イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/07/06

255. ヨハネ福音書と新約の司祭職 善悪の知識の木

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47)。イエスのこの言葉は、現代の私たち信者に、御父への完全な信頼を持って歴史を見直すようにと、強く迫ってくる。そこで私は、新しい視点から2年前に書いた「善悪の知識の木」に関わる結論を見直さなければならないことが分かった。 

私は、創世記3章で女が蛇に言った、「私たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです」(創3:2~3)という言葉から、その時、初めの二人が、「園の中央にある木の実」、すなわち「命の木」と「善悪の知識の木」から取って食べていなかったと考えた。しかし、創世記全体が、イエスがいつもしていたように、神の計画に関わる、いわばたとえとして、語られているという側面をしっかり捉えてみると、そうではなかった。その時、彼らは、「命の木」や「善悪の知識の木」とつながるという認識を持っていなかったのである。 

人は、「我々のかたち」を現す人の肉体の自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として創造された。この状態において、人は聖霊と協働することができ、神の似姿を現わすことができる。それは、その人の「人間の知識」がすでに「御言葉(命の木)」とつながっている状態であり、創世記は、それを「食べる」という言葉で表したのである。そこで1章で現れた「神」は、2章では、「神である主」となって、「人」が聖霊と共に、エデンの園を耕し、守りながら、完全に神の似姿を現わすために、聖霊が人に働きかけられるようにされた。聖霊は、そのように働きながら「人」を養成し、「人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)というところまで、「人」を成長させたのである。 

ここで「人」は、あらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に接触しても、それらに発現している情報に惑わされなかった。聖霊と協働していたからである。そこに至るまで情報に惑わされないこと、それこそが、神である主が、「命の木」とともに「善悪の知識の木」を生えさせた理由であった。被造物全体が発する情報は、それを受け取る人の状態や状況によって、同じ情報であっても、善とも悪ともなって捉えられ、「人間の情報」となって、更に拡散していく。それらの情報を、人が「善悪の知識の木」として観ることができれば、人は、自分に近づく情報を区別するようになる。「善悪の知識の木」は、人の霊の領域で、「人間の知識」が、すべての被造物の情報を区別し、それを取り込まないように建てられた警告塔の働きをしているのである。 

ある時イエスは、「善い先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(ルカ18:18と尋ねた人に、「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない」(18:19)と答えられた。善は常に「神おひとり」である。受け取る人によって善にも悪にもなる「人間の情報」は、「善悪の知識」である。しかし、私たちは、善と悪を識別しようとしてしまう。そして、それ自体が、「人間の情報」を自分の「人間の知識」と区別しないで取り込んでしまった結果であることには、なかなか気づかない。情報は神から出たものではない。神の被造物ではないが、神のみ手の写しであるという特徴を持つすべての被造物から発現するものである。この影響が問題となるのは、唯一神の似姿に創造された人だけである。 

複数の人が関わる中で偶発的に発現し、拡散される「人間の情報」を自分の知識に取り込めば、「人間の知識」は、その情報とそこに紐づけされている様々な関係性に集中し、いわば乗っ取られてしまう。そうして、「御言葉(命の木)」を介して「神の自発性(命の息)」とつながることができなくなる。それは、聖霊と協働して現れる神の似姿を失ってしまうということである。「ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創2:17)という表現は、そのことを表しているのである。警告塔である「善悪の知識の木」は何もしない。問題は、「人間の知識」が自発性とつながり、行為に至ることにある。それは、私たち人が、自分の方から自分を知って対処するものだ。だからイエスははっきり言われるのである。 

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47)。 

Maria K. M. 

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 2026/06/29

254. ヨハネ福音書と新約の司祭職 人間の情報

神である主は、人の記憶に「土の塵」(創2:7)で霊の領域を造り、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながるようにされた。しかし私たちの「人間の知識」が「人間の情報」を自分と区別することなく取り込むことによって起こる錯覚とフィクションは、仮想現実を造る。その中に留まる人の「人間の知識」は、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなる。そうして信者でも、「善悪の知識の木」にすがり、それに憑依し、遂には行為に至る。イエスが、「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハ15:6)と言われた言葉は、信者の誰にも当てはまるのである。

イエスが、「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハ8:12)と言われた言葉から始まった、ファリサイ派の人々とユダヤ人たちとの問答の後(8:13~30参照)、ご自分を信じたユダヤ人たちに次のように言われた。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(8:31~32)。「私の言葉にとどまる」とは、人の霊の領域で、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、「御言葉(命の木)」を介してつながっている状態のことである。このようにつながって初めて、人は真理を知り、真理は人を自由にする。人が真の自由を感じるのは、神の自由をもたらす聖霊と協働する時である。その時、人は、三位一体の神の関係性に招き入れられ、無心となって神に集中し、神の自由に与るのである。

 しかし私たちの「人間の知識」が、「人間の情報」を自分と区別することなく取り込むことによって起こる錯覚とフィクション、そこから造りだされる仮想現実は、人を神の恵みに与らせないどころか、最期には、「火に投げ入れられて焼かれてしまう」という結果に至らせる。「人間の知識」はなぜ「人間の情報」を取り込むのか。前回考察したように、動物も相応の知識を授けられているが、彼らは、生殖機能に置かれた自発性の働きに身を委ねて生涯を終えるように計画されている。動物たちにとって、他者との関りやつながりは、種を存続させるという一点に集中している。その目的のために同一種の個体間で情報が行きかい、神から相応に授かった知識が発達する。

人においては、前々回考察したように、第一の川ピションにたとえられた自発性を持つ生殖機能の働きには、子孫だけではなく、権力や富、権威を産みだす強い嗜好がある。その嗜好は、愛情、親密さ、快楽を求め、承認欲求や自己実現などの高度な欲求へと発展し、人の霊の領域で、「神の自発性(命の息)」と「御言葉(命の木)」を介してつながっている「人間の知識」に突き付けられるのである。それに応えようとする「人間の知識」は大きな混乱を抱え、他者との関りやつながり、すなわち「人間の情報」を求める。そうこうするうちに「人間の知識」は、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなる。 

ヨハネ福音書には、「過越祭の間、イエスがエルサレムにおられたとき、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、人について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハ2:23~25)とある。人の心の中にあるのは、「人間の情報」である。神であるイエスが、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたように、神の似姿に創造され、霊の領域を持つ人は、何が自分の心の中にあるかを知っている必要がある。このような信者は、イエスを受け入れ、イエスの名を信じて神の子となる権能を与えられた状態を保持する可能性がある。「自分の心の中」とは、「人間の知識」の中と言うことができる。 

これらの考察の中で、私がいつも「人間の心」と言わず、「人間の知識」と言うのは、今回のように、「イエスご自身は、彼らを信用されなかった」ということの原因が「人間の情報」からくるので、それに対応するのは「人間の知識」だと考えるからである。「人間の情報」を取り込んだ「人間の知識」は、イエスの言葉を聞かない。初めイエスを信じた人々が、イエスが語った真理が自分たちの嗜好とぶつかったために、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなると、イエスを信じなくなった。私たち教会は、次のイエスの言葉を胸に刻まなくてはならない。 

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47 

Maria K. M.


 2026/06/22


253. ヨハネ福音書と新約の司祭職 自発性と知識

前回考察したように、主なる神は人の記憶に「土の塵」(創2:7)で霊の領域を造り、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながるようにされた。神が、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」(1:26)と言われた「我々のかたち」とは、唯一の神であること、「我々の姿」とは、神が霊であり、父と子と聖霊の三位一体の関係にあること、この二つの神の特徴を備えた者として人は完成した。神は人にこれらを備えただけではなく、神ご自身である三位一体の関係に人を招き入れることを望まれた。そこで創世記1章では、創造主を「神」と呼んで、三位一体の関係によって成された創造のみ業が、唯一の神の御業であることを強調したが、2章では、御父と御子を表すために「神である主」と呼んで、人が三位一体の神の関係に入って、聖霊と協働する様子を強調した。 

創世記の、「神である主は、見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木を地から生えさせ、園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えさせた」(創2:9)と書かれた「見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木」は、私たち信者にとっては新約聖書である。これを「食べる」ということは、朗読して聞くということ、「あらゆる木」とあるのは、それがすべての人に対応していることを告げている。誰もが御言葉とつながるぶどうの枝となることができる。黙示録には、「それを取って食べなさい」(黙10:9)と命じた天使の言葉に従った筆者は、「そこで私は、その小さな巻物を天使の手から受け取り、すべて食べた。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると腹には苦かった」(10:10)と書かれている。 

新約聖書は、旧約聖書に比べてはるかに小さいから、ただ読んで聞くには易しいが、人の内奥に到達した生きた御言葉は、真理によって人を清め、人の身には苦い薬のように感じるのである。しかし、そのことが返って信者たち一人一人を聖霊に向かわせ、「そこを耕し、守る」(創2:15)創世記の初めの「人」と同じ養成に与らせることができる。「そこ」とは、初めの「人」と同じく、信者自身の記憶である。黙示録の筆者は、その後、再び預言することを命じられている。彼は、預言の書の世界で天使に同伴されていたが、私たちは創世記の初めの「人」と同じように聖霊と協働する。そうして私たちは福音を宣教するのである。創世記は、初めの「人」が、聖霊と協働する様子を次のように書いている。 

「神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)。神である主によって、唯一の「人」として創られ、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながっていた初めの「人」は、聖霊と協働していたために、生き物に名をつけた時、「それがすべて生き物の名となった」のである。私たち信者も初めの「人」と同じく、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながっている時、高い親和性をもってイエスの名によって遣わされた聖霊と協働することができる。 

前回考察したように、創世記に、「エデンから一つの川が流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった」(創2:10)と書かれたエデンの園は、人の記憶である。記憶の領域は、「しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)とイエスが言われたように、聖霊が働く場である。人は、聖霊の働きによって流れ出て、園(記憶)を潤す川にたとえられた知識を授かっている。そして、そこから分かれて四つの川となったその第一のもの、「産めよ、増えよ」(創1:28)と命じた神の言葉によって与えられた生殖機能に自発性が置かれている。生殖機能は種の存続のために、個体の情報のすべてを子孫に残す使命があるからである。 

動物にも知識は授けられているが、彼らは、生殖機能に置かれた自発性の働きに身を委ねて生涯を終えるように計画されている。一方、霊の領域で「神の自発性(命の息)」とつながる「人間の知識」は、生殖機能に置かれた肉体の自発性ともつながりながら、聖霊と協働して一連の業を成すのである。神である主が、「人」を男と女に分けられ、「女」を人のところへ連れて来られた時、「これこそ、私の骨の骨、肉の肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたからである」(創2:23)と言った「男」の言葉には、その様子が現れている。彼らが授かった生殖機能は(2:24参照)、この時正常に機能していた(2:25参照)。この状況で、二人に重大な問題が発生したのは、複数になった人の間に発現した「人間の情報」からであった。 

しかし、「人間の情報」が発現したこと、それ自体は問題ではなかった。問題は、「人間の知識」が「人間の情報」を自分と区別することなく取り込むことによって、錯覚とフィクションが起こることだ。これらは仮想現実を造り、その中に留まる人の「人間の知識」は、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなる。そして遂には、この危険を回避するために、神である主が「命の木」と共に人の記憶の中央に生えさせた「善悪の知識の木」にすがり、拠り所としてしまうのである。イエスは、新約の司祭職を授かった弟子たちに、次のように厳しく諭している。「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハ15:6)。 

Maria K. M.


