと」を体験した。聖霊に満たされた彼女は、神がわたしたちのために計画してくださった、「更にまさったもの」を先取りし、完全な状態に達していたのである。それは、復活したイエスが「見ないで信じる人は、幸いである」(ヨハ20:29)と言ったとおりである。

「ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った」(ヨハ2:1~3)。イエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(2:4)と答えた。イエスのこの言葉は、イエスが神の計画をもって地上に来たことを表している。イエスと人生のすべてを分かち合ってきたイエスの母はそれを理解して、召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(2:5)と言っておいた。彼女はイエスの言葉に応えたのである。こうして、母も、弟子たちも、そしてイエスの命令に従った召し使いたちも、イエスが水をぶどう酒に変える最初のしるしを行って、「その栄光を現された」(2:11)その時に遭遇したのである。ここに新約の信仰のモデルがある。

ガリラヤのカナで行われた二回目のしるしは、次のようであった。王の役人は、「イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである」(ヨハ4:47)。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」とあるように、彼は、イエスが「息子をいやしてくださる」ことを確信していた。だから、イエスが彼に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(4:48)と言われたことに取り合わず、すぐに、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(4:49)と言ったのだ。イエスが子供を癒すというまだ見えない事柄を確認しようとした。実際、後で彼は、イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(4:50)と言った時刻と子供が癒された時刻を確認している(4:51~53参照)。彼はイエスの言葉を信じて帰って行った。そして、彼の子どもは癒されたのである。これが旧約の信仰のモデルである。

王の役人は、その信仰のゆえにイエスに認められながらも、「約束されたものを手に入れませんでした」。このような結果を受け取る人々は、今も世界中に数多くいる。その歴史を先に進ませるためには、私たちキリスト者が、「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」という結論を理解して受け入れ、「完全な状態に」達する努力が必要だということだ。そこでヘブライ人への手紙の筆者は、続けて次のように信者たちを強く励ましている。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブ12:1~2)。

Maria K. M.

(お知らせ)

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 2025/08/04



207. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題から解決へ(集会)


ヘブライ人の手紙の筆者は、迫害や社会的圧力の中で(ヘブ10:32~34参照)、旧約の習慣に回帰しがちな共同体の人々を(2:1参照)、手紙で支えければならなかった。そこで彼は、「集会」という言葉を用いて、キリストを中心とした新しい神の民の共同体をイメージさせようとした。それこそが「これほど大きな救い」(2:3)と彼が呼ぶものだからである。この「集会」において神は、イエスの名によって遣わされた「聖霊の賜物を御心に従って分け与え」(2:4)、その礼拝と賛美の中心にいるキリストは、信者を「兄弟」と呼び、共に神を賛美する(2:12参照)。そして、「見よ、私と神が私に与えてくださった子たちがいます」(2:13)と言われる。黙示録にも、「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(黙21:7)とある。「集会」という場こそが、人々が神の安息にあずかる約束の地、「新しいエルサレム」になるはずのものである(21:2~6参照)。

筆者は、信者たちが「集会」に与るよう努力することを勧めた。そこで聖霊は、神を父と呼んでキリストの子となった信者に、御父の御心に従ってその賜物を分け与えようとする。しかし、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブ4:12)と彼が確信しているその力は、信者にとっては厳しい鍛錬に感じ、気持ちがなえることもある。それを乗り越えることは、当時の環境の中で難しかった(10:32~34参照)。さらに、「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(4:13)という神の現実を突き付けられることは、人間的な恐れにつながることもある。

筆者は、「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている」(ヘブ4:14)ことや、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(4:15)と諭し、「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(4:16)と言って励ましている。だからこそ筆者は、この「集会」の中心にイエス・キリストがあることを徹底的に証しするために、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(5:6)というテーマを展開し力説したのだ。

しかしながら、前号まで考察したように、筆者の共同体には、育った環境から植え付けられた習慣的な思考に強く巻き戻ってしまうという人元来の性質が教会共同体に大きな影響を与える問題や、悪魔やサタンと呼ばれる情報に対峙するためにイエスの助けをどのように受けるのかといった問題があった。これらの問題は、むしろ「集会」の外で起こるものだと言える。これらを解決し、イエスの名によって遣わされた聖霊とともに生きる信者たちが、イエスの言葉を保持するためには、現実的で具体的な養成方法が必要である。それは、筆者の確信していた「集会」を支え、生きた教会である信者一人一人がそれを信じて実行することによって、「集会」自体を完成に向かわせ、筆者の確信を実現するものとなるはずの養成である。それにはまず新約聖書が成立しなければならない。旧約聖書にはイエスの名が存在しないのである。

彼は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブ11:1~3)と書いた。ここには、信仰について二つの在り方が見える。ここに現実的で具体的な養成方法につながる手掛かりが隠されていると思う。次回はここから考察をしていきたい。

Maria K. M.

