イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/05/20


144. 魂と霊

情報と悪霊(汚れた霊)の間の因果関係を考察するにあたって、魂と霊がどのようにして人のものになったかを、新約聖書をもとに創世記から見直してみる(上図参照)。 

神は、さまざまな被造物を言葉によって創造した。ゆえにそれらには、神の命令(~あれ)に応える自発性が備わっている。神は、人と他の生き物に食べ物を与えた。それは同時に、彼らに、相応の知識と記憶を持つようにさせたということである(創世記1:1~30参照)。そこで、彼らは、神の命令(~あれ)に応える自発性と相応の知識と記憶を持つ。これが彼らの体と共にある魂の状態だと考えられる。ゆえに人は、すべての生き物の命に畏敬の念を持つのである。 

次に、神は、人に、神に似せて霊を与える準備をした(創世記2:1~17参照)。神は、人の脳を土の塵で形づくった。そして、鼻から「命の息」を吹き入れ、脳の中央に「命の木」と「善悪の知識の木」を生え出でさせた。 

「命の息」は、神が吹き入れた神のものであるから、被造物ではない。「わたしはある」という方である神の自発性が、人に分与されたのだ。それはその人固有の自発性になる。そこで、人は、神の命令(~あれ)に応える自発性と併せて、二つの自発性を持つことになった。

一方、「命の木」と「善悪の知識の木」は被造物である。神がこれらを人の脳に生え出でさせたのは、人がイエス・キリストに似たものになるためであった。「我々に似せて」(創世記1:26)とは、イエス・キリストに似ることである(ヨハネ10:3014:7参照)。イエス・キリストには、神の自発性と神の知識からなるご自身の霊があった(ルカ23:46参照)。「命の木」は、その人の「命の息」と神の知識をつなぎ、その人に固有の神の霊(ヨハネ4:24参照)をもたらすインターフェースである。これによって、人の霊は、イエスの霊に似たものとなる。 

「善悪の知識の木」は、その人固有の神の霊と、その人の体と共にある魂をつなぎ、その人は、自身の神の計画を悟るようになる。「わたしはある」という方であるイエス・キリストも、完全に人であるために、人や他の生き物と同じく、魂を持っていた。魂におけるイエスの自発性は、「わたしはある」に基づくものであった。そこでイエスは、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」(ヨハネ10:18)と言ったのである。このようにして、イエスは人と同じく、二つの自発性を持ったのである。 

イエスの名によって遣わされた聖霊が降臨し、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒言行録2:3)とき、聖霊が弟子たちと接続したのは、彼らの脳にある「命の木」であった。そこで、彼らそれぞれに固有の神の霊がもたらされ、「善悪の知識の木」とつながった。それはさらに、イエスと共にいることで彼から養成され、彼の世界観を共有していた彼らの魂とつながり、彼らは神の計画を悟り、聖霊と協働することができた。 

そこで、私たちの霊が、「善悪の知識の木」によって、神の命令(~あれ)に応える自発性と相応の知識と記憶からなる魂とつながって生きるためには、当時の弟子たちがイエスから養成され、彼の世界観を共有していたように、御言葉とご聖体によって聖霊から養成され、ヨハネの黙示を朗読しそれを聞く習慣によって、イエス・キリストの世界観を身に着けなければならない。 

マリアに聖霊が降り、彼女がいと高き方の力に包まれ、イエスを身ごもったように、私たちは、聖霊の養成を受け、イエス・キリストの世界観を身に着けるのである。マリアは、ザカリアの家でエリザベトの言葉に次のように応えた。 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」(ルカ1:46~50)。 

やがて私たちもマリアのように、自分の魂と霊が共に主をあがめ、神を喜びたたえる幸いを得るようになるのである。マリアは、イエス・キリストに似た者として生きるキリスト者の初めであり、私たち教会の母である。 

つづく 

Maria K. M.