 2026/06/15

252. ヨハネ福音書と新約の司祭職 人間の知識

神は、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう」(創1:26)と言われた。人が初め独りの人として創造されたのは、神が三位一体で唯一の神だからである。「我々のかたち」とは、唯一の神であること、「我々の姿」とは、神が、父と子と聖霊の三位一体の関係にあること、この二つの神の特徴を備えた者として、人は創造された。前回考察した、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)とイエスが言われた言葉が示すように、人に「我々の姿」を現わすとは、人に神の霊を授けることである。そして人は、真理の霊である聖霊と共に、神を礼拝するのである。 

創世記は、「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。神である主は、東の方のエデンに園を設け、形づくった人をそこに置かれた」(創2:7~8)と書いた。「エデンの園」は、次のように続けたその描写から、人の記憶の領域を表していると考えられる。「神である主は、見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木を地から生えさせ、園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えさせた。エデンから一つの川が流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった。その第一のものの名はピションと言い、金を産出するハビラの全域を巡る川であった。その地の金は良質で、そこではまた、ブドラク香やカーネリアンも産出された・・・第四の川はユーフラテスであった」(2:9~14) 

神が園に生えさせた「木」の描写は、神が人の鼻に吹き込まれた「神の自発性(命の息)」の領域を指し、「川」の描写は、「産めよ、増えよ」と命じた神の言葉から成った生殖機能の働きによる肉体の自発性の領域である。「エデンから一つの川が流れ出て園を潤し」とある川は、これら二つの自発性に挟まれた「人間の知識」を指している。そこから分かれた四つの川の内、第一の川ピションは、自発性をもたらす生殖機能の働きを指す。そこで産出する良質な金は子孫を、また、黄金に匹敵する貴重な交易品だったと考えられているブドラク香は、権力や富を、「出エジプト記」で祭司アロンが身につける胸当てやエフォドを飾る宝石の一つとして登場し、「ヨハネの黙示録」でもエルサレムの城壁の土台石の一つとして描かれているカーネリアンは、権威を表している。自発性をもたらす生殖機能の働きは、「人間の知識」に、これらのイメージを強力に植え付ける。 

そこで、「土の塵」(創2:7)で人の内に霊の領域を形づくった神である主は、ご自身が吹き入れた人相応の「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「命の木」を介してつながるようにしたのである。そこに「命の木」が置かれたのは、言葉によって成る「人間の知識」が、人相応の「神の自発性(命の息)」とつながるために、仲介者として、言葉が必要であったからである。それは御言葉である。「人間の知識」は、御言葉とつながって、一方でつながっている生殖機能の働きによる肉体の自発性の強力なイメージを、正しく受け取ることができる。「人間の知識」は、自ら「命の木」を求め、それを介して「神の自発性(命の息)」とつながることができるのでる。こうして、生殖機能の働きによる肉体の自発性は制御され、人は、神の似姿に創造された人として、聖霊と協働することができる。 

そしてイエスが、ご自身をぶどうの木にたとえて、「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハ15:4~5)と言われたのは、人がこのように創られたことをご存じだったからである。 

聖パウロが、テモテに次のように書いている。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人のために献げなさい。王たちやすべての位の高い人のためにも献げなさい。私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るためです。これは、私たちの救い主である神の前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです」(一テモテ2:1~5)。 

「神の自発性(命の息)」が「命の木」を介して「人間の知識」とつながったそのイメージは、まるで、父と子と聖霊のように見える。このように聖霊の位置に「人間の知識」が置かれることで、人は、現実に、聖霊と一つになって行為を成すことができる。そこで、「神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった」(創2:15)とあるように、人は、「そこを耕し、守る」という具体的な仕事を通して、聖霊と一つになって行為を成すように養成されたのである。こうして、人相応の神の霊を授けられた人が、聖霊と共に働く姿を見て、神である主は、「人」に、「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創2:16~17)と命じられた。人を男と女に分ける計画を進めようとされていたのである。 

Maria K. M.


 2026/06/08


251. ヨハネ福音書と新約の司祭職 二つの自発性

ヨハネ福音書は、新約の司祭職の核心を伝えるために、5章からイエスが「人間の情報」と本格的に対峙する様子を描いていく。そこで、その前に、これまで考察してきた「人間の情報」について振り返ってから、先に行きたいと思う。 

まず、上の絵をよく見ると、イエスの右には、内奥に悪い計画を秘めながらも、イエスに親しみを込めて接吻するイスカリオテのユダがいる。左には、善意に駆られてイエスを守ろうとして、大祭司の僕に剣で切りかかろうとしているペトロがいる。ここで彼が剣を持っていたのは、過越しの食事の後、オリーブ山に祈るために出かけるにあたって、イエスと弟子たちのやり取りから、彼は、剣を持っていくのだと受け取ったからである(ルカ22:35~38参照)。その周りには、上官の言葉に従順し、任務を忠実に実行するよう訓練された兵隊たちが、イエスを取り押さえようとしている。ここには、さまざまな「人間の情報」を、自分の知識として取り込んだ人々が、それぞれの徳や倫理に従ってイエスを取り囲んでいる。その中で御父のみ旨を成し遂げようとするイエスだけが、ただじっと前を見て立っている。 

このイエスと、他の人々との違いは、その自発性にある。全被造物は、存在そのものであり、「私はある」と言われる神が、「あれ」と命じた御言葉によって創造された。それに応えて存在する被造物は、存在のための自発性を授かっている。神が被造物の内に現したこの自発性によって、全被造物は、全能の神である永遠性と真理である神の自由とを具現し、神を讃えるのである。 

被造物の中で、命ある生き物は、種によって存続する自発性で神の「あれ」に応える。さらに動物は、「産めよ、増えよ」(創1:22,28参照)と神が命じた御言葉によって、動物相応の自発性を授けられた。これらの自発性によって動物は種の命を存続させ、各個体は、限りある命の時を生きることで神に賛美を捧げている。このように、これらすべての命ある生き物にとって、子孫を残し、種を存続させることは全生涯をかけた使命である。そこで、「産めよ、増えよ」という御言葉から現れる動物の自発性は、その個体を種の存続に向けて強烈に動かしている。動物の生命維持のプログラムは、生殖機能の働きによって管理されているといっても過言ではないのである。 

生き物は、種の存続を最適化するために、その記憶にそれぞれ分相応の知識を授かっている。自発性は知識とつながることで行為に至る。「産めよ、増えよ」と命じる神の言葉にその自発性を持つ動物においては、その知識が生殖機能の働きに従属する。それを本能や性欲という言葉で代替するのは、あまりに狭義な捉え方である。生き物はその種を維持するために、複数になると個体ごとの知識を共有することから、「情報」が発現する。その情報にどのように最適化できるかということが、その種にとって存続のための重大要因となると、その生き物相応に戦略がめぐらされるようになる。そこに、自然淘汰が起こるのである。 

生き物が複数になることによって発現する情報は、神の被造物ではなく、また、神がそう命じたものでもない。しかし、三位一体の神の関係をもって森羅万物を創造した方の在り方を映しているのである。生き物は、同種の個体間に発現する情報によって知識が進化することで、世界に適応し存続し続けることが可能になる。神はそれらも含めて、ご自身の創造をご覧になり、それを良しとされた。これらの情報の中で「人間の情報」は、きわめて急速に、そして高度に進化する。神は、神のかたちに創造した人が「我々の姿」(創1:26)を現わすことを前提に、人相応の知識を与えられたからである。それぞれの人の自発性が、子孫のために情報を駆使して最適化に進めば爆発的な力を発揮する。このことを予期しておられた神は、人の内に「我々の姿」を現すとき、初めに人を一人の人として造ったのである。 

イエスが、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)と言われたように、人に「我々の姿」を現わすとは、人に神の霊を授けることである。そこで創世記2章では、三位一体の神の関係をもって森羅万物を創造する方を「神」と呼んでいる1章と異なり、4節から、「神である主」と言い換えている。それは、御父と御子を示している。人に霊を授け、三位一体の神の内に人を招き入れるために、御父と御子が、人と、人に関わる聖霊とに対峙されるという関係性を取られたのである。そして、「神である主」は、「命の息」を人の鼻に吹き入れた。「命の息」は、人が聖霊と協働するために、聖霊の息を通して人相応にその人の内に御父が現した「神の自発性」である。 

このように人は、知識を挟んで二つの自発性を持つようになった。一つは、「産めよ、増えよ」と命じる神の言葉から成る肉体の自発性。そして、霊である神の姿を現すために鼻に吹き込まれた神の自発性である。神は、人相応の知識が神の自発性とスムーズにつながり、人が聖霊と協働して生き、永遠の命という神の現実に与るように、人を養成された。イエスも弟子たちを同じ養成に与らせた。そして、使徒たちの頭となるペトロには特に厳しく、「人間の情報」を自分と区別することを指導してきたのである。上の絵にあるように、「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の僕に打ちかかり、その右の耳を切り落とした」(ヨハ18:10)。ルカ福音書には、「イエスは、『もうそれでやめなさい』と言い、その耳に触れて癒やされた」(ルカ22:51)とある。 

ここでイエスは、神の自発性とつながった人の姿を、最後に身をもってペトロに見せたのである。 

Maria K. M.


