イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/01/05


229. ヨハネ福音書と新約の司祭職 風は思いのままに吹く

イエスの最期の食卓で、イエスの聖体制定の御言葉と行った動作、そして、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じた御言葉とが一つになって、新約の司祭職として、使徒たちの記憶に置かれた。新約の司祭職は、ミサ典礼の中で、それを継承した男性である司祭の記憶から引き出され、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになる。そして、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」という御父に願う司祭の声によって、祭壇の上にご聖体が誕生する。司祭は、無心の内に、自分の内から出るその声を聖霊の声として耳を傾け、その声が聞こえると喜びで満たされる。そして、司祭が言うイエスの聖体制定の言葉は、生きた御言葉となって会衆に届き、信者たちは、司祭と共に次のイエスの言葉を体感する。 

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハ3:8)。 

私たちは、ミサ典礼の中に働かれる聖霊の姿を見る。「風は思いのままに吹く」とあるように、聖霊は司祭の記憶から思いのままに新約の司祭職を引き出す。「どこから来て、どこへ行くか」という表現は、「過去と未来」を表している。新約の司祭職を引き出された司祭が、自分の内から出るその声を聖霊の声として耳を傾け、集中していると、過去も未来も思わず、ただ、祭壇の前で無心に聖霊と協働するのみである。このように聖霊と協働する司祭の姿を見、司祭の内から出るその声を聖霊の声として聞く会衆は、喜びで満たされる。「霊から生まれた者も皆そのとおりである」とは、この事である。司祭と会衆を包むこの喜びの内にご聖体が生まれる。 

ヨハネ福音書でイエスは、捕らえられる前に、御父に向かって祈った。その中でイエスは、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハ17:3)と言って、永遠の命が何かを明かした。御父と御子を「知ること」、それは御父と御子と交わることである。永遠の命とは、御父と御子が現存しておられるご聖体を拝領することを示唆しているのである。 

そしてイエスは、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(ヨハ17:21)と祈り、「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(17:22~23)と祈られた。これらの祈りはご聖体によって実現する。ご聖体は、拝領する信者たちを完全に一つにする。ゆえに、イエスが信者たちに与えた「あなたがくださった栄光」とは、新約の司祭職である。 

聖霊はご聖体と共におられる。御父と御子は共にご聖体に現存される。そして、イエスが私たちのために、「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(ヨハ17:24)と御父に祈られたのは、まさに私たちにミサ典礼を授けていただくためであった。 

ここまで見たように、ヨハネ福音書1~3章には、御父と御子と聖霊である三位一体の神、メシア、洗礼、堅信、司祭職を授ける叙階の秘跡、神の子、ご聖体の秘跡と聖霊の働きについてのイメージが現われていた。4章では、イエスが、サマリアの女との対話を用いて、ご聖体とはどのような方であるのかを現し、証ししている。この対話の間、「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」(ヨハ4:8)とある。そこに弟子たちが不在だったのは、男性であった彼らが、ご聖体について語るイエスを見て直観的に理解できず、疑いを持つことを避けるためであった。 

創世記から始まる旧約聖書の長い物語は、神が目指す新約の司祭職を与えるにふさわしくアダムを、すなわち神が選んだ民の男性を養成し、成長させる歴史であった。男性に“完成されたもの”を授け、聖霊と協働させるためである。神があるようにと望まれた人の命を育む胎は、創造の時に完成していた。それを授かった女性には、自身の中に“完成されたもの”を持っているという感覚が本能的にある。実際、女性の胎は、全く他者の命のためにある。このような器官を持たない男性の弟子たちには、直観的に理解できない流れが、イエスとサマリアの女との対話に起こるのである。 

Maria K. M.


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