イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/11/18


170. 最適化

前回、『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)の第一章「訓戒の言葉」の最初のテーマ「主の御体」で考察したように、聖フランシスコは、ヨハネ福音書から御父の愛とご聖体についての特別な理解を得ていた。一方、同じ「訓戒の言葉」の第2のテーマ、「我意の悪」では、創世記の「善悪の知識の木」へとその関心が向いている。それは、フランシスコが、ヨハネの黙示録の影響を強く受けていたことを物語っている。 

それまでの黙示文学に類を見ない特異な構造を持ち、その冒頭から「イエス・キリストの黙示」(黙示録1:1)とはっきり宣言しているヨハネの黙示録は、啓示の書、預言の書でありながらも(下記図参照)、信者の日常の訓練の書でもある。その訓練の方法は、黙示録1:3に示されたように、信者が、この預言の言葉を朗読し、自分の声を聞いて、中に記されたことを記憶に保持していくことを繰り返すことによって、信者の内に、いわばコンピュータプログラムのループ構造を作ることだ(本ブログ№151参照)。この構造は、派遣の祝福によってミサ典礼が終わった後から次のミサまでの信者の日常のルーティンを支えるのである。 

訓練の書としてのヨハネの黙示録の第一の目的は、この日常のルーティンにいる信者が、まず黙示録に描かれた「人間の情報」を感覚的に捉えて、聖霊の働きと区別する習慣を身に着け、それを記憶に保持することである。そこで黙示録には、竜、蛇、悪魔、サタン、全人類を惑わす者といった「人間の情報」を表す言葉が、繰り返し出てくる。信者は、黙示録を朗読して聞くことを反復するうちに、いつしかこれらの言葉のイメージが退き、「人間の情報」を直接感じられるようになっていく。この感覚は、ミサ典礼における日常のルーティンを生きながらも、この世で「人間の情報」の只中にいる信者が持つ願いを、強力にバックアップする。それは、出会うすべての場面で、聖霊が働く「神の現実」に自らを最適化させ、聖霊と協働したいという切なる願いである。黙示録は、そのためのシミュレーションになっているのだ。 

以上のような理解のもと、黙示録の「年を経た蛇」(黙12:9,20:2)という言葉をヒントに創世記3章を振り返る時、そこに、すでに同種の生き物の間にそれ相応に情報が発現していたこと、その中で最も賢いのは人間の間に発現した情報であったことが見えるようになる(創3:1,3:14参照)。他を凌駕する「人間の情報」が高度に発達したのは、神がご自分に似せて人を創造するために、人に意志を授けたからである(2:7参照)。全聖書は、御父である神が、ご自身に似せて創造した人の「自分の意志」(注)の自由を保証しているということを、常に訴えている。この観点から創世記3章を読むとき、そこに我が子たちの過ちに対処する御父の姿を見出す。それと同時に、その御父の姿と、御父の御心を成し遂げるイエス・キリストの姿が重なって見えるようになる。

(注)『アシジの聖フランシスコの小品集』p31「我意の悪」参照 

それは、信者が、「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」(創3:24)という御父の姿が、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)と言ったイエス・キリストの姿と一つであったと実感する時である。そして、この善い知らせを世にもたらすために、人々の内に今も残る「善悪の知識の木」から取って食べたという記憶に取り組もうと、「善悪の知識の木」に関心を向けるのである。 

フランシスコの時代には、「情報」という特別な概念がなかった。『アシジの聖フランシスコの小品集』には、その時代にあって、なんとかして自分が授かった啓示によって、「人間の情報」に対峙しようとするフランシスコの姿が見える。その姿は、すでに彼自身が、聖霊の働きと「人間の情報」を区別する習慣を身に着けていたことを証ししている。実際に「我意の悪」のテーマの中でも、また、他の箇所でも、彼が引用した「悪魔」や「サタン」を、「人間の情報」と置き換えても、その文脈が成り立つことからも、それを伺い知ることができる。その一方で彼は、さまざまな問題について、当時の教会の教えに従って理解しようとしたのである。 

つづく 

Maria K. M.




 2024/11/11


169. 暗黙知

聖フランシスコの時代に教会ではご聖体への関心が高まり、新しい修道生活の形態が起こっていた。このような折に、聖霊がフランシスコを導いて、サン・ダミアーノの十字架像から、ヨハネ福音書と黙示録の真理を悟らせたとすれば、それは時宜に適っていたにちがいない。しかし、神の啓示を授かる者は、たとえ聖霊と協働している瞬間であっても、ベースはこの世を旅する生身の人であって、黙示録の著者ヨハネが、「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした」(黙示録1:2)と書いたように、その人が見たこと以上のことは伝えてこない。そのことを念頭に、フランシスコに直接関係する資料、『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)を手掛かりに、彼の悟りを考察したい。 

第一章「訓戒の言葉」の最初のテーマ、主の御体」が、ヨハネ福音書の言葉で始まることは注目に値する。フランシスコは、初めに「主イエスは弟子たちに仰せになります」と書いて、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)という句から、イエスとフィリポのやり取りを経て、「わたしを見た者は、父をも見るのである」14:9というところまでイエスの言葉を引用した。そこから彼は、「御子は、御父に等しい方ですから、御父または聖霊を見るのと同じようにしなければだれもその神性を見ることはできません」(『アシジの聖フランシスコの小品集』p29)という結論に導く。 

それは、「主イエスを人間としてだけ見て、その霊と神性において、主がまことの神の子であることを見も、信じもしなかった者は皆、罪に定められました。今もこれと同じように、主の言葉によって祭壇上で、司祭の手を通して、パンとぶどう酒の形色のもとに聖別される秘跡を眺めながら、その霊と神性において、それが本当に私たちの主イエス・キリストのいと聖なる御体と御血であることを見も、信じもしない者は皆、既に罪に定められています」(p29)と諭すためであった。彼は、すでに罪に定められている者のように生きる多くの人を、実際に見ていたのだ。 

一方、彼自身は、「御覧なさい。主は、天の玉座から処女の胎内に降られた時と同じように、毎日へりくだられるのです。毎日謙遜な姿で私たちのところにおいでになるのです。毎日御父の懐から祭壇上の司祭の手のなかにお降りになるのです。かつて主は、まことの肉のうちにご自身を聖なる使徒たちに示されたように、今は聖なるパンのうちにご自身を私たちに示されます」(p30)という境地にいて、「使徒たちは、肉眼では主の肉だけを見ていましたが、霊的な眼で観想し、主が神であることを信じていました。それと同じように、私たちも、肉眼でパンとぶどう酒を見て、これこそキリストのいと聖なる生けるまことの御体と御血であると悟り、堅く信じましょう」(p30~31)と勧めている。この勧めを、フランシスコは自身にも課していたに違いない。しかし、この勧めは、「御子は、御父に等しい方ですから、御父または聖霊を見るのと同じようにしなければだれもその神性を見ることはできません」という結論を持っていた彼にとって難しかったと思う。 

イエスは、群衆に向かって、「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである」(ヨハネ5:37~38)と言っている。 

「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」という言葉が実現したのは、イエスがペトロに次のように言った場面である。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16:17)。それはペトロがイエスに向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えた言葉による。この言葉が「わたしの天の父」が現した言葉であった。この言葉を発したペトロ自身も、またそれを聞いた他の弟子たちも、自分の内に御父の言葉をとどめた。彼らは、「父がお遣わしになった者を」信じていたのである(ヨハネ17:8参照)。 

「あなたはメシア、生ける神の子です」という天の父が現した言葉は、これを聞く者の内にとどまる。そこで、ミサ典礼に集う信者は、司祭が示すご聖体に向かって、司祭と共に、天の父がペトロに現したこの言葉を声に出して宣言し、司祭から手渡されるご聖体を取って食べるとき、「これこそキリストのいと聖なる生けるまことの御体と御血であると悟り、堅く信じましょう」と言ったフランシスコの勧めに応えることができる。 

さらに天の父が現した言葉は、その言葉を声に出して宣言し、それを聞く信者の記憶に、暗黙知を形づくっていく。これが、イエスがペトロに、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16:18)と言った岩である。 

つづく 

Maria K. M.


