イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/07/14



204. 黙示録とヘブライ人への手紙


黙示録の後半には、その冒頭に、司祭職が十二の星の冠をかぶった女のかたちで、象徴的に現れる(黙12:1~2参照)。ヘブライ人への手紙は、創世記14章を引用しながら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(ヘブ5:6他)というテーマを展開している。前回考察したように、戦いに勝利したアブラハムに、パンとぶどう酒を持って来た「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」の存在は(創14:1~18参照)、イエスの最後の過ぎ越しの食事のとき、パンとぶどう酒を準備した使徒たちに示した、新しい契約の司祭職を象徴している。このときイエスは、創世記の場面におけるアブラハムの位置にあったのだ。イエスはこれを、聖体の制定と同時に使徒たちに授けることによって、永遠の司祭職を設定した。

イエスがヤコブの井戸のところでサマリアの婦人に、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハ4:21)と語ったように、この司祭職は、旧い契約の祭司職とは全く異なる発想であった。ヘブライ人への手紙の中で著者が、「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(ヘブ7:3)と書いて、メルキゼデクの祭司職を力説しているのは、異邦人の共同体のために、また、ユダヤ人の共同体のためにも、イエス・キリストという、律法の枠を超えた完全な祭司を渇望していたからに違いない。

創世記で、アブラハムとメルキゼデクのやりとりの場面が終わると、「これらのことの後で・・」(創15:1)との出だしで、アブラハムが、神の命じたように、三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とを神のもとに持って来た場面が語られる(15:9参照)。この場面は、ヨハネ福音書のイエスの十字架のそばに来た人々を想起させる(ヨハ19:25~26参照)。三歳の雌牛はクロパの妻マリアに、三歳の雌山羊はマグダラのマリアに、三歳の雄羊は愛する弟子に、また、山鳩と、鳩の雛はイエスの母に対応している。イエスの母は、夫ヨセフと共に、イエスが聖別される日に「主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げる」(ルカ2:24)ために、エルサレムにイエスを連れて行ったからである。これらの場面の相似性も、イエスが、アブラハムの位置に置かれていたことを物語っている。

ヤコブの井戸の場面でイエスは、サマリアの婦人に、「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ」(ヨハ4:22)と続けた。イエスは旧い契約の祭司職とつながっている。そこには、人を創造した神の計画と、預言があるからだ。イエスの母が、祭司ザカリアとその妻でアロン家の娘エリザベトの親類である必要もそこにあった(ルカ1:5参照)。

なぜ、司祭職を人に与えなければならなかったか、その理由をイエスは、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:23~24)と言っている。父である神は、真理を望む人が聖霊と協働して神を礼拝する姿を求めているのである。これこそがミサを執り行う新しい契約の司祭の姿である。「今がその時である」とは、そのように礼拝されるイエスがここに“ある”ことを示している。

このように見ていくと、ヘブライ人への手紙には、今は御父の右に座しておられる神の子イエス・キリストを、なんとかして教会共同体の永遠の祭司として位置付けようとする試みがあったことが読み取れる。ここで、メルキゼデクの祭司職が力説されている根底には、当時の教会共同体のために、また、福音を受け取るすべての人が納得できる「祭司制度」(ヘブ7:11~12参照)を著者が求めていたことがあったのではないかと考えられる。しかし、それだけではない。この手紙には、別の流れがあって、信仰をテーマに際立った考察を広げている。次回は、そこに焦点を当てる。

Maria K. M.