 2024/05/13


143. 情報と悪霊(汚れた霊)

情報という言葉が生まれ、情報が人の外に存在するものとして、いわば見えるようになって、私たちはやっと、黙示録に、「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」(黙示録12:9)と書かれたものが、情報であったことに気付いた。 

万物は神の言によって創造された。だから被造物は、その初めから情報の塊だと言える。さらに、創造主、すなわち親である神が、父と子と聖霊の三位一体なのであるから、同一種の生き物同士が交われば、その関係性の内に偶発的に情報が発現するのは当然の成り行きなのだ。 

だから、神にかたどり、神に似せて創造された私たちは、まず自分の感覚から記憶に入るありとあらゆる情報のすべてを、すぐに自分の知識とみなさず、ただ情報として区別し、自分自身と切り離しておく習慣が必須だ。それは、この情報の只中で、私たちにアピールする神の仕方を見つけるためだ。 

黙示録には「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした」(黙示録1:2)と書かれている。著者は、「神の言葉とイエス・キリストの証し」を「霊に満たされ」受け取って黙示録を書いた(黙示録1:104:217:321:10参照)。彼が描写した事柄は、すべて神の目から見た事柄である。すなわち、それは、人の情報の中で働く神の姿を描き出しているのだ。新約聖書の内でヨハネの黙示だけに備わっているエクササイズを行うメリットは、ここにある。 

ヨハネの黙示を子どものように無心に朗読し、その声を聞いて、黙示録の「預言の言葉」が自分の記憶に入るに任せる。毎日わずかでも、水を飲むようにしてこのエクササイズを続け、自分の記憶にこの「預言の言葉」を注ぎ入れ、この言葉を保ち続けるように守るのである。「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙示録1:3)と書いてある通りである。ここで、「時が迫っている」とあるのは、人と人の交わりに端を発する情報が、目を見張るほどの進化を遂げることを予見していたのだ。 

イエス・キリストによって、弟子たちに仕込まれていた彼の世界観が、聖霊の降臨を受け取る弟子たちの人間性を根底から支えたように、このエクササイズが、日々信者たちの記憶にイエス・キリストの世界観を注ぎ入れ、聖霊と協働する彼らの人間性を支える。イエス・キリストの世界観に支えられた信者たちの人間性は、聖霊とつながり、イエスの言葉が分かり、聞くことができるようになる。「神に属する者」(ヨハネ8:47)となったのである。 

情報は、その受け手の状態や状況によって善にも悪にもなりうるうえに、人が情報を自分に気持ちよく、都合よく利用しているうちに、災いに転じることがある。ときには、そこから「人間の仕業」が起こって、人を死に追いやることさえある。 

イエスは神のもとから来た、神から遣わされた言である。人が、イエスの言葉が分からず、聞くことに堪えられないのは、その人の知識が情報から出たものであり、その情報によって欲望を満たしたいと思っているからだ。ゆえに、情報は初めから人を殺すものである。情報は真理をよりどころとしていない。情報の内には真理がないからだ。情報はその本性から情報であり、偽りの情報もまた情報なのである。このように、情報を区別せず取り込み、自分の知識とする多くの人は、イエスが真理を語るから、イエスを信じない(ヨハネ8:42~45参照)。これが罪なのである(ヨハネ16:9参照)。 

情報は、それが引き起こす作用から、霊のように感じることがあるかもしれないが、自発性を持たない情報は霊ではない。一方、悪霊(汚れた霊)は自発性を持つ霊である。情報と悪霊(汚れた霊)の間には、強い因果関係がある。

つづく

Maria K. M.


 2024/05/06


142. 隠された記憶

ここで少し道をそれるが、私は以前このブログで、マルコ福音書が、サタンの誘惑を受けた荒れ野でイエスが「野獣と共におられた」(マルコ1:13)と書いていることから、「荒れ野」は、人にも野獣にも共に備わっている無意識の領域を指すと捉えた。 

そして、黙示録の12章に、「女は荒れ野へ逃げた。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった」(黙示録12:6)とある「荒れ野」には、「神の用意された場所があった」と書かれていることから、ここは、使徒たちの無意識の領域であり、そこへ逃げた「女」は、司祭職を表していると考えた。 

今、その手掛かりが、後に書かれている、「しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである。女は蛇から逃れ、そこで一年と二年と半年の間、養われることになっていた」(12:14)という文中にあると気づいた。 

