イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/08/17


261. ヨハネ福音書と新約の司祭職 私は自分からは何もできない

「私は自分からは何もできない。聞くままに、裁く。そして私の裁きは正しい。それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を求めているからである」(ヨハ5:30)。ここには、ご聖体のイメージがある。イエスは、「私が命のパンである」(6:35)と言われる6章で、前回考察したテーマを繰り返しておられるだけではなく、「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである」(6:38)と言われた。「御心を求めている」ところから、「御心を行うため」へと、話を先に進められたのである。そして、「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである」(6:39)と明らかにされた。 

この言葉は、ヨハネ18章の「それは、『あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした』とイエスが言われた言葉が実現するためであった」(ヨハ18:9)へとつながっている。この時この場面で、使徒たちを一人も失ってはならなかった。聖体制定とそれを継続することを命じた御言葉によって、新約の司祭職を授け、王権を委ねた彼らが、聖霊と協働し、イエスの御業を引き継ぐご聖体を世に現し続け、司祭を産みだす教会を司牧し、世話をして仕えることになるからである(21:15~19参照)。こうして、彼らは生きている人に仕える。ご聖体は、生者も死者も、すべての霊を救っていくのである。御父が引き寄せてくださる力と一つになって、十字架上ですべての人を引き寄せるイエスの力が、ご聖体の内からあふれ出るからである。 

このように6章の「私が一人も失うことなく」という言葉は、18章の場面と連動し、格別に死者がイメージされている。今も、無知の内に死んで陰府で待つ人々は、生きている間に救いの道に招かれる人々よりも、はるかに多いと思われる。そこには死を受け入れずに死んだ者たちもいる。悪霊となってさまようこの人々の霊は、ゆえに死を求めて、生きている人々に取りつこうとする。彼らと共に死を再体験して救われたいのである。しかし悪霊に取りつかれた人は、自分に起こる尋常ではない葛藤に苦しむ。その人にも神が「命の息」を吹き込まれた霊の領域があるからである。 

その苦しみから人を救うために、イエスは弟子たちに、悪霊を追い出す権能をお授けになった。そして、神であっても人でもあったイエスご自身も、現世では悪霊を追い出すだけで、救うことはされなかった。人にはできないということをお示しになったのである。イエスは、人として死んで復活され、私たちに永遠の命を証しされた。しかしそれだけではない。こうしてご聖体という、第二の受肉を起こされ、悪霊となった人々の霊をも引き寄せ救うことを決めておられたのである。この事が起こる場が黙示録にあるハルマゲドンである(黙16:12~1620:7~10参照)。イエスは、御父が与えてくださった人を、まさに一人も失うことなく、終わりの日に復活させる完全な神の計画を実行されようとしていた。 

そこで生きている人々に対して、「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハ6:40)と言われた。御父は、生きている人々が、生きている間にイエスを受け入れ、その名を信じて永遠の命を授かったことを認識にしていくようにと願っておられるのである。ご聖体は、私たちが拝領し、御父の願いを実感するようにご自身をお与えになる。この実感こそが、派遣の祝福と共にミサ典礼が閉祭し、私たちが日常の中に向かいつつも、再びミサ典礼の場に、ご聖体のもとに戻るように私たちを引き寄せる大きな力である。 

私たちが日常の中に向かうのは、そこで聖霊が協働して生きようと待ち構えておられるからだ。聖霊は日常の中で私たちと協働することで、いわば第三の受肉の神秘を起こし、私たちに神の似姿が現れる。そしてイエスの福音を伝播させながら、私たちの霊の領域が肉体と切り離される時、私たちと共にいて、天のミサ典礼の場まで引き上げようとされるのである。使徒言行録に、「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使2:2~3)と書かれたように、イエスの名によって遣わされた聖霊は、私たち信者一人一人の上にとどまっておられる。 

イエスが証しされたように、「私がその人を終わりの日に復活させることだからである」という御父の御心を現実にできるかどうかは、私たちが、子を見て信じ、永遠の命を得る者であることを、いかに自覚し、自分の認識に落とし込めるかにかかっている。ゆえに信者は、自分の救いのためにご聖体を拝領することを強く望む者なのである。しかし私たちは、信者である自分の思いを知って、それを素直に言い表し、実現しようとしているだろうか。イエスは、当時の人々がその業を見ても信じないことを知っておられた。

 Maria K. M.


 2026/08/10


260. ヨハネ福音書と新約の司祭職 死と陰府


ヨハネ福音書5章では、イエスを迫害し、殺そうと思う者たちの内奥に、安息日についての無理解と、神を父と呼ぶことができなかった民の無念さが明らかにされていた。形骸化したモーセの律法に対する思いよりも、繁栄を極めたと伝えられる王たちの時代への憧憬と、いつかローマの従属から解放されて救われる日を願う民の思いを、詩編の朗読の声はつなぎとめていたに違いない。今や、ダビデやソロモン以上に偉大な王となる預言者や救い主が現れることを待ち望む彼らとともに、イエスも会堂に集って、詩編を朗読し、預言の書を開いていたのだろうか。しかしイエスは、新約の司祭職のために全く新しい教えと養成を持っていたのである。そこからすべてが新しくされた。 

前回は、「私の記念としてこのように行いなさい」という御言葉によって、イエスが使徒たちに聖体制定と同時に授けられた新約の司祭職が、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって、ミサ典礼において、イエスが臨席された最期の食事の場面を現在化させることから、ミサ典礼は、信者たちがその食卓にあずかるためだけではなく、世界中の人々が囲む食卓に向かって捧げられているということを考察した。そしてそれは、十字架上で成し遂げたただ一度の死によって、人類のすべての罪を贖われたイエスが、陰府に降り、無知のために、死んでも苦しむ人々の霊を救われたその御業を、私たち信者がご聖体を拝領し続けることで、継続させるためであると考えた。そして、このことを伝えるペトロの手紙の箇所を取り上げ、確認した。 

マタイ福音書には、イエスが十字架上で亡くなった後、「その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人に現れた」(マタ27:51~53)という描写がある。ヨハネ福音書5章でイエスは、それを裏付けるような教えを語っている。「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える」(ヨハ5:21)と言われているからである。その対象者は、死んで墓に入っていた者である。生きている者には、すでにご自身の教えがあるからだ。そこで、「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている」(5:24)と言われた。 

死んで墓に入った者については、次のように言われた。「よくよく言っておく。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。このことで驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く。そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう」(ヨハ5:25~29)。この言葉は次の黙示録の「第二の死」と深く関わっている。 

「また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた」(黙20:11~15)。 

ご聖体は、それを拝領する私たち信者を、神のひとり子と一つに結びつけるとともに、それを通して、教会に一致をもたらす。ご聖体はまさに信者個々人と教会を生かすいのちの糧である。しかし、それだけではなく、ご聖体が私たち信者に食べられることによって、そこに現存するキリストは、ふたたび陰府に降り、そこで苦しんで待つ死者の霊を救いに招くことができる。ご聖体を拝領する私たちには、そのための機会をキリストに供することができるのである。 

ヨハネ福音書5章のこのテーマの終わりにイエスは、「私は自分からは何もできない。聞くままに、裁く。そして私の裁きは正しい。それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を求めているからである」(ヨハ5:30)と言われている。次回はここから考察を進め、6章で起こったことをしっかり検証していきたい。「私は自分からは何もできない」という御言葉に、命のパンであるご聖体のイメージがあるからだ。 

Maria K. M.


 2026/08/03


259. ヨハネ福音書と新約の司祭職 神の食卓へ

イエスは最期の食事の席で使徒たちに、「私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)という御言葉によって、聖体制定と同時に新約の司祭職を授けられた。そして、「私の父が私に王権を委ねてくださったように、私もあなたがたにそれを委ねる。こうして、あなたがたは、私の国で食卓に着いて食事を共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を裁くことになる」(22:29~30)という御言葉によって、ご自身の王権を使徒たちに委ねられた。その王権は、天使がイエスの母に、「神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(1:32~33)と告げた王権である。この言葉は、それを委ねられた使徒たちによって、新約の司祭職が永遠に継承されることを保障している。 

聖霊は、このような新約の司祭職を信者たちが受け取ることができるように、彼らの感覚を、無意識の内に、イエスが準備されたミサ典礼へ向けるための暗黙知を必要としていた。そこでヨハネの黙示を用意されたのである。その訓練は、7つの預言(下記図参照)を繰り返し通過するループの中に日常的に入ることで、ミサ典礼に向かう上で最も大きな障害となる「人間の情報」を徹底的に区別するように組まれている。さらに、信者たちがミサ典礼を日常の軸に据え、そこに通う道を具体的な「イエスの道」として認識できるように、7つの幸いが導いていく。第1の幸い(黙1:3参照)が告げているように、黙示録の訓練は、感覚を通した刺激によって、無意識の内に、「イエスの道」を進む行動を促すための合図や命令を起こす、暗黙知となることができる。それは黙示録が、新約聖書の内容を示唆し、その正典としての完成と、ミサ典礼の完成を預言しているからである。 

旧約の民は、聖なる神との交わりの中に生き続けられるように、繰り返し犠牲を献げ、民のために執り成しをする祭司職を授かっていた。しかし、祭司職を委ねられた者たちの信頼性に不安を持った民は、神に王を求め、与えられた王にすべての期待をかけた。やがて王と民は、救い主を求める声を上げた。詩編は、王と民の声を無意識の内に一つにし、彼らが、未来の救い主へ希望を向け続けることで、神との交わりを保つための拠り所であった。ゆえに、すでに新約の司祭職を授かり、神の国に向けてミサ典礼を完成しようとしている現代の信者たちの訓練の書として用いる意味は全くない。旧約聖書は、信者の教養の一環として必要に応じて知らしめる必要はあるとしても、それを信者の記憶に刻みこむような養成をしてはならない(ルカ5:36~39参照)。 

「私の記念としてこのように行いなさい」という御言葉によって、イエスが使徒たちに聖体制定と同時に授けられた新約の司祭職は、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって、イエスが臨席された最期の食事の場面を現在化させる。それは、ただ一度の死によって、人類のすべての罪を贖われたイエスが陰府に降り、罪の結果によって死んでも苦しむ人々の霊を救われたそのみ業を、継続させるためである(マタ27:51~53参照)。ペトロの手紙がそれを次のように伝えている。 

「キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました。これらの霊は、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たちのことです」(一ペトロ3:18~20)。 

「神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たち」として死んでいく人々は、今も大勢いる。「あなたがたを神のもとへ導くためです」とペトロが言っているように、私たち信者も決して例外ではない。ミサ典礼は、「私の国で食卓に着いて食事を共にし・・」とイエスが言われたように、本質的に食卓を囲んで集まる行為である。しかし、その日が来るまでは、私たち信者は、ご聖体を拝領することによって、キリストが捕らわれの霊たちのところへ行って宣教される機会を供することができるように、主の食卓を囲みながらも、主の十字架のもとに立ち続けるのである。 

本ブログでも考察したアッシジの聖フランシスコが出会ったサン・ダミアーノの十字架は、それらを語りつくしている。イエスの十字架の周りを囲む白いレースの縁取りのような模様は、イエスの足の下で途切れ、その先に続きがあることを伝えている。ミサ典礼が、教会に集う会衆だけのためではなく、世界中の人々が囲む食卓に向かって捧げられていることを暗示しているのである。そこには、私たちの福音を宣べ伝える熱意が足りないために、死んでも待っていなければならない人々もいるだろう。十字架上から遠くを見つめるイエスの眼差しには、次の御言葉が秘められている。 

「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる」(ヨハ10:14~16)。 

Maria K. M.