 2025/07/07

203. 天にある神の神殿の中に契約の箱が見えた


「第七の天使がラッパを吹いた」(黙11:15)。黙示録の11章の終わりには、新約聖書のすべての書が出そろった。信者に対して具体的な指示を書いている使徒言行録とパウロの書簡に、四つの福音書と共に活躍の場が与えられる。黙示録の後半が来るのだ。「すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。『この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される』」(同)とある。主が統治するということは、イエスが完全に神であっても、この世の人として生きたためにできなかったことをする時が来たということだ。それは、死者を裁くこと、神の僕、預言者、聖なる者、御名を畏れるすべての者に報いを与えること、地を滅ぼす者どもを滅ぼすことである(11:18参照)。それらはまず預言の書である黙示録の世界で起きる(1:3,22:19参照)。

「そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った」(黙11:19)とある。「天にある神の神殿」は、ヨハネ福音書に「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(ヨハ2:21)と書かれたように、キリストの体である。その中にある「契約の箱」とは、何だろうか。

イエスは、マタイ福音書に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタ1:1)とあるように、またご自身も、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(ヨハ8:58)と言っているように、その出自は、アブラハムからつながるダビデの側、すなわちユダ族の側にある。

一方、マリアのもとを訪れた天使が語ったように(ルカ1:36参照)、マリアは祭司ザカリアとその妻でアロン家の娘エリザベトの親類であった(1:5参照)。イエスの母マリアはレビ族の血を引いていたのだ。実際に彼女は、身重のエリザベトを訪問し、3か月も滞在して手伝うような間柄であった。彼女の息子として生まれたイエスにも、その血が入っていたとみなされる。

まさに「契約の箱」は、イエスの体の内にあったレビ族の血、司祭職を示すのである。黙示録は、司祭職をイエスの母のイメージで、「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)と描写した。

ヘブライ人への手紙は、創世記14章を引用しながら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(ヘブ5:6他)という言葉をキーにして、イエスの祭司職が旧約の「レビの系統の祭司制度」(7:11)を超えていることを主張している。アブラハムがアブラムであったとき、彼は、甥のロトを連れ去った王たちを撃ち破って、ロトを救出して帰って来た。ソドムの王はアブラムを出迎えた。そのとき、いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来たと書いている(創14:1~18参照)。メルキゼデクはアブラムを祝福し、アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った(14:19~20参照)。

このエピソードは、「パンとぶどう酒」のイメージから、イエスの最後の過ぎ越しの食事のときの出来事と対比できる。そのときイエスに命じられ、食事の準備をしたのはペトロとヨハネであった(ルカ22:7参照)。そこで「パンとぶどう酒」を持って来たのも彼らだったと考えるのが自然だ。創世記で「パンとぶどう酒」を持って来たのは、「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」であり、福音書では、イエスが選んで使徒と名付けられた弟子たちであった(ルカ6:12~16参照)。イエスは、ご自身を「すべての物の十分の一を彼に贈った」アブラムの立場におき、「パンとぶどう酒」を準備した使徒たちに、御体と御血を与えた。イエスは、彼のすべてを使徒たちに贈ったのだ。

さらに、十字架上でイエスは、イエスの誕生と死を完全に共有する唯一の人である母と一人の使徒を、親子の絆で結ぶことによって、公に司祭職を使徒たちに授けた(ヨハ19:26~27参照)。イエスの母マリアは、聖霊と協働してご聖体を生み、その誕生と死を共有する司祭たちの体験の源である。イエスは使徒たちに、イエスの名によって御父に何でも願うことを求めた(16:23~24参照)。ゆえに司祭たちは、格別にパンとぶどう酒がキリストの御体と御血になることを願うのである。それは、イエスが水をぶどう酒に変えるしるしを行ったときの、イエスの母の姿勢が模範となる(2:1~12参照)。こうして使徒たちは、イエスの司祭職と解けない絆で結ばれた。

これらはすべて、黙示録の初めに次のように預言されている。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(黙1:4~6)。

Maria K. M.

