2024/12/09
173. 小さな巻物
サン・ダミアーノの十字架像の前で、聖フランシスコは真理を受け取った。一つは、ヨハネ福音書から、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)というイエスの言葉を悟り、共観福音書をはじめとした新約聖書を、ヨハネ福音記者の視点で読むことであった(本ブログ№169参照)。もう一つは、黙示録を朗読し、それを聞くことで、イエス・キリストの世界観を暗黙知として彼の記憶に蓄積していくことだ。黙示録を読んだフランシスコは、そこに書かれたことを素直に実行したにちがいない(黙1:3参照)。それは、啓示を新約聖書から直接受け取ることを助ける。黙示録には、新約聖書が伝える啓示と預言の内容が織り込まれているからである(下図「ヨハネの黙示録の預言的構成」参照)。そこで彼は、いつも「命である」ご聖体に向かっており、司祭職を尊び、聖書に関して博識であった。そして、十字架像に描かれたご聖体のイエスと、その右と左に分かれて描かれた人々、すなわち教会の召命が、頭から離れなかったに違いない(本ブログ№166参照)。
以下は、ヨハネ福音記者の視点で新約聖書を読むことの一例である。十字架上のイエスが息を引き取る直前の言葉を各福音書から拾い、時系列に並べると、そこに筋の通った物語が出現する。この物語は、三共観福音書に書かれたイエスの最期の食卓の聖体制定の場面を、それを書かなかったヨハネ福音書の十字架のそばで起こった事柄とつなげ、ご聖体と司祭職の行方、神の国の到来と新しい契約の締結、そして、イエスの教会の誕生を証しする。
イエスは十字架上で最期を迎えた時、新しい契約のために御父がその当事者たちを引き寄せるのを待っていた。御父が引き寄せなければ誰もイエスのもとへ来ることはできないからだ。彼は嘆願の叫び声をあげた。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46、マコ15:34)。この叫びは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46) という祈りになった。
遂に、十字架のそばに御父が引き寄せた人々が集まった。イエスの母、クロパの妻マリア、マグダラのマリア、そして使徒ヨハネである。ここでイエスは、神の子イエスと共に彼の司祭職も受け取った母マリア(本ブログ№167参照)と使徒を、親子の絆で結んだ。それは、前晩にイエスから「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じられた言葉を実現するために、使徒たちが司祭職と解けない絆で結ばれた保証であった。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハ19:27)とあるとおり、使徒は司祭職を受け取ったのである。
この事実は、黙示録に、「女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである。女は蛇から逃れ、そこで一年と二年と半年の間、養われることになっていた」(黙12:14)と書かれたことと合致する。「女」は司祭職である。「鷲」はヨハネ福音書を指している。「荒れ野」とは、イエスの母と解けない絆で結ばれた使徒たちの記憶だ。こうして、使徒たちの記憶に隠された司祭職は、「人間の情報」(「蛇」)から逃れ、相応しい時まで養われることになっていたのである。
「この後、イエスはすべてのことが今や成し遂げられたのを知り」(ヨハ19:28)、「渇く」と言って酸いぶどう酒を受けた。それは、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)と言ったイエスが、「神の国」が到来したことを告げたのだ。そして、「成し遂げられた」(ヨハ19:30)と言い、「息を引き取られた」(マタ27:50、マコ15:37、ルカ23:46、ヨハ19:30)。その後、イエスのわき腹から流れ出た血と水は、御父が引き寄せた人々の上に降りかかり、「わたしの血による新しい契約」(ルカ22:20)が締結されたことを証しし、同時にイエスの「教会」を生み出した(ヨハ19:34~35参照)。
このように、フランシスコがサン・ダミアーノの十字架像から受け取ったヨハネ福音書と黙示録の真理は、新約聖書の中で御言葉が生きていることを表している。彼は、黙示録の著者ヨハネがしたように(黙10:10参照)、十字架像の上端に描かれた小さい巻物を小羊の手から受け取って、食べてしまったのだ。
つづく
Maria K. M.
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