(お知らせ)インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。  「パトモスの風⑭


 2026/07/27


258. ヨハネ福音書と新約の司祭職 ヨハネ福音書5章

ヨハネ福音書は5章から、「神の置かれた敵意」として誕生されたイエスが(ルカ2:34~35参照)、「人間の情報」と本格的に対峙される様子を描いていく。ヨハネ福音書には、他の福音書に比べて圧倒的に「ユダヤ人」という言葉が多い。ヨハネ福音記者の同胞に対する熱い思いには、イエスを受け入れず、その名を信じようともしない彼らについて、無念の思いが強かったのではないだろうか。それは彼が、ヨハネ福音書に流れる新約の司祭職という伏流水が、創世記の物語にその源泉を持つ旧約の祭司職を完成し、神の計画を実現するものであったと悟っていたが故であった。ヨハネ福音書は、1章の冒頭から、創世記を想起させるかたちで、その思いを綴っている(ヨハ1:1~18参照)。 

創世記で神はエデンの園から人を追放し、命の木に至る道を閉ざした後、「人間の知識」を守るために「神の置かれた敵意」が人の内奥で働くに任せた。その一方で、ご自分の目にかなう人を見出し、使命を与え、人が神との関係をつなぎとめるように導いていかれた。こうして一つの民となっていった人々は、モーセの時代に与えられた神の名と祭司職と律法を守ってきた。ダビデとソロモンの時代の後、捕囚の苦難を経ても、彼らはそれらをどこまでも保持し続けてきたのである。第二神殿を建立し、イエス誕生後も続いていたその工事のように、そこには、神殿への民の一途な思いがあった。しかし、神である御父の御心を担った御子がイエスとして地上にその姿を現した時、彼らの思いは、すでに神の思いと一つではなかった。 

ヨハネ福音書5章には、初めにイエスが安息日にベトザタの池で病人を癒した出来事が書かれている。それをきっかけに、「ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた」(ヨハ5:16)とある。イエスは彼らに、「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」(5:17)と答えられた。福音書は、「このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである」(5:18)と書いて、彼らの気持ちが、「迫害し始めた」から「殺そうと付け狙うようになった」に変わったことを示し、その変わり目が、「神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされた」というところにあることに注目した。ここには、本ブログでこれまで何度も検証してきたように、構造的な問題が隠されている。 

当時のユダヤ人たちにとって、イエスが、神を自分の父であると言われたことが、大きなショックであったことを、これらの出来事は物語っている。神がダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サム下7:14)と約束したにもかかわらず、ソロモンが神から離れたために実現しなかった歴史を(王上11:1~10参照)、彼らは承知していたのである。ヨハネ福音書は、「そこで、イエスは彼らに答えて言われた」(ヨハ5:19)と続けて、強い口調でイエスが御父と御子の関係を語られた言葉を、5章の最後まで書き通した。イエスがこれほどまでに証ししないではいられない問題を、彼らが抱えていたからである。 

ユダヤの人々は、幼いころから、詩編を耳で覚え、旧約聖書を暗記するように身に付ける環境にいた。その中で、すでにソロモンの時代から、神とイスラエルを花婿と花嫁、夫と妻になぞらえる発想が生まれ発展していた。後に雅歌を、神とイスラエルの愛として読む伝統も定着していく。神と親子の関係を築けなかった民の苦肉の策であったに違いない。しかし、神と民の関係に、花婿と花嫁、夫と妻という婚姻のイメージを当てはめることは、大きなリスクを伴っていた。そこには神と対等であるとの思いが、隠れて芽を出すからである。家父長制度のもとでも、婚姻の日は、花嫁は花婿と共に祝われ、等しい関係にあると感じることができる。そのように、男女の婚姻にたとえた神との関係理解は、神を礼拝しつつ、礼拝を司る者たちが、神へ向けるべき民の眼差しを、自分たちに向けさせようとする動機となる(マタ23:1~39参照)。自分が神と等しい者であるかのような錯覚に捉えられていくのである。 

このようにして、福音書に書かれた、「神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである」というユダヤ人たちの気持ちには、二重の怒りが込められていたことがわかる。神と父と子の関係を結べず、神の子とされることのなかった彼らの現実を見せられた怒りと、神の民への愛を、花婿の花嫁への愛、夫の妻への愛にたとえる婚姻の神秘の中で、神と等しい者として神に愛されるというフィクションの世界を破られたという怒りである。それらは、イエスを殺そうと思うほど強い感情であった。彼らは、慣れ親しんだ詩編や、旧約聖書の文言から、婚姻神秘主義的な神学を産みだしていた。その結果、モーセから続く旧約の祭司職は、ダビデやソロモンの時代を経て、そのあり方を変えていき、イエスが公生活を始めた頃には、新約の司祭職を接続することができないものと化していたのである。 

同胞と同じように、詩編を唱え、旧約聖書を身に付けていたにもかかわらず、新約の司祭職を悟っていたヨハネ福音記者は、彼らに対する無念さを「ユダヤ人」という言葉に込めたのだと私は思っている。その思いは、アダムに示唆した祭司職の完成と(創3:19参照)、ダビデに与えた希望を実現すべく(サム下7:14参照)、新約の司祭職をもたらしたイエスのものでもあったのではないだろうか。それは確かに、ダビデの末裔として来られ、イスラエル人として同じ教育を受けたイエスの無念さでもあったに違いない。ヨハネは、ユダヤ人として自分が生まれ育った民がはまり込んでしまったこれらの問題が、イエスがもたらした新約の司祭職とはけして相容れないものであることを、初めに悟ったのである。それはまさに旧約脳と新約脳と言えるほどに、まったく異なるものとなっていたのであった。 

Maria K. M.


 2026/07/20


257. ヨハネ福音書と新約の司祭職 神の現実

人は、地を従え、あらゆる生き物を治め、霊と真理をもって神を礼拝するために創造された。神が聖別された日を神と共に永遠に祝い、その食卓を囲むのである。そのために、神は、人が「我々のかたち」を現すように、人に権力や富、権威が付与された肉体の自発性を授け(本ブログ№252参照)、この自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として、人を創造された。この常態において人は聖霊と協働することができ、それによって、神の似姿を現わすことができるのである。唯一の神のかたちを現すために独りで生まれ、独りで死んでいく肉体を持つ人にとって、人が三位一体の神の姿を現すために協働される聖霊は、人の存在の初めから、無二の隣人であり、人は、養成されれば、生涯、聖霊と協働して生きることができるのである。 

創世記で、「人」が独りであったとき、聖霊と協働して体験したことは、現代の私たち信者にも受け継がれている。「神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった」(創2:15)とある描写は、私たちが、聖霊と協働することで、自分の記憶を耕し守ることになることを想起させる。「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(2:16~17)とは、「人間の情報」を区別せず取り込んで自分の「人間の知識」にしたら必ず死ぬことになるということである。「必ず死ぬ」とは、人本来の常態を失い、聖霊と協働するという最高の幸せに与ることができなくなることを意味している。 

「人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)という記述は、まさに聖霊と協働する人の体験である。続けて、名を付けた生き物の中には、「自分にふさわしい助け手は見つけることができなかった」(2:20)という事実は、人に相応しい助け手として、同じように聖霊と協働するように養成された人との出会いがあることを物語っている。これらの理解が私たちになければ、「裸であることを誰があなたに告げたのか。取って食べてはいけないと命じておいた木から食べたのか」(3:11)と、神から言われたアダムのように、私たちにも神への敵意が起こる可能性がある。なぜなら、「取って食べると必ず死ぬことになる」という言葉が、自分に実現しなかったということの真の意味を、悟ることができない者となっているからである。 

神である主は、「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創3:15)と言われ、「神への敵意」が起こる前に、「神が置かれた敵意」が働くようにされた。それは、それによって「神への敵意」を阻止することが、罪を食い止める強力な手段となるからである。「神への敵意」が「神が置かれた敵意」を乗り越えて隣人に向かっても、「神が置かれた敵意」の効果が、人を神に連れ戻すこともある。さらに、この御言葉は、御子が人となって地上に遣わされることを決定づけた。「頭を砕き」とは、悪魔やサタンと呼ばれるものが「人間の情報」であることを、イエスが、人が分かるように暴かれたことである。「かかとを砕く」とは、「人間の情報」によって、次のようにイエスの宣教の歩みが止められ、十字架上で救いを成就する方向に向けられたことである。 

「イエスは言われた。『あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』」(ヨハ6:70「夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた」(13:2「ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。イエスは、『しようとしていることを、今すぐするがよい』と言われた」(13:27)。 

結果的にアダムの神への敵意は、隣人である妻に向けられた。彼は、彼女に自分で「エバ」と名を付けた。その名で呼ぶことによって、妻を自分の支配下に置くことになる。人は、隣人を支配することはできない。すべての被造物は、神に由来する自発性を持っている。それゆえその振る舞いには、神に従う自由がある。人は誰でも、権力や富、権威ある人としての肉体をもって、聖霊と協働することができる者として創られた。アダムは、そのような隣人の、神に従うための自発性を貶め、支配下に置いて、隣人と協働する真の隣人である聖霊を冒瀆したのである。 

「神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた」(創3:24)。イエスは、聖霊を冒瀆した人々を救い、命の木を現わすためにも、地上に遣わされたのである。 

Maria K. M.