(お知らせ)

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 2025/06/30


202. 一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう


黙示録11章に登場する二人の証人は、使徒言行録とパウロの書簡を表していた。これら二つの書が証言を終えると、「一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである」(黙11:7~8)とある。それは、「底なしの淵」すなわち過去の世界の知識を使って、これら二つの書を解釈し、彼らが伝える真実を改ざんしてしまい、主の十字架の教えさえも過去の知識で解釈するようになるという預言である。さらに、その結果、地上の人々は、金品や富を追い求め、権力や権威が売り買いされる未来を予告している。この「一匹の獣」は、黙示録13章で登場する「海の中から上がって来る」(13:1)獣と、「地中から上がって来る」(13:11) 獣が、歴史の中で絡み合っていくことで起こる現象を先取りしている。

「海の中から上がって来る」という言葉に、モーセの時代に紅海を渡ったイスラエルの民を思い出す。「この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した」(黙13:3)とある。「致命的な傷」とは、神がダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サムエル記下7:14)と告げたにもかかわらず、ソロモンが神から離れたために実現しなかったことである(列王記上11:1~10参照)。イスラエルの民は、神との間に父と子の関係を結ぶことで神と等しい者とされる機会を失った。そこで、彼らの歴史から一匹の獣が上がって来る。神と神の民の関係を婚姻にたとえる神学である。この錯覚によってその致命的な傷も癒え、民はこの神学に身を任せた。しかし傷は残った。そのために神を父と呼ぶイエスに、ユダヤ人たちが強い妬みを持って、ますます殺そうと狙うようになったのである(ヨハ5:17~18参照)。

パウロは、フィリピの信徒への手紙の中で、「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」(フィリ3:5~7)と書いている。続けて、「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(3:8~9)と言った言葉に、神と人の関係が父と子、神と子にあることを取り戻した者の姿がある(ヨハ1:12,ロマ8:14~17,ガラ4:6~7,黙21:7参照)。

一方、「地中から上がって来る」獣は、地上のことについて追及したギリシャ哲学である。「この獣は、小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた」(黙13:11)とある。この「二本の角」は、キリスト教に大きな影響を与えたプラトン(紀元前427~347)と、アリストテレス(紀元前384~322)の哲学だと思われる。パウロは、コロサイの信徒への手紙で、「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」(コロ2:8)と書いている。そして続けた次の言葉からは、キリストの体であるご聖体のイメージが読み取れる。「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です」(2:9~10)。

「何とかして死者の中からの復活に達したい」(フィリ3:11)と願っているパウロにとっては、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること」(3:14)以外にはなかった。「しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます」(3:15)と励ましてもいる。それでも彼は、今、自分が到達したところに基づいて皆が前進することを望み、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」(3:17)と強く勧める。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」(3:18)と言っているからである。どこに漂着するかもしれない自己実現を目指し、腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていないような信者は今もいる(3:19参照)。洗礼を受けたにもかかわらず、彼らも「獣の刻印」を押された者たちなのだ(黙13:16参照)。

しかし、パウロはそれらを恐れてはいなかった。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(フィリ3:21)という確信があったからだ。黙示録の後半冒頭には、次のように「万物を支配下に置くことさえできる力」が現わされている。「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)。ゆえにパウロは、次のように力強く励ましている。「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」(フィリ4:1)。

Maria K. M.

 2025/06/23


201. 黙示録7章と11

黙示録は、主の昇天までを記述する四つの福音書に加えて、使徒言行録とパウロの書簡が新約聖書に載ることを預言した。その理由を述べた7章と、これら二つの書が天に上げられるてんまつが描かれている11章を考察する。 

7章の初めに「この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた」(黙7:1)と書かれている。ここで2回出てくる「四隅」という言葉が、新約聖書では使徒言行録だけに同じく2回出てくる「四隅」を暗示している(使10:11,11:5参照)。それは、ペトロがヤッファの町で祈っているとき見た幻の中に出てくる。ペトロは、幻の意味を、聖霊が働きかけた異邦人との出会いから悟った(10:1~48参照)。彼がこの体験を、エルサレムの教会に帰って報告すると(11:1~17参照)、それを聞いた人びとは、「『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した」(11:18)とある。これを機にエルサレムの教会は異邦人への宣教にも向かっていくことになる。この方針転換が、「大地の四隅から吹く風」である。 

