イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/01/26

232. ヨハネ福音書と新約の司祭職 ヨハネ福音記者の気付き 

ヤコブの井戸でのイエスとサマリアの女の対話が一区切りつくと、町に食べ物を買いに行っていた弟子たちが戻って来た。その後の進展を見ると、弟子たちは、彼らが不在の間に起こった出来事を知ることになったと思われる。彼らの体験をもとに、ヨハネ福音記者は自身の気付きを4章に織り込み、新約の司祭職を守り生かすための伏線を張ったとみられる。それを見えるようにするために、この場面のストーリーの展開と同じ特徴を持つ2つの場面を聖書の中から取り上げ、その共通点を比べ、それらがどのような目的に向かっているかを考察する。これら2つは、イエスとサマリアの女の場面と同じく対話形式を取っており、「飲食のテーマ」から入り、「命のテーマ」を通って、「礼拝のテーマ」に至る共通の特徴を持っている。 

初めにイエスとサマリアの女の対話の場面を復習する(ヨハ4:7~24参照)。イエスが「水を飲ませてください」(4:7)と語り掛け、「飲食のテーマ」から入った。次に、サマリアの女の問いに、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:13~14)という諭しを与えた。ここには「永遠の命に至る」という言葉から「命のテーマ」がある。最後にイエスは、「あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(4:20)という女の問いに、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(4:21)と答えられ、「礼拝のテーマ」に至っている。 

今回取り上げる2つの場面のうち最初の場面は、共感福音書の、イエスが荒れ野で悪魔(サタン)から誘惑を受けた場面である(マタ4:1~11参照)。断食の後に空腹を覚えていたイエスに、悪魔は、「石がパンになるように命じたらどうだ」(4:3)と語りかけ、「飲食のテーマ」から入った。イエスが答えると、次に悪魔は、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」(4:6)と問いかける。ここには、「命のテーマ」がある。最後に悪魔はイエスに、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(4:9)と言って、「礼拝のテーマ」に至っている。 

2つ目の場面は、創世記で、初めの女と「蛇」の対話である(創3:1~9参照)。「蛇」が女に、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」(3:1)と語りかけ、「飲食のテーマ」から入った。続く女とのやり取りから、「蛇」は「決して死ぬことはない」(3:4)と主張する。「命のテーマ」である。こうして女は、神が食べることを禁じた木から取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。やがて、二人は、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れた。彼らはこれまでのようには、神と出会うことができなくなっていた。「礼拝のテーマ」に至ったのである。 

このように、これら3つの場面は、「飲食のテーマ」から入り、「命のテーマ」を通って、「礼拝のテーマ」に至る共通の特徴を持っている。そして、創世記の場面は、前回考察したように、神がアダムに司祭職を示唆する場面につながっていく。また、マタイ福音書の荒れ野の場面は、すぐに初めの弟子たちをイエスが召し出す場面に続く。やがて彼らに新約の司祭職を授けることになる。 

イエスとサマリアの女のやり取りが終わると、弟子たちが戻ってきてイエスと弟子たちとの間の対話が始まる。ここにはどのような構造があるだろうか。弟子たちがイエスに、「『ラビ、食事をどうぞ』と勧めると、イエスは、『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』と言われた」(ヨハ4:31~32)とある。ここでも「飲食のテーマ」から入っている。そして、互いに、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」(4:33)と言い合う弟子たちに、イエスは、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(4:34)と告げた。

 「わたしをお遣わしになった方の御心」とは、イエスが後に、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハ6:40)と言われたとおりである。イエスが言われた「わたしの食べ物」には「命のテーマ」があったのだ。それは、サマリアの女に、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と答えられた「礼拝のテーマ」と直接つながる。 

なぜなら、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」と言われた「父の御心」は、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:23~24)と言われたイエスの言葉が現実になった時、はじめて可能になるからだ。「霊と真理をもって」とは、聖霊と新約の司祭職が結ばれることを意味している。次回もこのテーマを続けて、ヨハネ福音記者の気付きに迫っていきたい。 

Maria K. M.