 2026/07/13

256. ヨハネ福音書と新約の司祭職 神が置かれた敵意

人は、複数になると、その間に偶発的に情報(「人間の情報」)が行きかう。それを自分と区別せず自分の知識(「人間の知識」)として取り込んでしまうと、そこから善か悪のイメージを受け取り、錯覚が起こる。善のイメージが受け取られた場合、人の肉体は他の動物と同じように単体であるにもかかわらず、誰かと一体になったという錯覚を持ち、大きな快感が生じる。神が「人」から男と女を創造された時、神が連れて来た「女」を見て「男」が言った言葉、「これこそ、私の骨の骨、肉の肉」(創2:23)にそれを見ることができる。創世記の初めの「人」が、聖霊と共に土を耕したり、動物に名を付けたりしたように、神である主は、人が聖霊と協働して神の似姿を現わすために、人に、無意識の内に聖霊と協働する体験を授けられるからである。 

人の生殖機能に置かれた自発性は、他の動物と同じように種を存続させ、全能の神の永遠性と真理である神の自由とを具現している。動物たちにとって生殖機能に置かれた自発性は、彼らの他者との関りやつながりを、種を存続させるという一点に集中させる。しかし、神のかたちに創造され、聖霊と協働するに相応しく行動するために、権力や富、権威が付与された人の生殖機能に置かれた自発性には、種の存続のみならず、権力や富、権威に向かう強い嗜好がある(本ブログ№252参照)。このような嗜好を帯びた自発性は、その人の「人間の知識」とつながっている。「人間の知識」が、「人間の情報」を取り込んでいる状態でこれらの嗜好が「人間の知識」に伝達されれば、承認欲求や自己実現などの高度な欲求へと発展し、同時に錯覚からフィクションへの移行を伴い、行為に至る。創世記の初めの「女」に起こった欲求は、「神のように善悪を知る者となること」(創3:5)であった。 

創世記1章では、創造主を「神」と呼び、三位一体の関係によって成された創造のみ業が、唯一の神の御業であることを示した(創1:1~2:3参照)。2章では、御父と御子を表すために「神である主」と呼び、人が三位一体の神の関係に入って、聖霊と協働する様子を示していた(2:4~2:22参照)。一方、創世記3章では、人が聖霊と協働できる状態の時、「神である主」と記載し、人ができない時、「神」と書くことによって、その時の人の状態や状況を明らかにしているように見える。そこで、「人」に対して、初め「神である主」が当てられ(3:9~10参照)、次には「神」が当てられていること(3:11~12参照)、「女」には、「神である主」が当てられていることに注目すると(3:13~15参照)、それを確認することができる。 

「人」は、おそらく、「女」と情報を共有するうちに、それを区別せず、自分の知識として取り込んでしまい、「私は裸なので、怖くなり、身を隠した」(創3:10)という体験の渦中にいた。やがて彼の、「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです」(3:12)という言葉は、神への怖れが、敵意に変わったことを示している。「女」にも起こったように、彼の「人間の知識」に、人の生殖機能に置かれた自発性に付与された、権力や富、権威に向かう強い嗜好が伝達されたのである。この時、「人間の情報」を取り込んでいる状態の彼の「人間の知識」は、神の前にいるに相応しく、その人格を保つことができなかった。 

そこで、「神である主」は「人間の情報(「蛇」)」に言われた。「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創3:15)。ここで、「神が置かれた敵意」は、「人間の知識」にあって、「人間の情報」が侵入するのを阻む砦のようである。それは、人の霊の領域を「人間の情報」から守る。しかし人が、その砦を超えて「人間の情報」を取り込み、自分の「人間の知識」としてしまえば、苦しむことになる。「人間の情報」を取り込んだ「人間の知識」と「神が置かれた敵意」との間に、矛盾が起こるからである。この戦いが激しくなり、その矛盾によって、自分の錯覚から生み出されたフィクションの世界が打ち破られようとするとき、人は、その造り主に敵意を向けることで、それを阻止しようとする。 

この造り主への敵意はやがて、現実的に解決を見るために、隣人への敵意に変質していく。隣人への敵意は、いわば聖霊に敵意を向けたも同然である。聖霊こそが、第一の隣人だからである。人は、「我々のかたち」を現すために、権力や富、権威を付与された肉体の自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として創造された。この状態において、人は聖霊と協働することができ、神の似姿を現わすことができる。聖霊は人にとって、まさに無二の隣人である。時が満ちると、「神が置かれた敵意」は、イエス・キリストとして誕生した(ルカ2:34~35参照)。律法の専門家が、イエスにどの掟が最も重要かと問うた時、イエスは、次のようにお答えになった。 

「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ」(マタ22:37~40)。「あなたの神である主」とは御父と御子である。自分のように愛すことのできる隣人とは、聖霊である。人が、聖霊を無二の隣人として自分のように愛そうとするとき、神の愛がすべての隣人に向かうのである。 

Maria K. M.


 2026/07/06

255. ヨハネ福音書と新約の司祭職 善悪の知識の木

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47)。イエスのこの言葉は、現代の私たち信者に、御父への完全な信頼を持って歴史を見直すようにと、強く迫ってくる。そこで私は、新しい視点から2年前に書いた「善悪の知識の木」に関わる結論を見直さなければならないことが分かった。 

私は、創世記3章で女が蛇に言った、「私たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです」(創3:2~3)という言葉から、その時、初めの二人が、「園の中央にある木の実」、すなわち「命の木」と「善悪の知識の木」から取って食べていなかったと考えた。しかし、創世記全体が、イエスがいつもしていたように、神の計画に関わる、いわばたとえとして、語られているという側面をしっかり捉えてみると、そうではなかった。その時、彼らは、「命の木」や「善悪の知識の木」とつながるという認識を持っていなかったのである。 

人は、「我々のかたち」を現す人の肉体の自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として創造された。この状態において、人は聖霊と協働することができ、神の似姿を現わすことができる。それは、その人の「人間の知識」がすでに「御言葉(命の木)」とつながっている状態であり、創世記は、それを「食べる」という言葉で表したのである。そこで1章で現れた「神」は、2章では、「神である主」となって、「人」が聖霊と共に、エデンの園を耕し、守りながら、完全に神の似姿を現わすために、聖霊が人に働きかけられるようにされた。聖霊は、そのように働きながら「人」を養成し、「人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)というところまで、「人」を成長させたのである。 

ここで「人」は、あらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に接触しても、それらに発現している情報に惑わされなかった。聖霊と協働していたからである。そこに至るまで情報に惑わされないこと、それこそが、神である主が、「命の木」とともに「善悪の知識の木」を生えさせた理由であった。被造物全体が発する情報は、それを受け取る人の状態や状況によって、同じ情報であっても、善とも悪ともなって捉えられ、「人間の情報」となって、更に拡散していく。それらの情報を、人が「善悪の知識の木」として観ることができれば、人は、自分に近づく情報を区別するようになる。「善悪の知識の木」は、人の霊の領域で、「人間の知識」が、すべての被造物の情報を区別し、それを取り込まないように建てられた警告塔の働きをしているのである。 

ある時イエスは、「善い先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(ルカ18:18と尋ねた人に、「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない」(18:19)と答えられた。善は常に「神おひとり」である。受け取る人によって善にも悪にもなる「人間の情報」は、「善悪の知識」である。しかし、私たちは、善と悪を識別しようとしてしまう。そして、それ自体が、「人間の情報」を自分の「人間の知識」と区別しないで取り込んでしまった結果であることには、なかなか気づかない。情報は神から出たものではない。神の被造物ではないが、神のみ手の写しであるという特徴を持つすべての被造物から発現するものである。この影響が問題となるのは、唯一神の似姿に創造された人だけである。 

複数の人が関わる中で偶発的に発現し、拡散される「人間の情報」を自分の知識に取り込めば、「人間の知識」は、その情報とそこに紐づけされている様々な関係性に集中し、いわば乗っ取られてしまう。そうして、「御言葉(命の木)」を介して「神の自発性(命の息)」とつながることができなくなる。それは、聖霊と協働して現れる神の似姿を失ってしまうということである。「ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創2:17)という表現は、そのことを表しているのである。警告塔である「善悪の知識の木」は何もしない。問題は、「人間の知識」が自発性とつながり、行為に至ることにある。それは、私たち人が、自分の方から自分を知って対処するものだ。だからイエスははっきり言われるのである。 

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47)。 

Maria K. M. 

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 2026/06/29

254. ヨハネ福音書と新約の司祭職 人間の情報

神である主は、人の記憶に「土の塵」(創2:7)で霊の領域を造り、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながるようにされた。しかし私たちの「人間の知識」が「人間の情報」を自分と区別することなく取り込むことによって起こる錯覚とフィクションは、仮想現実を造る。その中に留まる人の「人間の知識」は、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなる。そうして信者でも、「善悪の知識の木」にすがり、それに憑依し、遂には行為に至る。イエスが、「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハ15:6)と言われた言葉は、信者の誰にも当てはまるのである。

イエスが、「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハ8:12)と言われた言葉から始まった、ファリサイ派の人々とユダヤ人たちとの問答の後(8:13~30参照)、ご自分を信じたユダヤ人たちに次のように言われた。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(8:31~32)。「私の言葉にとどまる」とは、人の霊の領域で、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、「御言葉(命の木)」を介してつながっている状態のことである。このようにつながって初めて、人は真理を知り、真理は人を自由にする。人が真の自由を感じるのは、神の自由をもたらす聖霊と協働する時である。その時、人は、三位一体の神の関係性に招き入れられ、無心となって神に集中し、神の自由に与るのである。

 しかし私たちの「人間の知識」が、「人間の情報」を自分と区別することなく取り込むことによって起こる錯覚とフィクション、そこから造りだされる仮想現実は、人を神の恵みに与らせないどころか、最期には、「火に投げ入れられて焼かれてしまう」という結果に至らせる。「人間の知識」はなぜ「人間の情報」を取り込むのか。前回考察したように、動物も相応の知識を授けられているが、彼らは、生殖機能に置かれた自発性の働きに身を委ねて生涯を終えるように計画されている。動物たちにとって、他者との関りやつながりは、種を存続させるという一点に集中している。その目的のために同一種の個体間で情報が行きかい、神から相応に授かった知識が発達する。

人においては、前々回考察したように、第一の川ピションにたとえられた自発性を持つ生殖機能の働きには、子孫だけではなく、権力や富、権威を産みだす強い嗜好がある。その嗜好は、愛情、親密さ、快楽を求め、承認欲求や自己実現などの高度な欲求へと発展し、人の霊の領域で、「神の自発性(命の息)」と「御言葉(命の木)」を介してつながっている「人間の知識」に突き付けられるのである。それに応えようとする「人間の知識」は大きな混乱を抱え、他者との関りやつながり、すなわち「人間の情報」を求める。そうこうするうちに「人間の知識」は、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなる。 

ヨハネ福音書には、「過越祭の間、イエスがエルサレムにおられたとき、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、人について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハ2:23~25)とある。人の心の中にあるのは、「人間の情報」である。神であるイエスが、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたように、神の似姿に創造され、霊の領域を持つ人は、何が自分の心の中にあるかを知っている必要がある。このような信者は、イエスを受け入れ、イエスの名を信じて神の子となる権能を与えられた状態を保持する可能性がある。「自分の心の中」とは、「人間の知識」の中と言うことができる。 

これらの考察の中で、私がいつも「人間の心」と言わず、「人間の知識」と言うのは、今回のように、「イエスご自身は、彼らを信用されなかった」ということの原因が「人間の情報」からくるので、それに対応するのは「人間の知識」だと考えるからである。「人間の情報」を取り込んだ「人間の知識」は、イエスの言葉を聞かない。初めイエスを信じた人々が、イエスが語った真理が自分たちの嗜好とぶつかったために、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなると、イエスを信じなくなった。私たち教会は、次のイエスの言葉を胸に刻まなくてはならない。 

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47 

Maria K. M.


