イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/10/13


217. 和解

前回考察したように、司祭が祭壇上で御父に向かって、「主イエス・キリストの御体と御血になりますように」と願う言葉は、イエスの母マリアに起こったことと同じ現象を引き起こす。この時、聖霊が司祭に降り、いと高き方の力が司祭を包む。だから、生まれる子、すなわちご聖体は、「聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)。マリアが天使から受けた言葉は、使徒ペトロがイエスを「メシア、生ける神の子」(マタ16:16)、「神の聖者」(ヨハ6:69)と呼んで証しした。これに倣って、現代も司祭と信者は、ご聖体に向かって、ペトロの言葉を証しし続けるはずである。 

しかし、なぜイエスは、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言った時、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタ16:17)と言って、御父の御心がその言葉にあったことを言ったのだろうか。それは創世記の「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた」(創3:8~9)というところまで引き戻す。神がアダムを呼んだのは、彼に使命を与えるためだったのではないか。しかし、その時すでに二人は神の御心に背いていた。神がそれを知らなかったのは、「ご自分にかたどって人を創造された」(1:27)主なる神は、「その鼻に命の息を吹き入れられ」(2:7)、ご自身の似姿となった人の意志がどう動くかを知ろうとなさらないからだ。 

だから神は、アダムが、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創3:12)と答えた時は、ずいぶんがっかりしたにちがいない。彼は、神に背いたばかりか、その原因を神に帰したからである。そもそもアダムは「男」として特別に神から造られたのではない。神が創造したのは、初めの「人」と「女」であった。そして、人(男と女)を創造する神の御業を継ぐのは胎を持つ「女」である。「男」には、これからの計画があった。神は、「男」と和解することを望んでいたに違いない。 

神は、「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:19)と言ってアダムを励ました。今、私たちはこの言葉が、いつか彼が顔に汗を流して「命のパン」を得るために働き、死んで土に返り、「命の息」を吹き入れられた塵の体が復活する、ということを示唆していたことが分かる。神が園でアダムを呼んで、告げようと思っていた神の計画は、アダムに司祭職を授け、神が「祝福し、聖別された」(2:3)日を、人々とともに祝うことだったのである。この計画は、イエス・キリストが新約の司祭職において実現した。この司祭職の使命は、胎児を身ごもる女性と同じように、命に対する使命である。それは、ご聖体に対する使命である。 

妊娠した女性の子宮に起こる胎盤形成は、受精卵、すなわち胎児側が主導的に働き、母体は受動的に関わって起こる。したがって胎盤を作る主体は母体ではなく胎児なのだ。胎児と胎盤は父方の遺伝子を半分持つために、母体から見れば“異物”だ。それにもかかわらず、母体は胎児を拒絶しない。このことは、「命のパン」について語ったイエスの言葉を拒絶した弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった時も、使徒たちはイエスのもとに留まったことを想起させる(ヨハ6:66~69参照)。 

胎盤形成は、母体側と胎児側の密接な対話の上に成り立っているという。胎児は母体の免疫をいわば “再教育”し、母体は胎児の侵入を“許可しつつ制御”する。子宮が胎盤を受け入れる仕組みは非常に精密で、「母体と胎児の間の和解の奇跡」という、ヒト種特有の胎盤形成プロセスなのである。この微妙な交渉のバランスこそが、「妊娠」という現象の本質であり、ここで起こる和解とは、単なる静的平和ではなく、動的なバランスの維持だというのだ。それはイエスが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハ14:27)と言ったとおりである。この和解は、祭壇の前で聖霊が降る司祭にも起こっているに違いない。 

子宮は単なる“器官”ではない。ヒトの生命の成立を支えている。ヒトという種の発生・免疫・脳・社会性にまで影響するきわめて深い意味をもっている。女性は、ヒト種特有の胎盤形成プロセスという、他の生き物に類を見ない高度な重荷を背負ったのである。それは、新しい契約の司祭職も同じである。聖霊に満たされてご聖体を生むという役割を背負って、イエスの母マリアのように生きる司祭は、神と人の歴史が強く求める「和解」を実現することになる。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と言ったペトロの答えは、御父の御心に適っていたのである。続けてイエスは次のように言った。 

「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタ16:18~19)。 

Maria K. M.