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 2026/06/01

250. ヨハネ福音書と新約の司祭職 振り返りと第二のしるし

「ヨハネ福音書と新約の司祭職」というテーマで始めた考察は、4章のイエスとサマリアの女との対話の場面になって、新約の司祭職に関わる非常に凝縮された内容が伝えられていたために、それと関連した事柄に多くの時間を費やした。ここに至るまでを振り返ると、ヨハネ福音書は、1章の冒頭から創世記を想起させるような文脈で始めて、天地創造以来、旧い契約の間に神と人の間に起こったことを、読者が思い出すようにさせている。神が人を創造した原点に、天地万物の創造を完成した神が、安息され、祝福して聖別された第七の日を、人々と共に祝うことを望み、人々が神を「霊と真理をもって」(ヨハ4:24)礼拝するようになるまで養成する神の計画があったことにつなげるためである。そこで神は、旧約の祭司職を継ぐ正当な出自を持つ洗礼者ヨハネが、最後の預言者として登場する時を待っていた。 

洗礼者ヨハネは、神の子イエス・キリストが世に公然と現れ、聖霊によって世の光となって、新約の司祭職をもたらすことを預言し続けた。読者は、洗礼者ヨハネの言葉から、聖霊が人に降ること、水の洗礼、聖霊による洗礼について知ることができた。ここで、共観福音書に書かれたように、漁をしていてイエスから召された初めの弟子たちの中には、洗礼者ヨハネの弟子としてすでに養成されていた者たちがいたという意外な事実が示されていた。そして、2章で、御血と御体について示唆されると、イエスは3章で、聖霊の働きについて知らせた。それは、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハ3:15)と言われたイエスの言葉を、ご自身が十字架上で成し遂げられたその状態が、持続可能になるために、聖霊が働かれるからである。 

この世で、神であり人でもあったイエスによって、聖霊の働きが見えるようになったように、神は、聖霊の働きに人の協力を望まれた。イエスは、そのために召された新しい契約の民に授ける新約の司祭職を、御父のもとからたずさえて来られた。格別に信者の男性の記憶に、新約の司祭職が置かれるのは、聖霊がそれを自由に引き出し、女性から生まれるすべての人の命に仕えさせるためである。3章の終わりにある洗礼者ヨハネの最後の預言には、次のように、新約の司祭職を授かった司祭の記憶から新約の司祭職(花嫁)を引き出し迎える聖霊(花婿)の介添え人として、聖霊の口、手足となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭の姿が見える。無心となった司祭は、聖霊の声を聞いて大いに喜び、「あの方は必ず栄え、私は衰える」と言った洗礼者ヨハネの言葉を悟っているに違いない。

「人は、天から与えられなければ、何も受けることはできない。『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』と私が言ったことを、まさにあなたがたが証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方は必ず栄え、私は衰える」(ヨハ3:27~30)。 

ヨハネ福音書4章は最後に、「イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、第二のしるし」(ヨハ4:54)について言及して終わる。このしるしが行われたのは、イエスが、死にかかっていた息子をいやしてくださるように頼んだ王の役人の願いをかなえる場面である(4:43~54参照)。このしるしについては、本ブログ№208で、ヘブライ人への手紙をもとに考察したので、それを参考にしたい。 

ヘブライ人への手紙の筆者は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブ11:1~3)と述べている。その上で、この信仰のゆえに神に認められた旧約の人たちの歴史を簡潔に示し(11:4~38参照)、その結果を次のように結論した。「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」(11:39~40) 

王の役人は、イエスが「息子をいやしてくださる」ことを確信していた。だから、イエスが彼に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(ヨハ4:48)と言われたことに取り合わず、すぐに、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(4:49)と言った。彼は、望んでいる事柄を確信しており、イエスが子供を癒すというまだ見えない事実を確認しようとしたのである。実際、後で彼は、イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(4:50)と言った時刻と、子供が癒された時刻を確認している(4:51~53参照)。そして、「彼もその家族もこぞって信じた」(4:53)とある。彼らは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」旧約の信仰のモデルであった。しかし彼らは、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れなかった。 

「約束されたもの」とは、ヘブライ人への手紙の筆者が続けて、「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」と書いた「更にまさったもの」、新約の司祭職である。ガリラヤのカナの婚宴で、ぶどう酒がなくなったことを告げるイエスの母の願いに応えて、水をぶどう酒に変えたイエスの第一のしるしは、ご聖体を暗示している(2:1~11参照)。そこには、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(2:11)と書かれている。このとき弟子たちは、ただイエスに従って来ていた。それは、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」旧約の信仰を超えていたのである。 

Maria K. M.


 2026/05/25


249. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い

「第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する」(黙20:6)という黙示録の第5の幸いが述べられる箇所は、「ヨハネの黙示録の預言的構成」の図の「ミサ典礼の完成の預言(19~20章)」の終盤にある(下図参照)。ここで預言されるミサ典礼の完成は、聖霊と共に働く司祭たちはもちろん、そのような司祭たちを生み出すように、絶えず聖性を目指す信者たちから成る教会のものなのである。前回、「私たちの罪をおゆるしください、私たちも人をゆるします」という、主の祈りの第5の祈願には、万民のための罪の赦しが込められていることを考察した。主の祈りは、ミサ典礼の完成に向かって、黙示録の第5の幸いに到達する希望の炎を、それを唱える私たちの内に灯し続ける。 

ミサ典礼を完成させる教会の努力とともに、聖性に向けて信者たちを洗い清める御言葉の力は、常に変わることなく働き続けている。信者たちが唱える主の祈りのキリスト的な願いは、彼らの記憶を通して、彼らの知人から知人へ、この世のコミュニティーへと伝っていく。情報化社会の只中でAIを使いこなそうとしている現代の人々の中には、敏感にそれを感じ取って、情報と自分との間に距離をとっていく者もいるにちがいない。十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)と言われたイエスは、「人間の情報」が張り付き、わけもわからず生きながらその虜となってしまった人々の救いを望み、そのような人々を、今もミサ典礼に引き寄せておられる。 

黙示録19章では、生きている信者たちの清め(黙19:11~16参照)と、完成したミサ典礼の効力が伝播するこの世の清め(19:17~21参照)が描かれている。続く20章は、死んだ人々についてである。そこには、「また私は、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した」(20:4)とある。それは、これらの者たちが、「第一の復活」(20:5)に与り、キリストと共に、天から私たちのミサ典礼に参列していることを表しているのだ。「千年」とは、神の1日である(二ペトロ3:8参照)。それはミサ典礼が、地球上のどこかで常に挙行されている永続的時間である。 

ここに描かれた二通りの死者のうち、初めの者たちは、イエスが最期の食卓で使徒たちに委ねた王権を引き継ぐ使徒継承によって授けられた聖体制定と新約の司祭職を、全うして死んだ司祭たちである。次にある、「イエスの証し」とは、ここでは、イエスがキリストとして生涯を通して死に至るまで罪を赦し続けたことであり、「神の言葉のゆえに首をはねられた者たち」とは、司祭たちと同じく聖霊と共に働くために、御言葉によって、まるで首をはねられた者であるかのように、「人間の情報」から清められていた者たちである。彼らは、新約の司祭職を授かった民としての自覚をもって、権力と支配欲に捕らわれた「獣」も、獣の像も拝まなかったので、惑わされなかったのである。 

以上が、万民のための罪の赦しを願う主の祈りの第5の祈願、「私たちの罪をおゆるしください、私たちも人をゆるします」が、到達すべき黙示録の第5の幸いの全貌である。「第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する」という幸いを得た彼らは、罪の赦しによる聖性を目指す新しい民の到達点であり、万民を罪の赦しに導く永遠の命を証ししているのである。 

これまで、主の祈りと黙示録の7つの幸いのテーマを追ってきたが、ここで続けて最後の二つを考察してこのテーマを終わることにする。ミサ典礼が閉祭した後、信者たちは、次のミサに向かう日常のルーティンの中で、新たな「獣」や「偽預言者」と遭遇し、悪霊と出会う事態が予見される。それに対抗するのは、ミサ典礼の終わりに、司祭から授けられる派遣の祝福である。この祝福には、主の祈りの、「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」という第6と第7の祈願が叶うようにとの祈りがこめられている。私たちはこの祝福を持って、再び次のミサを目指して生きる。それは、ミサ典礼から出てしまったのではなく、その空間を延長しているのである。司祭の授けた祝福には、「神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する」者たちの眼差しが向けられているからである。 

主の祈りにあるように、誘惑に陥らないためには、信者たちは自覚をもって自分自身と「人間の情報」を区別することが必須である。そのために、黙示録の第6の幸いは、「見よ、私はすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、幸いである」(黙22:7)と諭す。それは、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(1:3)という黙示録の第1の幸いに戻って、黙示録の訓練のループを続けることに尽きることを指し示しているのである。それこそが、信者を悪から守り、「命の木にあずかる権利を与えられ、門を通って都に入ることができるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」(22:14)という、黙示録の第7の幸いを信者にもたらすために、天の父がキリストを通してお与えになった、唯一の霊的訓練なのである(1:1参照)。 

Maria K. M.