 2024/11/04


168. 違和感

ローマ帝国に根付いたキリスト教は、西ローマ帝国の滅亡からローマを守った。そうしながら、およそ800年かけて準備された歴史の中に、聖フランシスコは登場した。彼の人生は、さらに800年後の私たちのために、今もシグナルを発している。 

イエスは、最期の食卓で使徒たちに、女が子供を産むときのたとえを語り、一人の人間が世に生まれ出た喜びに言及した。続けて、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(ヨハネ16:22)と言って、ご自身の復活と同時に、ご聖体の誕生を予告した。そして、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(16:23~24)と保証した。教会はこの世で最高のものを願って、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」と祈り、イエスのこの言葉に応えてきた。 

ヨハネ福音書において、マリアは、司祭職そのものになるために、イエスから「母」と呼ばれることはなかった(ヨハネ2:419:26参照)。そして、十字架上のイエスの言葉によって「イエスの母」と親子の絆で結ばれた使徒は、司祭職と結ばれたのである。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(19:27)とある。そこには、クロパの妻マリアとマグダラのマリアもいた。サン・ダミアーノの十字架像はまさにこの場面を描いた。ここから、聖フランシスコが何かを悟ったのである。助祭職を受けた彼は、自身を「聖職者」と呼んでいることからもわかるように(注)、司祭職に向かう路線の上に立った。しかし、彼が司祭になることはなかった。

(注)『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)P. 289参照 

フランシスコは、教会への愛のために助祭に叙階されたことによって、違和感を抱え、それはやがて矛盾となって苦しんだのではないか。彼がこの矛盾を背負って生きる姿に、「イエスの召命」の存在が見える。彼の弟子たちの多くが離れ去り、もはや彼と共に歩まなくなったことがそれを物語っている(ヨハネ6:66参照)。それは、同時に、「『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった」(18:9)とある、受難に臨むキリストの姿でもあった。御父のみ手は、イエス・キリストと完全につながるぶどうの枝を、「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(15:2)。そのみ手がフランシスコに臨み、彼は、そのみ手に自身を委ね、徹底的に清貧を生きて応え続けた。 

私見であるが、フランシスコに臨んだ御父のみ手は、彼が教会への愛のために受け取った助祭叙階の秘跡を無効にし、彼に初めから授けていた「イエスの召命」を戻してくださるための愛であったと思えてならない。彼は、やはり、サン・ダミアーノの十字架像の前で、「イエスの召命」を受け取っていたのだ。 

つづく 

Maria K. M.


 2024/10/28


167. 召命 

前回の考察の結果は、大変興味深いもので、聖フランシスコが助祭職を受けた理由が分かる気がした。ヨハネの福音書と黙示録を題材にしたサン・ダミアーノの十字架像に呼ばれた彼は、無意識の内に自分が「イエスの召命」を持っていると感じていたのではないだろうか。それは、イエスが天の国のために自ら独身となった者として生き、「御父」に対して最期まで「子」であり続けることで残した「イエスの召命」である。 

イエスに倣って天の国のために自ら独身を生きる召命に恵まれた者は、自分にそれがあることが分かる。イエスが、「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(マタイ19:12)と言った言葉は、この召命を自分が持っていることを受け入れた男女の信徒が、自由にそれを生きることができることを保証している。「イエスの召命」は、それを受け入れた者を、イエスのように、「神の国」のありかを告げる「恵まれた者」(19:11)にする。しかし、男性であったフランシスコは、教会が彼を司祭職へ招くことによって大いに苦しむことになる。彼は、自分の内にすでにあった「イエスの召命」への愛と、教会への愛との間で板挟みとなったからだ。司祭職への招きは、「マリアの召命」を受け取ることへの招きであり、両者は異なる召命である。 

イエスの司祭職は、その母マリアが天使のお告げに答えたことに始まった。マリアは、イエスと共に彼の司祭職も受け取ったのである。ヘブライ人への手紙に、「また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、『あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ』と言われた方が、それをお与えになったのです」(ヘブライ5:4~5)と書いてあるように、イエスは、神から召されて受けるこの光栄ある任務を、いわば母マリアから受けたのである。そこでイエスは、母のために「最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」(ヨハネ2:11)。水がぶどう酒に変わったこのしるしは、次に、ぶどう酒が御血に変わる前表であった。マリアは、天使を前に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と言った言葉を、まさに生涯をかけて生きていたのである。イエスは、そのマリアの願いが御父に向かっていたことを知っていた。 

イエスが行った聖体制定によって、パンとぶどう酒が、キリストの体と血になったご聖体が、イエスと共に最期の食卓を囲んだ使徒たちに食べられ、飲まれたことによって起こったご聖体の誕生と死は、イエスの誕生と死の現実の再現であった。イエスは、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)という御言葉によって、この業を未来も継続するように命じた。イエスを産み、イエスの十字架上の死を体験し、イエスの誕生と死を完全に共有した唯一の人である母マリアの現実は、聖霊と協働してご聖体を生み出し、その誕生と死を共有する司祭たちの体験の源であり、新しい契約の司祭職である。イエスは、十字架上で、母と使徒を親子の絆で結んだ。それは、使徒が、聖霊が降り、いと高き方の力に包まれてマリアが受け取ったイエスの司祭職と、未来永劫結ばれたことのしるしである。ゆえに、司祭は、「マリアの召命」を持っている。 

イエスは最期の食卓で、「マリアの召命」を受ける使徒たちの願いが、ご自身から(ヨハネ14:13~14参照)、聖霊へ(15:7~16参照)、そして、御父に向かうまで彼らを導いた(16:21~27参照)。そして教会は、イエスのこの導きに応えた。司祭は、ミサ典礼の中でパンとぶどう酒を前に、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」と祈る。使徒たちの役務を受け継ぐ者である司祭だけができるその祈りを、司祭は、生涯をかけて捧げるのである。ご聖体は、ご自身が食べられて死ぬという業によって、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハネ17:19)というイエスの言葉を実現しながら、司祭たちの祈りを支え続けている。 

つづく 

Maria K. M.


 2024/10/21


166. 神の似姿

サン・ダミアーノの十字架の中央のイエスはご聖体を表している。その右側には、司祭職(イエスの母)と、それと分かたれない絆(親子の絆)で結ばれた司祭(愛する弟子)がいる。ご聖体を挟んで左側には、既婚の信徒(クロパの妻マリア)と、独身の信徒(マグダラのマリア)がいて、彼らの左には、キリスト教を受け入れ、真摯な眼差しをご聖体に向けるローマ帝国(百人隊長)が置かれている。これは、おもにヨハネ福音書の場面を題材にしている。十字架像全体は、幸いと平和に満ちている。 

百人隊長を除く4人は皆、キリストの名を自分の十字架として背負っているキリスト者である。彼らは、イエスの名によって遣わされた聖霊と協働して、イエス・キリストをこの世に再び現す使命を帯びている。サン・ダミアーノの十字架には、この使命が、教会を構成する司祭と信徒という二つの立場として、イエス(ご聖体)を中心に左右に配置されている。「神の国」を世に現す教会の使命は、これら二つの立場を一つに包み、覆う、聖霊の力を見えるようにすることにある。それは、ミサ典礼の中で、祭壇とご聖体を囲んで立つ司式者と会衆として具現化する。さらに、これら二つの立場は、三つの召命によって構成されている。 

イエスは、およそ30歳で宣教を始め、受難を通って、十字架上で母を使徒に与え、ご自身の死によって聖家族を一時的に解消した。そして、わき腹から流れ出た血と水によって、聖家族の構成を持つ教会を新たに生み出した。 

イエスの十字架のそばにいた人々は、「愛する弟子」を除いて女性ばかりであった。しかし、彼女たちの名の後ろには、既婚の男性の信徒と独身の男性の信徒が隠れているのである。当時、女性たちは社会的にあまり目立たず、ローマ兵やユダヤ宗教指導者たちの監視が厳しくなかったため、十字架のそばにいることが比較的安全だったと考えられる。イエスの復活後も、番兵がいたにもかかわらず、「マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(マタイ28:1)と書かれている。 

