イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/01/20


179. 預言された者 その4

アッシジの聖フランシスコは、「イエスの召命」を持っていたのに、助祭職を引き受けた。そして、聖痕を受けた。それは、彼がキリスト者の男性だったからだ。このことについて、復活したイエスがマグダラのマリアに、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(ヨハ20:17)と命じた言葉から考察する。

 「わたしの兄弟たちのところ」とは、シモン・ペトロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」(20:2)と書かれたヨハネのいた家、すなわちマグダラのマリアが墓から石が取りのけてあるのを見て、知らせに走って行った家である。それは、その前の木曜日に「過越の小羊を屠るべき除酵祭」(ルカ22:7)の準備のために、イエスがペトロとヨハネとを使いに出した先の家である。その時イエスは二人に、「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい」(22:10~12)と言った。ペトロとヨハネは、このイエスの言葉どおりに体験した。イエスが「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋」がある家、その家に彼らは泊っていたのである。 

水がめを運んでいる男に出会い、その人が入る家までついて行き、家の主人に何かを願うという場面を、聖霊の降臨した後、彼らは日常的に経験することになる。水がめを運んでいる男は聖霊であり、その人が入る家とは、イエスが「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋」がある家、それは、ミサ典礼が行われる場である。家の主人は御父である。御父に司祭が願うことは、この世で彼らが求める最高のもの、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」という願いである。ペトロとヨハネが過ぎ越しの食事を準備したその家で、イエスはご聖体を制定した。聖霊と御父も同席していた。イエスと共に食卓を囲んだ使徒たちはその目撃者、証人であり、その業を継ぐ者であった。彼らによって、ともに食卓を囲むすべての信者の未来がそこにあった。神が我々と共に食卓を囲んでおられるのだ。 

そこで、復活したイエスが、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」という、ご自身と使徒たちの関係に距離を取るような言い方をわざわざしたのは、彼らの目を御父に向けさせるためであった。神は、イエスを世に遣わすまで、歴史の中で、いくつもの旧い契約を通してご自身が選んだ民を導き、共に歩んできた。イエスが弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタ16:15)と問うた時、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えたシモン・ペトロに、イエスは、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)と言った。御父の熱情は、この時すでに新しい民「キリスト者」の男性の上に注がれていたのだ。 

サン・ダミアーノの十字架像は、視覚に訴えることで、ヨハネ福音書の同じ場面の意味を悟らせる。イエスの左に描かれた二人の女性、「イエスの召命」を持つマグダラのマリアと「ヨセフの召命」を持つクロパの妻マリアの背後には、暗に、それらの召命を持つ男性たちがいる。しかし、その姿は描かれていない。それは、彼らがキリスト者の男性であり、条件が整えば、教会の必要に応えて、すぐにも「マリアの召命」を受け取ること、すなわち司祭職を受け取る準備があるはずだからだ。 

聖フランシスコは、「イエスの召命」を持っていたにもかかわらず、教会の必要に応えて助祭職を受けた。フランシスコが聖痕を受けたのは、このような彼に御父が報いたのであった。 

つづく

Maria K. M.


 2025/01/13


178. 預言された者 その3

聖フランシスコの小品集に残された彼の記憶、そして彼についての伝記は、そこに現わされた真理によって、私たちが信仰において前進するよう強く促している。フランシスコは、サン・ダミアーノの十字架像で、眼を見開いて十字架上のイエスを凝視している男として預言されていた(本ブログ№174参照) 。彼が聖痕を受け、「わたしが、あの方を引き取ります」と言ったマグダラのマリアの言葉を身をもって実現したことと、助祭職を受けていたことは、教会の召命を知る重大な手がかりになった。 

「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハ20:17)とイエスがマグダラのマリアに言ったのは、彼女が女性だったからである。ヨハネ福音記者がこの場面を挿入したのは適切だった。イエス・キリストの教えは男女の弟子たちが対等に受け取り、「イエスの召命」を生きることができるものであったので、女性も男性と同様に司祭職を受けることになるという錯覚が生じる可能性があったからだ。 

イエスの十字架のそばに立ち、イエスがご自分の母と愛された弟子を親子の絆で結んだのに立ち会ったマグダラのマリアは、十字架上のイエスの言葉によって男性である使徒が、司祭職と分かたれない絆で結ばれたことの証人となった。また、イエスの復活の場面では、復活したイエスに、イエスの遺体を引き取ると宣言して、彼女に「イエスの召命」があることを証しした。ここでイエスが、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言った言葉は、彼女に続いて「イエスの召命」に呼ばれることになる女性たちが、司祭職への錯覚を抱くことがないように、イエスにすがりつく手を放し、まだ父のもとへ上っていないキリストの体への執着を捨て、聖霊に向かって一歩を踏み出すように諭すためであった。 