 2026/05/18


248. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い

ヨハネの黙示録に、「私は愛する者を責め、鍛錬する。それゆえ、熱心であれ。そして悔い改めよ」(黙3:19)とあるように、ことばの典礼の中で、聖霊によって生きるものとなったイエスの御言葉は、鋭い剣となって信者の記憶を刺し貫き、しみついた「人間の情報」をそぎ落とし、信者がそれを眺めて、自分自身と区別するようにさせる。さらに、聖霊の口、手足となって聖霊に付き従い、無心となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭の説教は、「天の軍勢」(19:14)と化し、信者が神の子となる資格を持っていることを思い出すようにと、追い打ちをかける。このように、ミサ典礼でことばの典礼がもたらすこれらの恵みは、ヨハネ福音書に書かれたイエスの最期の食卓で、イエスが弟子たちの足を洗った出来事を彷彿させる。 

ヨハネ福音書は、イエスが弟子たちの足を洗う場面の初めに、「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」(ヨハ13:1)と書いた。ここで初めに「過越祭の前に」と書いたのは、「除酵祭の第一日に」と三共観福音書がそろって書いた、イエスの聖体制定の日と異なることを強調するためである。イエスが弟子たちの足を洗う場面が、聖体制定の前にあったことを示したのである。ゆえに私たち教会のミサ典礼の場には、初めにことばの典礼によって、次に交わりの儀に至る感謝の典礼によって、二つの主の最期の食卓が続けて現れることになった。信者たちは、ミサ典礼に現れるこれら二つの主の食卓を通って、新しい契約の全貌を体験する。そこは、新しいぶどう酒が新しい革袋に入れられる場なのである。 

私たち教会は、まことに新約の司祭職を授かった民である。イエスは、ご自身が選んで使徒とされた弟子たちに、聖体制定と共に新約の司祭職を授け、それらが継承されるようにご自身の王権を委ねられた。そして、復活したイエスは、弟子たちに聖霊を吹きかけて、罪を赦す権能を授けられた。イエスの受難と死に向き合えなかったという負い目を持つ彼らは、復活したイエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」(ヨハ20:19)と言われ、手と脇腹とをお見せになったのを見て喜んだ。そこでイエスは、「あなたがたに平和があるように」と重ねて言われた。平和は、罪を赦されたと人が実感した時、その喜びと共にもたらされるということを体験させたのである。続けてイエスは、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」(20:21)と言われた。 

イエスは、罪を赦す権能を授ける弟子たちに、ご自身が生涯を通して、死に至るまで罪を赦し続けたことを想起させ、彼らもご自分に倣うよう命じたのである。ゆえに、「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハ20:22~23)と言われたイエスの言葉は、厳しいものであった。「誰の罪でも」とは、信者だけではなく、世のすべての人に罪の赦しが向けられているということだからである。罪が赦されないままこの地上に残ることがあってはならない。このように私たちの教会は、使徒継承によって罪を赦す権能を引き継ぎ、その重荷を担ってきた。信者たちにある喜びと平和は、イエスに赦されたという自覚からきているからである。 

この権能を前にして、赦しの秘跡を求めるときの信者には、明確な罪の自覚がある。一方で、「私たちの罪をおゆるしください、私たちも人をゆるします」という主の祈りの第5の祈願を唱える時、多くの場合信者たちには、罪の自覚がないか、あるいは曖昧である。しかし何か引っかかるものを記憶しているものだ。それは、未来の罪の可能性である。「人間の情報」がそぎ落とされずに記憶に貼り付いていれば、やがてそれは、さまざまな欲望を引き寄せる。そしてその欲望が行為になれば「人間の仕業」となり、その多くは罪に至る。そこで、「私たちの罪をおゆるしください、私たちも人をゆるします」という主の祈りの第5の祈願は、全信者と万民のために、罪の赦しを乞うているのである。 

感謝の典礼の中で交わりの儀に移った時、ご聖体を前にして唱える主の祈りを、曖昧な姿勢で唱える信者はいない。彼らは、イエスが湖の上を歩いて弟子たちの舟に行かれた時のこと、自分に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてくださるよう、イエスに頼んだペトロのようである。「イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、風を見て怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた」(マタ14:29~31)とある。私たちから「人間の情報」をそぎ落とすのは、強風ではなくイエスの御言葉である。ことばの典礼の中で、自分に張り付いていた「人間の情報」がそぎ落とされるのを見ても恐れず、それを自分自身と区別する業を身に付けるのである。 

私たち信者は、イエスがすぐに手を伸ばして怖がるペトロを捕まえたように、ご聖体が待ち構えておられるのを知っている。だからこそ、ミサ典礼の中で、私たち信者が、拝領するご聖体の名を、「メシア、神の子、イエス」と呼び、ご聖体とその名を結び付けて自身の記憶に書き記し、司祭から渡されたご聖体を自分の手でしっかりと受け取って拝領する幸いと重要性を、私は何度でも繰り返し強調してやまない。ご聖体は、私たちを救おうと伸ばされたイエスのみ手である。私たち信者がこれを悟らないままでいるなら、「第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する」(黙20:6)という、黙示録の第5の幸いは、それをイメージすることさえ難しい。 

Maria K. M.


 2026/05/11


247. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い

前回の考察を続ける。黙示録で、天使が筆者に、「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」(黙19:9)と言ったように、ミサ典礼の中で、私たち信者が、拝領するご聖体の名を、「メシア、神の子、イエス」と呼び、毎回ご聖体とその名を結び付けて自身の記憶に書き記すことの幸いと重要性を、どれほど強調しても足りない。このような仕方は、人が直観的に受け取れない事柄を身に着ける際の、常とう手段である。しかし、世界中で、ローマ・カトリックの信者は、司祭が掲げるご聖体を前にして、百人隊長の言葉で応える。それは、ご聖体と百人隊長の謙遜の言葉が、容易に結びつくからである。一方、イエスが百人隊長の信仰を褒めたのは、彼が、兵隊を前に権威を行使する自分の体験から、イエスの権能を信じ、イエスを受け入れたことにある。イエスは彼の人間的な謙遜を褒めたわけではなかった。 

むしろ、「私が行って癒やしてあげよう」と言われたイエスに、「主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます」(マタ8:8)と言って、その来訪を断った百人隊長の謙遜は、彼の家族がイエスと出会う機会を奪う結果となった。また、人間的な謙遜を抱き、自分の足を洗おうとするイエスを拒んだペトロを、イエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」(ヨハ13:8)と厳しく戒められた。イエスが弟子に求めるへりくだりや謙遜は、仕える者になることや(マタ23:11~12参照)、招待を受けたら末席に着くこと(ルカ14:10~11参照)、神の前では、あの義とされて家に帰った徴税人のように自分の望みを正直に願うことであった(18:13~14参照)。 

これらの事から考察すると、世界中で、ローマ・カトリックの信者が、毎回ミサ典礼の中で、ご聖体を前にして、百人隊長の言葉を唱え続けているのは、この言葉が、ご聖体への尊敬とへりくだりを表すと勘違いしているからだと言わざるを得ない。しかしそれは、パンとぶどう酒の形態に隠れるほどの神のへりくだりを前にして、あまりにも釣り合いのとれない言葉である。イエスは、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」(マタ11:28~30)と言われた。信者が、神の子イエスの神的なへりくだりに倣うことは、イエスの軛を負い、荷を担う決断をすることにある。 

それは、イエスの名によって遣わされた聖霊と共に働かなければ、人にはできないことである。そのために、拝領するご聖体の名を、「メシア、神の子、イエス」と呼び、毎回その名を自身の記憶に書き記すことで、この啓示が暗黙知となって信者たちの記憶に留まることは、ミサ典礼に与る者の大きな幸いである。直観的に受け取れない事柄を身に着ける際の、これが最も効果的な仕方だからである。しかし、ここでもう一つの弊害にぶつかる。信者たちの旧約聖書への依存である。旧約聖書の使命は、福音書の中でイエスによって引用されたことでその役目を終えた。イエスとつながり、イエスによって完成され、福音書の中で新しい御言葉として生きるものとなったのである。ゆえに、それは、必要に応じて解説されれば十分である。 

しかし、主日のミサにおいて、信者たちがことばの典礼に入ると、復活節を除き、先ず初めに旧約聖書が朗読され、続いて詩編が唱和される。その後に使徒書や福音書が朗読されるのである。そうするとそこで読まれる新約聖書の言葉は、旧約聖書や詩編の朗読に共感した信者の記憶に後から入れられることになる。いわば古い革袋に入れられた新しいぶどう酒である。ミサ典礼に行き着いた信者の中には、悩みや苦しみを抱えている者や、日々の重荷に心が弱くなっている者もいる。そんな信者たちにとって、旧約聖書や詩編の言葉に共感し、身を任すことはたやすい。それらは深い感動を呼び起こし、後につかの間の安らぎを得させることもある。こうして、旧約の預言とともに、今も救い主を待ち続ける民の世界観に浸る危険の中に、イエスの新約の民が放置される。 

このようなミサ典礼の雰囲気の中でも、司祭に朗読され、聖霊によって生きるものとなった御言葉は、鋭い剣となって信者の記憶に入り、しみついた「人間の情報」をそぎ落とそうとする。「人間の情報」は、イエスが弟子たちに自分自身と区別することを教え、受難と十字架上の死をもって、示し続けた、「いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者」(黙12:9)の真の姿である。黙示録では、太陽の中に立つ天使が、個々の信者からそぎ落とされた「人間の情報」を「肉」と呼んで、空高く飛んでいるすべての鳥にそれを食らえと命じる(黙19:17~21参照)。最期の食事の前に、弟子たちの足を洗って拭いて浄めたイエスのように。それは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟ったイエスが、「世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」(ヨハ13:1)行為であった。 

しかし、ミサ典礼をこのように行っている私たちは、イエスの前で、人間的な謙遜を抱き、「私の足など、決して洗わないでください」(ヨハ13:8)と言うに違いない。そして、ことばの祭儀の前に回心の祈りをしたとしても、「私たちの罪をおゆるしください、私たちも人をゆるします」という主の祈りの第5の祈願が叶う日は遠い。また、この祈願が行き着くはずの黙示録の第5の幸い、「第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する」(黙20:6)という現実は、更に遠くにある。 

Maria K. M.