 2025/10/06


216. 新たな「実体変化」への招き

ヨセフは夢の中で、天使に、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタ1:21)と告げられた。この言葉の「自分の民」とは、当時も今も、私たち信者のように、イエスを信じた人々を指している。「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(ヨハ16:9)とイエスが言ったように、イエスは、彼を信じた者たちをいつもこの罪から救った。この後、「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタ1:23)と解説が挿入されているように、イエスは、そのためにこのような神と人との関係を実現したのである。その効果は、イエスを信じた人々に現れる。 

イエスに従って、イエスと共にいた当時の信者たち一人一人は、イエスのそばにいることで、「わたしを信じないこと」という罪から救われた。イエスは信者に触れる機会を得て、信者は神の救いを実感するほどに、神が近くいると感じることができた。こうしてイエスは、「わたしの教会」(マタ16:18)となる「自分の民」を守った。イエスは、ご聖体を制定することによって、神であっても人として体を持っていたご自身には不可能であったことが可能となるよう、準備して行かれた。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(ヨハ6:56)というイエスの言葉は、ご聖体によって実現可能となり、「自分の民を罪から救う」神の御業が継続される。神が近くいるのではない。神が信者の内に入るのである。 

ご聖体は、「実体変化」による、いわば第2の受肉の神秘である。ご聖体は、それを拝領する信者たちを、「わたしを信じないこと」という罪から救い続ける。イエスがご自身で証しした、その誕生と死、復活と昇天、そして、確かにイエスのご遺体を墓に葬り、見届けておいたのに、イエスの体がなくなっていたことなど、新約聖書を通して使徒たちから伝え聞いたこれらの事柄を、信者たちは共有する。ご聖体は、私たち信者に食べられることによって死に、その体は、イエスのご遺体が墓から消えていたように、なくなってしまう。そのわずかな時間に、信者たちには、ご聖体によって、神の現存するキリストの体を持つ者へと「実体変化」が起こる。ゆえに、拝領する者の記憶には、ご聖体が誰であるかが、しっかりと刻まれていなければならない。 

一方、マリアは天使に、まず、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(ルカ1:31~33)と告げられた。それは、イエスが公生活をそのように生き、「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」という言葉を、十字架上で実現するということであった。十字架上のイエスの頭の上に掲げられた札に、「これはユダヤ人の王」(23:38)と書かれていたことが、それを証ししている。まさに、「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」のである。 

次に天使が、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)と告げた言葉は、イエスの母となったマリアの身に実現した。それは、十字架上でイエスが、母マリアと使徒を親子の絆で結んだ場面へとつながっていく。この言葉は、イエスの母マリアの子となった使徒のものとなって継承されたのだ。ゆえに、司祭が御父に向かい、「主イエス・キリストの御体と御血になりますように」と願うとき、聖霊が司祭に降り、いと高き方の力が司祭を包むのである。だから、生まれる子、すなわちご聖体は、「聖なる者、神の子と呼ばれる」。 

イエスが弟子たちに、「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」(マタ16:15)と言ったとき、使徒ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えた。すると、イエスは、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)とお答えになった。御父が使徒ペトロに現した言葉は、神を父と呼ぶすべての信者が、イエスを見て、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言うことを望む御父の御心である。私たち信者は、この同じ言葉をご聖体に向けて言うことによって、私たちの御父の御心に答えるのである。 

ご聖体を見て、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言うことを繰り返すことによって、信者の記憶には、ご聖体が、「メシア、生ける神の子」であると、しっかりと刻まれていく。そして神を天の父と呼ぶ信者が、ご聖体を拝領し、ご聖体が留まるわずかな間、神の現存するキリストの体を持つ者へと「実体変化」が起こる時、自分が神の子であることを、わずかずつでも実感にしていくのである。この実感が、イエスを信じることを確かなものとしていく力となる。 

Maria K. M.