 2026/06/22


253. ヨハネ福音書と新約の司祭職 自発性と知識

前回考察したように、主なる神は人の記憶に「土の塵」(創2:7)で霊の領域を造り、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながるようにされた。神が、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」(1:26)と言われた「我々のかたち」とは、唯一の神であること、「我々の姿」とは、神が霊であり、父と子と聖霊の三位一体の関係にあること、この二つの神の特徴を備えた者として人は完成した。神は人にこれらを備えただけではなく、神ご自身である三位一体の関係に人を招き入れることを望まれた。そこで創世記1章では、創造主を「神」と呼んで、三位一体の関係によって成された創造のみ業が、唯一の神の御業であることを強調したが、2章では、御父と御子を表すために「神である主」と呼んで、人が三位一体の神の関係に入って、聖霊と協働する様子を強調した。 

創世記の、「神である主は、見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木を地から生えさせ、園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えさせた」(創2:9)と書かれた「見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木」は、私たち信者にとっては新約聖書である。これを「食べる」ということは、朗読して聞くということ、「あらゆる木」とあるのは、それがすべての人に対応していることを告げている。誰もが御言葉とつながるぶどうの枝となることができる。黙示録には、「それを取って食べなさい」(黙10:9)と命じた天使の言葉に従った筆者は、「そこで私は、その小さな巻物を天使の手から受け取り、すべて食べた。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると腹には苦かった」(10:10)と書かれている。 

新約聖書は、旧約聖書に比べてはるかに小さいから、ただ読んで聞くには易しいが、人の内奥に到達した生きた御言葉は、真理によって人を清め、人の身には苦い薬のように感じるのである。しかし、そのことが返って信者たち一人一人を聖霊に向かわせ、「そこを耕し、守る」(創2:15)創世記の初めの「人」と同じ養成に与らせることができる。「そこ」とは、初めの「人」と同じく、信者自身の記憶である。黙示録の筆者は、その後、再び預言することを命じられている。彼は、預言の書の世界で天使に同伴されていたが、私たちは創世記の初めの「人」と同じように聖霊と協働する。そうして私たちは福音を宣教するのである。創世記は、初めの「人」が、聖霊と協働する様子を次のように書いている。 

「神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)。神である主によって、唯一の「人」として創られ、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながっていた初めの「人」は、聖霊と協働していたために、生き物に名をつけた時、「それがすべて生き物の名となった」のである。私たち信者も初めの「人」と同じく、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながっている時、高い親和性をもってイエスの名によって遣わされた聖霊と協働することができる。 

前回考察したように、創世記に、「エデンから一つの川が流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった」(創2:10)と書かれたエデンの園は、人の記憶である。記憶の領域は、「しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)とイエスが言われたように、聖霊が働く場である。人は、聖霊の働きによって流れ出て、園(記憶)を潤す川にたとえられた知識を授かっている。そして、そこから分かれて四つの川となったその第一のもの、「産めよ、増えよ」(創1:28)と命じた神の言葉によって与えられた生殖機能に自発性が置かれている。生殖機能は種の存続のために、個体の情報のすべてを子孫に残す使命があるからである。 

動物にも知識は授けられているが、彼らは、生殖機能に置かれた自発性の働きに身を委ねて生涯を終えるように計画されている。一方、霊の領域で「神の自発性(命の息)」とつながる「人間の知識」は、生殖機能に置かれた肉体の自発性ともつながりながら、聖霊と協働して一連の業を成すのである。神である主が、「人」を男と女に分けられ、「女」を人のところへ連れて来られた時、「これこそ、私の骨の骨、肉の肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたからである」(創2:23)と言った「男」の言葉には、その様子が現れている。彼らが授かった生殖機能は(2:24参照)、この時正常に機能していた(2:25参照)。この状況で、二人に重大な問題が発生したのは、複数になった人の間に発現した「人間の情報」からであった。 

しかし、「人間の情報」が発現したこと、それ自体は問題ではなかった。問題は、「人間の知識」が「人間の情報」を自分と区別することなく取り込むことによって、錯覚とフィクションが起こることだ。これらは仮想現実を造り、その中に留まる人の「人間の知識」は、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなる。そして遂には、この危険を回避するために、神である主が「命の木」と共に人の記憶の中央に生えさせた「善悪の知識の木」にすがり、拠り所としてしまうのである。イエスは、新約の司祭職を授かった弟子たちに、次のように厳しく諭している。「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハ15:6)。 

Maria K. M.


 2026/06/15

252. ヨハネ福音書と新約の司祭職 人間の知識

神は、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう」(創1:26)と言われた。人が初め独りの人として創造されたのは、神が三位一体で唯一の神だからである。「我々のかたち」とは、唯一の神であること、「我々の姿」とは、神が、父と子と聖霊の三位一体の関係にあること、この二つの神の特徴を備えた者として、人は創造された。前回考察した、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)とイエスが言われた言葉が示すように、人に「我々の姿」を現わすとは、人に神の霊を授けることである。そして人は、真理の霊である聖霊と共に、神を礼拝するのである。 

創世記は、「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。神である主は、東の方のエデンに園を設け、形づくった人をそこに置かれた」(創2:7~8)と書いた。「エデンの園」は、次のように続けたその描写から、人の記憶の領域を表していると考えられる。「神である主は、見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木を地から生えさせ、園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えさせた。エデンから一つの川が流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった。その第一のものの名はピションと言い、金を産出するハビラの全域を巡る川であった。その地の金は良質で、そこではまた、ブドラク香やカーネリアンも産出された・・・第四の川はユーフラテスであった」(2:9~14) 

神が園に生えさせた「木」の描写は、神が人の鼻に吹き込まれた「神の自発性(命の息)」の領域を指し、「川」の描写は、「産めよ、増えよ」と命じた神の言葉から成った生殖機能の働きによる肉体の自発性の領域である。「エデンから一つの川が流れ出て園を潤し」とある川は、これら二つの自発性に挟まれた「人間の知識」を指している。そこから分かれた四つの川の内、第一の川ピションは、自発性をもたらす生殖機能の働きを指す。そこで産出する良質な金は子孫を、また、黄金に匹敵する貴重な交易品だったと考えられているブドラク香は、権力や富を、「出エジプト記」で祭司アロンが身につける胸当てやエフォドを飾る宝石の一つとして登場し、「ヨハネの黙示録」でもエルサレムの城壁の土台石の一つとして描かれているカーネリアンは、権威を表している。自発性をもたらす生殖機能の働きは、「人間の知識」に、これらのイメージを強力に植え付ける。 

そこで、「土の塵」(創2:7)で人の内に霊の領域を形づくった神である主は、ご自身が吹き入れた人相応の「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「命の木」を介してつながるようにしたのである。そこに「命の木」が置かれたのは、言葉によって成る「人間の知識」が、人相応の「神の自発性(命の息)」とつながるために、仲介者として、言葉が必要であったからである。それは御言葉である。「人間の知識」は、御言葉とつながって、一方でつながっている生殖機能の働きによる肉体の自発性の強力なイメージを、正しく受け取ることができる。「人間の知識」は、自ら「命の木」を求め、それを介して「神の自発性(命の息)」とつながることができるのである。こうして、生殖機能の働きによる肉体の自発性は制御され、人は、神の似姿に創造された人として、聖霊と協働することができる。 

そしてイエスが、ご自身をぶどうの木にたとえて、「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハ15:4~5)と言われたのは、人がこのように創られたことをご存じだったからである。 

聖パウロが、テモテに次のように書いている。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人のために献げなさい。王たちやすべての位の高い人のためにも献げなさい。私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るためです。これは、私たちの救い主である神の前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです」(一テモテ2:1~5)。 

「神の自発性(命の息)」が「命の木」を介して「人間の知識」とつながったそのイメージは、まるで、父と子と聖霊のように見える。このように聖霊の位置に「人間の知識」が置かれることで、人は、現実に、聖霊と一つになって行為を成すことができる。そこで、「神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった」(創2:15)とあるように、人は、「そこを耕し、守る」という具体的な仕事を通して、聖霊と一つになって行為を成すように養成されたのである。こうして、人相応の神の霊を授けられた人が、聖霊と共に働く姿を見て、神である主は、「人」に、「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創2:16~17)と命じられた。人を男と女に分ける計画を進めようとされていたのである。 

Maria K. M.