 2026/05/04

246. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い

主の祈りの第4の祈願、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りは、前回考察したように、「土から取られたあなたは土に帰るまで/額に汗して糧を得る。/あなたは塵だから、塵に帰る」(創3:19)と、アダムに予告した神の言葉が実現することを、信者が願う祈りでもある。これらの祈りが叶うのを見るのは、「それから、天使は私に、『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(黙19:9)と書かれた第4の幸いに与っている時である。この黙示録の第4の幸いの直前には、「私たちは喜び、大いに喜び神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て花嫁は支度を整え輝く清い上質の亜麻布を身にまとった。この上質の亜麻布とは聖なる者たちの正しい行いである」(19:7~8)という句が置かれている。 

この句の、支度を整えた「花嫁」とは、司祭の記憶に、特別な仕方で隠されている新約の司祭職である。新約の司祭職が身にまとった「聖なる者たちの正しい行い」とは、花婿であるイエスの名によって遣わされた聖霊の「介添え人」として、聖霊の口、手足となって聖霊に付き従い、無心となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭の行いを表している。ここにご聖体が誕生する。居合わせた司祭と会衆は、すべてを目撃する。彼らは、新約の司祭職を受け取った民だからである。そこで、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の幸いを悟った筆者は、感動のあまり、天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。しかし天使は、次のように言った。「やめよ。私は、あなたや、イエスの証しを守っているあなたのきょうだいたちと同じく、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ」(黙19:10)。 

天使が言う「あなたや、イエスの証しを守っているあなたのきょうだいたち」とは、イエスの聖体制定の言葉と、それとともに授けた新約の司祭職を記憶に保持し、イエスが委ねた王職によってそれらの権威を継承した使徒とその後継者たちである。イエスが新約の司祭職と共に使徒たちに授けたこれらの言葉は、聖霊が預言の霊となって彼らの記憶から引き出し、彼らと共に働き現実にする。その時、彼らは、天使と同じく、神である聖霊に仕える者となっているのである。この幸いは、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈願の持つ人間的で素朴な表現に、重厚で根源的な構造が織り込まれていることを示している。続く第4の幸いの、「これらは、神の真実の言葉である」という句に、それが暗示されている。天使の言葉が終わると筆者は、次の描写を続けた。 

「それから、私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『忠実』および『真実』と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた。この方は血染めの衣を身にまとい、その名は『神の言葉』と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、この方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。そして、この方はぶどう酒の搾り桶を踏む。そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている。この方の衣と腿には、『王の王、主の主』という名が記されていた」(黙19:11~16)。 

この描写は、聖霊と、ご聖体に関するものである。白い馬が現れ、それに乗っている方が「忠実」および「真実」と呼ばれるのは、イエスが聖霊について、「その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(ヨハ16:13)と言われたからである。正義をもって裁き、また戦われるのは、「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」(16:8)ためであり、「この世の支配者が断罪される」(16:11)ためである。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた、とあるのは、この世の人に聖霊の姿が見えないからである。 

とはいえ、この方は血染めの衣を身にまとい、その名は「神の言葉」と呼ばれたとあるので、信者は、受難の場面で、イエスが深紅の外套を着せられたことを想起し(マタ27:28~29参照)、イエスが、「その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである」(ヨハ16:14)と言われたことを思い出す。その名は「神の言葉」と呼ばれたとあるのは、聖霊がイエスの名によって遣わされ、御言葉を生きるものし、イエスの証ししたことを実現するためである。そこで、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、聖霊に従っていた。聖霊の口、手足となって聖霊に付き従い、無心となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭たちである。聖霊によって生きるものとなった御言葉は、鋭い剣である。それで打ち倒す「諸国の民」とは、人々の内奥に入り込んだ「人間の情報」である。 

次に、自ら鉄の杖で彼らを治めるとあるのは、キリストの御体を示唆している。この言葉が、黙示録12章の「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖であらゆる国の民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へと引き上げられた」(黙12:5)から取られているからである。この描写は、「天に大きなしるしが現れた。一人の女が太陽を身にまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(12:1)という場面の後に書かれており、本ブログでこれまで考察したように、この「一人の女」は、イエスの母のイメージをもって描写された新約の司祭職である。ここから、「男の子を産んだ」女は、それを記憶に保持する使徒(司祭)であり、「神のもとへ、その玉座へと引き上げられた」とある男の子は、キリストの御体である。 

「そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている」とあるのは、イエスが、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」(マタ26:28)と言われたからである。「そのぶどう酒」とは、イエスの御血である。続く、「この方の衣と腿には、『王の王、主の主』という名が記されていた」とは、ご聖体の名である。「王の王」は油注がれた者、メシアを、「主の主」は、神の子イエスの名を示唆している。ご聖体には名があり、それは、「メシア、神の子イエス」である。 

これらの事は、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の幸いの中で、私たち信者が、拝領するご聖体の名を、「メシア、神の子イエス」と呼ぶことができるということを示唆している。実際に「私たちと共におられる」(マタ1:23)神に向かってその名を呼ぶことは、キリスト者の悲願である。そして、信者がご聖体を前にして、「メシア、神の子イエス」と呼び、その声を聞くことは、その名を自身の記憶に書き記すということになる。そこで天使は筆者に、「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」と言ったのである。 

Maria K. M.

 

(お知らせ)

インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。

 ➡ 「パトモスの風⑪

 


 2026/04/27


245. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い

イエスはカファルナウムで、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである」(ヨハ6:27)と、ご自身に従ってきた群衆に言われた。この言葉は、この時の群衆には理解できなかった。しかし今、私たちは、イエスが、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。・・私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(6:33~35)と言われたことを実現されたことを知っている。ゆえに私たち教会は、ミサ典礼に向かう日常のルーティンを生きようと努力する。 

日々水を飲むように黙示録の預言の言葉を朗読し、その声を聞く訓練は、信者がミサ典礼に向かう日常のルーティンと重なっている。イエスがもたらした神の国の中核をなすミサ典礼に与り、神に向かって「天におられる私たちの父よ」と呼びかけるすべての信者の内奥で、天の父の名が聖とされるために、ヨハネの黙示録の第1の幸いは、黙示録の訓練を続けることが必須であることを告げた。そこに「時が迫っているからである」(黙1:3)とあるように、わたしたち信者が、イエスの名によって遣わされた聖霊と共にいて、共に働く時は、なのである。「み国が来ますように」という祈りが真剣みを帯びてくるのは、このためである。そして、ミサ典礼に向かう日常のルーティンの道を聖霊と共に歩む自分を確認しつつ、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」と祈るのである。 

ミサ典礼に向かう日常のルーティンの道筋で立ちのぼるこれらの祈願は、信者たちの口に、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という確信的な祈りをもたらす。主の祈りの第4の祈願であるこの人間的で素朴な祈りには、黙示録の、「それから、天使は私に、『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(黙19:9)と書かれた第4の幸いが向かい合う。この幸いは、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈願の持つ人間的で素朴な表現の裏に、重厚で根源的な構造があることを示している。それは、この祈りが、創世記の「土から取られたあなたは土に帰るまで/額に汗して糧を得る。/あなたは塵だから、塵に帰る」(創3:19)と、アダムに予告した神の言葉が、実現することを願う祈りだからである。 

創世記には、「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」(創2:7)とある。ヨハネ福音書に、復活したイエスが使徒たちに、「息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハ20:22)と書かれているところからも、「神の息」は、人を霊的存在とするものであると分かる。人は神のイメージで、また、「神は霊である」(4:24)とイエスが言われた神との類似性を持って創造された。人は初めから霊的存在となるものとして創造されたのである。神はアダムに、自分の肉体の死に至るまで「額に汗して糧を得る」ために働くこと、そして霊的存在に戻ることを予告した。この予告が、女性から生まれるすべての人のものになるように、イエスは女性から生まれ、アダムに告げた言葉を実現するために、男性としてお生まれになった。 

イエスが、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである」と言われた「いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物」とは、まさに、その働きを授けられた男性が、額に汗して得る「糧」なのである。「父なる神が、人の子を認証されたからである」とは、このように働く男性に、天の父がしるしを付けられたということである。それは、イエスが以前、「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハ4:34)と言われた言葉を受け取った男性のしるしである。 

イエスのこれらの言葉を最終的に受け取ることができたのは、その当時、使徒たちだけであった(ヨハ6:66~69参照)。「人の子があなたがたに与える食べ物」は、天の父の「御心を行い、その業を成し遂げること」であり、それは、「いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物」を生じさせ、それを特別な仕方で人々に分け与えることである。彼らは、イエスの名によって遣わされた聖霊と共に働き、「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」と言われたイエスの言葉を現実のものにする。この神の現実は、ミサ典礼の中で繰り返される。イエスが聖体制定とともに使徒たちに授けた新約の司祭職は、併せて使徒たちに委ねられた王職によって、連綿と受け継がれるものとなったからである。 

イエスの名によって遣わされた聖霊は、福音として地上に残されたイエスの御言葉に命を与え、生きるものとされる。ミサ典礼の中で新約の司祭職は、聖霊の「介添え人」(ヨハ3:29)である司祭の記憶に、特別な仕方で隠されている。彼らは、聖霊の口、手足となって聖霊に付き従い、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」という彼らの祈りは、御父に聞き入れられ(16:23~24参照)、ご聖体が生まれる。これらの只中で、すべてを目撃する司祭自身と会衆は、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈願が叶うのを見る。彼らは、第4の幸いである「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の幸いに与っているのである。 

Maria K. M.


 2026/04/20


244. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い  

前回の考察を続ける。神に「天におられる私たちの父よ」と呼びかける信者が、それをイエスと同じ心で呼びかけ、「み名が聖とされますように」という祈願を自分のものにするために、ヨハネの黙示録は、全22章の訓練の内、半分以上をそのための訓練に充てている。「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)という第1の幸いが示すように、その訓練を素早く始めることによって、天の父の名が、訓練者の内で聖とされていく。黙示録の言葉を朗読し聞く訓練をすぐにも始めれば、そこから訓練者の内奥に浄めの水が入るからだ。やがて訓練者は、「天におられる私たちの父よ」と呼びかける自身の声が、真理を帯びたものとなっていくのを見るようになる。 

日々水を飲むように黙示録の預言の言葉を朗読し、その声を聞く訓練者は、この訓練がミサ典礼に向かう日常のルーティンと重なっていくことに気付く。このルーティンを生きる自分の前に現れる出来事に、だんだんと観察の眼差しを向けるようになるからだ。黙示録の筆者に影響された訓練者は、その内奥で、自分の記憶に入った「情報」を、自分と区別して見るという姿勢を取るようになっていく。そこで、「み国が来ますように」という祈りが真剣みを帯びてくる。この祈願には、黙示録の第2の幸いの訓練が対応する。「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」(黙14:13)とあるこの訓練によって、「み国が来ますように」という祈願の神髄を信者自身が体験し、答えを得るのである。 

「情報」を、自分と区別して見るようになると、訓練者は次第に、「情報」から取り込んで自分の知識とした記憶と、自分の知識として記憶されている御言葉との間の矛盾に気付き、それを解決しようとする。それは内面的な苦痛を引き起こすのみならず、御言葉に従おうとするその姿勢が、ミサ典礼に向かう日常のルーティンの中で出会う人々の前で、言葉や行為に映し出されて現れる時、外的な労苦と困難ももたらされることがある。世がイエスを扱ったと同じく、神を天の父と呼ぶその人をも排斥しようとするからである。これが訓練者にとっての「主にあって死ぬ人」の体験である。それは、遂にミサ典礼に与るまで続く。ミサ典礼の中で、訓練者は、御言葉とご聖体に再会する。「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」とはこの事である。 