ここで、「鷲」がヨハネ福音書を、「荒れ野にある自分の場所」がイエスの最期の夕食の席を指していると捉えると、イエスが使徒たちの足を洗う場面に至る。

そこで、イエスが、「あなたがたも互いに足を洗い合うべきである」(ヨハネ13:14)と言った言葉に注目すると、この言葉には、「主の復活の証人」(使徒言行録1:21~221になるべき男性が使徒たちに加わるとき、使徒たちがイエスの示した模範に倣って実行することによって(ヨハネ13:4~5参照)、その場所と務めと使徒職を継がせる意向があることが見えてきた。イエスは、彼が使徒と名付けた職務が継承される「しるし」とするために、使徒に足を洗われた者が、次に足を洗う使徒になることを、「互いに足を洗い合う」という言葉で表現したのである。 

イエスはペトロに、「私のしていることは、今あなたには分からないが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13:7)と言って、時がくるまでこの「しるし」が隠されるようにした。さらに、足を洗われるのを断るペトロに、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」(ヨハネ13:8)とまで言って、この「しるし」がイエスと使徒たちの間の絆の保証になることを示した。イエスが後で使徒たちに、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」(ヨハネ13:17)と言ったとおりである。 

そしてその後、使徒たちには、イエスの受難と十字架上の死、そして復活という衝撃的な体験が続き、これらのことは使徒たちの記憶に隠された。 

「ヨハネの黙示の預言的構成」を見ると、黙示録12章は、第4の預言「司祭職とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言(12~16章)」の始まりである。そして教会は、第5の預言「教会の堕落の預言(17~18章)」に向かった。 

聖霊は、イエスが制定した司祭職とご聖体の秘儀、そしてその場所2を、新約聖書の中に隠し、この運命から教会を守ったのである。 

(注1) 現代の「主の復活の証人」とは、ご聖体を見て、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と公に宣言する者である。

(注2) ルカ22:7~13参照

つづく

Maria K. M.




 2024/04/29


141. 神の置いた敵意と偶発的情報

前回述べたように、私は「人間の仕業」という言葉に集中し、その始点である創世記と、新約聖書を黙想した。やがて、それは、聖霊の霊性と養成、ヨハネの黙示の訓練についての黙想へと発展した。そして、ヨハネの黙示に書いてあるままにその訓練を毎日するうちに、ヨハネの黙示が預言的構成を持っていることを知った。 

この黙想の流れの中で、創世記の「蛇」を「情報」と捉えた。この発想は、創世記の「女」が神に向かって「蛇がだましたのです」(創世記3:13)と言った表現とも合致する。「女」は、「男」と関わっているうちに、二人の間に交わされた情報を、自分のものとして取り込んでしまった。そこで、彼女の記憶から意識の中を這い回るように現れるこの情報が、「蛇」をイメージさせたのである。 

「蛇」が情報であることは、神が「蛇」に「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で最も呪われる」(創世記3:14)と言った言葉によっても分かる。「このようなことをしたお前」、すなわち「女」に語り掛けた「言葉」である「蛇」は情報である。「あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で」とは、同一種の生き物の間で偶発的に情報が発生することについて言及したと考えられる。本ブログでは、それを「偶発的情報」と呼んできた。その中で「人の偶発的情報」は群を抜いて進化し、「最も呪われる」ものとなっていた。 

神は、「蛇」に対して、「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創世記3:15)という新しい計画を打ち出した。ここで神がはっきり言っているように、この「神が置いた敵意」は生殖によって遺伝する。そこに「女の子孫」として神の子を世に遣わす計画が秘められていたと知るには、イエス・キリストの到来を待たねばならなかった。シメオンが「反対を受けるしるしとして定められています」(ルカ2:34)と言ったとおり、神の子イエスは、まさに「神が置いた敵意」そのものとして世に遣わされたのである。 

この理解は、イエスとともに十字架に付けられた犯罪人の一人に起こったように(ルカ23:39~43参照)、すべての人が自らの内にある「神が置いた敵意」に目覚め、イエスに向き直り救われる必要があることを示している。その救いはキリストのおかげですべての人に差し出されている。 

黙示録に「悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇」(黙示録20:2)と書いてあるように、悪魔とサタンは「蛇」である。ゆえにそれらは、「人の偶発的情報」であると私は考えている。そうであれば、私たちは、イエスが荒れ野で模範を示されたように(マタイ4-1-11、ルカ4-1-13参照)、理性的に対処することができるのである。

つづく

Maria K. M.