(お知らせ)

 インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。№214とテーマが重複していますが、表現を新しくしています ➡ 「パトモスの風



 2025/09/29


215. 実体変化

ご聖体はキリストの御体と御血である。第二バチカン公会議の教会憲章は、ご聖体が、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である」(「教会憲章」№11)と書いている。従って、ご聖体がキリストの体と血であることを信じることは、私たちの信仰の核心である。しかし、私たち信者は、このことを理解し実感を持って受け入れているだろうか。 

司祭は祭壇上で聖霊の働きを御父に願い、パンと杯を手に取って、「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである」、「これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である」と言って、イエスの最後の食卓での言葉を繰り返す(「ミサ典礼書」参照)。こうして御父への願いはかなえられ、パンとぶどう酒はキリストの体と血に変わる。これを教会は古くから「実体変化」と呼んできた。この言葉をトリエント公会議は次のように明確に定義した。「すなわち、パンとぶどう酒の聖別によって、パンの全実体が私たちの主キリストの実体となり、ぶどう酒の全実体がその血の実体に変化します。聖なるカトリック教会は、この変化をまさしく適切に全実体変化と呼びます」(トリエント公会議第13総会『聖体についての教令』4、DS1642)。 

このことは、パウロ6世教皇の回勅「ミステリウム・フィデイ」(19659月)であらためて確認されている。パンとぶどう酒という、キリストの体と血とは似ても似つかぬものが、御父がイエスの名によって遣わした聖霊と司祭が一つになって働くことで、ご聖体に変わるという「実体変化」は、変わるだけではなく、主ご自身が現存する体そのものになることを意味している。司祭は聖霊と一つになって働き、ご聖体が生まれる。司祭なくしてご聖体は生まれないのである。 

「実体変化」という言葉は、妊娠と出産を体験した女性にとって、深い共感を呼び起こす言葉である。受精卵という、人の体とは似ても似つかぬものが、女性の胎に守られて、やがて人の体となって生まれ出るからである。胎児の体には、「在れ」という御言葉と、聖霊の働きによって、神が望んだ人の命がある。今も女性なくして人の命は生まれないのである。 

ルカ福音書によれば、「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」(ルカ1:41)と書かれている。母の胎内で洗礼者ヨハネは、この時、人となったイエスを証ししたのだ。受精卵という、人とは似ても似つかぬものが、女性の体内で成長し、胎動するようになる。それは、またもう一つの「実体変化」と言えるのではないだろうか。ゆえに、イエスは、最期の食卓で使徒たちに、女が子供を産むときのたとえを語り、一人の人間が世に生まれ出た喜びに言及したのである。

「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(ヨハ16:21)と言ったイエスは続けて、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(16:22)と言って、ご自身の復活と同時に、ご聖体の誕生を予告した。 

そして、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハ16:23~24)と保証した。教会はこの世で最高のものを願ってきた。「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」と願って祈り、イエスのこの言葉に応えてきた。「父に願うならば、父はお与えになる」という言葉は即座に実現する。このとき司祭は、聖霊とひとつになって、イエスの言葉を実証しているのである。 

このように考えてくると、祭壇上でパンとぶどう酒がキリストの御からだと御血に「実体変化」するということは、現代人にとっても、受け入れがたいことではない。私たち信者は、ご聖体を拝領した時、神の現存するキリストの体と一体になったことを実感しなければならない。そこに、新たな「実体変化」に呼ばれる未来への希望がある。 

Maria K. M.


 2025/09/22



214. 「カトリック教会のカテキズム」№1386


このブログでは、これまでかなり長い時間をかけて、マタイとルカ福音書にある百人隊長のエピソードを注意深く観察し、考察してきた。イエスに僕(部下)の癒しを願う百人隊長の言葉が、世界中のミサ典礼において、司祭が掲げるご聖体を前にして、司祭と会衆が共に聖体拝領の招きに答えるという重要な場面で使われる言葉である、という観点から、このエピソードを見直す必要があると考えたからだ。上記両福音書ともに、百人隊長は二つの場面に登場する。イエスに僕(部下)の癒しを願う場面と、イエスの十字架のそばに立ってイエスへの信仰を吐露する場面である。後者の場面は、マルコ福音書も記載している。これらの場面に登場する百人隊長が同一人物かどうかは別にしても、百人隊長の言葉には、信仰における二つのステージを見ることができる。