マリアは、天使が、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(ルカ1:35)と告げた言葉を承諾し、イエスの母となった。イエスは昇天を前に使徒たちに、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(24:49)と命じた。彼らは、イエスの言葉を承諾し、イエスの祝福を受けた。このように、司祭は、聖霊によって高い所からの力に覆われることによって、聖霊と協働して「キリストの体」の母となることができる。これこそが司祭職であり、ゆえに司祭は、男性でありながらマリアの召命を持っているのである。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1:23)とあるマタイ福音書の証しが、イエス昇天後も実現し続けるためには、聖霊と協働するマリアの召命が必要である。この召命は「聖霊」のポストに対応する。 

イエスは、生涯独身を生きることによって、「御父」に対して「子」であり続けた。その証人となる信徒は、イエスに倣って生涯独身で生きることができる。イエスが、「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(マタイ19:12)と勧めたように、天の国のために独身を生きるその人には、自分がイエスの証人であることが分かるのである。彼らは、「神の国」のありかを告げる「恵まれた者」(19:11)なのだ。イエスが、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(ルカ18:16)と言ったように、神の国は「子供たち」のものである。彼らはまさしく独身者であり、「神の国」は、彼らと共にある。このように独身の男女の信徒は、イエスの召命を持っている。この召命は「子」のポストに対応する。 

ヨセフは、主の天使が夢に現れて言った言葉を承諾し、妻マリアと胎内の子イエスを迎え入れた。その言葉は次のとおりである。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:20~21)。彼がマリアとイエスを迎え入れた時、彼は、彼自身の召命を受け取った。そして、聖家族が世に現れたのである。ヨセフは、既婚の男女の信徒を表している。彼らは、教会の召命を持つ者、すなわちマリアとイエスの召命を持つ者たちを恐れずに迎え入れ、教会に聖家族を現わすヨセフの召命を持っている。この召命は「御父」のポストに対応する。 

このように、聖家族の構成を持った教会は、その自覚によって、三位一体の神を反映することができる。イエスは、御父に次のように切に祈った。 

「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(ヨハネ17:22~23)。 

つづく 

Maria K. M.



 2024/10/14


165. 時差

第二バチカン公会議の典礼改革によって、ミサ典礼は、司祭と信徒が祭壇を囲む様式へ移行した。これは、イエスが、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(ルカ5:38)と言った「新しい革袋」への大きな一歩であった。イエスは、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6:40)と言い、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(17:3)と祈った。御父がイエスに託した救いの計画の中心はここにある。そこで、上記の一歩を確実に前に進めるために、神の救いの計画について、洗礼者ヨハネの生涯を追いながら考察したい。 

洗礼者ヨハネは、「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(ルカ1:17)という天使のお告げと、父ザカリアの、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」(1:76~77)という預言、そして、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(3:4~6)という神の言葉を授かっていた。彼が、エリヤの霊と力で主に先立って行き、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるのは、人が皆、神の救いを仰ぎ見るためであった。 

福音書は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)という洗礼者ヨハネの声を聞いて、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたこと、ファリサイ派やサドカイ派の人々も大勢、洗礼を受けに来て彼の教えを聞いたこと(3:3~10参照)、徴税人や兵士たちにも様々な勧めをして民衆に福音を告げ知らせたことを記載した(ルカ3:7~18参照)。 

また、ヨハネはイエスに洗礼を授け、「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1:32)。そして、自分の弟子たちを意図してイエスに向かわせていた。「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」(1:35~37)とある。ヨハネは、イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)であり、「私よりも先におられた」(1:30)方、「聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人」(ヨハネ1:33)、「この方こそ神の子である」(1:34)と預言した。 

さらに彼は、イエスが遣わされた真の目的が、旧い契約を終わらせ、新しい契約(花嫁)を成し遂げることだと悟り、次のように言った。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:29~30)。イエスが、「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」(マタイ11:13~14)と言ったように、「わたしは衰えねばならない」と言う彼の言葉には、旧い契約の預言の終焉を背負った洗礼者ヨハネの覚悟があった。彼は、エリヤのように神への不義に挑戦し、殺された。 

イエスは、弟子たちに、「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか」(マルコ9:12)と問うた。この問いは、その答えを唯一知るイエスご自身が「自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)ための、苦難と死への挑戦の言葉であった。子を見て信じる者が皆永遠の命を得て、イエスがその人を終わりの日に復活させるために、彼は「自分の民」、すなわちキリスト者の未来を、崩壊するエルサレムから救い出し、新しい都に移す計画を担っていたのだ。それは親がその子を自分の命と引き換えに救うような挑戦であった。神の子イエスは、完全な人として、ローマ帝国の刑罰である十字架刑を受けることで、ローマ帝国の額にその名を刻印したのである。 

ピラトは、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」(マタイ27:24)と言った。しかし、イエスの思いはすでにローマ帝国を捉えていた。使徒パウロは、「勇気を出せ」(使徒言行録23:11)というイエスのはげましの言葉によって、この壮大な神の計画を背負って、ローマの地を踏んだ。 

一方、ピラトの言葉に、民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタイ27:25)。「その血」とは、イエスが、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(26:28)と言った血である。神は、ご自身が選び育んだ旧約の民が、キリスト者と共に、この新しい「契約の血」の責任を担い合う日を待っている。ゆえにヨハネの黙示録には次の言葉がある。 

「都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった」(黙示録21:12~14)。 

つづく 

Maria K. M.

 


 2024/10/07


164. 配置

サン・ダミアーノの十字架の構図には、「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)にある二つの到達点が見える。第3の預言、「新約聖書成立の預言」(4~11章)と、第6の預言、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)である。その中央には、十字架につけられ、血を流すイエスの姿がご聖体を暗示している。そして、イエスの血によって結ばれた新しい契約が、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)という御言葉によって現在化されていることが、その浮かび上がるようなキリストの体の描写に表れている。 

ここで、ご聖体を暗示した十字架のイエスの両側に描かれた4人は、ヨハネ福音書で十字架のそばにいた、イエスの母と「愛する弟子」、クロパの妻とマグダラのマリアである(ヨハネ19:25参照)。さらにイエスの左端にいて彼らに寄り添い、十字架上のキリストを見上げ、下に百人隊長と書かれている人は、改宗したローマ帝国を表している。彼の立てている三本の指は、「キリスト教的な文脈においていえば、これは『わたしはイエスが主であることを証ししている』と言う意味」(注)だという。

(注)マイケル・グーナン著、小平正寿訳(2001)『聖フランシスコに語りかけた十字架』サンパウロ, p.20 

この4人は、「ヨハネの黙示録の預言的構成」の第6の預言、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の中にいる。イエスを挟んで左右に分かれて描かれているのは、ミサ典礼における人の配置を示している。この十字架像には十字架の木がはっきりと描かれていない。キリストの体がご聖体であって、その下には祭壇があるはずだからだ。祭壇の上のご聖体として描かれたイエスの右に表されているのは、イエスの母と彼女を自分の家に引き取った「愛する弟子」である使徒、すなわち司祭職とそれを受けた司祭である。左には、クロパの妻が既婚の信者たちを表し、地名であるマグダラで呼ばれているマリアは独身の信者たちを表していると考えられる。 

ご聖体の右と左に描かれた彼らには、イエスが、「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」(マタイ20:23)と言った言葉が実現している。この御言葉は、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来てひれ伏し、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(20:21)と願った言葉にイエスが答えたものだ。権力や支配力を求めるのは、男も女も変わりはない。世界のグローバル化が進んだ現代にあっても、男尊女卑や、家父長制の伝統が残り、真の男女平等が見えにくくなっている。 