四人の天使が、大地の四隅から吹く風を吹き付けないようにしていたのは、回心した後タルソスへ行ったパウロを、バルナバが見つけ出してくるまで、異邦人への宣教を待つためであった(使11:19~26参照)。主がパウロの回心を助けたアナニアに、「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(9:15)と言ったように、また、パウロがローマへ船出する前にアグリッパ王に語り掛け、「こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました」(26:19~20)と証ししたように、パウロは、異邦人だけではなく、イスラエルの子らにもイエスの名を伝える使命を帯びていた。

 ここで黙示録を見ると、パウロの宣教は、イスラエルの子らの全部族の中から十四万四千人を選んで神の刻印を押すためであるとともに(黙7:2~4参照)、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」(7:9)が、「玉座の前と小羊の前」(同)に立つことができるようになるためであった。ここから、11章の初めに、筆者が、杖のような物差しを与えられ、「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ」(11:1)と命じられたのは、イスラエルの子らの全部族の中から、神の刻印を押す人々を選ぶためであったことが分かる。 

続けて、「しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう」(黙11:2)という預言があって、これはイエスのエルサレム崩壊の預言を示唆している(ルカ13:34~35参照)そこで、「わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう。この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である」(黙11:3~4)と続いている。「粗布をまとわせ」は、「自分の二人の証人」が書物や手紙であることを示唆し、「千二百六十日の間、預言させよう」とは、「四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじる」ことになるローマ帝国で、この預言が実現することを暗示している。時間を示すこれら二つの表現は、神の忍耐の時を表している。 

また、黙示録で「燭台」が、教会を指すことから(黙1:20参照)、「二本のオリーブの木、また二つの燭台」は、使徒パウロのローマの信徒への手紙に登場する「野生であるオリーブの木」と「栽培されているオリーブの木」でたとえられた二つの教会(ロマ11:24参照)、すなわちユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の教会共同体を暗示している。そして、これら二つの教会を支えるものとして、すでに使徒言行録とパウロの書簡が、「地上の主の御前に立つ」、すなわち、イエスの名によって地上に遣わされた聖霊に認められていることを証ししている。ゆえに、大きな効能を発揮するこれら二つの書に害を加える者は、神から敵とみなされる(黙11:5~6参照)。 

そして、「二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう」(黙11:7)とある。これら二つの書が世に出ると、「一匹の獣」が、「底なしの淵」、すなわち、過去の世界の知識を使って、これら二つの書を解釈し、彼らが伝える真実を改ざんしてしまう。続けて、「彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである」(11:8)と書かれたように、その「獣」は、主の十字架の教えさえも過去の知識で解釈する。パウロが書いたものが、「難しく理解しにくい箇所があって」(二ペト3:16)、「地上の人々を苦しめたからである」(黙11:10)。

 しかし、これら二つの書から真実を悟って救われ、天上にいる人々が(黙7:9~17参照)、「三日半の間」(11:9)この成り行きを見守り、二つの書の真実を伝える力が墓に葬られないよう祈り支えている。一方、地上の人々は、「獣」が行った改ざんを大いに喜ぶ。「贈り物をやり取りするであろう」(11:10)とあるように、その解釈によって、金品や富が行きかい、権力や権威が売り買いされる未来が予告されている。そこで、「三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた」(11:11)とある。「三日半」とは、ここでも神の忍耐の時である。 

「二人は、天から大きな声があって、『ここに上って来い』と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た」(黙11:12)とは、やがて、これらの書が四つの福音書と関連付けられて、すべての人々に正当に解釈される日が来ることを預言している。黙示録の前半の訓練が新約聖書の暗黙知を、その人の記憶に創り始めるからだ。

 Maria K. M.