「言っておくが、神の国が来るまで、私は今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)と言われたイエスは、十字架上で酸いぶどう酒を受け取られたことで、神の国の到来を告げられた(ヨハ19:30参照)。御父と共にご聖体に現存されるイエスは、ご自身の血と水を受けた教会が、神の国をミサ典礼として完成する時を見ておられる。21世紀の今でもミサ典礼は完成の途上にある。しかし、ご自分の名によって遣わされる聖霊のために、イエスが聖体制定とともに使徒たちに授けた新約の司祭職は、併せて使徒たちに委ねられた王職によって継承され、常に「主の食卓」に仕えている(ルカ22:30/本ブログ№237参照)。ゆえに、信者の日常のルーティンは、イエスが十字架上で獲得してくださった神の国を現すミサ典礼を目指すことができるのである。 

「主の祈り」の3つ目の祈願、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」には、「見よ、私は盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである」(黙16:15)という黙示録の第3の幸いが答えている。「見よ、私は盗人のように来る」と言われるように、洗礼を受けた信者でも、身近な実生活の中で、イエスの名によって遣わされた聖霊と触れ合う機会に気づかないことがある。その機会に気付き、自覚して聖霊と共に行動するのでなければ、その信者の行いは、神の御前で、裸で歩くのを見られて恥をかく人のようである。そこで御父は、黙示録を示した。これを朗読し、その声を聞く訓練を続けて、聖霊との親和性を身に着けるのである。この預言の書の冒頭に書かれた言葉を忘れてはならない。 

それは、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである」(黙1:1)という言葉である。黙示録の訓練では、「目を覚まし、衣を身に着けている人」の幸いが得られるだけではない。この黙示録の訓練が、いつも真実に目覚め、聖霊と一つになって働こうとする人を支えるのである。その人は、イエスの名によって遣わされた聖霊の衣を身に着けているキリスト者であり、聖霊によってイエス・キリストを世に現わす信者である。このように働くことを知って、体験する者は、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」と真摯に願い、次のイエスの言葉を実践するために、ミサ典礼に向かう日常のルーティンの中で、聖霊と共にいて、真実をもって生きようと努力するのである。 

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである」(ヨハ6:27)。 

Maria K. M.


 2026/04/13


243. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸いⅠ

ヨハネの黙示録の訓練は、パウロが旧約聖書や詩編を使って信者のために与えた訓練とは(一コリ14:26参照)、全く異なる効果を引き出す。旧約聖書の世界には、イエスの名が存在しないだけではなく、旧約の民が、神を父と呼ぶ機会を逃したという致命的な歴史がある。神がダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サム下7:14)と約束したにもかかわらず、ソロモンが神から離れたために実現しなかった歴史だ(王上11:1~10参照)。この歴史が彼らの嘆きの原点にある。神と親子の関係に至らなかった彼らは、雅歌を加えた旧約聖書を成立させた。神への言及がほとんどない雅歌には、かえって、神の愛を男女の愛にすり替えるというドラマチックな解釈の変化をもたらすことができる可能性があったからだ。 

雅歌を加えることで、神と親子の関係に至らなかった民であっても、神の愛は変わらず民に注がれ、その「愛」に導かれ、時に迷いながらも、神を慕い求める民が、遂には神と出会うという熱烈な愛のドラマが、ユダヤの民の歴史を再肯定することができたのである。しかし、恋人同士、花婿と花嫁、夫と妻といった婚姻のイメージを、神と民の関係のアナロジーにすると、やがて人が、自分を神と対等な者と錯覚する危険がある。神と民が親子の関係であればありえない発想を抱くようになるのである。ヨハネ福音書には、「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである」(ヨハ5:18)と書かれている。しかしそれは、「父は私よりも偉大な方だからである」(14:28)と言われたイエスの思いではない。 

それは、「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」(ヨハ5:17)というイエスの言葉を聞いて、自分を神と対等だと錯覚する者が、神を自分の父であると言うイエスに対して持った、深い嫉妬の念である。彼らには、「よくよく言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もすることができない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする」(5:19)と続けたイエスの言葉は、耳に入らなかったに違いない。神を父と呼ぶイエスへの深い嫉妬の念は、殺意に取って代わられたのである。一方、イエスが成し遂げられた新しい契約に導き入れられた信者は、イエスを受け入れ、その名を信じ、神の子となる資格を与えられたのであるから(1:12参照)、その神を父と呼ぶことは正当な行為である。それはまさしく、神が待ち続けた神と人の真の関係であった。 

イエスは弟子たちに「主の祈り」を教えられた。それはイエスが、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」(マタ6:8~9)と言って教えてくださった唯一の祈りである。初めに「天におられる私たちの父よ」と呼びかける「主の祈り」には、7つの祈願がある。それらの祈願が、それを唱える信者自身のものとなるようにと導く7つの幸いが、ヨハネの黙示録にはある(上図「ヨハネの黙示録の預言的構成」参照)。図の左を見ると分かるように、第1の幸い(黙1:3参照)から第2の幸い(14:13参照)の間には、長い距離がある。それは、信者が神に「天におられる私たちの父よ」と呼びかけ、続けて「み名が聖とされますように」と祈る真意を悟るようになるには、それほどの長い訓練を必要とすることを物語っている。 

「み名が聖とされますように」と祈る信者は、自らの記憶が浄化され、イエスと同じ心で神が天の父であるという真理を身に着けられるように、黙示録の訓練に臨むのである。黙示録全22章の訓練の内、半分以上が、「主の祈り」の最初の祈願に充てられている理由がここにある。そこで「み名が聖とされますように」という祈願は、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)という黙示録の第1の幸いに導かれる。この幸いに従う訓練者は、黙示録の預言の言葉を朗読し、その声を聞く訓練を、日々水を飲むように、ミサ典礼に向かう日常のルーティンに取り入れることが求められる。 

ミサ典礼に向かう日常のルーティンを生きる信者の前には、さまざまな出来事が現れる。時に、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタ8:20)と言われたイエスのように、落ち着く場のないほどの目まぐるしい体験をする。黙示録の訓練者の意識は、このような現実の出来事を前にして、黙示録の筆者と同じように、その出来事に観察の眼差しを向けるようになる。そこで続く、「み国が来ますように」という祈願は、「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」(黙14:13)とある黙示録の第2の幸いに導かれる。 

Maria K. M.


 2026/04/06


242. ヨハネ福音書と新約の司祭職 親和性の実装

「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハ14:17)と言われたイエスの言葉を信者に体験させることと、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性を実装する自発性を育てていくことは、同時に進行する。そのためには、その訓練の書にイエスの名が置かれていることが必須条件である(本ブログ№240参照)。旧約聖書の使命は、福音書の中でイエスによって引用されたことでその役目を終えた。イエスとつながり、イエスによって完成され、福音書の中で新しい御言葉として生きるものとなったのである。ゆえに、その由来や背景は、必要に応じて解説されれば十分であると考える。 

キリスト者は、新しい契約によって、イエスを受け入れ、イエスの名を信じて神の子となる資格を与えられた信者である(ヨハ1:12参照)。その新しい記憶に新しい御言葉を恒常的に注入するためにも、新約聖書は成立した。父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受けた信者の記憶は、新しい革袋である。そこに注がれた新約聖書の言葉が、イエスの名によって遣わされた聖霊と見事な親和性を見せるに至るためには、注がれた新約聖書の言葉が認識となって熟成する必要がある。その必要に答えるために授かったのが、ヨハネの黙示録である。イエスの名によって遣わされた聖霊が最適化したこの訓練を、信者たちに公に与えることができるのは、教会の牧者たちである。 

私たち信者は、教会が正典と認めたヨハネの黙示録の言葉に、ただ幼子のように素直に従い、この預言の言葉が感覚から入るに任せるのみである(黙1:3参照)。黙示録を朗読する声は、流れて信者の感覚を清め、知識に留まることなしに、聖霊が定めた記憶の場に入る。そして自律的にイエス・キリストの世界観を信者の無意識の記憶として形成することができる。この世界観が、信者の知識に記憶されていた新約聖書の言葉を受けて認識にする基礎になる。このように、黙示録を、水を飲むように日常的に朗読することによって、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性を実装する自発性が養われる。ゆえに一回の量は、真摯にこの訓練に向き合うその人相応でよいのである。 

それは、マタイ福音書でイエスが、「天の国は、ある人が旅に出るとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである」(マタ25:14)と言って始められたたとえと似ている。主人は、僕たちにそれぞれの力に応じて自分の財産を預けた。それは信者にとってヨハネの黙示録を朗読する訓練である。ある日は一節しかできなくとも、それを毎日続けていれば、もうけを出すことができる。聖霊が働いておられるからである。しかし、ヨハネの黙示録の効力を理解せず、地の中に隠しておくならば、「悪い臆病な僕だ」(25:26)と言われ、役に立たない僕として外の暗闇に追い出されてしまう。ここで「主人」は、「誰でも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」(マタ25:29)と諭している。「持っているもの」とは、神の言葉の認識である。 

そこでヨハネの黙示録には、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)と書かれている。ここで、「時が迫っているからである」とあるのは、黙示録の最後の章に、「見よ、私はすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、幸いである」(22:7)と書かれた言葉を先に受けている。御言葉は、「この書の預言の言葉を守る者」と認識を共有するために、待ち構えておられるのである。 

黙示録の「幸い」は7つあって、黙示録全体を前に進める大きな推進力になっている。上に示した改訂版「ヨハネの黙示録の預言的構成」の図(2026/4月版)は、黙示録の「7つの幸い」について、新しい見解を与えている。「7つの幸い」に、本ブログでこれまで考察してきたような働きと、推進力があるのは、これらの幸いが、マタイ福音書にある山上の説教の中央に置かれた、「主の祈り」を受けているからである。イエスが、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」(マタ6:8~9)と言って教えてくださった主の祈りは、7つの願いから成り、神を天の父と呼ぶことから始まる。 

これを受けて、黙示録の初めは、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである」(黙1:1)と書かれている。ヨハネの黙示録の訓練は、確かに神である天の父のみ旨なのである。次回は、主の祈りに答える7つの幸いについて考察を深めたい。 

Maria K. M.