初めの、イエスに僕(部下)の癒しを願う場面では、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(ヨハ6:44)とイエスが言った通り、百人隊長は、御父の引き寄せる力によって、イエスのもとへ来ることができた。そして、その信仰によってイエスに病気の僕(部下)を癒していただいた。第1のステージである。一方、イエスが十字架にかけられた場面では、「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」(マコ15:39)と書かれている。ここでの百人隊長の言葉は、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハ12:32)というイエスの言葉の実現となっている。第2のステージである。

「カトリック教会のカテキズム」(1997年規範版)の№1386には、「この秘跡の偉大さを前にして、信者はただ百人隊長の次のことばを謙虚にまた熱烈な信仰をもって繰り返す以外にはありません。『主よ、わたしはあなたをお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます』」と書かれている。 しかし、この百人隊長の言葉は、御父に引き寄せられてイエスのそばに来た第1のステージのものである。「わたしは地上から上げられるとき・・」と言ったイエスの言葉によって引き寄せられ、イエスのそばに来た私たちキリスト者とはステージが異なっている。私たち信者は、地上から上げられたイエス、すなわち十字架上のイエスに引き寄せられたのだ。

「カトリック教会のカテキズム」は、これに続いて、聖ヨハネ・クリゾストモの聖典礼での祈りの言葉を紹介している。それは、イエスと共に十字架にかけられた盗賊の、「主よ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」という叫びを含んでいる。この叫びは、いわば、十字架上のイエスに引き寄せられた最初の人の叫びだということができる。

聖ヨハネ・クリゾストモの聖典礼は、確かに十字架上のイエスに向かう応答を含んでいるが、この場面は、聖霊が降臨した後の使徒言行録の記述にある、百人隊長の場面に行き着くことはない。そこには、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(使10:2)という百人隊長の姿が描かれている。そして、この百人隊長と使徒ペトロとの関りから(10:1~48参照)、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれた。百人隊長のエピソードが伝える信仰の軌跡には、私たち信者が目指す教会の発展が映し出されている。

同じカテキズムの№1382に、「ミサは十字架上のいけにえが永続する記念であると同時に、主の体と血にあずかる聖なる会食でもあります。感謝のいけにえの祭儀は、聖体拝領(コムニオ)によるキリストと信者たちとの親密な一致に向けられたものです。聖体拝領とは、わたしたちのためにいのちをささげられたキリストご自身をいただくことです」と書かれているように、私たち信者は、ご聖体という、「この秘跡の偉大さを前にして」する応答に、「本当に、この人は神の子だった」という十字架上のイエスに向かう百人隊長の第2ステージの言葉を応用すべきではないだろうか。

「ローマ・ミサ典礼書」による司祭の聖体拝領への招きの言葉は、「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」である。「世の罪を取り除く神の小羊」は、洗礼者ヨハネが自分の方へ来るイエスを見て言った言葉だ。ゆえに「神の小羊の食卓」は、イエスの最期の食卓である。ミサの中で、この時私たちは、司祭が掲げたご聖体に、十字架の上に上げられたイエスを確かに見ているのだ。

Maria K. M.

 2025/09/16



213. 完全なキリスト者の体験を味わう過程とそこで得られる実感


前回の考察を振り返ると、マタイとルカ福音書にある百人隊長の言葉は、ローマについての神の計画を知る由もないこの時の百人隊長が、イエスを信じた自分と、ローマの兵隊としての立場との折り合いをつけた言葉であったと言える。彼は、イエスに「従っていた人々」(マタ8:10)や、イエスと長老たちに付いて来ていた「群衆」(ルカ7:9参照)に、家まで来てほしくなかったのである。しかし、百人隊長は、十字架上のイエスが息を引き取った時には、その出来事を見て、「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)と実感するところまできていた。

さらに、聖霊が降臨した後の使徒言行録の記述には、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(使10:2)と書かれた百人隊長の姿がある。この百人隊長と使徒ペトロとの関りから(10:1~48参照)、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれた。ここに描かれた百人隊長の一連のエピソードには、完全なキリスト者の体験を味わう過程と、そこで得られる実感とを見ることができる。イエスを五感で捉えた者の恵みの力である。