 2025/06/16


200. 新約聖書の成立を順に預言したヨハネの黙示録の証し(黙示録)

黙示録を構成する7つの預言の内、第3の預言は「新約聖書成立の預言」である(4~11章)。そこに出てくる7つの封印は、新約聖書を表していた。最後の第7の封印は黙示録である。これが開かれたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれ、7つのラッパが与えられた7人の天使と、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つ天使が登場する。金の香炉を持った天使の手から、香の煙は、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。それから、天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上へ投げつけると、雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こったとある(黙8:1~5参照)。この描写は、イエスが十字架上で息を引き取った直後に起こった現象を想起させる(マタ27:51~52参照)。このような現象は、黙示録の中で6回起こるが、そのうちの3回は黙示録の中に黙示録が現れるときに起こっている(黙8:5, 11:19, 16:18)。黙示録には特別な使命がある。 

7人の天使がラッパを吹くときの描写は、新約聖書が世に現れることによって起こる数々の「災い」、すなわち新約聖書の効能を表している(黙8:6~9:21,11:15~19参照)。次々に吹かれるこれら7つのラッパも、小さな手掛かりから次のように新約聖書の順に並べられていることが分かる。第1のラッパから第4のラッパは、その直後に一羽の鷲が登場することから、四つの福音書と考えられる。第5のラッパは使徒言行録である。第5の天使がラッパを吹いたとき、天から星が落ちてきて、「この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと・・」(9:1~2)とある。この描写は、使徒言行録で、使徒たちが牢に入れられたとき、牢にはしっかり鍵がかかっていたのに、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出したこととつながる(使5:19~23参照)。黙示録で「星」は天使を表しているからである(黙1:20参照)。第6のラッパは、偶像礼拝がテーマとなっており(9:20参照)、このテーマに多くを割いているパウロの書簡である。ゆえに、最後の第7のラッパは黙示録である。 

黙示録は「7つの雷」のたとえで公同書簡にも言及する(黙10:1~4参照)。ここに新約聖書の全貌が預言されたと言える。その後、筆者は天使の手から小さな巻物を取って食べた(10:5~10参照)。それは、旧約聖書に比べて小さい新約聖書である。「取って食べた」とは、コインの裏表のように新約聖書とつながっている黙示録の訓練を自発的にすることで、自分の記憶に新約聖書の暗黙知を持ったということである。「それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった」(10:10)とある。「口には蜜のように甘かった」とは、黙示録の訓練が容易に始められるということだ。それがたとえ毎日一句ずつでも、黙示録を自分で声に出して朗読し、それを聞くことを続けることは、けして難しいことではない(1:3参照)。しかし、「食べると、わたしの腹は苦くなった」とあるように、さまざまな考えを思いめぐらす腹にとって、新約聖書の暗黙知を持つことは、苦い薬となることも多い。それは、実際に食べ続けてみれば分かる。 

「新約聖書成立の預言」である第3の預言の初めに、四つの生き物に象徴される四福音書が天の玉座の周りにいた(黙4:6~8参照)。それは、四福音書が新約聖書に加えられることは比較的早く決まっていたことを意味している。聖霊の降臨前までを記述する四つの福音書に加えて、新たに使徒言行録とパウロの書簡が、活用されるために天に上げられる必要があった。第7の封印が開かれて黙示録が登場する前、7章に挿入された出来事は、これら二つが天に上げられる理由を述べている。また、そのてんまつが第7の天使がラッパを吹く直前の11章に描かれている。次回は、これらを検証したうえで、第7の天使がラッパを吹いた後の黙示録の効能を考察した後、黙示録の後半に向かう準備に入る。黙示録の後半は、ミサ典礼の完成と聖霊の霊性に向かう預言となっており、信者が実生活の中でそこに向かうにあたって、起こり得る多くの困難を乗り切っていくための新約聖書の暗黙知を創る。 

Maria K. M.