 2026/06/08


251. ヨハネ福音書と新約の司祭職 二つの自発性

ヨハネ福音書は、新約の司祭職の核心を伝えるために、5章からイエスが「人間の情報」と本格的に対峙する様子を描いていく。そこで、その前に、これまで考察してきた「人間の情報」について振り返ってから、先に行きたいと思う。 

まず、上の絵をよく見ると、イエスの右には、内奥に悪い計画を秘めながらも、イエスに親しみを込めて接吻するイスカリオテのユダがいる。左には、善意に駆られてイエスを守ろうとして、大祭司の僕に剣で切りかかろうとしているペトロがいる。ここで彼が剣を持っていたのは、過越しの食事の後、オリーブ山に祈るために出かけるにあたって、イエスと弟子たちのやり取りから、彼は、剣を持っていくのだと受け取ったからである(ルカ22:35~38参照)。その周りには、上官の言葉に従順し、任務を忠実に実行するよう訓練された兵隊たちが、イエスを取り押さえようとしている。ここには、さまざまな「人間の情報」を、自分の知識として取り込んだ人々が、それぞれの徳や倫理に従ってイエスを取り囲んでいる。その中で御父のみ旨を成し遂げようとするイエスだけが、ただじっと前を見て立っている。 

このイエスと、他の人々との違いは、その自発性にある。全被造物は、存在そのものであり、「私はある」と言われる神が、「あれ」と命じた御言葉によって創造された。それに応えて存在する被造物は、存在のための自発性を授かっている。神が被造物の内に現したこの自発性によって、全被造物は、全能の神である永遠性と真理である神の自由とを具現し、神を讃えるのである。 

被造物の中で、命ある生き物は、種によって存続する自発性で神の「あれ」に応える。さらに動物は、「産めよ、増えよ」(創1:22,28参照)と神が命じた御言葉によって、動物相応の自発性を授けられた。これらの自発性によって動物は種の命を存続させ、各個体は、限りある命の時を生きることで神に賛美を捧げている。このように、これらすべての命ある生き物にとって、子孫を残し、種を存続させることは全生涯をかけた使命である。そこで、「産めよ、増えよ」という御言葉から現れる動物の自発性は、その個体を種の存続に向けて強烈に動かしている。動物の生命維持のプログラムは、生殖機能の働きによって管理されているといっても過言ではないのである。 

生き物は、種の存続を最適化するために、その記憶にそれぞれ分相応の知識を授かっている。自発性は知識とつながることで行為に至る。「産めよ、増えよ」と命じる神の言葉にその自発性を持つ動物においては、その知識が生殖機能の働きに従属する。それを本能や性欲という言葉で代替するのは、あまりに狭義な捉え方である。生き物はその種を維持するために、複数になると個体ごとの知識を共有することから、「情報」が発現する。その情報にどのように最適化できるかということが、その種にとって存続のための重大要因となると、その生き物相応に戦略がめぐらされるようになる。そこに、自然淘汰が起こるのである。 

生き物が複数になることによって発現する情報は、神の被造物ではなく、また、神がそう命じたものでもない。しかし、三位一体の神の関係をもって森羅万物を創造した方の在り方を映しているのである。生き物は、同種の個体間に発現する情報によって知識が進化することで、世界に適応し存続し続けることが可能になる。神はそれらも含めて、ご自身の創造をご覧になり、それを良しとされた。これらの情報の中で「人間の情報」は、きわめて急速に、そして高度に進化する。神は、神のかたちに創造した人が「我々の姿」(創1:26)を現わすことを前提に、人相応の知識を与えられたからである。それぞれの人の自発性が、子孫のために情報を駆使して最適化に進めば爆発的な力を発揮する。このことを予期しておられた神は、人の内に「我々の姿」を現すとき、初めに人を一人の人として造ったのである。 

イエスが、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)と言われたように、人に「我々の姿」を現わすとは、人に神の霊を授けることである。そこで創世記2章では、三位一体の神の関係をもって森羅万物を創造する方を「神」と呼んでいる1章と異なり、4節から、「神である主」と言い換えている。それは、御父と御子を示している。人に霊を授け、三位一体の神の内に人を招き入れるために、御父と御子が、人と、人に関わる聖霊とに対峙されるという関係性を取られたのである。そして、「神である主」は、「命の息」を人の鼻に吹き入れた。「命の息」は、人が聖霊と協働するために、聖霊の息を通して人相応にその人の内に御父が現した「神の自発性」である。 

このように人は、知識を挟んで二つの自発性を持つようになった。一つは、「産めよ、増えよ」と命じる神の言葉から成る肉体の自発性。そして、霊である神の姿を現すために鼻に吹き込まれた神の自発性である。神は、人相応の知識が神の自発性とスムーズにつながり、人が聖霊と協働して生き、永遠の命という神の現実に与るように、人を養成された。イエスも弟子たちを同じ養成に与らせた。そして、使徒たちの頭となるペトロには特に厳しく、「人間の情報」を自分と区別することを指導してきたのである。上の絵にあるように、「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の僕に打ちかかり、その右の耳を切り落とした」(ヨハ18:10)。ルカ福音書には、「イエスは、『もうそれでやめなさい』と言い、その耳に触れて癒やされた」(ルカ22:51)とある。 

ここでイエスは、神の自発性とつながった人の姿を、最後に身をもってペトロに見せたのである。 

Maria K. M.


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 2026/06/01

250. ヨハネ福音書と新約の司祭職 振り返りと第二のしるし

「ヨハネ福音書と新約の司祭職」というテーマで始めた考察は、4章のイエスとサマリアの女との対話の場面になって、新約の司祭職に関わる非常に凝縮された内容が伝えられていたために、それと関連した事柄に多くの時間を費やした。ここに至るまでを振り返ると、ヨハネ福音書は、1章の冒頭から創世記を想起させるような文脈で始めて、天地創造以来、旧い契約の間に神と人の間に起こったことを、読者が思い出すようにさせている。神が人を創造した原点に、天地万物の創造を完成した神が、安息され、祝福して聖別された第七の日を、人々と共に祝うことを望み、人々が神を「霊と真理をもって」(ヨハ4:24)礼拝するようになるまで養成する神の計画があったことにつなげるためである。そこで神は、旧約の祭司職を継ぐ正当な出自を持つ洗礼者ヨハネが、最後の預言者として登場する時を待っていた。 

洗礼者ヨハネは、神の子イエス・キリストが世に公然と現れ、聖霊によって世の光となって、新約の司祭職をもたらすことを預言し続けた。読者は、洗礼者ヨハネの言葉から、聖霊が人に降ること、水の洗礼、聖霊による洗礼について知ることができた。ここで、共観福音書に書かれたように、漁をしていてイエスから召された初めの弟子たちの中には、洗礼者ヨハネの弟子としてすでに養成されていた者たちがいたという意外な事実が示されていた。そして、2章で、御血と御体について示唆されると、イエスは3章で、聖霊の働きについて知らせた。それは、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハ3:15)と言われたイエスの言葉を、ご自身が十字架上で成し遂げられたその状態が、持続可能になるために、聖霊が働かれるからである。 

この世で、神であり人でもあったイエスによって、聖霊の働きが見えるようになったように、神は、聖霊の働きに人の協力を望まれた。イエスは、そのために召された新しい契約の民に授ける新約の司祭職を、御父のもとからたずさえて来られた。格別に信者の男性の記憶に、新約の司祭職が置かれるのは、聖霊がそれを自由に引き出し、女性から生まれるすべての人の命に仕えさせるためである。3章の終わりにある洗礼者ヨハネの最後の預言には、次のように、新約の司祭職を授かった司祭の記憶から新約の司祭職(花嫁)を引き出し迎える聖霊(花婿)の介添え人として、聖霊の口、手足となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭の姿が見える。無心となった司祭は、聖霊の声を聞いて大いに喜び、「あの方は必ず栄え、私は衰える」と言った洗礼者ヨハネの言葉を悟っているに違いない。

「人は、天から与えられなければ、何も受けることはできない。『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』と私が言ったことを、まさにあなたがたが証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方は必ず栄え、私は衰える」(ヨハ3:27~30)。 

ヨハネ福音書4章は最後に、「イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、第二のしるし」(ヨハ4:54)について言及して終わる。このしるしが行われたのは、イエスが、死にかかっていた息子をいやしてくださるように頼んだ王の役人の願いをかなえる場面である(4:43~54参照)。このしるしについては、本ブログ№208で、ヘブライ人への手紙をもとに考察したので、それを参考にしたい。 

ヘブライ人への手紙の筆者は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブ11:1~3)と述べている。その上で、この信仰のゆえに神に認められた旧約の人たちの歴史を簡潔に示し(11:4~38参照)、その結果を次のように結論した。「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」(11:39~40) 

王の役人は、イエスが「息子をいやしてくださる」ことを確信していた。だから、イエスが彼に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(ヨハ4:48)と言われたことに取り合わず、すぐに、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(4:49)と言った。彼は、望んでいる事柄を確信しており、イエスが子供を癒すというまだ見えない事実を確認しようとしたのである。実際、後で彼は、イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(4:50)と言った時刻と、子供が癒された時刻を確認している(4:51~53参照)。そして、「彼もその家族もこぞって信じた」(4:53)とある。彼らは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」旧約の信仰のモデルであった。しかし彼らは、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れなかった。 

「約束されたもの」とは、ヘブライ人への手紙の筆者が続けて、「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」と書いた「更にまさったもの」、新約の司祭職である。ガリラヤのカナの婚宴で、ぶどう酒がなくなったことを告げるイエスの母の願いに応えて、水をぶどう酒に変えたイエスの第一のしるしは、ご聖体を暗示している(2:1~11参照)。そこには、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(2:11)と書かれている。このとき弟子たちは、ただイエスに従って来ていた。それは、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」旧約の信仰を超えていたのである。 

Maria K. M.


