2024/09/09
160. ローマへの道
イエス・キリストが、未来のキリスト者のためにローマを想定していたことは、ポンティオ・ピラトとの会話から、細々ながらその糸口を見出すことができる。ゆえに私たちは、この時イエスと対面したピラトに何が起こっていたのか、福音書から観察してみる必要がある。わたしたちは今も、信仰宣言の中で、ローマ帝国の総督であった彼の名を毎回唱えている。これは特別なことだといえる。
イエスを尋問したピラトには策があった。過ぎ越し祭にユダヤ人の望む囚人一人を釈放する慣例である。ローマ人のピラトにとって、イエスがメシアであるかどうかには関心がなく、ヘロデの反応を見ると(ルカ23:1~12参照)、イエスが自ら「ユダヤ人の王」と称しない限り問題がなかった。しかし、ピラトが裁判の席に着いているときに届いた「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました」(マタイ27:19)という妻からの伝言は気がかりだったに違いない。イエスはピラトの尋問に、「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18:36)、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(18:37)と答えた。神の現実を明らかに語るこれらの言葉に接したピラトは、「真理とは何か」(18:38)と問い返した。その時彼は、すでに「わたしの声を聞く」者になっていたのだ。
さらに、「わたしには、この男に罪を見出せない」(19:6)と言うピラトに、「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」(19:7)とユダヤ人たちが答えると、「ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、『お前はどこから来たのか』とイエスに言った」(19:9)と書かれている。「神の子」という言葉が彼の耳に残ったのだ。そして、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」(19:11)と言ったイエスの言葉に、「ピラトはイエスを釈放しようと努めた」(19:12)とある。イエスは、その最期の時に、ローマ総督ピラトにこのように関わることで、ローマへの軌跡を残した。祭司長たちに訴えられ、総督と王の前に立ち、十字架に向かった道筋である。パウロは、イエスと同じこの道を辿ってローマへ向かった(使徒言行録22:30~28:16参照)。
イエスが十字架上で息を引き取った後、「ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した」(マルコ15:44~45)とある。この百人隊長は、十字架上で息を引き取られたイエスの方を向いてそばに立ち、「本当に、この人は神の子だった」(15:39)と言った人だ。この言葉には、以前、彼がそのことを思いめぐらしたことが示唆されている。彼は、カファルナウムで、死にかかっていた部下のために、イエスにその癒しを求めたことがあった。それを願う彼の言葉に、イエスは、「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」(マタイ8:10)と言って感心した。そして、「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」(8:11)と言って、新しいエルサレムの到来について予告し、「だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(8:12)と言って、迫るエルサレムの崩壊を予告した。
「私が行っていやしてあげよう」(8:7)と言うイエスの申し出を断った百人隊長は、ただ部下を癒す言葉だけを求めていた。この彼が、「本当に、この人は神の子だった」と言うに至った場面が福音書に挿入されたことは、イエスが昇天した後、ローマに御言葉だけが運ばれ、やがてその地で、イエスが神の子であったと認められるに至る未来を預言している。ローマ帝国のキリスト教への改宗は、キリスト者に、新しい聖書の普及と新しいエルサレムを授かる機会を保障した。イエスが、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(ルカ5:38)と言ったたとえのとおりである。しかし、教会は、「詩編と賛歌と霊的な歌」の味わいから離れられなかった。そこで、イエスの次の言葉も実現した。「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」(5:39)。
Maria K. M.
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