 2026/01/19

231. ヨハネ福音書と新約の司祭職 まことの礼拝

ヨハネ福音書4章のイエスとサマリアの女の対話の主題を続ける。前回は、「水を飲ませてください」(ヨハ4:7)というイエスの言葉から、新約の司祭職についての重要な事柄を考察した。今回は、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(4:21)に続くイエスの言葉から、新約の司祭職についての別の展望を見つけたいと思う。 

イエスは、サマリアの女の、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(ヨハ4:9)という問いに、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(4:10)と答えた。サマリアの女は、「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか」(4:11)と、さらに問うた。この言葉は彼女の内奥から出たのだ。続けて父祖ヤコブを引き合いに出した彼女の憂いも井戸のように深かった(4:12参照)。 

そこでイエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハ4:13~14)と言われた。それを聞いて彼女は夢中で言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(4:15)。彼女が、「また、ここにくみに来なくてもいいように」と付け加えたのは、無意識に、もう父祖ヤコブの歴史を持ち出す必要がないようにという思いが込められていた。彼女は自分の真実の思いを、自分が何を求めているのかを知る必要があった。しかしそれには、彼女が日ごろから自分にはどうしようもないとして放置していた問題に、正面から向き合わねばならない。次のイエスとの対話で彼女は、そのことを自覚し、同時に自分の真の望みに目覚めた。 

イエスは、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(ヨハ4:16)と言われた。女は答えて、「わたしには夫はいません」(4:17)と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」(4:17~18)。この時、「夫」の問題とつながって、彼女の内奥にあった神への彼女の信仰が生かされていないという現実への切実な思いが引き出された。それは、当時、アブラハムにつながるすべての人々が抱えていた問題であった。男性にも女性にも問われるこの問題から目をそらせば、神と関わりのない多様で新たな問題が、そこに次々と生じるのである。 

彼女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(ヨハ4:19~20)。イエスはそれに応え、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(4:21)と言われて、イエスが御父のもとから担ってきた「まことの礼拝」についての教えをお与えになった。それこそがイエスが与える「生きた水」である。 

続けてイエスは、「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:22~24)と言われた。この御言葉は、創世記で神がアダムに、「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:19)と言われた御言葉が、新約の司祭職を示唆していたことを、明らかに示している。 

「お前は顔に汗を流してパンを得る」、そのパンは、イエスが「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハ6:35)と言われる「命のパン」である。「土に返るときまで。お前がそこから取られた土に」とあるように、他の生き物と同じく「土」で形づくられた人の「肉体」は土に戻る(創2:19参照)。しかし、「塵にすぎないお前は塵に返る」とあるように、神は、土の「塵」で人の「霊」を形づくられた。ゆえに神がその鼻に吹き入れられた「命の息」は、神に似た人として生きる霊の自発性である(2:7参照)。それは「神は霊である」ということからすれば、塵に過ぎないほどのものであっても、人は神に似た姿を持っているのである。「塵に返る」とは、人の霊の自発性が神のもとに「返る」ことを指している。人が「まことの礼拝」を求めるのはこのためである。 

神が、新約の司祭職を男性に授け、女性が授かった胎から生まれる霊と肉体をもった人に仕えることは、神の悲願となっていた。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」ためである。イエスは、この御言葉を実現するために、聖霊と直につながって生きる未来の信者の必要を満たし、神が男と女に造られた人々が、それぞれの召命がもたらす役割を十全に発揮できるように、すべてを備えていかれた。次回もイエスとサマリアの女の対話の主題を追っていきたい。 

Maria K. M.