 2026/05/25


249. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い

「第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する」(黙20:6)という黙示録の第5の幸いが述べられる箇所は、「ヨハネの黙示録の預言的構成」の図の「ミサ典礼の完成の預言(19~20章)」の終盤にある(下図参照)。ここで預言されるミサ典礼の完成は、聖霊と共に働く司祭たちはもちろん、そのような司祭たちを生み出すように、絶えず聖性を目指す信者たちから成る教会のものなのである。前回、「私たちの罪をおゆるしください、私たちも人をゆるします」という、主の祈りの第5の祈願には、万民のための罪の赦しが込められていることを考察した。主の祈りは、ミサ典礼の完成に向かって、黙示録の第5の幸いに到達する希望の炎を、それを唱える私たちの内に灯し続ける。 

ミサ典礼を完成させる教会の努力とともに、聖性に向けて信者たちを洗い清める御言葉の力は、常に変わることなく働き続けている。信者たちが唱える主の祈りのキリスト的な願いは、彼らの記憶を通して、彼らの知人から知人へ、この世のコミュニティーへと伝っていく。情報化社会の只中でAIを使いこなそうとしている現代の人々の中には、敏感にそれを感じ取って、情報と自分との間に距離をとっていく者もいるにちがいない。十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)と言われたイエスは、「人間の情報」が張り付き、わけもわからず生きながらその虜となってしまった人々の救いを望み、そのような人々を、今もミサ典礼に引き寄せておられる。 

黙示録19章では、生きている信者たちの清め(黙19:11~16参照)と、完成したミサ典礼の効力が伝播するこの世の清め(19:17~21参照)が描かれている。続く20章は、死んだ人々についてである。そこには、「また私は、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した」(20:4)とある。それは、これらの者たちが、「第一の復活」(20:5)に与り、キリストと共に、天から私たちのミサ典礼に参列していることを表しているのだ。「千年」とは、神の1日である(二ペトロ3:8参照)。それはミサ典礼が、地球上のどこかで常に挙行されている永続的時間である。 

ここに描かれた二通りの死者のうち、初めの者たちは、イエスが最期の食卓で使徒たちに委ねた王権を引き継ぐ使徒継承によって授けられた聖体制定と新約の司祭職を、全うして死んだ司祭たちである。次にある、「イエスの証し」とは、ここでは、イエスがキリストとして生涯を通して死に至るまで罪を赦し続けたことであり、「神の言葉のゆえに首をはねられた者たち」とは、司祭たちと同じく聖霊と共に働くために、御言葉によって、まるで首をはねられた者であるかのように、「人間の情報」から清められていた者たちである。彼らは、新約の司祭職を授かった民としての自覚をもって、権力と支配欲に捕らわれた「獣」も、獣の像も拝まなかったので、惑わされなかったのである。 

以上が、万民のための罪の赦しを願う主の祈りの第5の祈願、「私たちの罪をおゆるしください、私たちも人をゆるします」が、到達すべき黙示録の第5の幸いの全貌である。「第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する」という幸いを得た彼らは、罪の赦しによる聖性を目指す新しい民の到達点であり、万民を罪の赦しに導く永遠の命を証ししているのである。 

これまで、主の祈りと黙示録の7つの幸いのテーマを追ってきたが、ここで続けて最後の二つを考察してこのテーマを終わることにする。ミサ典礼が閉祭した後、信者たちは、次のミサに向かう日常のルーティンの中で、新たな「獣」や「偽預言者」と遭遇し、悪霊と出会う事態が予見される。それに対抗するのは、ミサ典礼の終わりに、司祭から授けられる派遣の祝福である。この祝福には、主の祈りの、「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」という第6と第7の祈願が叶うようにとの祈りがこめられている。私たちはこの祝福を持って、再び次のミサを目指して生きる。それは、ミサ典礼から出てしまったのではなく、その空間を延長しているのである。司祭の授けた祝福には、「神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する」者たちの眼差しが向けられているからである。 

主の祈りにあるように、誘惑に陥らないためには、信者たちは自覚をもって自分自身と「人間の情報」を区別することが必須である。そのために、黙示録の第6の幸いは、「見よ、私はすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、幸いである」(黙22:7)と諭す。それは、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(1:3)という黙示録の第1の幸いに戻って、黙示録の訓練のループを続けることに尽きることを指し示しているのである。それこそが、信者を悪から守り、「命の木にあずかる権利を与えられ、門を通って都に入ることができるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」(22:14)という、黙示録の第7の幸いを信者にもたらすために、天の父がキリストを通してお与えになった、唯一の霊的訓練なのである(1:1参照)。 

Maria K. M.




 2026/05/18


248. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い

ヨハネの黙示録に、「私は愛する者を責め、鍛錬する。それゆえ、熱心であれ。そして悔い改めよ」(黙3:19)とあるように、ことばの典礼の中で、聖霊によって生きるものとなったイエスの御言葉は、鋭い剣となって信者の記憶を刺し貫き、しみついた「人間の情報」をそぎ落とし、信者がそれを眺めて、自分自身と区別するようにさせる。さらに、聖霊の口、手足となって聖霊に付き従い、無心となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭の説教は、「天の軍勢」(19:14)と化し、信者が神の子となる資格を持っていることを思い出すようにと、追い打ちをかける。このように、ミサ典礼でことばの典礼がもたらすこれらの恵みは、ヨハネ福音書に書かれたイエスの最期の食卓で、イエスが弟子たちの足を洗った出来事を彷彿させる。 

ヨハネ福音書は、イエスが弟子たちの足を洗う場面の初めに、「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」(ヨハ13:1)と書いた。ここで初めに「過越祭の前に」と書いたのは、「除酵祭の第一日に」と三共観福音書がそろって書いた、イエスの聖体制定の日と異なることを強調するためである。イエスが弟子たちの足を洗う場面が、聖体制定の前にあったことを示したのである。ゆえに私たち教会のミサ典礼の場には、初めにことばの典礼によって、次に交わりの儀に至る感謝の典礼によって、二つの主の最期の食卓が続けて現れることになった。信者たちは、ミサ典礼に現れるこれら二つの主の食卓を通って、新しい契約の全貌を体験する。そこは、新しいぶどう酒が新しい革袋に入れられる場なのである。 

私たち教会は、まことに新約の司祭職を授かった民である。イエスは、ご自身が選んで使徒とされた弟子たちに、聖体制定と共に新約の司祭職を授け、それらが継承されるようにご自身の王権を委ねられた。そして、復活したイエスは、弟子たちに聖霊を吹きかけて、罪を赦す権能を授けられた。イエスの受難と死に向き合えなかったという負い目を持つ彼らは、復活したイエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」(ヨハ20:19)と言われ、手と脇腹とをお見せになったのを見て喜んだ。そこでイエスは、「あなたがたに平和があるように」と重ねて言われた。平和は、罪を赦されたと人が実感した時、その喜びと共にもたらされるということを体験させたのである。続けてイエスは、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」(20:21)と言われた。 

イエスは、罪を赦す権能を授ける弟子たちに、ご自身が生涯を通して、死に至るまで罪を赦し続けたことを想起させ、彼らもご自分に倣うよう命じたのである。ゆえに、「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハ20:22~23)と言われたイエスの言葉は、厳しいものであった。「誰の罪でも」とは、信者だけではなく、世のすべての人に罪の赦しが向けられているということだからである。罪が赦されないままこの地上に残ることがあってはならない。このように私たちの教会は、使徒継承によって罪を赦す権能を引き継ぎ、その重荷を担ってきた。信者たちにある喜びと平和は、イエスに赦されたという自覚からきているからである。 

この権能を前にして、赦しの秘跡を求めるときの信者には、明確な罪の自覚がある。一方で、「私たちの罪をおゆるしください、私たちも人をゆるします」という主の祈りの第5の祈願を唱える時、多くの場合信者たちには、罪の自覚がないか、あるいは曖昧である。しかし何か引っかかるものを記憶しているものだ。それは、未来の罪の可能性である。「人間の情報」がそぎ落とされずに記憶に貼り付いていれば、やがてそれは、さまざまな欲望を引き寄せる。そしてその欲望が行為になれば「人間の仕業」となり、その多くは罪に至る。そこで、「私たちの罪をおゆるしください、私たちも人をゆるします」という主の祈りの第5の祈願は、全信者と万民のために、罪の赦しを乞うているのである。 

感謝の典礼の中で交わりの儀に移った時、ご聖体を前にして唱える主の祈りを、曖昧な姿勢で唱える信者はいない。彼らは、イエスが湖の上を歩いて弟子たちの舟に行かれた時のこと、自分に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてくださるよう、イエスに頼んだペトロのようである。「イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、風を見て怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた」(マタ14:29~31)とある。私たちから「人間の情報」をそぎ落とすのは、強風ではなくイエスの御言葉である。ことばの典礼の中で、自分に張り付いていた「人間の情報」がそぎ落とされるのを見ても恐れず、それを自分自身と区別する業を身に付けるのである。 

私たち信者は、イエスがすぐに手を伸ばして怖がるペトロを捕まえたように、ご聖体が待ち構えておられるのを知っている。だからこそ、ミサ典礼の中で、私たち信者が、拝領するご聖体の名を、「メシア、神の子、イエス」と呼び、ご聖体とその名を結び付けて自身の記憶に書き記し、司祭から渡されたご聖体を自分の手でしっかりと受け取って拝領する幸いと重要性を、私は何度でも繰り返し強調してやまない。ご聖体は、私たちを救おうと伸ばされたイエスのみ手である。私たち信者がこれを悟らないままでいるなら、「第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する」(黙20:6)という、黙示録の第5の幸いは、それをイメージすることさえ難しい。 

Maria K. M.


 2026/05/11


247. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い

前回の考察を続ける。黙示録で、天使が筆者に、「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」(黙19:9)と言ったように、ミサ典礼の中で、私たち信者が、拝領するご聖体の名を、「メシア、神の子、イエス」と呼び、毎回ご聖体とその名を結び付けて自身の記憶に書き記すことの幸いと重要性を、どれほど強調しても足りない。このような仕方は、人が直観的に受け取れない事柄を身に着ける際の、常とう手段である。しかし、世界中で、ローマ・カトリックの信者は、司祭が掲げるご聖体を前にして、百人隊長の言葉で応える。それは、ご聖体と百人隊長の謙遜の言葉が、容易に結びつくからである。一方、イエスが百人隊長の信仰を褒めたのは、彼が、兵隊を前に権威を行使する自分の体験から、イエスの権能を信じ、イエスを受け入れたことにある。イエスは彼の人間的な謙遜を褒めたわけではなかった。 

むしろ、「私が行って癒やしてあげよう」と言われたイエスに、「主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます」(マタ8:8)と言って、その来訪を断った百人隊長の謙遜は、彼の家族がイエスと出会う機会を奪う結果となった。また、人間的な謙遜を抱き、自分の足を洗おうとするイエスを拒んだペトロを、イエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」(ヨハ13:8)と厳しく戒められた。イエスが弟子に求めるへりくだりや謙遜は、仕える者になることや(マタ23:11~12参照)、招待を受けたら末席に着くこと(ルカ14:10~11参照)、神の前では、あの義とされて家に帰った徴税人のように自分の望みを正直に願うことであった(18:13~14参照)。 

これらの事から考察すると、世界中で、ローマ・カトリックの信者が、毎回ミサ典礼の中で、ご聖体を前にして、百人隊長の言葉を唱え続けているのは、この言葉が、ご聖体への尊敬とへりくだりを表すと勘違いしているからだと言わざるを得ない。しかしそれは、パンとぶどう酒の形態に隠れるほどの神のへりくだりを前にして、あまりにも釣り合いのとれない言葉である。イエスは、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」(マタ11:28~30)と言われた。信者が、神の子イエスの神的なへりくだりに倣うことは、イエスの軛を負い、荷を担う決断をすることにある。 