(お知らせ)

インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。

 ➡ 「パトモスの風⑩

 



 2026/03/30


241. ヨハネ福音書と新約の司祭職 パトモスの2羽の鷲

前々回考察したように、自分の使命が、イエスから「良い羊飼い」の杖を委ねられたペトロを、ローマの共同体に迎えることにあると悟っていたパウロは、その時宜が到来すると、「トロアスのカルポのところに私が置いてきた外套を持って来てください。また書物、とりわけ羊皮紙のものを持って来てください」(二テモ4:13)と、テモテに手紙を書いた。それがペトロを指すことを知っていたテモテは、ペトロと共にマルコを伴ってローマに向かった。パウロのところにはルカがいた。ペトロとパウロが自分たちの死を十分に認識していたと思われるこの時期、彼らは集って共にイエスのなさったことを残す具体的な案を考えたに違いない。そこでパウロがエルサレムで柱の一人と目されていたヨハネを忘れるはずはなかった(ガラ2:9参照)。ヨハネには福音宣教を支える霊的な養成が期待されていたのである。 

同様にペトロも、復活したイエスにヨハネの未来について尋ねたとき、「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」(ヨハ21:22)とお答えになった声を、忘れることはなかった。それは、イエスがご自分の牧者の杖をペトロに委ね(21:15~17参照)、「よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」(21:18)と言った直後であった。ヨハネ福音記者は、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(21:19)と解説しているが、その裏には、パウロに「帯を締められ」、ローマに連れて行かれるという予告が隠されていた。 

このように、ヨハネ福音書には、新約聖書の他の書との関わりに、読者が気付くきっかけをつくる含みがある。そこで「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか」とペトロに言われたイエスの言葉を見ると、それに続けて、「それで、この弟子は死なないという噂がきょうだいたちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『私の来るときまで、彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである」(ヨハ21:23)と、ここでも含みのある解説をしている。ヨハネ福音書の終盤に置かれたこの含みは、イエスとの再会を示唆していたのである。それは、パトモスと呼ばれる島で、ヨハネが黙示録を書くことになるからであった(黙1:9参照)。 

このことは、ヨハネの黙示録の冒頭に、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである」(黙1:1)と書かれことを見ても分かる。続けて、「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした」(1:2)と、第三者の目で書いている。それは、同じようにヨハネ福音書の、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」(ヨハ21:24)と、第三者の証言として書かれた文脈と共鳴していることからも、そこに含みがあったことを見ることができる。 

さらに、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)と続けた黙示録の言葉は、ヨハネ福音書の最後の句、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハ21:25)を受けている。聖霊は、「イエスのなさったこと」を、書物ではなく、体験によって信者たちの記憶に残すことにした。黙示録に書かれた言葉を朗読する声は、それを聞いた人の記憶にその言葉を保持させる。それは、信者の感覚に「イエス・キリストの黙示」を注入し、ディープラーニングのような学習の仕方で、イエス・キリストの世界観が信者の記憶の中で自律的に形成されるようにする訓練となる。 

信者は、この訓練を自発的に日々繰り返し体験することによって、記憶にある情報伝達のパターンが、神に向かって再構成される。特定の回路がつながりやすくなるのだ。それは、さまざまな折に信者の記憶に入っている御言葉に向かい、この回路が頻繁に認識され、強化されることにより、ものの見方が変わって、福音書の中で弟子たちがイエスと他の人々と区別していたように、神と人間の情報との区別が起こるようになる。ヨハネの黙示の訓練を続ける最大の効果は、どの信者にもこの区別が与えられるようになるということである。それは、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性をもたらし、教会に大きな益をもたらす。 

イエスが約束した聖霊は、「父が私の名によってお遣わしになる聖霊」(ヨハ14:26)として、特別に使命を持って降臨された。その使命は、「イエス」の名によって遣わされた聖霊が、私たち「キリスト」者と協働し、二つの名が一つとなって、イエス・キリストの御業が再び世に現れることを実現する使命である。その中心には、これまで考察してきたように、イエスがもたらされた新約の司祭職と牧者に委ねられた王職、使徒職と聖霊と共働するための預言職がある。そのために書かれたヨハネの福音書と黙示録は、分かつことのできない、パトモスの2羽の鷲であった。 

Maria K. M.


 2026/03/23


240. ヨハネ福音書と新約の司祭職 痛手

使徒パウロは、ダマスコへの途上で天からの光の中で地に倒れ、イエスの声を聞いた。その後パウロは、おもだった使徒たちからイエスについて真摯に聞き取った体験によって、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性を実装することができた。しかし、神から特別な目的を持って選ばれた彼の体験を、そのまますべての信者たちに応用することは不可能である。パウロは、異邦人の信徒たちに宛てた手紙で、「兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」(一コリ14:26)という勧めを書き送っている。 

パウロは、自分を育んだユダヤの祈りの仕方をベースに、イエス・キリストについての教えを盛り込んで訓練することで、共同体を内側から変容させる霊的環境を生み出す手段とすることができると考えていたかもしれない。詩編は、救い主を待ち望みながらも決して見ることのなかった者たちの預言的な言葉を編纂したものであったが、その構成は、人の感性を神に向ける方向性を持っている。しかしパウロは、疑問も感じていたに違いない。ルカが福音書で書いたように、イエスは、「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」(ルカ5:36)と言われたからだ。旧約の預言とイエスが実現されたこととの間には、それほどの大きなギャップがある。 

イエスは続けて、「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(ルカ5:37~38)と言われた。革袋とは、ミサ典礼や教会の祈りの場に拠り所を見出す信者たちの記憶である。ミサ典礼や教会の祈りでは、先ず初めに旧約聖書が朗読され、詩編が唱和される。その後に使徒書や福音書が朗読されるのである。そうするとそこで読まれる新約聖書の言葉は、旧約聖書や詩編の朗読に共感した信者の記憶に後から入れられることになる。いわば古い革袋に入れられた新しいぶどう酒である。そこには大きなリスクがあるとイエスは警告する。私たち教会は、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」と言われたイエスの言葉を真摯に受け取る必要がある。 

更に続けてイエスは、「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」(ルカ5:39)と言われた。ここには未来を思うイエスの残念な気持ちを感じる。ヨハネ福音書の別の場面でイエスは、「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない」(ヨハ5:39~40)と言われた。ここには、イエスについて証しする旧約聖書の魅力に引かれて、永遠の命について証しする新約聖書のイエスのもとに来ようとしない信者たちの未来の姿も予見されている。旧約聖書の朗読や詩編の唱和に努めているうちに、そこにイエスの名がないことから、かえってそれらの中にイエスがおられると錯覚し、そこに留まってしまうのである。 

「命を得るために私のもとに来ようとしない」と言われた後、続けてイエスは、「私は、人からの栄光は受けない。しかし、あなたがたの内には神への愛がないことを、私は知っている」(ヨハ5:41~42)と言われている。錯覚の中に留まっていれば、「神への愛」は起こりようがない。それは教会にとって致命的な痛手である。「神への愛」は、常に信者を、命を得るためにイエスのもとに行こうと駆り立てる。イエスが、「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(14:17)と言われた聖霊が、私たち信者の自発性を喚起するからである。 

教会にとって致命的な痛手のゆえに、コリントの共同体に見られた苦しみは、21世紀の今も世界中で続いている。派閥争い、みだらな所業による共同体の崩壊の危機、告訴、売春、異言や預言の問題、無秩序な礼拝。そして、今も戦争は絶えることなく続き、戦火は世界を巻き込んで再び燃え上がろうとしている。パウロの働きによってローマに集ったペトロとパウロ、ルカ、マルコ、そしてテモテは、どうしたら信者の内に、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性を実装する自発性を育てていくことができるか、その養成を考えていただろう。そのときパトモスと呼ばれる島で、パウロに使徒の柱の一人と目されたヨハネは、そのテーマに取り組んでいたのである。 

Maria K. M.

 


 2026/03/16


239. ヨハネ福音書と新約の司祭職 親和性

前回考察したように、パウロは、ローマのキリスト者共同体にペトロを迎え、その使命を果たした。こうしてローマに都を移した教会は、イエスから使徒として養成され、聖体制定から成る新約の司祭職を授かり、王権、すなわち「善き羊飼いの杖」を委ねられたペトロを頭とし、その職務を継承し続けることによって、「その支配は終わることがない」(ルカ1:33)という、天使がイエスの母マリアに告げた言葉を、実現するのである。 

ここに来るまで、聖霊降臨によって設立された教会は、様々な出来事に翻弄されながらも、前進してきた。その始まりは、マティアが加わって12人になった使徒たちが、「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」(使6:4)と言って、現在の司教職に向かった時であった。発端は、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出たことにあった。そこには、「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていた」(6:1)という問題があったので、教会は、まず「日々の分配のこと」を、7人の調停役を選ぶことで解決した。聖霊降臨後の教会は、ペトロとヨハネの宣教によって、「男の数が五千人ほどになった」(4:4)とあるように、急成長していた。信者たちの養成が急務であった。 

イエスが昇天された後、聖霊が降臨するのを待つ120人ほどの信者たちは(使1:14~15参照)、常に聖霊がとどまっておられたイエスを見て、直接御言葉を聞いた弟子たちである。イエスが、「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハ14:17)と言われたように、イエスによってすでに聖霊を体験し、その記憶を持つ信者たちであった。ゆえに彼らは、イエスの名によって来られる聖霊と高い親和性を持っていた(14:26参照)。聖霊が降臨すると、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした」(使2:3~4)とある。ここに、使徒職と預言職が土台になって人間性が再構成された男女の信者たちがいた。 

イエスに養成されたこれらの信者たちは、聖霊降臨後に加わった三千人ほどの人々の中にいて、大きな求心力を発揮した。しかし、イエスの養成を体験として口頭で伝えることしかできないままに、信者が増加してくると、聖霊との高い親和性を持っていた共同体のクオリティを維持することは、難しいものになっていった。このような中で、「仲間のやもめたちが軽んじられていた」という問題は起こった。この出来事は、「日々の分配のこと」によって表出したとしても、原因は、そこに集っていたすべての信者個々人の抱える様々な問題、往々にして本人の自覚に至らない記憶の深奥に隠された願いや、自己実現や自己満足に関わる日常的な不満などが複雑に絡み合って作用するのである。それは、ヨハネ福音書4章のイエスとサマリアの女の対話によく現れている(ヨハ4:7~26参照)。 