 


 2026/01/12


230. ヨハネ福音書と新約の司祭職 水を飲ませてください 

ヨハネ福音書4章でイエスは、井戸に水を汲みに来たサマリアの女に、「水を飲ませてください」(ヨハ4:7)と言って声をかけ、対話が始まる。サマリアの女には、対話を続ける強い熱意と相手を知ろうとする姿勢がある。たとえ神とは気づかずとも、イエスに共感できるという大きな期待を直観的に持つことのできる感性が彼女にはあった。神があるようにと望まれた人の命を育む胎を授かった女性には、自身の中に“完成されたもの”を神から授かっている、という感覚が本能的にある。胎が子を宿せば、そこには命が“ある”からである。この感覚からあふれる感性が、多くの女性を神に向かわせてきた。 

イエスとサマリアの女の対話を見ると、直観的でスムースな流れがあるのは、この感性を持っているサマリアの女を、「わたしはある」と言われるイエスが導いておられたからだ。弟子たちが不在の間にこれらの対話が起こったのは(ヨハ4:8参照)、水で洗礼を授けていた弟子たちの姿が新約の司祭職を予感させるとしても(4:2参照)、それを授けられていない時点での彼らの感性は、イエスとサマリアの女の対話について来ることができないからだ。しかし、彼らがこの対話から遠ざけられたのは、それだけの理由ではなかった。 

イエスは、サマリアの女との対話の最後に、新約の司祭職についての重要な事柄を証しした。彼女はそれを聞いて、イエスが、「キリストと呼ばれるメシア」(ヨハ4:25)であると悟り、イエスから「わたしである」(4:26)、すなわち「わたしはある」という御言葉を引き出した。イエスの証しは次のとおりである。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(4:21~24)。 

この内容は、新約の司祭職を授けられていないこの時、しかもユダヤ人の男性である弟子たちに受け入れられるものではなかった。しかしこのイエスの御言葉は、異邦人にとっての幸いであり、サマリアの女は、イエスに導かれて、まさに御父が求めておられる礼拝者になろうとしていた。そして、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われたイエスは、この言葉を実現するために、聖霊と直につながって生きる未来の信者の必要を満たし、神が男と女に造られたそれぞれの召命がもたらす役割を、彼らが十全に発揮できるように、すべてを準備して行かれた。 

「水を飲ませてください」という御言葉は、イエスが十字架上で「渇く」(ヨハ19:28)と言われた御言葉を連想させる。その場面でイエスは、差し出された酸いぶどう酒を受け取ると、「成し遂げられた」(19:30)と言って息を引き取られた。すでに前晩に、使徒たちに聖体制定と共に新約の司祭職を授けていたからだ。こうして、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)と言われた「神の国」が到来したことが告げられた。「神の国」は、イエスが聖体制定と共に、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じた言葉によって新約の司祭職を授けたその時と場をもたらす時空、すなわちミサ典礼に現れる時空を指している。新約の司祭職は、イエスの母と「愛する弟子」として十字架のイエスの傍らにあった。「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハ3:15)というイエスの言葉が実現するためである。 

この時十字架のイエスのそばに呼ばれた人々は、「愛する弟子」を除いて皆女性であった(ヨハ19:25参照)。そこに誕生した「わたしの教会」(マタ16:18)は、まるで女性を基にして誕生したかのようだ。ここに他の男性の弟子たちの姿がないのは、男性である彼らが十字架のそばまで行くには、当時、あまりに大きな危険があったからであるが、それだけではない。イエスは最期の過ぎ越し祭の前に、「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハ13:1)。「愛する弟子」は、その一人で、いわば「愛する弟子たち」の代表としてそこにいたのである。信者の男性はすべて、イエスの母と親子の絆で結ばれた「愛する弟子」の召命、すなわち新約の司祭職に向けて呼ばれているからである。 

すべての女性が子を授かるわけではないが、女性が子を授かるように方向付けられていることに間違いはない。同じように、神の国に入るために水と霊から新たに生まれた者たちの内で、すべての男性が新約の司祭職を授かるわけではないが、信者の男性が新約の司祭職を授かるように方向付けられていることに間違いはない。全聖書がそれを裏付けている。ゆえに女性の胎が命を授かることに向けて、常に準備しているように、信者の男性の記憶も、新約の司祭職を授かることに向けて、常に準備されるべきである。その男性が、生涯司祭になることがないと確信していたとしても、必要な養成の段階を踏んでいる必要がある。弟子の一人のマティアのように、いつでも教会の必要に答えられるようになっているためである(使1:26参照)。現代では、そのための学びの機会が提供されさえすれば、受講は容易である。 

それは、女性も共に学ぶということである。女性は男性が新約の司祭職に向けてどのように養成されるかの全貌を捉えている必要がある。人の命はすべて女性から生まれるのであるから、新約の司祭職を授かった男性である司祭も女性から生まれる。この司祭がミサ典礼の中で、ご聖体が生まれるために、パンとぶどう酒がキリストの御体と御血になることを、御父に願うのである。ご聖体は、信者に食べられ、飲まれることによって、女性から生まれるすべての人の命に仕えることができる。イエスが、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハ6:35)と言ったとおりである。 

Maria K. M.