それは、イエスの名によって遣わされた聖霊と共に働かなければ、人にはできないことである。そのために、拝領するご聖体の名を、「メシア、神の子、イエス」と呼び、毎回その名を自身の記憶に書き記すことで、この啓示が暗黙知となって信者たちの記憶に留まることは、ミサ典礼に与る者の大きな幸いである。直観的に受け取れない事柄を身に着ける際の、これが最も効果的な仕方だからである。しかし、ここでもう一つの弊害にぶつかる。信者たちの旧約聖書への依存である。旧約聖書の使命は、福音書の中でイエスによって引用されたことでその役目を終えた。イエスとつながり、イエスによって完成され、福音書の中で新しい御言葉として生きるものとなったのである。ゆえに、それは、必要に応じて解説されれば十分である。 

しかし、主日のミサにおいて、信者たちがことばの典礼に入ると、復活節を除き、先ず初めに旧約聖書が朗読され、続いて詩編が唱和される。その後に使徒書や福音書が朗読されるのである。そうするとそこで読まれる新約聖書の言葉は、旧約聖書や詩編の朗読に共感した信者の記憶に後から入れられることになる。いわば古い革袋に入れられた新しいぶどう酒である。ミサ典礼に行き着いた信者の中には、悩みや苦しみを抱えている者や、日々の重荷に心が弱くなっている者もいる。そんな信者たちにとって、旧約聖書や詩編の言葉に共感し、身を任すことはたやすい。それらは深い感動を呼び起こし、後につかの間の安らぎを得させることもある。こうして、旧約の預言とともに、今も救い主を待ち続ける民の世界観に浸る危険の中に、イエスの新約の民が放置される。 

このようなミサ典礼の雰囲気の中でも、司祭に朗読され、聖霊によって生きるものとなった御言葉は、鋭い剣となって信者の記憶に入り、しみついた「人間の情報」をそぎ落とそうとする。「人間の情報」は、イエスが弟子たちに自分自身と区別することを教え、受難と十字架上の死をもって、示し続けた、「いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者」(黙12:9)の真の姿である。黙示録では、太陽の中に立つ天使が、個々の信者からそぎ落とされた「人間の情報」を「肉」と呼んで、空高く飛んでいるすべての鳥にそれを食らえと命じる(黙19:17~21参照)。最期の食事の前に、弟子たちの足を洗って拭いて浄めたイエスのように。それは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟ったイエスが、「世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」(ヨハ13:1)行為であった。 

しかし、ミサ典礼をこのように行っている私たちは、イエスの前で、人間的な謙遜を抱き、「私の足など、決して洗わないでください」(ヨハ13:8)と言うに違いない。そして、ことばの祭儀の前に回心の祈りをしたとしても、「私たちの罪をおゆるしください、私たちも人をゆるします」という主の祈りの第5の祈願が叶う日は遠い。また、この祈願が行き着くはずの黙示録の第5の幸い、「第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する」(黙20:6)という現実は、更に遠くにある。 

Maria K. M.


 2026/05/04

246. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い

主の祈りの第4の祈願、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りは、前回考察したように、「土から取られたあなたは土に帰るまで/額に汗して糧を得る。/あなたは塵だから、塵に帰る」(創3:19)と、アダムに予告した神の言葉が実現することを、信者が願う祈りでもある。これらの祈りが叶うのを見るのは、「それから、天使は私に、『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(黙19:9)と書かれた第4の幸いに与っている時である。この黙示録の第4の幸いの直前には、「私たちは喜び、大いに喜び神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て花嫁は支度を整え輝く清い上質の亜麻布を身にまとった。この上質の亜麻布とは聖なる者たちの正しい行いである」(19:7~8)という句が置かれている。 

この句の、支度を整えた「花嫁」とは、司祭の記憶に、特別な仕方で隠されている新約の司祭職である。新約の司祭職が身にまとった「聖なる者たちの正しい行い」とは、花婿であるイエスの名によって遣わされた聖霊の「介添え人」として、聖霊の口、手足となって聖霊に付き従い、無心となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭の行いを表している。ここにご聖体が誕生する。居合わせた司祭と会衆は、すべてを目撃する。彼らは、新約の司祭職を受け取った民だからである。そこで、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の幸いを悟った筆者は、感動のあまり、天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。しかし天使は、次のように言った。「やめよ。私は、あなたや、イエスの証しを守っているあなたのきょうだいたちと同じく、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ」(黙19:10)。 

天使が言う「あなたや、イエスの証しを守っているあなたのきょうだいたち」とは、イエスの聖体制定の言葉と、それとともに授けた新約の司祭職を記憶に保持し、イエスが委ねた王職によってそれらの権威を継承した使徒とその後継者たちである。イエスが新約の司祭職と共に使徒たちに授けたこれらの言葉は、聖霊が預言の霊となって彼らの記憶から引き出し、彼らと共に働き現実にする。その時、彼らは、天使と同じく、神である聖霊に仕える者となっているのである。この幸いは、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈願の持つ人間的で素朴な表現に、重厚で根源的な構造が織り込まれていることを示している。続く第4の幸いの、「これらは、神の真実の言葉である」という句に、それが暗示されている。天使の言葉が終わると筆者は、次の描写を続けた。 

「それから、私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『忠実』および『真実』と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた。この方は血染めの衣を身にまとい、その名は『神の言葉』と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、この方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。そして、この方はぶどう酒の搾り桶を踏む。そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている。この方の衣と腿には、『王の王、主の主』という名が記されていた」(黙19:11~16)。 

この描写は、聖霊と、ご聖体に関するものである。白い馬が現れ、それに乗っている方が「忠実」および「真実」と呼ばれるのは、イエスが聖霊について、「その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(ヨハ16:13)と言われたからである。正義をもって裁き、また戦われるのは、「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」(16:8)ためであり、「この世の支配者が断罪される」(16:11)ためである。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた、とあるのは、この世の人に聖霊の姿が見えないからである。 

とはいえ、この方は血染めの衣を身にまとい、その名は「神の言葉」と呼ばれたとあるので、信者は、受難の場面で、イエスが深紅の外套を着せられたことを想起し(マタ27:28~29参照)、イエスが、「その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである」(ヨハ16:14)と言われたことを思い出す。その名は「神の言葉」と呼ばれたとあるのは、聖霊がイエスの名によって遣わされ、御言葉を生きるものし、イエスの証ししたことを実現するためである。そこで、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、聖霊に従っていた。聖霊の口、手足となって聖霊に付き従い、無心となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭たちである。聖霊によって生きるものとなった御言葉は、鋭い剣である。それで打ち倒す「諸国の民」とは、人々の内奥に入り込んだ「人間の情報」である。 

次に、自ら鉄の杖で彼らを治めるとあるのは、キリストの御体を示唆している。この言葉が、黙示録12章の「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖であらゆる国の民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へと引き上げられた」(黙12:5)から取られているからである。この描写は、「天に大きなしるしが現れた。一人の女が太陽を身にまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(12:1)という場面の後に書かれており、本ブログでこれまで考察したように、この「一人の女」は、イエスの母のイメージをもって描写された新約の司祭職である。ここから、「男の子を産んだ」女は、それを記憶に保持する使徒(司祭)であり、「神のもとへ、その玉座へと引き上げられた」とある男の子は、キリストの御体である。 

「そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている」とあるのは、イエスが、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」(マタ26:28)と言われたからである。「そのぶどう酒」とは、イエスの御血である。続く、「この方の衣と腿には、『王の王、主の主』という名が記されていた」とは、ご聖体の名である。「王の王」は油注がれた者、メシアを、「主の主」は、神の子イエスの名を示唆している。ご聖体には名があり、それは、「メシア、神の子イエス」である。 

これらの事は、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の幸いの中で、私たち信者が、拝領するご聖体の名を、「メシア、神の子イエス」と呼ぶことができるということを示唆している。実際に「私たちと共におられる」(マタ1:23)神に向かってその名を呼ぶことは、キリスト者の悲願である。そして、信者がご聖体を前にして、「メシア、神の子イエス」と呼び、その声を聞くことは、その名を自身の記憶に書き記すということになる。そこで天使は筆者に、「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」と言ったのである。 

Maria K. M.

 

(お知らせ)

インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。

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 2026/04/27


245. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い

イエスはカファルナウムで、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである」(ヨハ6:27)と、ご自身に従ってきた群衆に言われた。この言葉は、この時の群衆には理解できなかった。しかし今、私たちは、イエスが、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。・・私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(6:33~35)と言われたことを実現されたことを知っている。ゆえに私たち教会は、ミサ典礼に向かう日常のルーティンを生きようと努力する。 

日々水を飲むように黙示録の預言の言葉を朗読し、その声を聞く訓練は、信者がミサ典礼に向かう日常のルーティンと重なっている。イエスがもたらした神の国の中核をなすミサ典礼に与り、神に向かって「天におられる私たちの父よ」と呼びかけるすべての信者の内奥で、天の父の名が聖とされるために、ヨハネの黙示録の第1の幸いは、黙示録の訓練を続けることが必須であることを告げた。そこに「時が迫っているからである」(黙1:3)とあるように、わたしたち信者が、イエスの名によって遣わされた聖霊と共にいて、共に働く時は、なのである。「み国が来ますように」という祈りが真剣みを帯びてくるのは、このためである。そして、ミサ典礼に向かう日常のルーティンの道を聖霊と共に歩む自分を確認しつつ、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」と祈るのである。 

ミサ典礼に向かう日常のルーティンの道筋で立ちのぼるこれらの祈願は、信者たちの口に、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という確信的な祈りをもたらす。主の祈りの第4の祈願であるこの人間的で素朴な祈りには、黙示録の、「それから、天使は私に、『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(黙19:9)と書かれた第4の幸いが向かい合う。この幸いは、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈願の持つ人間的で素朴な表現の裏に、重厚で根源的な構造があることを示している。それは、この祈りが、創世記の「土から取られたあなたは土に帰るまで/額に汗して糧を得る。/あなたは塵だから、塵に帰る」(創3:19)と、アダムに予告した神の言葉が、実現することを願う祈りだからである。 