このような百人隊長の信仰の成長を、黙示録の前半で辿ることができる。黙示録の1~3章には、百人隊長が、イエスを信じた自分と自分の立場との折り合いをつけたように、手紙というかたちをとって、自分自身と教会の現状との折り合いをつけながら宣教して行こうとする7つの教会の天使たちを描いている。続く4章から始まる新約聖書成立の預言は、百人隊長がイエスの十字架のそばに立ったように、この書を読むすべての人を、イエスの十字架のそばに連れて来るのである。

さらに、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と書かれた百人隊長の姿にあやかるのは、ミサ典礼の場である。黙示録の霊的訓練のルーティンは、ミサ典礼のルーティンと密接に重なるように意図されており、ミサ典礼から出て、次に入るまでの信者の日常の記憶を支え準備する。ミサ典礼の中で信者は、ご聖体と対面する。ここで、ご聖体がイエス・キリストであることを告白し、拝領することによって、「本当に、この人は神の子だった」と言った百人隊長と同じ実感を得る。このルーティンを行くことこそが、完全なキリスト者の体験を味わう過程であり、黙示録の霊的訓練の過程なのである。

百人隊長と使徒ペトロとの関りから、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれたように、宣教を支える黙示録の霊的訓練が後半に向かうと、訓練者は、自身の記憶に入った啓示の言葉と「人間の情報」を区別しながら、自分自身を知っていく工程に進む。黙示録の霊的訓練のルーティンを何度も繰り返すうちに、少しずつ明らかになっていく自分の姿を認めることによって、自分の周囲の見え方も変わって来る。ここから宣教に向かうきっかけが生まれる。さらに「人間の情報」に敏感になって、その働きが見えるようになってくると、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハ16:7~8)と証ししたイエスの言葉を悟り、聖霊と協働する機会に恵まれるようになる。

御父と御子は、新しい預言が、未来の私たち信者の上に実証されるのを待っている。イエスの名によって遣わされた聖霊は、そのために、すべての信者たちが完全なキリスト者の体験を味わう過程と、そこで得られる実感とを与えるために、黙示録を含む新約聖書とミサ典礼を準備した。ゆえに、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(ヨハ6:39)と言ったイエスの言葉は、どこまでも弱さが残る多くの信者たちのものである。続けて、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(6:40)と言った言葉は、人類の希望である。

Maria K. M.

 2025/09/08

212. 完全なキリスト者の体験を味わう過程を知る手掛かり

イエスがご聖体を定め、地上に残した理由は、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」(ヨハ6:40)である。前回考察したように、「子を見て信じる者」になるには、感謝の典礼の中で、聖霊と協働する司祭が会衆に示すご聖体を見て信じる者になること以外にはない。ご聖体に向かって、「あなたは、神の子、キリストです」(マタ16:16、ヨハ11:27参照)と宣言することを、ミサのたびに繰り返すことによって、信者一人一人の記憶に、「子を見て信じる者」となった事実が焼き付いていく。しかしこの重要な場面で、私たち教会は、世界中が百人隊長の信仰を宣言してきた。このテーマは、これから、黙示録がどのようにして完全なキリスト者の体験を味わわせるのか、その過程を考察するにあたって、重要な課題を含んでいるので、もう一度別の角度から考察してから先に進むことにする。 

ヨハネ福音書は、イエスとピラトのやり取りを詳しく伝えている。その最期の時に、イエスがローマ総督ピラトと関わる場面を残すことによって、神が、ローマをキリスト者のものにするという狙いがあったことを印象付けようとしたと捉えると、すべてがはっきりとしてくる。イエスは、ヤコブの井戸で出会ったサマリアの女に、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハ4:21)と証しした。それは、結果的にローマだった。エルサレムが崩壊することを知っていた神は、新しい契約の上に、イエスが生み出し、聖霊が設立する教会のために、初めからローマに新しい都を計画していた。 

百人隊長のエピソードは、マタイ福音書とルカ福音書にある。僕の癒しを願ったルカ福音書の百人隊長は、イエスに家に来てほしくないという状況に遭遇した。イエスと長老たちに加えて「群衆」も付いて来ていたからだ(ルカ7:9参照)。そこで彼らが、「その家からほど遠からぬ所」(7:6)まで来たとき、百人隊長は、友人たちを送って、次のように言わせて、イエスの来訪を断った。マタイ福音書の場合は、イエスに付いて来たのは、「群衆」ではなく「従っていた人々」(マタ8:10)であったが、それでも百人隊長は、イエスの来訪を断っている。

