イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/12/02


172.

前回、聖フランシスコの小品集をもとに、人の意志について考察した。創世記の記述に照らすと、神は、ご自分に似せて人を創造するために、人に意志を与えた。人の意志は、神が吹き入れた「命の息」である人相応の「神の自発性」と、神が「命の木」として生え出でさせた「神の知識」が結びついて発現し、それは、神の似姿に創造された人の自由意志になるはずであった。「神の自発性」である「命の息」が、「自由」の源泉だからである。しかし人は、「命の木」からは取って食べず、かえって禁じられていた「善悪の知識の木」から取って食べたため、「神の自発性」と「人の知識」を結び付けて意志を発現することとなった。「人の知識」は、受け取る人によって善にも悪にもなる「人間の情報」によって進化する。このため、人の意志は善悪の知識の縛りを受けて、「神の自発性」の自由を発揮することができない。こういう訳で、人には、神がご自分に似せて人を創造するために望んだ自由意志が発現しないのである。 

イエス・キリストは、「神の自発性」と「神の知識」が一つになって発現している完全な自由意志を持つ神が人となった方である。イエスの到来は、旧い契約のもとで、人相応の「神の自発性」に「人の知識」を結んで意志を発現して生きていた人々に、神が望んだ自由意志を、人が発現することができることを証しした。しかしながら、人相応であっても、「神の自発性」に、それとは全く不釣り合いな「人の知識」を結び付けて意志を発現している多くの人々、ときに死と背中合わせになるような矛盾を抱えて生きる多くの人々は、イエスの勧めに抗い、しまいには憎んでイエスを殺そうとするようにまでなった。神であっても完全に人でもあったイエスは、その制約の中で、弟子たちと後に降臨する聖霊のために、神の計画を成し遂げていった。 

「わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている」(ヨハ13:18)と言ったイエスは、ご自分の弟子たちが、聖霊降臨後に、聖霊と協働するために必要なすべてを準備した。人は聖霊と協働することによって初めて自由な意志を手にすることができるからである。イエスは、まず、その記憶に残るように弟子たちの知識に感覚を通して御言葉を挿入し続けた。聖霊に触れられた時それを思い出すためである。聖霊に触れられた感覚は、「神の無情報」、すなわち、ご聖体からパンとぶどう酒の情報を除いたものと接触する感覚である。信者は、聖体拝領において、「神の無情報」に触れられた感覚を体験する。 

神から授かった自発性の自由が、「意志」において発揮されるために、ふさわしい知識を人の脳の中に直接もたらすことができるのは、物理的な体をもたない聖霊がその人と協働する時である。ゆえにイエスは、「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハ16:7)と言ったのである。聖霊は、私たちの抱えている矛盾を、私たちの内奥から私たち自身に知らせ、私たちが陥る自身への裁きの弁護者となってくださる。 

イエスは、ご自分が選んだ弟子たちが、弁護者である聖霊を受け入れるようになるまで、神の啓示と「人間の情報」を区別することを訓練した。その訓練を未来のキリスト者たちのために再現するのが、ヨハネの黙示録である。黙示録を声に出して読み、その声を聴く訓練は、信者が、聖霊の働きと「人間の情報」を区別することを感覚的につかむことを可能にするだけではない。新約聖書が伝える啓示と預言の内容を織り込んだ黙示録は、信者が、この世に現れたイエス・キリストの世界観を無意識的に、暗黙知として得ることを可能にする。人の意識の中だけでは、神であるイエス・キリストの世界観を収めることができないからだ(下記図参照)。黙示録は、聖霊と出会うすべての場面で、聖霊が働く「神の現実」に自らを最適化することができるように信者を準備する。 

聖フランシスコは、ヨハネの黙示録を読み込んでいたことが、彼の書き物からうかがい知ることができる。しかし、多くの人々は、彼の言動の内に、サン・ダミアーノの十字架像から彼が授かったヨハネ福音書と黙示録の真理があることに思い至らない。フランシスコが神のみ手に運ばれるようになったからである。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)。 

つづく 

Maria K. M.




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