アダムは、妻をエバと名付けて支配し、権威と権力を得ようとした(創世記3:20参照)。エバは、カインが生まれると「わたしは主によって男子を得た」(4:1)と言って、自分を神聖化し権威を持とうとした。この両親のもとで、カインは妬みによって、「弟アベルを襲って殺した」(4:8)。福音書には、ゼベダイの息子たちとその母の出来事について、「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」(マタイ20:24)とある。ヨハネは、この出来事を決して忘れることがなかったに違いない。使徒たちの間にさえ、人間関係の負の連鎖が始まるのを見たからだ。 

サン・ダミアーノの十字架像の右と左に描かれた人々は、三次元的に描けば、ご聖体とそれを支える祭壇を囲んだ構図になる。このような配置は、互いの姿を見て、「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(ヨハネ17:23)というイエスの祈りを実感することを可能にする。そうすると信者たちの関係に透明性が出てきて、次第に負の連鎖を抑止する新しい人間関係が生まれてくる。教会が独特な伝統の中で隠蔽し続けてきたさまざまな事柄が、今日明るみに出されている現実が、それを証ししている。それらがあまりにも耐えがたい経験であったとしても、私たち教会は、確かに浄化の道を歩み始めている。聖体の制定が過ぎ越しの食卓を囲んで行われたからだけではなく、信者がご聖体とそれを支える祭壇を囲んで行うミサ典礼の重要性がここにもある。 

私は、第二バチカン公会議後の信者であり、ミサ典礼は司祭と信徒が祭壇を囲むこの様式しか知らない。だから、教会が皆で祭壇に向かってミサ典礼を挙行していた時代から一世紀もたっていないことを知った時は、少なからずショックを感じた。一方で、このような改革を行った教会は、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)に向かって大きな一歩を踏み出していたと知って、大変うれしかった。これらを思い出し、フランシスコの時代に思いを馳せ、ずいぶんと考えさせられた。 

つづく 

Maria K. M.




 2024/09/30


163. 神の子キリストの痕跡

聖フランシスコは、サン・ダミアーノの十字架を見た。そこには、ヨハネの福音書と黙示録から多くの着想を得た神の国が描かれていた。彼が受けた神の国の真理は、800年を経た今も私たちに伝わってくる。 

サン・ダミアーノの十字架上のイエスは苦しんでいない。その姿がご聖体を暗示しているからだ。ご聖体は、信者たちに神の無情報の知を持たせる。信者たちに食べられ、「神の子キリスト」との合一体験を与え、神の無情報を体感させる。そこで信者は、ご聖体からパンとぶどう酒の味わいを切り離したところに注目し、ご聖体を拝領した無味乾燥の味を覚え、神の無情報を記憶しなければならない。そのために信者は、ご聖体を拝領するにあたって、全感覚を総動員する必要がある。まず、司祭が挙げるご聖体を見て、「神の子キリスト」であると宣言しておくことが不可欠である。これから拝領するご聖体における神の無情報が「神の子キリスト」のものであることを、宣言する自分の声を聞いて確定させるためである。そして配られたご聖体を取って自分の指で触れ、匂いをかぎ、口の中に入れ味わう。 

このような特別な知識の習得は、普通、無意識のうちに行われる。それは、本人はもちろんのこと、誰にも見えない。だから、この無意識の領域に「神の子キリスト」が痕跡として残るように、ご聖体を拝領する直前にご聖体に向かって告白するのである。この痕跡は、そのミサ典礼が派遣の祝福によって終わった後から次のミサまでの、日常のルーティンを生きる道筋で生きるものとなる。イエスの名によって遣わされた聖霊がキリストとして働くために、信者に協働することを常に求めているからだ。聖霊はキリストとなるために信者に触れ続けている。そのかすかな感触は、聖体拝領を通じて信者の無意識の領域でその人が預かっている、神の無情報の痕跡と一致する。「神の子キリスト」の痕跡である。 

協働することを常に求めている聖霊に応える体験は、それを望む信者にとって常に「然り」だけが実現する(コリント二1:17~22参照)。自発的に聖体拝領の列に並び、司祭から渡されるご聖体を取って食べるように、派遣の祝福から次のミサまでの日常のルーティンを生きる道筋で出会うすべての出来事の前で、自発的にご聖体を拝領した神の無情報の感覚を思い出し、聖霊と協働することに注意を向ける。すると次の行為が、自分一人で成した時と違うことがそのプロセスから分かるようになる。イエスが「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14:20)と言ったとおりである。 

情報の塊として生まれ、情報の只中で生きる人間にとって、意識を神の無情報に向ける事だけが、あらゆる情報から貧しくなる唯一の術である。そして、聖霊と協働した記憶は、神の洗いを受け入れる小さい者に与えられる幸いを実感させる。神は、このように信者が、何人にも依存することなく、ダイレクトに聖霊と協働して生きる者となることを望んでいる。 

ここで、聖霊と協働するために同時に必要になるもう一つの事柄が、イエスの次の言葉にある。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」(ヨハネ16:13~14)。 

聖霊がイエスのものを受けて、私たちに告げることを知るためには、現実にイエスと共に生きた弟子たちのように、イエス・キリストの世界観を共有している必要がある。聖霊降臨の後の弟子たちの活躍にみられるとおり、彼らは、ヘブライの聖書の預言をイエス・キリストの世界観によって悟り、語ったのである。彼らが「無学な普通の人であること」(使徒言行録4:13)は問題ではなかった。同じように、ヨハネの黙示録から、私たちの記憶に注入されたイエス・キリストの世界観は(下図参照)、私たちが新約聖書の言葉に触れる時、記憶の内奥から深い共感を呼び起こし、真理を知っていることを悟らせる。ついには私たちの口から、当時の弟子たちに起こったように、御言葉が、命の言葉が流れ出てくるのである。 

つづく 

Maria K. M.

 



 2024/09/23


162. わたしの家

ヨハネの福音書と黙示録から多くの着想を得て描かれたサン・ダミアーノの十字架は、フランシスコの視覚に強く訴え、彼はそれを捉えた。彼は、この十字架から、「フランシスコよ、見てのとおり、わたしの家は完全に壊れようとしている。さあ、行ってわたしの家を修復しなさい」と言う声を三度聞いたという。フランシスコは具体的な教会堂の修復に向かった。 

イエスは、弟子たちと過ぎ越し祭にエルサレムへ上ったとき、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒した。そして鳩を売る者たちに、「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」(ヨハネ2:16)と言った。「弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」(2:17)とある。「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」(16:15)と言ったイエスにとって、「父の家」が「わたしの家」なのである。また、御父が持っている家を思う熱意もイエスのものであった。フランシスコは、それを共有したに違いない。 

さらにイエスはこの場面で、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(2:18)と詰め寄るユダヤ人たちに、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(2:19)と答えた。福音書は、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(2:21)と解説している。当時のフランシスコにとって、また私たちにとっても、イエスの「御自分の体」とは、ご聖体である。ゆえに「わたしの家を修復しなさい」とは、ミサ典礼を完成することにつながっていた。 

しかし、800年以上も前にすでに新約聖書が成立していたものの、当時の教会は、まさに「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)の第4の預言、「司祭職とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言(12~16章)」の只中にいた。さらに歴史の流れは、教会を、第5の預言、「教会の堕落の預言(17~18章)」に向かわせていた。この狭間で、神は、ヨハネの福音書と黙示録を題材にして、フランシスコに、神の国全体を可視化して見せたのである。 

彼はサン・ダミアーノの十字架に「神の国」の「真理」を見て、「命」を悟った。それはキリストの命であった。彼は、キリストの命によって救われた全被造物を見渡した。そして、振り返った。求める人々にこの「命」に至る「道」を示そうとしたのである。「神の国」を真理として受けた彼の脳裏には、「神の国」についての二つの福音のテーマがあった。貧しさと小ささである。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)と言ったイエスがその人々の間で生きたこと、それは弟子たちを派遣したときの言葉にも裏付けられていた(ルカ9:3参照)。これがフランシスコにとって具体的にキリストの後に従う方法になった。 

また、イエスは、「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(ルカ18: 17)と言った。それは、弟子たちがイエスに触れていただくために子供たちを連れてきた人々を見て叱った時である。「イエスに触れていただく」ことには、神の洗いを受け入れる者の幸いがある。イエスが、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)行為は、弟子たちの足を洗うことだった。このように、「子供のように神の国を受け入れる人」とは、神がいつでも洗うことができる小さい者として自分を捉えている人だ。 

こうしてフランシスコは、御言葉によって、貧しい者であることと小さい者であることが、「神の国」の「真理」に至る「道」を示すしるしだと確信した。そしてそこに集中し、徹底的に生きたのである。彼は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)というイエスの言葉を、正面から信じて生きていた。この彼の情熱を頼みに、神は彼にイエスの十字架を負わせた。それは、ヨハネの福音書と黙示録を題材にして描かれたサン・ダミアーノの十字架であった。彼はイエスの名を身に受け、その愛と「神の国」を背負ったのである。 

つづく 

Maria K. M.