創世記には、「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」(創2:7)とある。ヨハネ福音書に、復活したイエスが使徒たちに、「息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハ20:22)と書かれているところからも、「神の息」は、人を霊的存在とするものであると分かる。人は神のイメージで、また、「神は霊である」(4:24)とイエスが言われた神との類似性を持って創造された。人は初めから霊的存在となるものとして創造されたのである。神はアダムに、自分の肉体の死に至るまで「額に汗して糧を得る」ために働くこと、そして霊的存在に戻ることを予告した。この予告が、女性から生まれるすべての人のものになるように、イエスは女性から生まれ、アダムに告げた言葉を実現するために、男性としてお生まれになった。 

イエスが、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである」と言われた「いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物」とは、まさに、その働きを授けられた男性が、額に汗して得る「糧」なのである。「父なる神が、人の子を認証されたからである」とは、このように働く男性に、天の父がしるしを付けられたということである。それは、イエスが以前、「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハ4:34)と言われた言葉を受け取った男性のしるしである。 

イエスのこれらの言葉を最終的に受け取ることができたのは、その当時、使徒たちだけであった(ヨハ6:66~69参照)。「人の子があなたがたに与える食べ物」は、天の父の「御心を行い、その業を成し遂げること」であり、それは、「いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物」を生じさせ、それを特別な仕方で人々に分け与えることである。彼らは、イエスの名によって遣わされた聖霊と共に働き、「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」と言われたイエスの言葉を現実のものにする。この神の現実は、ミサ典礼の中で繰り返される。イエスが聖体制定とともに使徒たちに授けた新約の司祭職は、併せて使徒たちに委ねられた王職によって、連綿と受け継がれるものとなったからである。 

イエスの名によって遣わされた聖霊は、福音として地上に残されたイエスの御言葉に命を与え、生きるものとされる。ミサ典礼の中で新約の司祭職は、聖霊の「介添え人」(ヨハ3:29)である司祭の記憶に、特別な仕方で隠されている。彼らは、聖霊の口、手足となって聖霊に付き従い、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」という彼らの祈りは、御父に聞き入れられ(16:23~24参照)、ご聖体が生まれる。これらの只中で、すべてを目撃する司祭自身と会衆は、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈願が叶うのを見る。彼らは、第4の幸いである「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の幸いに与っているのである。 

Maria K. M.


 2026/04/20


244. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い  

前回の考察を続ける。神に「天におられる私たちの父よ」と呼びかける信者が、それをイエスと同じ心で呼びかけ、「み名が聖とされますように」という祈願を自分のものにするために、ヨハネの黙示録は、全22章の訓練の内、半分以上をそのための訓練に充てている。「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)という第1の幸いが示すように、その訓練を素早く始めることによって、天の父の名が、訓練者の内で聖とされていく。黙示録の言葉を朗読し聞く訓練をすぐにも始めれば、そこから訓練者の内奥に浄めの水が入るからだ。やがて訓練者は、「天におられる私たちの父よ」と呼びかける自身の声が、真理を帯びたものとなっていくのを見るようになる。 

日々水を飲むように黙示録の預言の言葉を朗読し、その声を聞く訓練者は、この訓練がミサ典礼に向かう日常のルーティンと重なっていくことに気付く。このルーティンを生きる自分の前に現れる出来事に、だんだんと観察の眼差しを向けるようになるからだ。黙示録の筆者に影響された訓練者は、その内奥で、自分の記憶に入った「情報」を、自分と区別して見るという姿勢を取るようになっていく。そこで、「み国が来ますように」という祈りが真剣みを帯びてくる。この祈願には、黙示録の第2の幸いの訓練が対応する。「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」(黙14:13)とあるこの訓練によって、「み国が来ますように」という祈願の神髄を信者自身が体験し、答えを得るのである。 

「情報」を、自分と区別して見るようになると、訓練者は次第に、「情報」から取り込んで自分の知識とした記憶と、自分の知識として記憶されている御言葉との間の矛盾に気付き、それを解決しようとする。それは内面的な苦痛を引き起こすのみならず、御言葉に従おうとするその姿勢が、ミサ典礼に向かう日常のルーティンの中で出会う人々の前で、言葉や行為に映し出されて現れる時、外的な労苦と困難ももたらされることがある。世がイエスを扱ったと同じく、神を天の父と呼ぶその人をも排斥しようとするからである。これが訓練者にとっての「主にあって死ぬ人」の体験である。それは、遂にミサ典礼に与るまで続く。ミサ典礼の中で、訓練者は、御言葉とご聖体に再会する。「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」とはこの事である。 

「言っておくが、神の国が来るまで、私は今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)と言われたイエスは、十字架上で酸いぶどう酒を受け取られたことで、神の国の到来を告げられた(ヨハ19:30参照)。御父と共にご聖体に現存されるイエスは、ご自身の血と水を受けた教会が、神の国をミサ典礼として完成する時を見ておられる。21世紀の今でもミサ典礼は完成の途上にある。しかし、ご自分の名によって遣わされる聖霊のために、イエスが聖体制定とともに使徒たちに授けた新約の司祭職は、併せて使徒たちに委ねられた王職によって継承され、常に「主の食卓」に仕えている(ルカ22:30/本ブログ№237参照)。ゆえに、信者の日常のルーティンは、イエスが十字架上で獲得してくださった神の国を現すミサ典礼を目指すことができるのである。 

「主の祈り」の3つ目の祈願、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」には、「見よ、私は盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである」(黙16:15)という黙示録の第3の幸いが答えている。「見よ、私は盗人のように来る」と言われるように、洗礼を受けた信者でも、身近な実生活の中で、イエスの名によって遣わされた聖霊と触れ合う機会に気づかないことがある。その機会に気付き、自覚して聖霊と共に行動するのでなければ、その信者の行いは、神の御前で、裸で歩くのを見られて恥をかく人のようである。そこで御父は、黙示録を示した。これを朗読し、その声を聞く訓練を続けて、聖霊との親和性を身に着けるのである。この預言の書の冒頭に書かれた言葉を忘れてはならない。 

それは、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである」(黙1:1)という言葉である。黙示録の訓練では、「目を覚まし、衣を身に着けている人」の幸いが得られるだけではない。この黙示録の訓練が、いつも真実に目覚め、聖霊と一つになって働こうとする人を支えるのである。その人は、イエスの名によって遣わされた聖霊の衣を身に着けているキリスト者であり、聖霊によってイエス・キリストを世に現わす信者である。このように働くことを知って、体験する者は、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」と真摯に願い、次のイエスの言葉を実践するために、ミサ典礼に向かう日常のルーティンの中で、聖霊と共にいて、真実をもって生きようと努力するのである。 

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである」(ヨハ6:27)。 

Maria K. M.


 2026/04/13


243. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸いⅠ

ヨハネの黙示録の訓練は、パウロが旧約聖書や詩編を使って信者のために与えた訓練とは(一コリ14:26参照)、全く異なる効果を引き出す。旧約聖書の世界には、イエスの名が存在しないだけではなく、旧約の民が、神を父と呼ぶ機会を逃したという致命的な歴史がある。神がダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サム下7:14)と約束したにもかかわらず、ソロモンが神から離れたために実現しなかった歴史だ(王上11:1~10参照)。この歴史が彼らの嘆きの原点にある。神と親子の関係に至らなかった彼らは、雅歌を加えた旧約聖書を成立させた。神への言及がほとんどない雅歌には、かえって、神の愛を男女の愛にすり替えるというドラマチックな解釈の変化をもたらすことができる可能性があったからだ。 

雅歌を加えることで、神と親子の関係に至らなかった民であっても、神の愛は変わらず民に注がれ、その「愛」に導かれ、時に迷いながらも、神を慕い求める民が、遂には神と出会うという熱烈な愛のドラマが、ユダヤの民の歴史を再肯定することができたのである。しかし、恋人同士、花婿と花嫁、夫と妻といった婚姻のイメージを、神と民の関係のアナロジーにすると、やがて人が、自分を神と対等な者と錯覚する危険がある。神と民が親子の関係であればありえない発想を抱くようになるのである。ヨハネ福音書には、「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである」(ヨハ5:18)と書かれている。しかしそれは、「父は私よりも偉大な方だからである」(14:28)と言われたイエスの思いではない。 

それは、「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」(ヨハ5:17)というイエスの言葉を聞いて、自分を神と対等だと錯覚する者が、神を自分の父であると言うイエスに対して持った、深い嫉妬の念である。彼らには、「よくよく言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もすることができない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする」(5:19)と続けたイエスの言葉は、耳に入らなかったに違いない。神を父と呼ぶイエスへの深い嫉妬の念は、殺意に取って代わられたのである。一方、イエスが成し遂げられた新しい契約に導き入れられた信者は、イエスを受け入れ、その名を信じ、神の子となる資格を与えられたのであるから(1:12参照)、その神を父と呼ぶことは正当な行為である。それはまさしく、神が待ち続けた神と人の真の関係であった。 

イエスは弟子たちに「主の祈り」を教えられた。それはイエスが、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」(マタ6:8~9)と言って教えてくださった唯一の祈りである。初めに「天におられる私たちの父よ」と呼びかける「主の祈り」には、7つの祈願がある。それらの祈願が、それを唱える信者自身のものとなるようにと導く7つの幸いが、ヨハネの黙示録にはある(上図「ヨハネの黙示録の預言的構成」参照)。図の左を見ると分かるように、第1の幸い(黙1:3参照)から第2の幸い(14:13参照)の間には、長い距離がある。それは、信者が神に「天におられる私たちの父よ」と呼びかけ、続けて「み名が聖とされますように」と祈る真意を悟るようになるには、それほどの長い訓練を必要とすることを物語っている。 

「み名が聖とされますように」と祈る信者は、自らの記憶が浄化され、イエスと同じ心で神が天の父であるという真理を身に着けられるように、黙示録の訓練に臨むのである。黙示録全22章の訓練の内、半分以上が、「主の祈り」の最初の祈願に充てられている理由がここにある。そこで「み名が聖とされますように」という祈願は、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)という黙示録の第1の幸いに導かれる。この幸いに従う訓練者は、黙示録の預言の言葉を朗読し、その声を聞く訓練を、日々水を飲むように、ミサ典礼に向かう日常のルーティンに取り入れることが求められる。 

ミサ典礼に向かう日常のルーティンを生きる信者の前には、さまざまな出来事が現れる。時に、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタ8:20)と言われたイエスのように、落ち着く場のないほどの目まぐるしい体験をする。黙示録の訓練者の意識は、このような現実の出来事を前にして、黙示録の筆者と同じように、その出来事に観察の眼差しを向けるようになる。そこで続く、「み国が来ますように」という祈願は、「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」(黙14:13)とある黙示録の第2の幸いに導かれる。 

Maria K. M.


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