イエスは、続けて「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(ヨハ20:17)とマグダラのマリアに命じている。彼女は迷うことなく「弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」(20:18)。それは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた弟子たちに、イエスが訪れる心の準備をさせた。 

その日の夕方、家の戸に鍵をかけていたのに、イエスが来て真ん中に立った。そして、「あなたがたに平和があるように」と二度も言ったのは、彼らを宣教に遣わす前に罪を許す権能を与えるためであった。マタイ福音書に、「ペトロは、『たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った」(マタイ26:35)と書かれている。使徒たちは、ペトロを筆頭にイエスを決して見捨てないとの証しを立てていたのだ。しかし、イエスの受難を目の当たりにした弟子たちは皆逃げ去り、ペトロは、イエスを「知らない」と言って三度否んだ。彼らがそれぞれに、まず自分自身を赦さないなら、彼らはイエスを証しすることができない。宣教することができないのだ。これがヨハネ福音書の主の復活の場面に描かれた7つのエピソードの3つ目のエピソードである。 

4つ目のエピソードは、復活したイエスが現れたことを信じなかった使徒トマスに、イエスが現れて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハ20:27)と言った場面だ。この言葉は、マグダラのマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と諭した言葉とは対照的である。彼が司祭職と結ばれた使徒の一人だったからである。 

続けてイエスがトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)と言ったように、キリストの体になるために特別に取り分けられたパンとぶどう酒に触れることになる司祭は、「見ないのに信じる人」の幸いを持っているのである。ヨハネ福音記者は、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20:31)と解説している。ご聖体を挙げる司祭自身と、彼と共に祭壇を囲む信徒たちが、ご聖体を「神の子メシアである」と信じて告白し、イエスの名により命を受けることになると言っているのである。 

つづく 

Maria K. M.


 2025/01/06


177. 預言された者 その2

ヨハネ福音書の主の復活の場面には、7つのエピソードが描かれている。前々回、175で初めの2つのエピソードを考察し、「わたしが、あの方を引き取ります」と言ったマグダラのマリアの言葉を、1000年以上たって、聖痕を受けた聖フランシスコが、身をもって実現したという結論を得た。フランシスコを捉えたサン・ダミアーノの十字架像には、フランシスコの登場が預言されていた(本ブログ№174参照)。彼は、難解とされていたヨハネ福音書と黙示録の真理を身に着けた者として、その時代に現れるべく呼ばれたのだ。聖霊は、フランシスコが生きている間も、また彼の死後も、彼の書き物や伝記から浮かび上がってくる真理によって当時の教会を鼓舞した。それは今も続いている。このような理解に立って、ヨハネ福音書の復活の場面を続けて考察していく。 

マグダラのマリアは、イエスの十字架のそばに立ち、彼の最期に立ち会い、その血と水を受けて、新しい契約の証人、また、誕生した教会の最初の四人の一人となった。彼女の召命については、これまで何度も考察してきた。そして、彼女が、復活したイエスに初めに出会い、それがイエスとは気付かず、図らずもイエスに向かって、イエスのご遺体を「引き取る」と宣言したことは、彼女の召命を証ししていると確信した。しかし、この場面でイエスが「マリア」と声をかけ、振り向いた彼女に、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハ20:17)と言った言葉の意味が見えてこなかった。それがここにきて、サン・ダミアーノの十字架像と、聖痕を受けたフランシスコの召命についての考察によって明らかになってきた。 

イエスの声に振り向いたマグダラのマリアが思わず「先生」と言ったように、また、イエスご自身も「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである」(ヨハ13:13)と断言したように、イエスはその人生を救い主として生きたのではなく、ましてや司祭として生きたのでもなかった。だから当時の人々は、イエスを預言者だと思っていたのだ。このイエスに多くの弟子たちが従っていた。その中には婦人たちもいたのである。 