 2025/07/28



206. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題(人間の情報)


ヘブライ人への手紙2章の終わりには、「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(ヘブ2:14~15)とある。私たちが筆者の言葉を理解するには、「悪魔」の正体を知っている必要がある。悪魔やサタンは情報であって、人に取り込まれて人間の思いになる。黙示録には、悪魔とかサタンとか呼ばれるものは、「年を経たあの蛇」(黙20:2)であると書かれ、創世記の初めの男と女の物語に注意を向けるよう促している。

人と人の関わり合いから発生する情報は、人の記憶と親和性が高く、取り込まれると容易に人間の思いが形成される。そういう風にして、初めに「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創2:16~17)と命じた神の言葉は、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」(3:2~3)という人間の思いに取って代わられていた。創世記の初めの男と女が先に持っていた神の言葉の記憶は、上書きされてしまったのだ。

二人は、神の思いをよそに、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(創3:4~5)という人間の思いを持って行為に至った。そして、事実その通りになった。彼らは善悪の知識の木から食べても死ななかったし、目も開けた。しかし、目が開けたことによって、やがて彼らは、塵にすぎない自分たちの肉体が、塵に返ることを知ることになる(3:19参照)。「食べると必ず死んでしまう」とは、肉体の死を知って、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態になることを意味していた。神のことを思えば、それは死んだも同然であった。これらの人々を開放するために、神の子イエスは人となった。そして、ご自身の受難と死と復活について初めて弟子たちに打ち明けた時、それをいさめたペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタ16:23)と厳しい言葉で対応している。

福音書は、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で40日の断食をした後に起こった出来事を記載し、神の子であるイエスが、悪魔とかサタンとか呼ばれる人間の情報とどのように対峙したか明らかにしている。まさに公生活に入ろうとするイエスの脳裏には、御父から任された神の計画があって、それを遂行する決意に満ちていたにちがいない。しかし、断食後に空腹を感じたイエスの頭には、神の子の思いに、人として生きてきた人間の思いが相まって、石がパンになるように命じるという奇妙な発想が起こった(マタ4:1参照)。イエスには、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハ6:54)という言葉を実現するために、パンとぶどう酒が御言葉によって御体と御血になるように命じるという、聖体制定の計画があったからだ。イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタ4:4)と答えて、人間の思いを神の計画と区別した。

こうしている間に、すでに肉体の限界を超えていたイエスの人性は、幻覚を見る。彼は神殿の屋根の端に立っている。彼が持った「神の子なら、飛び降りたらどうだ」(マタ4:6)という発想には、十字架につけられたイエスを見た人々が、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(27:40)とののしる姿が生起されているように見える。イエスも、肉体を備えた人間として、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちと同じ思いでご自分の死と向き合わねばならなかったのである。しかしイエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(4:7)と言って、神の計画を背負ったご自身の思いを人間の思いと区別した。

幻覚は続く。イエスは非常に高い山に連れて行かれ、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見ている。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マタ4:9)という発想が起こる。ここでは、「神の子なら」という提案形式が使われていない。神の子イエスには、この言葉の前にひざを折り、あらゆる偶像崇拝に身を任せ、滅んでいった人々の記憶があったからだ。これは、イエスの記憶の中に区別して置かれている人間の情報である。イエスは、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(4:10)とその名を呼んで、この情報を完全に他者として扱った。そこで、人間の情報は離れ去った。「すると、天使たちが来てイエスに仕えた」(4:11)とある。平安が訪れたのだ。

ヘブライ人への手紙に、「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブ2:18)と書かれているように、荒れ野でのイエスの体験は、私たちにとって大きな助けである。イエスは、自らの内に生じる人間の思いに対して、それに応じた神の言葉によって対処した。彼は旧約聖書の言葉を保持していたからだ。しかし、旧約聖書にはイエスの名はない。体系的な新約聖書が未成立の時代にあって、イエスの名によって遣わされた聖霊と生きる信者たちが、イエスの荒れ野での体験に倣うためには、イエスの言葉を保持するための現実的で具体的な方法が必要だった。これがなかったことが、前回に続いて、教会共同体に影響を与える第2の問題となる。

Maria K. M.

 2025/07/21


205. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題(1~2章)

ヘブライ人への手紙の筆者は、体系的な新約聖書が未成立の時代にあって、伝え聞いたことをもとに信仰の目で見たイエス・キリストと新しい契約を、旧約聖書を使って、なんとかして理論的に説明しようとしているように見える。そこには、前回考察した司祭職についての議論とは別の流れがあって、信仰をテーマに際立った考察を展開している。そこで、筆者が彼の共同体を指導するに当たって抱えていたであろう諸問題を抽出し、最後に解決につなげたいと思う。

筆者は初めに、神の御子であるイエスが誰であるかを明確にし(ヘブ1:1~3参照)、次に、御子と天使の違いを説明している(1:4~14参照)。天使のテーマに筆者がこれほどこだわったのは、ヨセフとマリアに、神の子の到来を告げたのも天使であったように、当時のヘブライ人は、天使が神と人の仲介者であり、神の啓示は天使によって告げられるという認識を持っていたからだ。そこで筆者は、完全に神であっても人でもあったイエス・キリストの人性が天使以下に見えることに対して、本質的には天使を超えた存在であることを丁寧に論証しなければならなかった。ヨハネの黙示録もその初めに、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」(黙1:1)と書いており、キリストが天使を超えた存在であることを明確に示すことが重要であったことを物語っている。

