2026/02/02
233. ヨハネ福音書と新約の司祭職 ヨハネ福音記者の気付きⅡ
前回に続いて、福音記者ヨハネの視点に可能な限り近づき、新約の司祭職の物語を見極めていきたい。イエスは、サマリアの女との対話を通じて、彼女の内奥にあった、神への彼女の信仰が生かされていないという現実への切実な思いを引き出した。イエスはこの女性を、「飲食のテーマ」から「命のテーマ」、そして「礼拝のテーマ」へと移る流れを作って、答えに導いていった。イエスが意図的にこれらのテーマで人々を導くのは、彼が三位一体の神だからだ。彼は、御父のみ旨を任された御子であり、人となっても聖霊がとどまっている御言葉である。ヨハネ福音書の冒頭が創世記の初めの文章と重なるように書かれているのも、ここに理由がある。
神は初めに天地を創造した。1章には「命のテーマ」と「飲食のテーマ」があった。そして2章に入ると、「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(創2:1~3)とあって、「礼拝のテーマ」に移っている。このことと、イエスがサマリアの女に、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:23~24)と言われた言葉とを考え合わせると、神はご自身が「祝福し、聖別された」日を、人と共に祝おうと望まれたことが分かる。
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われたイエスの言葉を現実にするのは、新約の司祭職である。イエスが御父のもとから携えて来た計画を、イエスの弟子たちが受け取るのである。4章の初めに、「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」(ヨハ4:2)と書かれているように、新約の司祭職をもたらした神であるイエスご自身は、司祭職を担うことはない。イエスは、最期の食卓で、弟子たちに聖体制定と共に新約の司祭職を示すことで、それを弟子たちに授けた。
聖霊が降臨すれば、彼らこそが新約の司祭となる。彼らが、「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」(創14:18)のように、パンとぶどう酒を持って来て主の食卓を準備する。だからイエスは、最期の除酵祭の日、弟子たちに過ぎ越しの準備をさせた(ルカ22:7~13参照)。そして、聖体制定によって弟子たちに新約の司祭職を授け(22:14~20参照)、さらに、「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(22:29~30)と言って、王職も授けたのである。使徒継承によってこれらを代々受け継いでいく新約の司祭は、まさにサレムの王メルキゼデクのような永遠の祭司となる。
イエスは、弟子が帰ってきて、入れ替わりにサマリアの女が町へ行ってしまうと、その留守に、弟子たちに、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハ4:34)と告げた。イエスは、御自分を受け入れ、その名を信じて神の子となる資格を与えられた人々に、永遠の命を得させなければならない。その人を終わりの日に復活させるためである。それは、霊と真理をもって父を礼拝する者に養成するということである。イエスと弟子たちの前には、水がめが置いてあった。それは、イエスとのやり取りが終わると町に行ったサマリアの女のものであった。それは、彼女がイエスから水を飲ませていただいたしるしであった。彼女はイエスの養成を受けたのである。
「イエスは、二日間そこに滞在された」(ヨハ4:40)とあるのを見ると、弟子たちは、彼らが不在であったときにイエスがサマリアの女に話されたことの全貌を聞いたことだろう。一方、サマリアの女が不在となった間にイエスが弟子たちに話されたことは、彼ら以外は知らない。このコントラストは、彼らが担うことになる新約の司祭職を守り保つためのものである。次回は、この筋を検討したい。
Maria K. M.
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