彼女たちは、自分の持ち物を出し合ってイエスの一行に奉仕していた(ルカ8:1~3参照)。これらの女性たちは、復活したイエスから「イエスの召命」を受けたマグダラのマリアを筆頭に、イエスの前でイエスが誰であるかを告白したマルタ(ヨハ11:17~27参照)や、イエスとの問答から命の水と新しい礼拝のテーマを引き出したサマリアの女(ヨハ4:1~30参照)のように、イエスに導かれながら彼から具体的に対話を引き出し、自発的に神の言葉を求め、その実りを自身の言動に結び付けていく女性たちだった。こうして男女の弟子たちが対等に「イエスの召命」を継承することができるようになっていた。一方で、当時の人々が、イエスを預言者だと思っていた間も、イエスは、私たちと共にいる神の子であり、救い主であり、彼の短い人生の終わりにその姿を現す司祭であった。イエスのこれらの隠れた特徴は、「マリアの召命」によって明らかになる。 

ヨハネ福音書と黙示録の真理を身に着けたフランシスコは、サン・ダミアーノの十字架像に描かれたヨハネ福音書の描写が実現するために、「イエスの召命」を身をもって表現することで、十字架のそばに生まれた教会の召命をあらわにすることになった。ゆえに彼は、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言ったイエスの言葉の意味を悟っていたに違いない。「イエスの召命」に呼ばれたにもかかわらず、彼は教会の勧めに従って助祭職を受けたからだ。教会への愛のためにキリスト者の男性としての使命を受け入れたのだ。この言葉には、キリストの体となるために特別に取り分けられたパンとぶどう酒は、ご聖体として司祭の手によって上げられるまで、触れてはならないという戒めが込められていた。マグダラのマリアが女性だったからである。 

つづく 

Maria K. M.


 2024/12/30


176. 手紙

私は、聖ヨハネ使徒福音記者の祝日に、このブログを読んでくださる一人の友人に手紙を書いて出した。読み返すと、少し長いがブログにも投稿しようと思うものがあった。初めと終わりの挨拶を除くと、次のとおりである。また、挿絵は彼女の作である。 

わたしのブログは、聖フランシスコから大きな助けをいただくようになりました。もともとわたしは、聖フランシスコに興味がなく、サン・ダミアーノの十字架像も注意して見たこともなかったものですから、まさか、そこに描かれた図柄が、ヨハネ福音書と黙示録に関わっているとは夢にも思っていませんでした。神のみ手に運ばれていろいろと出会いがあってここへ導かれました。大きなお恵みをいただいたと感謝しています。このお恵みをなんとかして生かし、伝えようと決心しています。どうかお祈りください。 

神は、唯一、「わたしはある」(ヨハ8:58)と言える方で、ヨハネの手紙が次のように伝えているように、また、聖フランシスコも書いているように、「神は愛」です。この真理を夢中になって述べ伝える証人になりましょう。 

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(一ヨハ4:7~8)、「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(4:16)。 

「神の愛」に留まるために、わたしたち信者は、ご聖体が示す神の無情報に注目し、あらゆる情報から貧しくなって、「聖霊と協働する時」に集中できるように努力が必要です。「イエス」の名によって遣わされた聖霊とよく協働するためには、イエス・キリストの世界観を保持していることが必須です。それを注入する力が、ヨハネの黙示録を朗読し、聞く訓練にあります。黙示録の言葉を文字通り受け取り、実行する者は、神の洗いを受け入れる小さい者です。 

わたしは、聖フランシスコが黙示録の「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)という箇所を読んで、子供のように素直にこの言葉を実行したと思います。彼の書き物を読むと、彼が、ご聖体と「人間の情報」、すなわち善悪の知識に向かったことが分かるからです(本ブログ№169№170参照)。それは、無情報としてのみ人が捉えることのできる偉大な神の「わたしはある」を知って、神の自発性と神の知識によって創造された自分、すなわち情報の塊である自分自身を理解するためです。黙示録のこの箇所は、黙示録を朗読し、その声を聞いて、自分の記憶に入るままにさせる訓練を日々続けることで、「中に記されたことを守る人たち」になることができることを保証しています。忙しいとき、自分に難しさがあるとき、一日にたった一行しかできなかったとしても、また、何かの事情でもっとたくさんできるときも、その声は、流れる水のように自分の記憶に入り、神の洗いは続きます。 

神の洗いを受け入れる小さい者は、ご聖体の前でいつも神の無情報を見つけます。それは、その人がご聖体に集中すると、たとえ一瞬でも、自分の内と外の「人間の情報」から貧しくなるからです。そして、ご聖体を拝領するとき、日々神の洗いを受け入れる小さい者には、真に貧しい者となる瞬間が訪れます。そこで、わたしは、いつもお話ししているように、ご聖体を拝領する時、ご聖体がわたしたちに次の二つのことを尋ねていると思うのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16:15)と、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25~26)という問いです。 