 2024/09/16


161. 使徒ヨハネの後継者

このごろ、聖フランシスコに語りかけたと言われているサン・ダミアーノの十字架に描かれた構図は、ヨハネの福音書を題材にしていることを知った。さらにそこには、黙示録の場面も挿入された特別なメッセージがあることに気付く。 

上端に描かれた指は、「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11:20)とイエスが言ったように、神の国の到来を指し示している。その指が指している先には、十人の聖人の一人が、ボタンの付いた筒のようなものを持って、下から手を差し伸べているイエス・キリストに渡そうとしている。これは、「七つの封印で封じられていた」(黙示録5:1)巻物である。ゆえにこのイエス・キリストは、「わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である」(5:6)と書かれた黙示録の小羊で、イエスの名によって遣わされた聖霊を表現している。

黙示録の中では、「小羊は進み出て、玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った」(5:7)とあるが、ここでは神の右の手の指が聖人を指し、この聖人の右の手から受け取っている。ヨハネの黙示録に注意を向けさせるためだ。この七つの封印で封じられていた巻物が新約聖書だったからである(本ブログ№13~16参照)。また、十字架の両端にも二人の聖人が描かれているところから、合わせて十二名の聖人たちは、黙示録に、「都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった」(21:14)とある十二使徒である。 

また、中央のイエス・キリスト像の頭上には、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれている。これはヨハネ福音書だけにみられる罪状書きで(ヨハネ19:19参照)、祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」(19:21)と求めたが、ピラトが取り合わず、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」(19:22)と答えたときのものだ。イエスが自ら「ユダヤ人の王」と称しなかったこと、「お前はどこから来たのか」(19:9)と問うても答えなかったことがピラトの脳裏にはあった。一方で彼は、イエスの言葉に、「真理とは何か」(18:38)と問い返し、「神の子」という言葉を恐れた(19:7~8参照)。 

前回考察したように、イエスとピラトの問答を神学的に深めて見せたヨハネ福音書は、そこに、キリスト者のためにイエスが求め、パウロを派遣したローマ帝国を暗示している。そこで、十字架上のイエスのそばに描かれた人々の最右に百人隊長と書かれているローマ人が立っており、彼の上にもキリストの血が流れ落ちている。ヨハネ福音書には、「百人隊長」の記載はないが、この百人隊長は、神のものとなったローマ帝国の象徴として描かれているのである。 

このようにヨハネの黙示録とヨハネ福音書をつないで描いた画家は、黙示録の著者ヨハネと愛する弟子を同一人物とみていたようだ。上記の巻物を渡している聖人の富士額が、唯一イエスの右側にイエスの母と共に立っている「愛する弟子」のものと同一であることからそれが見て取れる。十字架上のイエスの左右に描かれたイエスの母と愛する弟子、そしてマグダラのマリアとクロパの妻マリアは、息を引き取ったイエスのわき腹を兵士が槍で刺したとき血と水が流れ出たことの証人である(19:35参照)。そして彼らは、そのわき腹から誕生した教会そのものである。 

これらの事柄の上に降り注ぐ御血は、多くの人のために流されて罪の赦しとなる新しい永遠の契約の血である。ゆえに、浮き上がって見えるように描かれ、前を見つめる十字架上のキリストは、ご聖体である。その眼差しはご聖体を見る者に常に次のように問い、その応えを待っている。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:25~26)。その応えはひとつである。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(11:27)。 

十字架の構図は、神の指が示しているように、新約聖書に現れた神の国を視覚化している。フランシスコは、それを見て受け取り、声を聞いたと伝えられている。黙示録の著者ヨハネのように“霊”に満たされたのだ。彼は生まれた時、ヨハネという名で洗礼を受けた。不思議なめぐりあわせである。 

つづく

Maria K. M.


 2024/09/09


160. ローマへの道

イエス・キリストが、未来のキリスト者のためにローマを想定していたことは、ポンティオ・ピラトとの会話から、細々ながらその糸口を見出すことができる。ゆえに私たちは、この時イエスと対面したピラトに何が起こっていたのか、福音書から観察してみる必要がある。わたしたちは今も、信仰宣言の中で、ローマ帝国の総督であった彼の名を毎回唱えている。これは特別なことだといえる。 

イエスを尋問したピラトには策があった。過ぎ越し祭にユダヤ人の望む囚人一人を釈放する慣例である。ローマ人のピラトにとって、イエスがメシアであるかどうかには関心がなく、ヘロデの反応を見ると(ルカ23:1~12参照)、イエスが自ら「ユダヤ人の王」と称しない限り問題がなかった。しかし、ピラトが裁判の席に着いているときに届いた「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました」(マタイ27:19)という妻からの伝言は気がかりだったに違いない。イエスはピラトの尋問に、「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18:36)、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(18:37)と答えた。神の現実を明らかに語るこれらの言葉に接したピラトは、「真理とは何か」(18:38)と問い返した。その時彼は、すでに「わたしの声を聞く」者になっていたのだ。 

さらに、「わたしには、この男に罪を見出せない」(19:6)と言うピラトに、「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」(19:7)とユダヤ人たちが答えると、「ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、『お前はどこから来たのか』とイエスに言った」(19:9)と書かれている。「神の子」という言葉が彼の耳に残ったのだ。そして、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」(19:11)と言ったイエスの言葉に、「ピラトはイエスを釈放しようと努めた」(19:12)とある。イエスは、その最期の時に、ローマ総督ピラトにこのように関わることで、ローマへの軌跡を残した。祭司長たちに訴えられ、総督と王の前に立ち、十字架に向かった道筋である。パウロは、イエスと同じこの道を辿ってローマへ向かった(使徒言行録22:30~28:16参照)。 

イエスが十字架上で息を引き取った後、「ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した」(マルコ15:44~45)とある。この百人隊長は、十字架上で息を引き取られたイエスの方を向いてそばに立ち、「本当に、この人は神の子だった」(15:39)と言った人だ。この言葉には、以前、彼がそのことを思いめぐらしたことが示唆されている。彼は、カファルナウムで、死にかかっていた部下のために、イエスにその癒しを求めたことがあった。それを願う彼の言葉に、イエスは、「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」(マタイ8:10)と言って感心した。そして、「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」(8:11)と言って、新しいエルサレムの到来について予告し、「だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(8:12)と言って、迫るエルサレムの崩壊を予告した。 

「私が行っていやしてあげよう」(8:7)と言うイエスの申し出を断った百人隊長は、ただ部下を癒す言葉だけを求めていた。この彼が、「本当に、この人は神の子だった」と言うに至った場面が福音書に挿入されたことは、イエスが昇天した後、ローマに御言葉だけが運ばれ、やがてその地で、イエスが神の子であったと認められるに至る未来を預言している。ローマ帝国のキリスト教への改宗は、キリスト者に、新しい聖書の普及と新しいエルサレムを授かる機会を保障した。イエスが、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(ルカ5:38)と言ったたとえのとおりである。しかし、教会は、「詩編と賛歌と霊的な歌」の味わいから離れられなかった。そこで、イエスの次の言葉も実現した。「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」(5:39)。 

Maria K. M.

