2026/01/12
230. ヨハネ福音書と新約の司祭職 水を飲ませてください
ヨハネ福音書4章でイエスは、井戸に水を汲みに来たサマリアの女に、「水を飲ませてください」(ヨハ4:7)と言って声をかけ、対話が始まる。サマリアの女には、対話を続ける強い熱意と相手を知ろうとする姿勢がある。たとえ神とは気づかずとも、イエスに共感できるという大きな期待を直観的に持つことのできる感性が彼女にはあった。神があるようにと望まれた人の命を育む胎を授かった女性には、自身の中に“完成されたもの”を神から授かっている、という感覚が本能的にある。胎が子を宿せば、そこには命が“ある”からである。この感覚からあふれる感性が、多くの女性を神に向かわせてきた。
イエスとサマリアの女の対話を見ると、直観的でスムースな流れがあるのは、この感性を持っているサマリアの女を、「わたしはある」と言われるイエスが導いておられたからだ。弟子たちが不在の間にこれらの対話が起こったのは(ヨハ4:8参照)、水で洗礼を授けていた弟子たちの姿が新約の司祭職を予感させるとしても(4:2参照)、それを授けられていない時点での彼らの感性は、イエスとサマリアの女の対話について来ることができないからだ。しかし、彼らがこの対話から遠ざけられたのは、それだけの理由ではなかった。
イエスは、サマリアの女との対話の最後に、新約の司祭職についての重要な事柄を証しした。彼女はそれを聞いて、イエスが、「キリストと呼ばれるメシア」(ヨハ4:25)であると悟り、イエスから「わたしである」(4:26)、すなわち「わたしはある」という御言葉を引き出した。イエスの証しは次のとおりである。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(4:21~24)。
この内容は、新約の司祭職を授けられていないこの時、しかもユダヤ人の男性である弟子たちに受け入れられるものではなかった。しかしこのイエスの御言葉は、異邦人にとっての幸いであり、サマリアの女は、イエスに導かれて、まさに御父が求めておられる礼拝者になろうとしていた。そして、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われたイエスは、この言葉を実現するために、聖霊と直につながって生きる未来の信者の必要を満たし、神が男と女に造られたそれぞれの召命がもたらす役割を、彼らが十全に発揮できるように、すべてを準備して行かれた。
「水を飲ませてください」という御言葉は、イエスが十字架上で「渇く」(ヨハ19:28)と言われた御言葉を連想させる。その場面でイエスは、差し出された酸いぶどう酒を受け取ると、「成し遂げられた」(19:30)と言って息を引き取られた。すでに前晩に、使徒たちに聖体制定と共に新約の司祭職を授けていたからだ。こうして、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)と言われた「神の国」が到来したことが告げられた。「神の国」は、イエスが聖体制定と共に、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じた言葉によって新約の司祭職を授けたその時と場をもたらす時空、すなわちミサ典礼に現れる時空を指している。新約の司祭職は、イエスの母と「愛する弟子」として十字架のイエスの傍らにあった。「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハ3:15)というイエスの言葉が実現するためである。
この時十字架のイエスのそばに呼ばれた人々は、「愛する弟子」を除いて皆女性であった(ヨハ19:25参照)。そこに誕生した「わたしの教会」(マタ16:18)は、まるで女性を基にして誕生したかのようだ。ここに他の男性の弟子たちの姿がないのは、男性である彼らが十字架のそばまで行くには、当時、あまりに大きな危険があったからであるが、それだけではない。イエスは最期の過ぎ越し祭の前に、「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハ13:1)。「愛する弟子」は、その一人で、いわば「愛する弟子たち」の代表としてそこにいたのである。信者の男性はすべて、イエスの母と親子の絆で結ばれた「愛する弟子」の召命、すなわち新約の司祭職に向けて呼ばれているからである。
すべての女性が子を授かるわけではないが、女性が子を授かるように方向付けられていることに間違いはない。同じように、神の国に入るために水と霊から新たに生まれた者たちの内で、すべての男性が新約の司祭職を授かるわけではないが、信者の男性が新約の司祭職を授かるように方向付けられていることに間違いはない。全聖書がそれを裏付けている。ゆえに女性の胎が命を授かることに向けて、常に準備しているように、信者の男性の記憶も、新約の司祭職を授かることに向けて、常に準備されるべきである。その男性が、生涯司祭になることがないと確信していたとしても、必要な養成の段階を踏んでいる必要がある。弟子の一人のマティアのように、いつでも教会の必要に答えられるようになっているためである(使1:26参照)。現代では、そのための学びの機会が提供されさえすれば、受講は容易である。
それは、女性も共に学ぶということである。女性は男性が新約の司祭職に向けてどのように養成されるかの全貌を捉えている必要がある。人の命はすべて女性から生まれるのであるから、新約の司祭職を授かった男性である司祭も女性から生まれる。この司祭がミサ典礼の中で、ご聖体が生まれるために、パンとぶどう酒がキリストの御体と御血になることを、御父に願うのである。ご聖体は、信者に食べられ、飲まれることによって、女性から生まれるすべての人の命に仕えることができる。イエスが、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハ6:35)と言ったとおりである。
Maria K. M.
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