わたしたちは、その答えを知っています。マリアとヨセフが天使によって、生まれる子がイエスと名付けられることを知っていたように、わたしたちは、新約聖書によってそれらの答えを知っています。マリアとヨセフが聖霊とマリアの協働によって授かった命は、完全な人として人間の肉を取った神でした。その名はイエスです。一方で、わたしたちが聖霊と司祭の協働によって授かる命は、パンとぶどう酒がキリストの肉となった神です。その名は「メシア、生ける神の子」(マタ16:16)です。イエスは、この名を現したのは「人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタ16:17)とはっきりと証ししました。 

そして、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」という問いは、イエスがベタニアでラザロを復活させる前に、マルタに問うたものです。それは、イエスが命のパンであることを証しした箇所で語ったすべてのことを信じるかという問いです(ヨハ6:22~59参照)。マルタの次の答えは、彼女がそれらすべてを理解できずとも、信じたことを証ししています。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(ヨハ11:27)。 

ずいぶん長くなってしまい、また終わりには、これまで何度も取り上げたテーマに行き着いていますが、あなたにも真剣に考えてもらいたいからです。世界中のカトリック信者は、ミサの中で司祭が奉挙するご聖体を前に、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と唱えて、ご聖体を拝領しに出ていきますが、それは信者にとって相応しいこととして満足できるのでしょうか。 

イエスがご自身から出向いてきても、その謙遜ゆえにけして自分の家に彼を迎え入れることがなかった百人隊長の信仰を、それでもイエスは、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(ルカ7:9)と言って褒めました。それは、彼に従ってくる群衆を前にしていたからです。しかし、最期の食事の前に、ペトロの足を洗おうとするイエスに対して「わたしの足など、決して洗わないでください」(ヨハ13:8)と言ったペトロの謙遜を、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」という言葉によって、イエスは、厳しく退けました。神の謙遜を前にして、人の謙遜は、むしろ神との関わりを断つことになります。実際に百人隊長の謙遜は、彼の僕や家族がイエスに出会う機会を奪うことになったのです。 

現代のわたしたちにとって、ご聖体が「神の子、キリスト」であることを告白すること、声に出して告白することが必要ではないでしょうか。信者の内奥には、ご聖体に向かって、「あなたは神の子、キリストです」と告白したいという望みがあるのです。どうか、考えてみてください。 

Maria K. M.






 2024/12/23


175. 預言された者 その1

前回考察したように、サン・ダミアーノの十字架像に聖フランシスコが預言されていたのであれば、その理由がヨハネ福音書の中に隠されているはずだ。そして、この十字架像のイエスがご聖体を表しているならば、それは復活したイエスを表しているのだから、ここに描かれた場面は、イエスの復活の場面に関わっている。その最初の場面は、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません』」(ヨハ20:1~2)である。 

マグダラのマリアと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」は、その二日前にイエスの母とクロパの妻とともに十字架のそばに立ち、イエスのわき腹から流れ出た血と水を浴びて、新しい契約の締結と教会誕生の証人となっていた(ヨハ19:25~35参照)。マグダラのマリアが知らせに走る場面で、ヨハネ福音記者が、まずシモン・ペトロの名を挙げたのは、その次の場面で、ペトロより速く走って、先に墓に着いた「もう一人の弟子」が、中に入らずペトロを待っていたのと同じ理由である。ヨハネ福音記者には、天の父とイエスから、ペトロが教会の頭として選ばれたという意識があったのだ(マタ16:17~19参照)。そして、その出来事とともに、このときからイエスが打ち明け始め、何度も語ったご自身の復活について、使徒たちが覚えていないわけはなかった。 

イエスが蘇らせたラザロのケースを思い出せば、墓にイエスの体を包んでいた亜麻布と頭を包んでいた覆いが残っているのは、さすがに奇妙だと感じただろう。また、地震や天使、白い長い衣や輝く衣を着た人の出現を書いた他の福音書と異なり、ただ空になった墓を見ただけでは、「もう一人の弟子」も遺体が取り去られたと考えるよりなかった。「墓から取り去られました」と言ったマグダラのマリアの言葉を信じたのだ。しかし彼は、ペトロに意見を尋ねることはできなかった。木曜の夜、捕らえられたイエスを三回否んだペトロの体験を鑑みれば、それは当然の思いである。サン・ダミアーノの十字架像の下方、イエスの左膝下の横に描かれた雄鶏は、「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハ13:37)と言ったペトロを、イエスがみ言葉によって守ったしるしである(13:38参照)。 