イエスは、サマリアの女の記憶のすべてをつぶさに知る神だけができる仕方で、彼女の内奥に隠された願いと、日常的に抱える重荷について明らかにされた。しかし、彼女にとって初めての体験であったために、御言葉のすべてを受け取ることができなかった。その後、もし彼女が、機会を捉えてイエスに従って行ったとすれば、やがて降臨した聖霊と高い親和性を発揮して、聖霊に満たされる体験をしたに違いない。「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」とイエスが言われた神の現実は、意識的にだけでなく、イエスを見て、その声を聞くことによって、無意識の内にも受け取られ、その人に吸収され、信仰の記憶の土台を固めていくからである。 

聖霊が降臨すると、全く新しい現実が訪れた。聖霊との高い親和性を持っていた共同体の人々が、イエスについて語り始めれば、それが福音宣教となった。聖霊との親和性は、聖霊が授けるすべての賜物、格別に預言の賜物との親和性であり、信者が生きるすべての時間の中で、聖霊の声に気付くための重大な性質である。教会には、次第にイエスの教えの伝達や信者の養成のための書の形が作られていく。しかし、イエスを見て、その声を聞いてきた信者たちが持っていた、聖霊との高い親和性をもたらすような育成を発案するまでにはいかなかった。無意識や暗黙知といったアイディアの乏しい当時の感覚では、そこに重大な必要があることに気付き、どうすれば信者たちが、聖霊との高い親和性を実装できるのかを考えることは、不可能であった。しかし、誰の脳裏にも思い浮かばなかったわけではなかったのである。 

Maria K. M.


お知らせ)

インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。

 ➡ 「パトモスの風



 2026/03/09

238. ヨハネ福音書と新約の司祭職 飛翔

聖霊降臨後、新たにマティアが加わった12人は、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人」(使6:3)選び、按手によって公式の役務につけた。この出来事は重大な決定であった。やがて、教会に対して大迫害が起こり、その運命の中心にパウロの人生を巻き込むことになる。回心とともに始まったパウロの働きは、使徒職と、降臨した聖霊によって授けられる預言の賜物が(ヨハ16:13参照)、信者が聖霊と共に働くための土台であることを教えてくれる。使徒言行録では、パウロもバルナバも使徒とされており(使14:14参照)、またパウロは、相応しい弟子たちを使徒と呼んだ(ロマ16:7、ガラ1:19、一テサ2:7参照)。 

パウロは、特にペトロから、そしてヤコブ、ヨハネ、バルナバからも、イエスについての多くの体験を聞き取った。そこから彼は、イエスがまず12人を選び、「使徒」と呼んで養成し、彼らにすべてを伝えた後に(ヨハ15:15参照)、聖体制定と共に彼らに新約の司祭職を授け(ルカ22:14~20参照)、王権を委ねた真意を悟ったに違いない(22:28~30参照)。その王権は、天使がイエスの母に「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」(1:32)と告げた、ダビデの王座にもとづくものであった。ダビデは、初め羊飼いだった。イエスは、「私は良い羊飼いである」(ヨハ10:11)と言われ、その羊飼いがどのように働くかをファリサイ派の人々の前で説かれた(10:1~18参照)。弟子たちが体験したこの出来事は、イエスが復活された後、次のような出来事につながった。 

ヨハネ福音書に、復活されたイエスは「シモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『私の小羊を飼いなさい』と言われた」(ヨハ21:15)とある。イエスはこの時、「この人たち以上に」と言うことで、ペトロに弟子たちの頭となる意志を確認したのだ。その後、続けて2回、「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」と問い、「私の羊の世話をしなさい」(21:16)、「私の羊を飼いなさい」(21:17)と命じた。「私は良い羊飼いである」と言われたイエスは、いわばその杖を、ペトロに委ねたのだ。これら3つの命令は、その権威が「羊の囲い」(10:1)の中、すなわち教会の内側にあることを示している。それは新約の司祭職に関わることなのである。 

続けてイエスはペトロに、彼がどのような死に方で神の栄光を現すことになるかを示そうとして、次のように言われた。「よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」(ヨハ21:18)。パウロは、これらの体験を「柱と目されるおもだった人たち」(ガラ2:9)の一人、ヨハネから聞き取り、また、イエスがエルサレムの崩壊について語ったこともよく聞いていたに違いない。キリスト者のために新しい都を準備しなければならない。そして、「良い羊飼い」の杖を守り、イエスの養成を継承するのである。それはペトロの手に、彼の記憶の中にあった。 

使徒言行録には、パウロがエフェソで、「マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『私はそこに行った後、ローマも見なくてはならない』と言った」(使19:21)とある。パウロは、ローマをキリスト者の新しい都とすることを神が望んでいると直感していた。聖霊はパウロの決心と共にいた。「主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」(23:11)。神のみ手は彼をローマに運んだ。 

パウロは、「ローマでも証しをしなければならない」と言われた主の言葉を悟っていた。自分の使命が、「良い羊飼い」の杖を委ねられたペトロを、ローマの共同体に迎えることにあると知っていたのである。彼はペトロをローマに呼び寄せる手はずを整えていた。機が熟したことを悟ったパウロは、テモテに手紙を書いた。「ぜひ、急いで私のところに来てください・・ルカだけが私のところにいます。マルコを連れて、一緒に来てください。彼は、私の務めのために役に立つからです・・あなたが来るときには、トロアスのカルポのところに私が置いてきた外套を持って来てください。また書物、とりわけ羊皮紙のものを持って来てください」(二テモ4:9~13)。 

「幼い日から聖書に親しんできた」(二テモ3:15)テモテは良く分かっていた。「外套」は、エリヤがエリシャに投げたもの、すなわち「継承」を意味する。「書物、とりわけ羊皮紙のもの」とはペトロの記憶にある「良い羊飼い」の杖とイエスの養成、すなわち司教職である。ペトロをローマに迎える時宜が来たのだ。テモテはペトロと共にマルコを伴っていく。パウロのところにはルカがいる。すべてがそろった。パウロが、「今や、義の冠が私を待っているばかりです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるでしょう。私だけでなく、主が現れるのを心から待ち望むすべての人に授けてくださるでしょう」(二テモ4:8)と書いた通り、ローマの共同体にペトロを迎えること、それが闘いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通したパウロの義の冠なのである。 

Maria K. M.


 2026/03/02


237. ヨハネ福音書と新約の司祭職 悟りへⅢ

ヨハネ福音書4章のイエスとサマリアの女の対話とそれに続く場面で、イエスは、使徒職と新約の司祭職の違いを示した。それは、使徒たちに自分たちの役割を悟らせる養成の場でもあった。イエスは、地上で使徒たちに施したご自分の養成が、すべての信者たちのものになるために、まず12人を選んで使徒と名付け、人々が注目するようにした。使徒職は、降臨した聖霊によってすべての信者に授けられることになる預言の賜物と共に、信者が聖霊と共に働くための土台である(ヨハ16:13参照)。自らを使徒と呼んだパウロは、これらの事に気付いていたのである。 

さらに使徒たちには、最期の食卓で、聖体制定とともに「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じた言葉によって、新約の司祭職を授け、続けて、「私の父が私に王権を委ねてくださったように、私もあなたがたにそれを委ねる。こうして、あなたがたは、私の国で食卓に着いて食事を共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を裁くことになる」(22:29~30)と言って、王権を委ねられた。 

この王権は、天使がイエスの母マリアに、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(ルカ1:32~33)と告げたものである。「その支配は終わることがない」という言葉が、イエスが選んだ使徒たちに授けた新約の司祭職を、未来永劫継承させることになる。イエスが昇天される直前に、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(使1:6)と尋ねた。王権についてのイエスの言葉が彼らの記憶に残っていたからである。イエスは、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(1:7)とお答えになった。 

こうして新約の司祭職は、イエスが使徒たちに委ねた王権によって、「わたしの記念としてこのように行いなさい」というイエスの命令を実現し続けるのである。さらに、「あなたがたは、私の国で食卓に着いて食事を共にし」とある御言葉は、新約の司祭職が奉仕するのは、現在も未来も常に「食卓」だということを決定づけた。イエスがご自身をお捧げになったのは十字架上であったとしても、ご聖体となって誕生されるのは、信者たちが囲む食卓の上なのである。 

聖霊降臨の前に、ペトロの提案によって、弟子たちは12人目の使徒としてマティアを選出した(使1:23~25参照)。イエスから授かった新約の司祭職と委ねられた王職、そして、それらの土台となる使徒職を継がせ、聖霊がお授けになる預言の賜物に備えるためである。このときすでに120人ほどの人々が使徒たちと共にいて、一つになっていた。これら、聖霊降臨前からの信者たちは、聖霊降臨後に加わった三千人ほどの人々を仲間に受け入れた(2:41参照)。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(2:42)と書かれているように、聖霊降臨前からの信者たちは、多くの新たな信者たちの中にいて、求心力を発揮していた。 

しかし、弟子たちの数が増大してくると共同体の状況は変わってきた。ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出たのである。使徒たちは「ギリシア」という言葉を聞いて、天に昇られる時イエスが、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」と言われたのが、今この時だと、直観的に悟った。イエスがご受難に向かわれる時を知って、「人の子が栄光を受ける時が来た」(ヨハ12:23)と言われたのは、エルサレムに上って来た何人かのギリシア人が、イエスにお目にかかりたいと頼んだときだったことを、聖霊が彼らに思い出させられたからである。この時もイエスに従う人々の数は増大し、群衆となっていた。 

そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」(使6:2~4)。 

イエスは、「使徒」と名付けられた12人を、聖霊降臨を目指して養成した。「使徒」とは、「使徒職」と「預言職」が土台になってその人間性が再構成された信者のことであった。聖霊が降臨された今こそ、すべての信者が使徒となるときである。12人の使徒たちは、彼ら自身がそのような使徒であり、イエスによって王権とともに新約の司祭職を授かったことを、聖霊によって理解した。彼らは、自分たちは、イエスが王権とともに授けてくださった新約の司祭職を教え司る者となり、永遠に持続可能な職務とするために働く必要があることを悟った。今日の「司教」として立ち上がる必要があることを悟ったのである。祈りと御言葉の奉仕に専念するという彼らの宣言は、確かに現代の私たち信者のところまで伝わる重大な決定となった。 

Maria K. M.


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