 2024/04/22

書道家/書家 山崎 絹 作

140. 神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです

前回書いたような事情で私が洗礼を受けたのは21歳のときである。やがて他の信者との分かち合いの場で、さまざまな体験を聞くようになると、神は日々人々を訪れ、その御手で運ばれることを知った。私は、夜イエスのもとを訪ねたニコデモに、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)と言った御言葉を思い出した。 

全能の神の仕方は、神の霊に素直に導かれる者の記憶に、完全で真の親のイメージを深く刻み込んでいく。パウロが、「神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです」(ローマ8:14)と言えたのは、「この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます」(ローマ8:16)という実感に基づいている。彼も神の御手の運びを体感していたのだ。神を父と呼ぶことを教えたイエス・キリストの御言葉と御業が、その名によって来られた聖霊によって、キリスト者となった私たちの知識のすべてになろうと絶えず働きかけるのである。 

このような仕方で、神と出会い、教会に導かれた私は、聖書と教会の教えやその歴史をいろいろ学ぶうちに、ヨーロッパの歴史が育み、守ってきたキリスト教文化を通して表現される教えに直面するとき、その難しさを感じるようになった。ギリシア哲学もゲルマン民族の大移動も、イスラム文化との出会いも全くない、ゆえに教父たちの教えや伝統に接する機会もない文化の中で、自分が大人になったことを痛感した。 

私にとって教会の教えとは、1997年にラテン語規範版として公布されたものの日本語訳である「カトリック教会のカテキズム」と、2003年に発行された日本版要理書「カトリック教会の教え」である。その中で、もとは天使であったとされる悪魔、サタンに関する記述については、悩ましい問題だった。解説に矛盾を感じてどうしても自分のものにならず苦しんだ。 

そんなある日、私は、1981年に訪日した聖ヨハネ・パウロ二世教皇の、広島でのスピーチを思い出した。その冒頭には、「戦争は人間のしわざです」という有名な言葉がある。わたしの注意は、「人間のしわざ」という部分に集中していった。

つづく

Maria K. M.


2024/04/15

139. 神の家

このごろ、このブログを見ていてくださる数人のヨーロッパの方々から、悪霊や悪魔に関する私の考えが、教会の教えに沿っていないとの親切なご注意を頂いた。そこで、これらについて少し時間を取って考えてみたい。私も含め、日本人のキリスト者のほとんどは、成人洗礼である。その体験を聞くと、初めに神との出会いがあって洗礼に至っていることがよくある。私の場合、それは6歳のときに遡る。 

ある日、私はいつも遊んでいた公園の隅に、当時の自分にとっては、とても険しい崖がそそり立っているのが気になりだした。私は、ちょうど近くを通った大人に、この崖の上には何があるのかと尋ねた。その人は、「神の家がある」と言って去っていった。それで私はそれがどうしても見たくなって、友人たちが止めるのも聞かずに一心不乱に崖を登り始めた。 

東京カテドラル聖マリア大聖堂

頂上に着くと今度は目の前に高いフェンスが現れた。その向こうは木々や雑草に覆われていて先が見えない。私はそのフェンスも登り始めた。しかし、途中で、ふと、もし犬がいたらどうしようという考えが起こった。もっと小さいころ、かまれた経験から犬が苦手だったのだ。そう思いだすと、向こうの茂みから犬の吠える声が聞こえてくる気がしてきた。 

私はしぶしぶフェンスを降りて、振り返り、自分の登った崖の上から下を見た。すると、心配そうに見上げる二人の友達の顔が小さく丸く見え、足がすくんでしまって降りられない。そのとき、「登ったように降りて!」という声が聞こえた気がして、私はそれに従って、後ろ向きになってゆっくり降りて無事地面に足がついた。