お知らせ)

 インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。 「パトモスの風


 2026/01/05


229. ヨハネ福音書と新約の司祭職 風は思いのままに吹く

イエスの最期の食卓で、イエスの聖体制定の御言葉と行った動作、そして、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じた御言葉とが一つになって、新約の司祭職として、使徒たちの記憶に置かれた。新約の司祭職は、ミサ典礼の中で、それを継承した男性である司祭の記憶から引き出され、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになる。そして、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」という御父に願う司祭の声によって、祭壇の上にご聖体が誕生する。司祭は、無心の内に、自分の内から出るその声を聖霊の声として耳を傾け、その声が聞こえると喜びで満たされる。そして、司祭が言うイエスの聖体制定の言葉は、生きた御言葉となって会衆に届き、信者たちは、司祭と共に次のイエスの言葉を体感する。 

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハ3:8)。 

私たちは、ミサ典礼の中に働かれる聖霊の姿を見る。「風は思いのままに吹く」とあるように、聖霊は司祭の記憶から思いのままに新約の司祭職を引き出す。「どこから来て、どこへ行くか」という表現は、「過去と未来」を表している。新約の司祭職を引き出された司祭が、自分の内から出るその声を聖霊の声として耳を傾け、集中していると、過去も未来も思わず、ただ、祭壇の前で無心に聖霊と協働するのみである。このように聖霊と協働する司祭の姿を見、司祭の内から出るその声を聖霊の声として聞く会衆は、喜びで満たされる。「霊から生まれた者も皆そのとおりである」とは、この事である。司祭と会衆を包むこの喜びの内にご聖体が生まれる。 

ヨハネ福音書でイエスは、捕らえられる前に、御父に向かって祈った。その中でイエスは、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハ17:3)と言って、永遠の命が何かを明かした。御父と御子を「知ること」、それは御父と御子と交わることである。永遠の命とは、御父と御子が現存しておられるご聖体を拝領することを示唆しているのである。 

そしてイエスは、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(ヨハ17:21)と祈り、「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(17:22~23)と祈られた。これらの祈りはご聖体によって実現する。ご聖体は、拝領する信者たちを完全に一つにする。ゆえに、イエスが信者たちに与えた「あなたがくださった栄光」とは、新約の司祭職である。 

聖霊はご聖体と共におられる。御父と御子は共にご聖体に現存される。そして、イエスが私たちのために、「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(ヨハ17:24)と御父に祈られたのは、まさに私たちにミサ典礼を授けていただくためであった。 

ここまで見たように、ヨハネ福音書1~3章には、御父と御子と聖霊である三位一体の神、メシア、洗礼、堅信、司祭職を授ける叙階の秘跡、神の子、ご聖体の秘跡と聖霊の働きについてのイメージが現われていた。4章では、イエスが、サマリアの女との対話を用いて、ご聖体とはどのような方であるのかを現し、証ししている。この対話の間、「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」(ヨハ4:8)とある。そこに弟子たちが不在だったのは、男性であった彼らが、ご聖体について語るイエスを見て直観的に理解できず、疑いを持つことを避けるためであった。 

創世記から始まる旧約聖書の長い物語は、神が目指す新約の司祭職を与えるにふさわしくアダムを、すなわち神が選んだ民の男性を養成し、成長させる歴史であった。男性に“完成されたもの”を授け、聖霊と協働させるためである。神があるようにと望まれた人の命を育む胎は、創造の時に完成していた。それを授かった女性には、自身の中に“完成されたもの”を持っているという感覚が本能的にある。実際、女性の胎は、全く他者の命のためにある。このような器官を持たない男性の弟子たちには、直観的に理解できない流れが、イエスとサマリアの女との対話に起こるのである。 

Maria K. M.