 

 


 2024/09/02


159. 使徒パウロの召命

「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェソ4:22~24)とパウロは言った。彼は、ダマスコの途上でイエスと出会い、アナニアに助けられて洗礼を受けた体験から、これらの実感を得た。「神にかたどって造られた新しい人を身に着け」とは、人が神にかたどって造られたことを自分自身の内に再発見し、聖霊と協働する新しい人としての体験を身に着けていくことだ。「真理に基づいた正しく清い生活を送る」過程も聖霊とともにある。 

そのためにイエスは、「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」(ヨハネ6:45)と言ったのである。「父から聞いて学んだ者」とは、イエスが、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(14:26)と言ったように、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」から学ぶ者のことである。 

パウロは、聖霊を体験していた。その一方で、他の使徒たちのように直接イエスを知らず、「わたしが話したこと」を記憶に持っていないパウロは、自分の中から何も引き出すことができなかった。使徒パウロは、イエスの3年間の公生活を共に過ごし、彼の受難、死、復活、昇天に遭遇し、聖霊の降臨を体験させるためにイエスが選んで使徒とした者たちとは、全く異なる神の選びの上に立っていたのだ。 

そこで彼は、幼い日からヘブライの聖書に親しんできたテモテに、「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」(テモテ一4:13)と命じ、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテ二3:15~16)と教えている。「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵」、これこそがパウロ自身が持っていると実感するものであった。 

神は、彼を選び、彼のすべてが彼のために益になるような仕方で彼を運んだ。彼が「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(フィリピ3:8)と書いた「他の一切」の中には、ファリサイ派として復活を信じていたこと、タルソス生まれでローマ帝国の市民権を持っていたこと、テント職人であることも入っていた。これらすべてを神からの恵みとして、彼は大いに利用した。ゆえに彼は、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(3:13~14)と言うことができた。こうして、新約聖書の成立とキリスト教がローマ帝国の国教とされた4世紀の終わりは、パウロの「目標を目指してひたすら走ること」の延長線上に到来した。 

エルサレム神殿が崩壊することをすでに予告していたイエスは、未来のキリスト者のために「新しいエルサレム」を準備していた。その道をローマに向けて切り開くことがパウロの召命であった。ゆえに、イエスは千人隊長の兵営にいたパウロのそばに立って次のように命じた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(使徒言行録23:11)。主はパウロのために門を開いている(コリント一16:8~9、コリント二2:12、コロサイ4:3参照)。 

黙示録の七つの教会への手紙には次の箇所がある。「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」(黙示録3:8)。ゆえに、彼の報いは次のとおりである。「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう」(黙示録3:12)。 

Maria K. M.


 2024/08/26


158. 神の国

使徒パウロは、異邦人が福音によってイエス・キリストにおいて約束されたものを一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるために、彼らに「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェソ4:22~24)と教えた。そして、その生活を支えるためには、「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ5:19)と言って、それらを実行するように勧めたのである。この勧めは、コリントとコロサイの信徒への手紙にも見られる(コリント一14:26、コロサイ3:16参照)。異邦人たちに、未だ救い主を待っている旧約の民の思いを植え付けることは、彼らの記憶に預言の言葉が刷り込まれ、イエス・キリストが預言されたメシアであることを信じさせるために有効であった。それを習慣にしていた自分がイエスから呼び出されたという確信の内にいるパウロは、迷わなかった。 

一方、イエスが天から降って来たのは、旧約の預言を成就するためだけではなく、御父の御心を行うためであった(ヨハネ6:38参照)。それは、預言者が立つより遥か昔、エデンの園で起こった出来事を解決するためであった。神は、「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」(創世記3:22)と言って、「アダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」(3:24)。それ以来神は、悠久の時を待っていたのである。父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6:40)とイエスが言ったように、それは人を死者の中から復活させることではなかった。 

イエスにはそのために計画があった。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:54)と言ったご自身の言葉を実現するのである。この言葉は、イエスが最期の食卓で次のように実現した。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」(マタイ26:26~28)。そのときイエスは、「神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)と言っておいた。この予告は、イエスが十字架上で酸いぶどう酒を受けたことによって実現した(ヨハネ19:28~30参照)。神の国はすでに来ているのである。 

イエスが述べ伝えた神の国は、4世紀の終わりに、新約聖書の成立とキリスト教がローマ帝国の国教とされたことで、世に見えるようになるための条件が整った。しかし教会は、「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」というパウロの勧めを維持し、それをミサ典礼の骨組みに据えて発展させてきた。イエスの復活の証人たち、イエスと共にいて、直接教えを受け、イエス・キリストの世界観を持っていた人々は遥か昔に亡くなり、彼らの暗黙知を知る術はなかった。このとき、成立した新約聖書に仕込まれていたヨハネの黙示録には思い至らなかったのである。 

救い主を待っている旧約の民の思いを繰り返しキリスト者の記憶に刷り込む習慣は、無意識の内に彼らの記憶に、キリストの救いも未来の出来事だという思いを植え付ける。そして、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(コリント一13:12)というパウロの強烈な憧れが伝播する。それは、ご聖体を制定したとき、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と言った言葉によって、ご自身の時を現在化する種を、未来のミサ典礼のために蒔いておいたイエスの思いと決定的に矛盾する。 

Maria K. M.


 2024/08/19


157. 時が迫っている

使徒パウロは、エフェソの信徒たちに、「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(エフェソ5:18~20)と勧めた。彼は、異邦人の彼らが、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌うことを習慣にすることによって、無分別な者とならず、自分のように、ヘブライの聖書からイエス・キリストについての証しを読み取り、父である神に感謝するようになると考えたのだ。ダビデの作と言われる詩編には、救い主の預言が置かれており、自分の子ソロモンについて、神から「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」(サムエル下7:14)と告げられたダビデは、神が人の父となるという発想を持っていたに違いない。 

パウロが、「わたしは・・ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、・・律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3:5~6)と回想しているように、彼にはヘブライの聖書に基づく律法の義が、その記憶に深く根を下ろしていた。パウロの記憶の底には、律法の義を守るために得た経験や勘、直感などに基づく、簡単に言語化できない知識が横たわっていたに違いない。彼の「律法の義」は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)と言われたイエス・キリストに呼ばれたことによって転換し、完成に向かった。その義は、彼がキリストを得、キリストの内にいる者と認められるために、イエスに近づく彼の指針となった。そこから彼は、「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」(フィリピ3:9)と言うまでになったのである。 

一方、復活を信じるファリサイ派であったパウロにとって、キリストとその復活の力とを知り、何とかして死者の中からの復活に達したいという願いは、究極のものであったに違いない。しかし彼は、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」(フィリピ3:12)と正直に語っている。続けて彼は、自分を励まし、共同体に勧めを与えた後、次のように書いた。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(3:20)。この言葉には、キリストと出会う以前の彼と変わらぬパウロの姿が見える。 

救いを未来に求めるこの言葉は、未だ救い主を待っている旧約の民のメンタリティーが、彼の記憶の中で生きていたことを物語っている。パウロの記憶は、その内奥で、救い主を待っている旧約の民の記憶を守っていたのだ。それは、エフェソの信徒たちに、「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」という勧めを与えた彼の記憶であった。詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌う習慣は、ヘブライ人であるパウロ自身が実践してきたことであった。 

パウロは、イエスと出会ったことによって、「わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」ということができた。しかし、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌う習慣は、彼の内奥に絶えず働きかけ、彼を、その中に記されたことを守る者、救い主を待っている旧約の民の記憶を守る者にしていたのである。 

イエス・キリストによって、ヘブライの聖書の預言は実現した。しかし、パウロ自身がコリントの信徒への手紙で伝えているように、イエスの復活の証人たちの中ですでに亡くなった人々が出てきていた(コリント一15:6参照)。彼らは、イエスと共にいて、直接教えを受け、イエス・キリストの世界観を持っていた。聖霊は、やがてこれらの証人たちが途絶えるときに備えて、新約聖書にヨハネの黙示録を加え、その書にこう記した、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙示録1:3)。 

Maria K. M.