後日、別の子どもがその崖に登って落ちてけがをしたものだから、この崖登りは学校から厳しく禁止された。私は、犬が怖くてフェンスを降りたことをいつまでも後悔した。ずいぶん後になって、そのフェンスから先はホテルの敷地で、その正面には、東京カテドラル聖マリア大聖堂が建っていることを知った。

聖アンセルモ教会
その頃日本では、クリスマスに教会に行くことが流行っていた。その年のクリスマス・イヴに、母も友人に誘われて教会に行くことになった。私も連れていかれた。それは東京の目黒にある聖アンセルモ教会であった。私は教会に入った途端、口では言い難い強い気持ちが起こって、ミサが終わると母の友人に、私もあなたみたいになるにはどうしたらいいのかと尋ねた。彼女は、洗礼を受けたらなれますよと喜んで答えた。その瞬間、「私は洗礼を受けます」とはっきり言った自分の声を今も思い出すことができる。母が振り返って、「とんでもない!絶対にダメです」と言った厳しい声と共に。その当時、母は、私にとって、神のような存在だった。私は黙って下を向いてもう何も言わなかった。私は7歳になっていた。

下井草教会

やがて10歳になった時、私の家族は、東京の郊外に引っ越した。仲良しの友達とお別れして、新しい学校へ初めて行った日は雨が降っていて、私は先を行く母の後をのろのろと付いて行った。そして、大きな通りを渡る歩道橋に上った時、私は驚きで立ちすくんでしまった。目の前に見えた学校の校舎のすぐ後ろに、十字架がついた高い教会の塔が見えたのだ。サレジオ会の下井草教会だった。私は大人になって、家族の誰にも相談せずにこの教会で洗礼を受けた。私にとって神とはこのような方であった。

つづく

Maria K. M.


 2024/04/08


138. 見ないで信じる者

次のミサ典礼へと向かう日常のルーティンを生きる信者たちのたどる道は、悪霊たちに「王たちの道」(黙示録16:12)と映る。このため、「全能者である神の大いなる日の戦い」(16:14)に向かう悪霊たちを引き寄せる(本ブログ№56参照)。 

一方20章では、ミサ典礼が終わり、世の只中に出た信者たちは、「人の偶発的情報」を区別することなく、自分の知識として取り込み、サタン化した人々と遭遇する(20:7参照)。この人々はこのまま死ねば悪霊になる人たちである。神のみ前では、死んだまま生き返らないで悪霊になったケースも、生きていて悪霊候補者になったケースも同じに見える。「人の偶発的情報」を取り込んだ「人相応の知識と記憶」が、「命の息」に張り付いている状況に変わりがないからだ。 

ゆえにキリスト者は、彼らが救われるために、次のミサ典礼へと向かう日常のルーティンを生きて、彼らをミサ典礼に誘導する「王たちの道」を示す責任がある。私たち信者は、「キリストの名」を背負っているからだ(本ブログ№136参照)。 

この責任には幸いが伴う。ルカ福音書で、エマオに向かう道で復活したイエスと出会った弟子たちの体験について、「イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ24:30~31)と書いている。ここで、「その姿は見えなくなった」と書かれたことは、暗示的である。 

新約聖書を手にしている私たちは、ミサ典礼の中で司祭によって裂かれたパンが、「その姿は見えなくなった」キリストの体であるとわかる。そして、信者がこのキリストの体を前にして、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16、ヨハネ11: 27参照)と告白することは、復活したイエスに向かってする信仰告白になる。ここで信者は、イエスがトマスに言った、「見ないで信じる人」(ヨハネ20:29)の幸いを得る。 

さらに、私たちが、イエスが最後の食卓で「取って食べなさい。これは私の体である」(マタイ26:26)と命じた言葉に従い、配られたご聖体を見て、自身の手で触れて、食べるとき、私たちは、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい」(ヨハネ20:27)とイエスがトマスに命じた言葉の意図するところを、全身で受け取ることになる。そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と諭したイエスの言葉に応えていくのである。

Maria K. M

ヨハネの黙示の預言的構成



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