 2025/12/29


228. ヨハネ福音書と新約の司祭職 聖霊の花嫁

「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(ヨハ1:33~34)と言った洗礼者ヨハネの言葉の中には、洗礼、堅信、叙階のイメージを通して、やがてイエスが使徒たちに授ける新約の司祭職が現れていた。しかし洗礼者ヨハネは、「お遣わしになった方」の言葉ではなく、「この方こそ神の子である」と証ししている。彼には、「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」という言葉を捉えられなかったに違いない。彼は自分の記憶にない言葉を引き出すことができなかったが、彼の直観は、聖霊が降ってとどまったイエスが神の子だと捉えた。 

この事情を、前回考察したマタイ福音書で、イエスが、天の父が現されたことを証しした使徒ペトロの言葉と照らしてみると、もっとはっきりする。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタ16:15)と問うイエスに、ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」16:16)と答えた。洗礼者ヨハネも、初めてイエスを見たとき、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハ1:29)と言って、イエスが「メシア」であることを示唆した。そして、イエスが神の子であると証しした。洗礼者ヨハネはイエスを正しく捉えていた。彼は、「聖霊によって洗礼を授ける人である」という「天から与えられた」言葉が、イエスを証ししたのではなく、イエスが御父のもとから担って来たもの、新約の司祭職であったことが、このとき分からなかったのだ。 

ヨハネ福音書4章の初めには、「――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――」(ヨハ4:2)という但し書きが添えられている。それは、新約の司祭職をもたらした神であるイエスが、人に洗礼を授けることはないということを、明確に告げている。洗礼を授けていたのは、イエスの弟子たちであった。直観がきく漁師であった彼らは、イエスのなさったしるしを間近に見てイエスを信じ、共にいることでイエスを受け入れていたのである。やがてイエスの最期の食卓で、イエスの聖体制定の御言葉と行った動作、そして、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じた御言葉とが一つになって、新約の司祭職として、彼らの記憶に置かれることになる。 

こうして、イエスによって使徒たちの記憶の中に置かれた新約の司祭職は、聖霊降臨後、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって、ミサ典礼の祭壇の上にご聖体を生む。その祭壇は、聖霊と新約の司祭職において婚姻的意味を持つ。そこで使徒たちは、洗礼者ヨハネが、「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハ3:29~30)と言った預言を、祭壇の前で自分のものとして味わうことになる。彼らの記憶から新約の司祭職が引き出され、彼らの記憶は衰え、彼らは無心となって聖霊と協働する人になる。彼らは、無心の内に、自分の内から出るその声を、御言葉に命を吹き入れる聖霊の声として耳を傾け、その声が聞こえると大いに喜び、その喜びで満たされる。 

黙示録に登場する「花嫁」は、まさにこのことを示唆している。「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた」(黙19:7)とある「花嫁」は、イエスが地上にもたらし、ミサ典礼の祭壇上で聖霊と結ばれる新約の司祭職である。なぜなら、黙示録の小羊は、「わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である」(5:6)と描写されているように、イエスの名によって遣わされた聖霊だからである。 

続けて、「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」(黙19:8)とあるのは、新約の司祭職の言葉と業に命を吹き入れる聖霊の声に耳を傾け、無心となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭の行いを表している。そこで、黙示録には、「それから、天使は私に、『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(黙19:9)と書かれている。 

新約聖書の中で、「これらは、神の真実の言葉である」という言葉が該当するのは、イエスがもたらした新約の司祭職を現すために、神が洗礼者ヨハネに授けた、「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」と、天の父が、イエスを証しするために、使徒ペトロに現わされた、「あなたはメシア、生ける神の子です」である。これらの言葉は、常にご聖体に向かっている。ご聖体は、まず、神の子の資格を与えられた信者が、神との真の合一体験を持って、神の子となる道を準備するためにおられる。そして、イエスが死んで陰府に降って死者を救ったように、また、イエスが人として生きておられる間は、追い出す以外に何もなされなかった悪霊を救うために、ご聖体は信者に食べられて、再び死ぬことを繰り返されるのである。 

新約の司祭職を授かった男性が御父に願い、「私はある」と言われる神がご聖体としてお生まれになり、信者たちに食べられて死なれる。それは、ただ神があるようにと望み、女性から生まれる人の命に仕えるためである。イエスが、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マコ10:45)と言われたとおりである。

Maria K. M.