ただ、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」(20:9)ということは確かであった。それはイエスが、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)と言っていたからだ。ペトロと「もう一人の弟子」は、イエスの遺体が取り去られたことについて他の使徒たちと相談するために「家に帰って行った」(ヨハ20:10)。彼らは墓に番兵を置いた祭司長たちを恐れていたのである(マタ27:62~6628:11~15参照)。 

一方、マグダラのマリアは一人残り、墓の外で泣いていた。そこに復活したイエスが現れた。このとき、園丁だと思った彼女には、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」(ヨハ20:15)と言うだけの気力と熱い望みがあった。「わたしが、あの方を引き取ります」という望みは、彼女固有の召命を表していた。そして、彼女が引き取ると言ったイエスの遺体には、4つの釘の跡と、わき腹の傷があったのである。 

サン・ダミアーノの十字架像の左端に小さく首から上だけ描かれた男、預言された者、第三のヨハネであるフランシスコは、眼を見開いて十字架上のイエスを凝視している。後に聖痕を受けたフランシスコは、「わたしが、あの方を引き取ります」と言ったマグダラのマリアの言葉を、身をもって実現した。フランシスコは、マグダラのマリアと同じ召命に呼ばれていた。 

つづく 

Maria K. M.


 2024/12/16


174. 三人のヨハネ

サン・ダミアーノの十字架像には、特徴的な三人の男が描かれている。上部に描かれた封印のついた巻物を持つ黙示録の著者ヨハネ、中央の十字架像の右側にイエスの母とともに描かれた使徒ヨハネ、そして、十字架像の左端、百人隊長の後ろに小さく首から上だけ描かれている男である。これら三名の男たちは、他の人物にはない特徴ある額のかたちで描かれている。 

封印のついた巻物を持つ黙示録の著者ヨハネの描写は、黙示録に注意を向けさせるためであった(本ブログ№161参照)。イエスの母とともに描かれた使徒ヨハネの描写には、司祭職と司祭が描かれている(本ブログ№166参照)。それでは、百人隊長の後ろにいる第三の男は誰で、彼のテーマは何であろうか。 

まず、そこに描かれている百人隊長は、キリスト教を受け入れたローマ帝国を表している。ローマ帝国に根付いたキリスト教は、西ローマ帝国の滅亡からローマを守った。800年後、キリスト者となることが当たり前の場所と時代にフランシスコは生まれた。当時、ギリシア哲学、特にアリストテレスの教えがカトリック教会に影響を与えつつあった。 

一方、フランシスコ自身は、学問的な影響をあまり受けることなく、教会の教えに対する素直な信仰と簡素な生活を重視していた。サン・ダミアーノの十字架像から、ヨハネ福音書と黙示録を授かったフランシスコを、聖霊が導いて真理をことごとく悟らせようとしていたからだ。サン・ダミアーノの十字架像は、フランシスコが誕生し、やがてそれを見に来ることを預言して彼を待っていた。第三の男は、彼もまたヨハネの名を持つ、本名ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ、すなわち聖フランシスコである。この男の後ろには、彼に従う人々の頭部らしきものが描かれている。 

サン・ダミアーノの十字架像に描かれたヨハネ福音書の描写は、神の国の到来を告げたイエスの血による新しい契約の締結とともに誕生したイエスの教会が、その使命を達成した場面に見える。入信することでキリストの救いの業を継承する信者は、完成したミサ典礼の中で、ご聖体を囲んで、司祭と、会衆という立場を取り、さらに、神の独り子を授かった聖家族、マリア、ヨセフ、イエスにあやかる3つの召命を持っている。 

フランシスコにとっての課題は、十字架像に描かれたヨハネ福音書の描写が実現するために、まず、「イエスの召命」を、身をもって表現することで、十字架のそばに生まれた教会の召命をあらわにすることにあった。しかし彼は、教会の勧めに従って助祭職を受け入れた。教会を愛していたからだ。教会の召命は聖家族に根ざしている。フランシスコの視点はおのずとご降誕の馬小屋に向かった。 

「飼い葉桶の上で荘厳なミサがあげられ、フランシスコは助祭として、聖福音を朗読した。それから、周囲に立っている人々に向かって、貧しい王の誕生に関して説教を行ったが、その方の名を呼ぶときには、やさしい愛をこめて、ベトレヘムのみ子、と呼ぶのであった」(『ボナヴェントゥラによるアッシジの聖フランシスコ大伝記』)。 

つづく 

Maria K. M.