 2024/08/12


156. イエスの最期の食卓に導く司祭職

荒れ野に隠された司祭職の真の姿は、「仕える者」であった。司祭職は、この職務を引き受けた者を、世の僕のように仕える者にではなく、すべての人をイエスの最期の食卓に導くイエス・キリストの友とする。主は、「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」(黙示録3:19)と言われる。そこで、前回考察した7つの教会の天使に宛てた手紙のそれぞれに記された、「勝利を得る者」の受ける報いに与る「仕える者」の特徴をまとめると、概ね次のようになる。 

自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜く。忍耐して、イエスの名のために我慢し、疲れ果てることがない。どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻る。受けようとしている苦難を決して恐れない。生きているとは名ばかりで、実は死んでいるような行いから目を覚まし、死にかけている残りの者たちを強め、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改める。自分の栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守る。熱くも冷たくもなく、なまぬるい状態から出て、裕福になるように火で精錬された金、裸の恥をさらさないように身に着ける白い衣、見えるようになるために目に塗る薬を、イエス・キリストから買う(2:1~3:22参照)。 

ここで言われていることを理解して、実行するには、新約聖書の成立が必須であった。イエスの司祭職とそれを引き受けた者の養成は、旧い契約の祭司職の場合とは完全に異なるからである。イエスは、「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」(ルカ5:36)と言い、「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(5:37~38)と言って、新旧の契約の教えが混ざることの危険性を警告した。さらに、「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」(5:39)と続けて、新しい契約に結ばれた人に、旧い契約の教えをインプットし続ければ、旧い契約の教えを好むようになると予告した。 

信者が、旧い契約の書を朗読し、それを聞いて、その記憶に旧い契約の教えを恒常的に注入することを続ければ、彼らの記憶に新旧の契約の教えが混ざって置かれてしまうことになる。無意識の内にも、救い主の到来を待ち望む旧約の時代の人々の嘆きや神への訴えに共感し、やがて、それを自分の置かれた状況と重ねて味わうようになると、嗜好的な依存が起こる危険がある。私たちは、ともすれば、常に共にいて働きかける聖霊を忘れ、いつ来られるかも知らない再臨のイエスを思い描き、そこから慰めを得ようとするからである。 

イエスご自身が、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)と言い、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(ルカ24:44)と言ったように、イエスがこの世に到来し、イエス・キリストによる神の決定的な救いの計画が、新約聖書成立によって明らかになった今、それ以前の教えは、それを理解するために必須な歴史的研究対象として取り扱うべきである。 

旧い契約への嗜好的な依存は、「これを記念として行いなさい」(ルカ22:19)と命じたイエスの言葉によって現在化するイエスの最期の食卓を囲むとき、私たちと共にいる神として、ご聖体に現存しておられるキリストに集中させるよりも、主を迎えるのにふさわしくない自分に執着させるのである。そこで、世界中の多くの信者たちは、ご聖体を目の前にしても、彼こそが私たちと共にいる神であり、救い主であると告白する望みが自分の内奥に潜んでいることを悟ることができない。それは、すでに、天の父が使徒ペトロの上に、イエスご自身がマルタの上に現して、信者に与えておいた神の幸いであるにもかかわらず。 

過越祭の前にイエスは、最期の食卓の席から立ち上がって使徒たちの足を洗った。それは、新しい契約を前にして、それまでの一切の契約の記憶を洗い流すためであったにちがいない。「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うペトロに、イエスは次のように言った。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(ヨハネ13:8)。 

Maria K. M.


 2024/08/05



155. 司祭職と教会の天使

前回、「さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。『ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。』」(黙示録21:9)の句を考察し、「小羊の妻である花嫁」は、主の十字架であり、イエスの言葉を記念として行う司祭自身が背負っている職務、司祭職であると結論付けた。今回、この天使のように、黙示録に登場する天使と司祭職について考察する。 

黙示録の初めに、著者は、ラッパのように響く大声が、「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」(1:11)と言うのを聞いた。そして、「○○にある教会の天使に、こう書き送れ」という書き出しと共に、それぞれの教会に手紙を書き送るように指示される。これらの手紙の中には、「あなた」と「あなたがた」を書き分け、司祭と信徒のいる教会共同体をイメージさせるものがある(スミルナ、ペルガモン、ティアティラ)。また、手紙の受け手が、自身の不足や弱さを抱えながらも、任された教会共同体のために、さまざまな問題と対峙する様子が描かれている。「天使」は司祭である。しかし、司祭が「天使」と呼ばれるのはなぜであろう。 

他の箇所で、天使は自分自身を、「わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である」(19:10)と言っている。「イエスの証しを守っている」という言葉は、黙示録の中では、この箇所と、「竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った」(12:17)の文中の2か所のみである。そして、この「竜」の場面には、「女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった」(12:6)と書かれていることから、この「女」すなわち司祭職は、「荒れ野」である使徒たちの記憶に隠されたと考えてきた。 

福音書は、イエスが「仕える者」について使徒たちに語り、彼らの記憶にこの御言葉を注ぎ込んでいった事を記している(マタイ20:26~28、マルコ9:3510:43~45、ルカ22:26参照)。使徒たちの記憶には、天使が自らについて言った「仕える者」という御言葉が置かれていたのだ。この御言葉は、イエスご自身である。イエスは最期の食卓で、使徒たちに「仕える者のようになりなさい」(ルカ22:26)と命じ、「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」(ルカ22:27)と言っている。このようなわけで、七つの手紙の受け手である司祭も仕える者として、「天使」と呼ばれているのである。そして、ここから、「仕える者」が使徒たちの記憶に隠されていた司祭職の実像であったことが分かる。 

そこで、再び、黙示録の七つの手紙に戻り、それぞれの手紙の内容を、「仕える者」という御言葉を念頭に見直すと、そこに書かれた様々な問題に答えが見えてくる。さらに、各手紙の最後にある「勝利を得る者」に与えられる報いの内容は、「仕える者」の新しい姿を示し、それらは、終わりにイエスの食卓に行き着く(注)。司祭職は、天使がそうであるように、イエスの証しを守っている兄弟たちと共に、仕える者である。それは、すべての人をイエスの最期の食卓に導く。これらのことが分かるのは、私たちがすでに新約聖書を手にしているからだ。ヨハネの黙示録は、七つの教会に送る手紙の後、「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)の第3の預言、「新約聖書成立の預言」(4~11章)に進む。 


(注)「勝利を得る者」の受ける報い

1.「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」(黙示録2:7/エフェソ)

2.「勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない」(2:11/スミルナ)

3.「勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている」(2:17/ベルガモン)

4.「勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。彼は鉄の杖をもって彼らを治める、土の器を打ち砕くように。同じように、わたしも父からその権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える」(2:26~28/ティアティラ)

5.「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」(3:5/サルディス)

6.「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう」(3:12/フィラデルフィア)

7.「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」(3:20~21/ラオディキア)

 Maria K. M.