さらに、ヘブライ人への手紙の筆者は、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」(ヘブ1:14)と言っている。それは、黙示録で、天使自身が、「わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である」(黙19:10)、「わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である」(22:9)と言っているとおりである。しかし、続けてヘブライ人への手紙の筆者が、「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」(ヘブ2:1)と書いて克己を促しているように、人は往々にして育った環境から植え付けられた習慣的な思考に強く巻き戻ってしまう。

こう考えると、「わたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう」(ヘブ2:3)と書いた筆者の思いは察するにあまりある。この救いは、天使からではなく、「主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証しして」(2:3~4)いるからである。

ゆえに筆者が、「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」(ヘブ2:10)と言っているとおり、私たち人の前に、神の子であるイエスが、数々の苦しみを通して御父のみ旨を完全に成し遂げていく姿が現されたことによってはじめて、神に創造された人が、万物の目標であり源である方の似姿、すなわち神の似姿に造られたことを受け取ることができたのだ。

このように見ていくと、ここで筆者が彼の共同体を指導するに当たって抱えていたであろう問題の一つは、人は育った環境から植え付けられた習慣的な思考に強く巻き戻ってしまうということにあるといえる。この問題をかかえて、信者は、「これほど大きな救いに対してむとんちゃく」になる。これが教会共同体に影響を与える第1の問題である。

Maria K. M.

 2025/07/14



204. 黙示録とヘブライ人への手紙


黙示録の後半には、その冒頭に、司祭職が十二の星の冠をかぶった女のかたちで、象徴的に現れる(黙12:1~2参照)。ヘブライ人への手紙は、創世記14章を引用しながら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(ヘブ5:6他)というテーマを展開している。前回考察したように、戦いに勝利したアブラハムに、パンとぶどう酒を持って来た「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」の存在は(創14:1~18参照)、イエスの最後の過ぎ越しの食事のとき、パンとぶどう酒を準備した使徒たちに示した、新しい契約の司祭職を象徴している。このときイエスは、創世記の場面におけるアブラハムの位置にあったのだ。イエスはこれを、聖体の制定と同時に使徒たちに授けることによって、永遠の司祭職を設定した。

イエスがヤコブの井戸のところでサマリアの婦人に、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハ4:21)と語ったように、この司祭職は、旧い契約の祭司職とは全く異なる発想であった。ヘブライ人への手紙の中で著者が、「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(ヘブ7:3)と書いて、メルキゼデクの祭司職を力説しているのは、異邦人の共同体のために、また、ユダヤ人の共同体のためにも、イエス・キリストという、律法の枠を超えた完全な祭司を渇望していたからに違いない。

創世記で、アブラハムとメルキゼデクのやりとりの場面が終わると、「これらのことの後で・・」(創15:1)との出だしで、アブラハムが、神の命じたように、三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とを神のもとに持って来た場面が語られる(15:9参照)。この場面は、ヨハネ福音書のイエスの十字架のそばに来た人々を想起させる(ヨハ19:25~26参照)。三歳の雌牛はクロパの妻マリアに、三歳の雌山羊はマグダラのマリアに、三歳の雄羊は愛する弟子に、また、山鳩と、鳩の雛はイエスの母に対応している。イエスの母は、夫ヨセフと共に、イエスが聖別される日に「主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げる」(ルカ2:24)ために、エルサレムにイエスを連れて行ったからである。これらの場面の相似性も、イエスが、アブラハムの位置に置かれていたことを物語っている。

ヤコブの井戸の場面でイエスは、サマリアの婦人に、「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ」(ヨハ4:22)と続けた。イエスは旧い契約の祭司職とつながっている。そこには、人を創造した神の計画と、預言があるからだ。イエスの母が、祭司ザカリアとその妻でアロン家の娘エリザベトの親類である必要もそこにあった(ルカ1:5参照)。

なぜ、司祭職を人に与えなければならなかったか、その理由をイエスは、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:23~24)と言っている。父である神は、真理を望む人が聖霊と協働して神を礼拝する姿を求めているのである。これこそがミサを執り行う新しい契約の司祭の姿である。「今がその時である」とは、そのように礼拝されるイエスがここに“ある”ことを示している。

このように見ていくと、ヘブライ人への手紙には、今は御父の右に座しておられる神の子イエス・キリストを、なんとかして教会共同体の永遠の祭司として位置付けようとする試みがあったことが読み取れる。ここで、メルキゼデクの祭司職が力説されている根底には、当時の教会共同体のために、また、福音を受け取るすべての人が納得できる「祭司制度」(ヘブ7:11~12参照)を著者が求めていたことがあったのではないかと考えられる。しかし、それだけではない。この手紙には、別の流れがあって、信仰をテーマに際立った考察を広げている。次回は、そこに焦点を当てる。

Maria K. M.


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