 2025/12/22

227. ヨハネ福音書と新約の司祭職 天から与えられなければ

本ブログ№224~226で考察したように、ヨハネ福音書1章は、初めに、神と御言葉と命=光というキーワードを使って、御父と御子と聖霊である三位一体の神を描写している。そして、洗礼者ヨハネの証しと預言を通して、「神の小羊」、「水の洗礼」、「霊が降る」、「聖霊によって洗礼を授ける人」といった表現に、メシア、洗礼、堅信、司祭職を授ける叙階の秘跡の姿が見えた。また、2章では、カナの婚礼で御血のイメージが、エルサレムの神殿のエピソードで御体のイメージが反映されており、ご聖体の秘跡が姿を見せた。ヨハネ福音書は、このように初めの章から、新約の司祭職を中心テーマとして描いていた。3章では、同じテーマをイエスご自身の言葉で語っている。 

イエスは、ニコデモとの対話の中で、洗礼と堅信と神の国について話され(ヨハ3:5参照)、「わたしたち」(3:11)という言葉によって御自分が三位一体の神であることを示した。また、モーセが荒れ野で上げた青銅の蛇を仰いだ人々が命を得たという故事を引いて、十字架に上げられるイエスご自身のイメージを示し、司祭の手によって上げられるキリストの体を示唆した(3:14~15参照)。続いて述べられた永遠の命と世の救いについてのメッセージも、イエスご自身とご聖体の両方に関わっている。その後再び洗礼者ヨハネが登場し、新約の司祭職について預言した(3:22~36/本ブログ№222参照)。 

このとき洗礼者ヨハネは、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」(ヨハ3:27~28)と言った。これによって読者は、イエスが洗礼者ヨハネから水で洗礼を受けるために来た時の場面を思い出す。読者も彼の弟子たちと共にそこに居合わせていたのだ。その時洗礼者ヨハネは、「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」(1:33)と言った。彼は天から言葉を与えられ、神の子を証しする機会を受けたのである(1:34参照)。 

このように、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」という洗礼者ヨハネの言葉は、彼自身の体験からのものである。「天」とは神のことである。新約聖書の中には、もう一人神から直に言葉を与えられた者がいる。使徒ペトロである。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタ16:15)と問うイエスに、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」16:16)と答えた時、イエスが、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)と証ししているからだ。 

使徒ペトロは、洗礼者ヨハネのように天から言葉を与えられた。そして、続くイエスの次の言葉を受けたのである。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタ16:18~19)。ヨハネ福音書によれば、イエスは初対面で、彼をペトロと呼ぶことを決めた(ヨハ1:42参照)。イエスは初めから彼をその時のために選んでいたのである。「わたしも言っておく。あなたはペトロ」と初めに言ったイエスの言葉には、その思いが込められている。 

イエスの選びが実現する時が来た。ペトロに天の父が現した言葉が与えられ、彼はそれを口にした。そして、イエスの言葉を受けた。イエスが、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言った「この岩」は、「あなたはメシア、生ける神の子です」という、天の父が使徒ペトロに現した言葉であった。イエス・キリストが誰であるかを宣言するこの言葉が、「陰府の力もこれに対抗できない」イエスの教会の隅の親石である。それは一方で、ペトロが手紙の中で書いているように、「つまずきの石、妨げの岩」(一ペト2:8)ともなる。イエスが昇天し、聖霊が降臨した後、この言葉を受けるイエス・キリストがご聖体だからである。 

私は、使徒ペトロが授かった「天の国の鍵」で、地上と天上のミサがつながっている間に、世界中の信者が、ご聖体がメシア、神の子であることを公言する日が来ることを強く願っている。 

Maria K. M.