 2024/07/29


154. 司祭職と十字架

「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)の第7の預言、「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の初めの段落(黙示録21:1~8)は、前回考察したように、第4の預言で天に隠されたご聖体が姿を現す「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の最後の段落(20:11~15)と同じ構造を取っている。このことから、「聖霊の霊性の預言」の初めの段落が、ご聖体の秘儀を明らかにしていることが分かった。 

続く「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の二つ目の段落は、「さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。『ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。』」(黙示録21:9)で始まる。ここで、「小羊の妻である花嫁」は、イエスご自身のからだを釘付け、支えた十字架を表している(本ブログ№149参照)。この十字架は、イエスの言葉を記念として行う司祭自身が背負っている職務、司祭職である。そこでイエスは、使徒たちを選んで派遣するとき、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:38)と言っておいたのである。 

イエスの名によってパンとぶどう酒が御からだと御血になるように御父に願った司祭が、そのパンを取り、信徒と共に囲む祭壇の上で持ち上げる時、司祭の身体が、イエスのからだを釘付け、支えた十字架になる。福音書には、「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」(ヨハネ19:25)と書かれている。イエスは十字架上から彼らを見て語りかけた(ヨハネ19:26~27参照)。ゆえに、司祭は、共に祭壇を囲む信徒に向けてご聖体を示すのである。 

イエスによって成し遂げられたすべての出来事は、彼の最期の食卓で「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と言ったものの、それを実現できなかった使徒たちの記憶に刻み込まれた。一方でそこには、御父のみ名が、これからも使徒たちを守ってくださるようにと願ったイエスの祈りがあった(ヨハネ17:11~19参照)。 

イエスは、使徒たちに、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:13~14)と言い、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:15)と続けた。そして、御父に、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハネ17:19)と祈ったのである。 

「真理」とは、イエスご自身である(ヨハネ14:6参照)。真理であるイエスが、ご自身をささげたのは、十字架上であった。ゆえに、司祭の祈りに応えてキリストのからだとなったご聖体を、司祭が、信徒と共に囲む祭壇の上に持ち上げる時、まさに、ご聖体を支える司祭の身体が、イエスのからだを支える十字架となって、イエスに釘づけにされ、共にささげられた者になるのである。こうして、「彼らも、真理によってささげられた者となるためです」というイエスの祈りが実現する。 

イエスが「友のために自分の命を捨てる」と言った友とは、司祭職を担うことになる使徒たちである。それは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ15:16)と言った使徒たちを、一人も失わないためのイエスの決意だったのである(ヨハネ18:9参照) 

Maria K. M.





 2024/07/22


153. ヨハネの黙示録の内に現れたご聖体の秘儀

前回、「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)の第4の預言、「司祭職とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」(12~16章)の中の、天と荒れ野に隠されたご聖体と司祭職についての考察を振り返った。これをもとに現在の考察を先に進める。 

第4の預言で天に隠されたご聖体は、第6の預言、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の最後の段落で姿を現す。「大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった」(黙示録20:11)の句で始まるこの段落では、「大きな白い玉座と、そこに座っておられる方」がご聖体をイメージさせ、ご聖体によって悪霊が救われる様子が描写される(20:12~15参照)。そして、「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」(20:14~15)で終わる。この構造によって、太字で示した箇所が決め手となって、第7の預言、「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の初めの段落も、次のようにご聖体について続けて描写されていることが分かる(21:1~8参照)。 

「聖霊の霊性の預言」の初めの段落は、「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行きもはや海もなくなった」(21:1)で始まる。次に、「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」(21:2)という句が続くことから、これが第6の預言、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)に関わることだと分かる。「夫のために着飾った花嫁」が、イエスの最期の食卓、すなわち祭壇を表しているからである(本ブログ№149参照)。ゆえに、この段落で著者が聞いた「玉座から語りかける声」(21:3)も、「玉座に座っておられる方」(21:5)の声もご聖体からのものである。聖霊による、いわば第二の受肉の神秘であるご聖体が、イエス・キリストが成し遂げたすべてを継続し、保っている様子が語られているのだ(21:3~7参照)。そして、「しかし、おくびょうな者、不信仰な者・・・このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」(21:8)で終わる。 

完全に神であり、完全に人として現存したイエス・キリストは、この世で人の身体を取って生きている間、ただ追い出すだけで救うことをしなかった悪霊たちを、死んで陰府に降って救った本ブログ№147参照)。ご聖体は、それと同じ仕方で、すなわち信者に食べられて死ぬことによって、今も悪霊たちを救っている(20:12~15参照)。さらにご聖体は、イエスが人々と共におられたように、神が私たちと共におられること、そしてそこに神の国があることを実感させる(21:3~4参照)。 

イエス・キリストが成し遂げたすべてを私たちに悟らせる聖霊は、ご聖体を拝領する信者たちの中で、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14:20)と言ったイエスの言葉を実現し、いわば第三の受肉の神秘を具体的に体験させる。そしてそのことによって、第三の受肉の神秘の状態を再現することのできる聖霊の霊性へと彼らを導く(黙示録 21:5~6参照)。聖霊の霊性の中で、神を天の父と呼ぶキリスト者は、同時に神であるイエスの子となる(21:7参照)。こうして、キリスト者がイエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって世の中で協働する姿は、世にイエス・キリストの姿をもたらすのである。 

だから、終わりに、「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」(21:8)と書かれている警告は、「不信仰な者」という言葉が示すように、私たちキリスト者に向かっている。 

昇天するイエスから、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒言行録1:8)と言われていた使徒たちのように、聖霊を受けたキリスト者であっても、受けた力を信じないで、おくびょうな者、不信仰な者となって、次々と不義を重ねていけば、第二の死を免れないのである。 

こうして、「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の初めの段落は、「ミサ典礼の完成の預言」(19~20章)の最後の段落と共に、第4の預言で天に隠されたご聖体の秘儀を明らかにしている。同じく荒れ野に隠された司祭職の秘儀については次回以降に考察する。

Maria K. M.




 2024/07/15


152. 隠されたご聖体と司祭職

以前、「ヨハネの黙示録の預言的構成」(下図参照)の第4の預言、「司祭職とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」(黙示録12~16章)の中で、天と荒れ野に隠されたご聖体と司祭職について考察した。その結果、「身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙示録12:1)女は、司祭職をイメージしていること、「火のように赤い大きな竜」(12:3)は、人間の情報であることが分かった。そして、教会がたどる運命が、「教会の堕落の預言」(17~18章)へと向かっているために、司祭職から生まれたご聖体は天に、司祭職は使徒たちの記憶に、それぞれ隠された(12:5~6参照)。現在の考察を先に進めるにあたって、これらの考察を振り返っておくことにする。 

その後、ミカエルとその使いたちは、人間の情報(竜とその使いたち)に戦いを挑み勝利した(12:7参照)。それは、昇天するイエスから、「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」(使徒言行録1:5)、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒言行録1:8)と言われていた使徒たちの霊を、人間の情報から守るためであった。 

実際、使徒たちは、復活したイエスと食事を共にしていたとき、イエスから、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒言行録1:4)と命じられたとおりに、都で彼らが泊まっていた家の上の階にいた。そして、「婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒言行録1:14)。上の階で熱心に祈っていた彼らは、人間の情報から守られていたのである。 

復活したイエスを見ていた彼らの霊の内で、「命の木」は、「命の息」と神の知識とをつなぐインターフェースの働きをしていた。「命の木」は、さらに「善悪の知識の木」とつながり、すでに「善悪の知識の木」とつながっていた彼らの魂に、神の知識を伝えるのである。こうして霊が魂とつながった彼らは、イエスを身ごもり、エリザベトを訪問したマリアが、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1:46~47)と言った言葉に共感できる状態にあった(図1参照)。 

創世記にあるように、先に「善悪の知識の木」とつながってしまった人類は、その魂に激しい欲求が起こると、魂の側から強力な自発性を求めて「命の息」とつながり、行為を成すことができるようになっていた。多くの人々が悪霊候補者となっていたのだ。彼らは死ねば悪霊となってこの世をさまようのである。ご聖体と出会うまで地獄の苦しみにさいなまれる彼らこそが、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示録12:10)となる。 

使徒たちは、「小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った」(12:11)。「神のメシアの権威」(12:10)を実証したのだ。「自分たちの証しの言葉」は、福音書に「ペトロは、『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った」(マタイ26:35)と書いてあるとおりである。その後、イエスの予告どおりに散らされ、イエスの受難と死を知った彼らの記憶には、「小羊の血と自分たちの証しの言葉」が刻み込まれた。 

司祭職は、人間の情報(悪魔、竜、蛇)から逃れ、養われる場に隠された(黙示録12:14参照)。イエスの最期の食事の席である。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」(ルカ22:19)とあるように、このイエスの命令は、聖霊が降臨して実現したミサ典礼が執行される場で現在化する。そこには人間の情報は入ることができなかった(黙示録12:12~16参照)。 

しかし、ミサ典礼が終わり、派遣される信者たち、「すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たち」(12:17)に、戦いを挑む情報群が待ち受けている。それは、「海辺の砂」(12:18)のような人の偶発的情報である。 

Maria K. M.





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