2025/12/29
228. ヨハネ福音書と新約の司祭職 聖霊の花嫁
「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(ヨハ1:33~34)と言った洗礼者ヨハネの言葉の中には、洗礼、堅信、叙階のイメージを通して、やがてイエスが使徒たちに授ける新約の司祭職が現れていた。しかし洗礼者ヨハネは、「お遣わしになった方」の言葉ではなく、「この方こそ神の子である」と証ししている。彼には、「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」という言葉を捉えられなかったに違いない。彼は自分の記憶にない言葉を引き出すことができなかったが、彼の直観は、聖霊が降ってとどまったイエスが神の子だと捉えた。
この事情を、前回考察したマタイ福音書で、イエスが、天の父が現されたことを証しした使徒ペトロの言葉と照らしてみると、もっとはっきりする。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタ16:15)と問うイエスに、ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えた。洗礼者ヨハネも、初めてイエスを見たとき、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハ1:29)と言って、イエスが「メシア」であることを示唆した。そして、イエスが神の子であると証しした。洗礼者ヨハネはイエスを正しく捉えていた。彼は、「聖霊によって洗礼を授ける人である」という「天から与えられた」言葉が、イエスを証ししたのではなく、イエスが御父のもとから担って来たもの、新約の司祭職であったことが、このとき分からなかったのだ。
ヨハネ福音書4章の初めには、「――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――」(ヨハ4:2)という但し書きが添えられている。それは、新約の司祭職をもたらした神であるイエスが、人に洗礼を授けることはないということを、明確に告げている。洗礼を授けていたのは、イエスの弟子たちであった。直観がきく漁師であった彼らは、イエスのなさったしるしを間近に見てイエスを信じ、共にいることでイエスを受け入れていたのである。やがてイエスの最期の食卓で、イエスの聖体制定の御言葉と行った動作、そして、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じた御言葉とが一つになって、新約の司祭職として、彼らの記憶に置かれることになる。
こうして、イエスによって使徒たちの記憶の中に置かれた新約の司祭職は、聖霊降臨後、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって、ミサ典礼の祭壇の上にご聖体を生む。その祭壇は、聖霊と新約の司祭職において婚姻的意味を持つ。そこで使徒たちは、洗礼者ヨハネが、「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハ3:29~30)と言った預言を、祭壇の前で自分のものとして味わうことになる。彼らの記憶から新約の司祭職が引き出され、彼らの記憶は衰え、彼らは無心となって聖霊と協働する人になる。彼らは、無心の内に、自分の内から出るその声を、御言葉に命を吹き入れる聖霊の声として耳を傾け、その声が聞こえると大いに喜び、その喜びで満たされる。
黙示録に登場する「花嫁」は、まさにこのことを示唆している。「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた」(黙19:7)とある「花嫁」は、イエスが地上にもたらし、ミサ典礼の祭壇上で聖霊と結ばれる新約の司祭職である。なぜなら、黙示録の小羊は、「わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である」(5:6)と描写されているように、イエスの名によって遣わされた聖霊だからである。
続けて、「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」(黙19:8)とあるのは、新約の司祭職の言葉と業に命を吹き入れる聖霊の声に耳を傾け、無心となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭の行いを表している。そこで、黙示録には、「それから、天使は私に、『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(黙19:9)と書かれている。
新約聖書の中で、「これらは、神の真実の言葉である」という言葉が該当するのは、イエスがもたらした新約の司祭職を現すために、神が洗礼者ヨハネに授けた、「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」と、天の父が、イエスを証しするために、使徒ペトロに現わされた、「あなたはメシア、生ける神の子です」である。これらの言葉は、常にご聖体に向かっている。ご聖体は、まず、神の子の資格を与えられた信者が、神との真の合一体験を持って、神の子となる道を準備するためにおられる。そして、イエスが死んで陰府に降って死者を救ったように、また、イエスが人として生きておられる間は、追い出す以外に何もなされなかった悪霊を救うために、ご聖体は信者に食べられて、再び死ぬことを繰り返されるのである。
新約の司祭職を授かった男性が御父に願い、「私はある」と言われる神がご聖体としてお生まれになり、信者たちに食べられて死なれる。それは、ただ神があるようにと望み、女性から生まれる人の命に仕えるためである。イエスが、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マコ10:45)と言われたとおりである。
Maria K. M.

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