 2025/12/15

226. ヨハネ福音書と新約の司祭職 ニコデモ

ヨハネ福音書は、初めに三位一体の神のイメージをもって、イエスが神であることをはっきりと伝えた。前回考察したように、洗礼者ヨハネの言葉と、カナの婚礼でイエスの母のために行った最初のしるし、エルサレムの神殿でのエピソードの内に、私たちの教会が教える4つの秘跡、洗礼、堅信、叙階、聖体がその姿を現していたことを確認した。イエスを受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えるための道が、新約聖書の中にできているのだ(ヨハ1:12参照)。そして、2章の最後に次のような解説を入れ、3章のエピソードへとつなげている。 

「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハ2:23~25)。 

イエスが彼らを信用されなかったのは、しるしを見てイエスの名を信じても、イエスを受け入れないからである。そこで3章では、イエスとニコデモの対話から、「何が人間の心の中にあるか」を見せている。この中でイエスは、御自分が三位一体の神であること(ヨハ3:11参照)、人の真の必要を満たす神の仕方が、洗礼、堅信、聖体の秘跡にあることを示していく。そしてニコデモに、彼が闇から出て、光の方に来ていることを気づかせようとする。3章の最後には、洗礼者ヨハネが再び登場し、そのエピソードの内に、新約の司祭職が預言されている(ヨハ3:22~36/本ブログ№222参照)。これらの出来事によって、1~2章のテーマを固めたのである。 

ニコデモはイエスに会うと、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(ヨハ3:2)と言った。「わたしども」という表現に、彼が無意識に自分の共同体を背負っていることが分かる。そこでイエスは、彼の「神が共におられる」という言葉を捉えて、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)と返した。 

イエスの言葉にニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(ヨハ3:4)と問うた。彼は、次にイエスが指摘しているように、イエスが言った「新たに生まれなければ」という言葉に驚いて、「神の国」という言葉に注意が向かなかった。それは、彼が口にした「神が共におられる」という言葉が虚しいものであったことを示している。彼の環境ではラビと見なされる人に対しての常套句になっていたのかもしれない。しかし彼は、自分が属している環境に疑問を持っていて、解決しなければならない気持ちを背負っていた。それは現代の私たちにも通じる。 

そこで、イエスは、再び、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハ3:5)と言われ、洗礼と堅信の恵みを暗示した。そして、続けて次のように言って、聖霊の働きを証しした。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(3:6~8)。ここで重要なことは、「その音を聞く」ということである。 

しかし、イエスのこれらの言葉に認識が追い付かないニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」(ヨハ3:9)と言うよりなかった。彼は、自分を包む闇が重いことに気付かずにいる。彼はユダヤ人の議員でファリサイ派に属する者であったが、その共同体の価値観と体質に彼はマッチしていなかったのだ(7:45~52参照)。このような重荷のために、彼が本来持っている個性や能力、また獲得した知識などからくる自己認識は委縮していた。イエスは、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」(3:10)と言って、彼が目を覚まし、自分の状態に気づき、自発的に行動するように励ました。彼は、今、神と共にいるのである。 

イエスは続けて語り、ご聖体についての暗示から、「永遠の命」にまで言及した(ヨハ3:14~15参照)。今、私たちは、それを知っており、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)と言ったイエスの言葉が、後の、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(6:51)という言葉につながっていくことが分かっている。 

ニコデモには、これらの話が分からなかったとしても、聞いた御言葉は記憶に入った。それが神の仕方である。霊が告げることを聞く耳を神は求めている。ニコデモは、自分から光の方に来た。ゆえに、最後にイエスが言った次の言葉は、ニコデモの心に届いた。彼がその後登場する場面を見ると、彼が次第に自由になり、霊が告げることを聞く耳のある者となっていく姿が見える。御言葉は、彼が、自分の所属する共同体が重荷であることに気付き(ヨハ7:45~52参照)、決断を支える自発性が御言葉と結びついて、真の自己実現に至るようにと(19:38~42参照)、静かに、力強く働きかけていったのである。 

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(ヨハ3:19~21)。 

Maria K. M.


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