イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/02/09


234. ヨハネ福音書と新約の司祭職 ヨハネ福音記者の気付きⅢ

ヨハネ福音書4章のテーマを続ける。サマリアの女が、人気のない真昼時に井戸に水を汲みに来た事情を、当時の人であれば見当がつくとしても、イエスは初対面の彼女に、「五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」(ヨハ4:18)と言われた。それはイエスが神であり、「すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(2:24~25)と書かれたとおりだったからだ。 

彼女は、イエスとの対話を通じて、自分の内奥にあった切実な神への渇きに気付き、自分からイエスに生きた水を求めた。イエスはそれを、すなわち生きたみ言葉を与えられた。たとえ短時間であっても彼女を導かれたのは、神であるイエスだった。何の情報もない状況で、このような内発的アプローチができるのは、神のみである。ここは第1のポイントである。 

しかし、対話の終わりに、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」(ヨハ4:25)という彼女の言葉に、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」(4:26)とイエスがはっきりと答えられたにもかかわらず、そのイエスの言葉を、彼女は完全に受け取ることはできなかった。その準備がなかったからである。その後、町に行き、人々に、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(4:29) と言った彼女の言葉に、それが現れている。これが第2のポイントになる。 

福音書は、この箇所で、サマリアの女が不在となった間にイエスが弟子たちに話された「刈り入れ」のたとえを挿入した。前回までに考察したように、このたとえの中にも、「飲食のテーマ」から、「命のテーマ」、「礼拝のテーマ」へとつながる流れがある。それはイエスが、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハ4:34)と言われ、また次に、「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」(4:36)と言われたように、「まことの礼拝をする者たち」(4:23)について、弟子たちに教えるためであった。「刈り入れる人」は弟子たちであり、「刈り入れる人」が受ける「報酬」とは、永遠の命に至る実、すなわち、イエスのもとに集まる人々を指している。 

そしてイエスは、「そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる」(ヨハ4:37)と続けられた。マルコ福音書でイエスは、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」(マコ4:14)と言われている。サマリアの女は確かに種を蒔いたのである。「五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」というイエスの言葉は神の言葉である。さらに、「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」(ヨハ4:38)と言われたイエスの言葉は、「礼拝のテーマ」の予告である。新約の司祭職は、他の人々が労苦したその実りに与ることである。第3のポイントである。 

サマリア人の町に食べ物を買いに行ったユダヤ人の弟子たちは、町の人々の目に留まったことだろう。そこにサマリアの女の衝撃的な体験が伝えられたのである。彼女の体験には御言葉が共にあった。こうして、「人々は町を出て、イエスのもとへやって来た」(ヨハ4:30)。町の人々は、日ごろ彼女を見下していたとしても、ユダヤ人の弟子たちを見た後、すぐ伝えられた彼女の体験に興味を引かれ、イエスのもとに来たのである。これは第4のポイントである。 

そして、彼らの頼みに応じたイエスが、二日間そこに滞在されたことによって、彼らは神の養成を受け、一方弟子たちは事の次第を知った。町の人々は彼女に、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」(ヨハ4:42)と告げた。人々は、自発的にイエスを受け入れ、その名を信じたことを宣言している。ここまでの流れの中心には、常にイエスがおられた。これが第5のポイントになる。 

ここで浮かび上がった5つのポイントは、まとめると次のようになる。第1のポイントは、何の情報もない状況で内発的アプローチができるのは、神のみであること。第2のポイントは、その準備がなければイエスの言葉を完全に受け取ることができないこと。第3のポイントは、新約の司祭職は、他の人々が労苦したその実りに与ること。第4のポイントは、イエスを伝える人には御言葉が共にあること。第5のポイントは、人が自発的にイエスを受け入れ信じるようになる流れには、常にイエスが共におられるということである。 

弟子たちが不在であったときのイエスとサマリアの女とのやり取りも、サマリアの女が不在となった間にイエスが弟子たちに話されたことも、今、新約聖書を持つ私たちは知ることができる。ここには、新約の司祭職を授かる者と、同時に彼らを授かる教会が、新約の司祭職を守り保つために認識しておくべき基本が示されている。現代の私たち信者のところまでそれらが伝わったのは、使徒たちの次の決定による。「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」(使6:4)。 

Maria K. M.


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