 「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(ルカ7:6~8)。 

神がローマに新しい都を計画していたことを念頭に置いてこの伝言を聞くと、百人隊長の言葉は、そのままローマ帝国の未来にあてはめることができる。イエスはこれを聞いて驚き、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(ルカ7:9)と言った。ローマの兵隊であった百人隊長が、預言者のように語ったからだ。「主よ、御足労には及びません・・」とあるように、ローマ帝国は、十字架上で亡くなったイエスを迎え入れることはない。しかし、イエスがローマ帝国の刑罰である十字架刑を受けたことは、ローマにイエスの名を刻印することになった。こうして、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」という言葉は実現した。御言葉は、パウロより先にローマに辿り着き、すでにその民に働きかけていた(ロマ1:6~7参照)。 

また、百人隊長の軍務体験から出た言葉は、一見平凡なものに見えるかもしれない。しかし、その言葉の裏には、当時のローマ帝国が持つ法律や軍事に関する、合理的なシステムがあった。そこに、神が十字架上で成し遂げた新しい契約を生きる教会のために、都をローマに求めた理由がある。神の子が地上に来たために起こる、人類の急速な進歩を受け止める器が、ローマ人の文化や伝統、気質にはあったのだ。今、歴史を経た私たちは、新約聖書の中に新しい預言があったことを知る。 

イエスの驚きの言葉は、百人隊長の僕に届き、僕は元気になっていた。イエスを信じる百人隊長の気持ちは、直観的で純粋であった。それはイエスが、「また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」(ルカ4:27)と言って引用した、アラムの王の軍司令官ナアマンのようだ。彼が、妻の召使のイスラエルの少女から聞いて預言者エリシャを信じたように、百人隊長は、長老たちからイエスのことを聞いて信じたのだ。 

イエスが、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」(ヨハ6:44~45)と言った言葉は、旧約の預言が実現したことを証ししている。当時イエスが関わった人々は、御父の引き寄せる力によってイエスのもとに来ることができた人々であった。百人隊長もその一人であり、その信仰は、旧約の民の信仰の延長線上にあった。 

しかし、百人隊長は、その信仰に留まっていることはできなかった。後にイエスが、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハ12:32)と証ししたように、十字架上のイエスに、その見張りを一緒にしていた人々と共に引き寄せられ、「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)と言うことになったからだ。ルカ福音書では、「『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」(ルカ23:47)と書かれている。 

御父に引き寄せられてイエスのもとに来た百人隊長は、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。・・ひと言おっしゃってください」と言った。それは、旧約の民の預言に支えられた信仰であった。やがて、十字架上のイエスに引き寄せられ、「本当に、この人は神の子だった」と言った言葉は、まさにイエスが今成し遂げたばかりの、新しい契約に向かっていた。さらに、聖霊が降臨した後の私たち信者は、ご聖体を前にして、「子を見て信じる者」の信仰を告白するのである。ここに、黙示録が完全なキリスト者の体験を味わわせる過程を知る手がかりがある。 

Maria K. M.

 

(お知らせ)

 今回の内容は、本ブログ執筆者が、インターネットマガジン「カトリック・あい」に投稿した内容と一部重複しています。 「パトモスの風


 2025/09/01



211. まず、世の誤りを明らかにしておくこと


前回話したように、「イエス・キリストの黙示」(黙1:1)は、黙示録を霊的訓練の書として受け取る一人一人の信者に働きかけ、新約聖書の他の書と一体となって、聖霊の霊性にまで導き、完全なキリスト者となる体験を味わわせる。このことが、聖霊によってなされることから、その過程を考察する前に、まず、聖霊についてイエスが最後に証しした、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハ16:7~8)という言葉を確認しておきたい。

「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(ヨハ16:9)とある。それは、イエスが、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」(6:35~36)と言った言葉から明らかになる。この箇所でイエスが、「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言った言葉は、未来の私たち信者にも向けられていることに気付かされる。