 2024/12/09


173. 小さな巻物

サン・ダミアーノの十字架像の前で、聖フランシスコは真理を受け取った。一つは、ヨハネ福音書から、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)というイエスの言葉を悟り、共観福音書をはじめとした新約聖書を、ヨハネ福音記者の視点で読むことであった(本ブログ№169参照)。もう一つは、黙示録を朗読し、それを聞くことで、イエス・キリストの世界観を暗黙知として彼の記憶に蓄積していくことだ。黙示録を読んだフランシスコは、そこに書かれたことを素直に実行したにちがいない(黙1:3参照)。それは、啓示を新約聖書から直接受け取ることを助ける。黙示録には、新約聖書が伝える啓示と預言の内容が織り込まれているからである(下図「ヨハネの黙示録の預言的構成」参照)。そこで彼は、いつも「命である」ご聖体に向かっており、司祭職を尊び、聖書に関して博識であった。そして、十字架像に描かれたご聖体のイエスと、その右と左に分かれて描かれた人々、すなわち教会の召命が、頭から離れなかったに違いない(本ブログ№166参照)。 

以下は、ヨハネ福音記者の視点で新約聖書を読むことの一例である。十字架上のイエスが息を引き取る直前の言葉を各福音書から拾い、時系列に並べると、そこに筋の通った物語が出現する。この物語は、三共観福音書に書かれたイエスの最期の食卓の聖体制定の場面を、それを書かなかったヨハネ福音書の十字架のそばで起こった事柄とつなげ、ご聖体と司祭職の行方、神の国の到来と新しい契約の締結、そして、イエスの教会の誕生を証しする。 

イエスは十字架上で最期を迎えた時、新しい契約のために御父がその当事者たちを引き寄せるのを待っていた。御父が引き寄せなければ誰もイエスのもとへ来ることはできないからだ。彼は嘆願の叫び声をあげた。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46、マコ15:34)。この叫びは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46) という祈りになった。 

遂に、十字架のそばに御父が引き寄せた人々が集まった。イエスの母、クロパの妻マリア、マグダラのマリア、そして使徒ヨハネである。ここでイエスは、神の子イエスと共に彼の司祭職も受け取った母マリア(本ブログ№167参照)と使徒を、親子の絆で結んだ。それは、前晩にイエスから「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じられた言葉を実現するために、使徒たちが司祭職解けない絆で結ばれた保証であった。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハ19:27)とあるとおり、使徒は司祭職を受け取ったのである。 

この事実は、黙示録に、「女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである。女は蛇から逃れ、そこで一年と二年と半年の間、養われることになっていた」(黙12:14)と書かれたことと合致する。「女」は司祭職である。「鷲」はヨハネ福音書を指している。「荒れ野」とは、イエスの母と解けない絆で結ばれた使徒たちの記憶だ。こうして、使徒たちの記憶に隠された司祭職は、「人間の情報」(「蛇」)から逃れ、相応しい時まで養われることになっていたのである。 

「この後、イエスはすべてのことが今や成し遂げられたのを知り」(ヨハ19:28)、「渇く」と言って酸いぶどう酒を受けた。それは、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)と言ったイエスが、「神の国」が到来したことを告げたのだ。そして、「成し遂げられた」(ヨハ19:30)と言い、「息を引き取られた」(マタ27:50、マコ15:37、ルカ23:46、ヨハ19:30)。その後、イエスのわき腹から流れ出た血と水は、御父が引き寄せた人々の上に降りかかり、「わたしの血による新しい契約」(ルカ22:20)が締結されたことを証しし、同時にイエスの「教会」を生み出した(ヨハ19:34~35参照)。 

このように、フランシスコがサン・ダミアーノの十字架像から受け取ったヨハネ福音書と黙示録の真理は、新約聖書の中で御言葉が生きていることを表している。彼は、黙示録の著者ヨハネがしたように(黙10:10参照)、十字架像の上端に描かれた小さい巻物を小羊の手から受け取って、食べてしまったのだ。 

つづく 

Maria K. M.




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