(お知らせ)

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 2025/06/09


199. 黙示録と新約聖書 その2


黙示録は、7つの預言で構成されているが、大きく二つの部分に分かれている。前半(第一から第三の預言、1~11章)は、新約聖書に向かう預言であり、後半(第四から第七の預言、12~22章)は、ミサ典礼の完成と聖霊の霊性に向かう預言となっている。前回と前々回考察したように、第三の預言において第1から第6の封印が次々に開かれる黙示録の6章は、現在の順と同じく成立した新約聖書の6つの書とつながっていた。このことから、第三の預言が確かに新約聖書の預言となっていることを確認した。最後に黙示録である第7の封印が開かれると、その特異性が明らかになる。そこで黙示録に入る前に、その性質をよく理解できるように、第一の預言から、これまでつかんだ各預言の特徴を振り返っておきたい。

第一の預言(1章) 教会と共にいるイエス・キリストの預言

「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(1:3) とあるように、 新約聖書の他の書とつながっている黙示録は、自分の声という直観的な感覚を使って人の五感から入り、新約聖書の暗黙知を創る。イエスの名によって救われ、イエスが神の子であることを信じるということは、それを認知するということである。認知は、受け取った情報が、持っている記憶と合致したとき起こる。そこで、イエスに対する信仰を成長させるためには、新約聖書の言葉を受け取ったとき、それと合致する記憶を持っていることが必要で、黙示録がこれを創る。黙示録が直観的に捉えにくく、理解できないような言葉で書かれているのは、新約聖書とつながりながらもそれを意識させずに、暗黙知としてその記憶を創るためである。やがて信者は、複雑な手順を意識することなく、御言葉を直観的に認知するようになる。そして、その暗黙知は、黙示録の言葉を日々五感から取り込む信者の記憶の内で自己組織化し、成長する。 

第二の預言(2~3章) 教会共同体が抱えた問題とその解決の預言

この預言では、7つの教会の天使に宛てた手紙が紹介される。これら7人の天使は、ヨハネ福音書の復活したイエスと出会った7人の使徒たちであり、彼らは皆漁師であった。それは、彼らが、職業がら直観的であったことが重要だったからだ。直感的な彼らの認知力は、漁をするという複雑な手順を、体験から五感をとおして受け取り、暗黙知にしてきた結果である。ルカ福音書で、イエスがペトロに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)と言った場面のやり取りは、このことを証ししている。先にイエスを見て、肉声でその教えを聞き(5:3参照)、その後にこのように声をかけられた彼らは、漁師として磨かれた直観を土台に、イエスの言葉を認知した。こうしてイエスを信じて従っていった後、イエスと共にいて体験した多くのことが彼らの新しい暗黙知になっていったのだ(ヨハ21:25参照)。やがて彼らは、聖霊の声掛けを聴き、その声を直観的に認知するようになっていく。それは、彼らに新約聖書の必要性を強く感じさせたに違いない。黙示録の7つの手紙の内容は、未来から近未来、現在という形で時系列になっており、第三の預言である新約聖書の成立という解決に向かっていた。そして、すべての手紙の結びにある「勝利を得る者」と「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」という言葉は、これらの手紙が、全信者に向けられていることを示している。 

第三の預言(4~11章) 新約聖書の成立の預言(黙示録の前まで)

「開かれた門が天にあった」(黙4:1)と書かれた門は、イエスが天から降ってきて、再び天に上り、聖霊が降臨したために開かれたままになっている門である(ヨハ3:13参照)。イエスは、世に命を与える神のパンとなるために天から降って来て(6:33参照)、聖霊を送るために去っていった(16:7参照)。「すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた」(黙4:2)とある、「その玉座の上に座っている方」は御父と御子である(3:21参照)。「玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった」(4:6)とある目は、神の知識の象徴であり、「前にも後ろにも一面に目があった」のは、四つの福音書の神の知識が一体をなしてすべての出来事に対処するためである。それは、七つの角(完全な権威)と七つの目(完全な知識)を持つ「屠られたような小羊」(5:6)と連動して働くためである。「屠られたような」という表現から、この小羊がイエスの名によって遣わされた聖霊を表わしていることが分かる。 

Maria K. M.


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