イエスは、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(6:40)と言った。そして、その仕方を次に具体的に語ると、ユダヤ人たちは混乱状態に陥った。しかしイエスは、さらに、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:54)と言って話を進めた。これを聞いていた弟子たちの多くが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6:60)と言ったとある。彼らは、生きているイエスが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」と言ったのを聞いて、それを信じることができなかった。彼らは、「大変な思い違い」(マコ12:27)をしていたのだ。これが「世の誤り」である。

私たち信者は、パンとぶどう酒のかたちを取るご聖体を見て、「わたしが命のパンである」と言ったイエスの言葉を信じているだろうか。ご聖体が生きているイエスだと言えるだろうか。言えるのであれば、それをどこで証しするのだろうか。それは、イエスの名によって遣わされた聖霊が、司祭の手を通してミサの中で明らかに示すご聖体を前にしてである。信者たちが、ご聖体を前にして、「あなたは、神の子、キリストです」(マタ16:16、ヨハ11:27参照)と宣言する場面がないなら、それは「世の誤り」に惑わされているからだ。

イエスは、ファリサイ派の人々に、「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」(ヨハ8:17~18)と言った。ミサの中で教会全体がご聖体を「神の子、キリストです」と宣言することは、信者一人一人が御父と御子の証しに加わって、聖霊と協働して全世界を救うほどの業になる。ご聖体を前にした私たちが、もしそれを宣言しないでいるなら、イエスから「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言われ続けるだろう。それは罪について問われているのである。

「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」(ヨハ16:10)である。ヨハネ福音書を読むと、イエスが、「見る」という感覚の働きと「信じる」ことの関係に特別に注意を払っていたことが分かる。イエスがご聖体を定め、地上に残した理由は、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである」(6:40)。「子を見て信じる者」となること、すなわち、感謝の典礼の中で、聖霊と協働する司祭が会衆に示すご聖体を見て信じる者になることは、私たちが、ご聖体に向かって、ご聖体が「神の子、キリスト」であると宣言したとき実現する。この宣言をミサのたびに繰り返すことによって、信者一人一人が「子を見て信じる者」となったという認識を固めていくのである。

しかし、イエスを見ないで信じたにもかかわらず、御父のみ旨を完全に成し遂げたイエスのイメージが頭から離れず、ご聖体をよそに、そのイエスを知りたい、そのイエスを見たい、そのイエスと合一したいという思いに惑わされる者がいる。「世の誤り」からくるその思いは、義について「もはやわたしを見なくなること」と言ったイエスの言葉に反して、見たこともないはずのイエスの姿をその人に感じさせる。それは、その人自身の執拗な欲求と欲望が見せているものだ。これらの欲求や欲望は、人の最も高次の欲求と言われる自己実現の欲求から生じる。そしてそれは、一度達成されたと感じても終わりがなく、生涯にわたってそのプロセスを幾重にも編み出す。その都度あらゆる欲望を総動員して、「世の誤り」を認識せず、「大変な思い違いをしている」(マコ12:27)信者たちへ向かう。そして、彼らがこの自己実現の欲求を自分と同一視すれば、自己実現の欲求は、その人の支配者となる。

イエスは、「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」(ヨハ16:11)と証しした。自己実現の欲求に支配された信者たちに、それを知る機会を、黙示録の霊的訓練は与える。この訓練を続けるうちに、「鋭い両刃の剣を持っている方」(黙2:12)に、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通されて、自分の心の思いや考えを見分けることができるようになっていくのだ(ヘブ4:12参照)。やがて、自分のあるがままの姿を見る時がくる。イエスは、信者たちが、自身の自己実現の欲求を断罪する言葉を、生きている神の言葉であると気付いて受け取ることを切に願ったに違いない。それが可能となるために、イエスは、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハ16:7)と言ったのである。その弁護者こそが、「神の言葉は生きており、力を発揮」(ヘブ4:12)することを教え、悟らせる聖霊なのである。

聖霊に従って黙示録の霊的訓練を行うこと、それは言い換えれば聖霊と協働して訓練することである。人が聖霊と協働するとき、人は本来持っている可能性を発揮し、真に自分らしく生きることができる。聖霊の霊的訓練によって、やがて私たち信者は、自分がイエスに似たもの、神の似姿になるのを見ることになる。これこそが真の自己実現であり、ここにイエスが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハ14:27)と約束した神の平和がある。

Maria K. M.

人気の投稿