イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/12/30


176. 手紙

私は、聖ヨハネ使徒福音記者の祝日に、このブログを読んでくださる一人の友人に手紙を書いて出した。読み返すと、少し長いがブログにも投稿しようと思うものがあった。初めと終わりの挨拶を除くと、次のとおりである。また、挿絵は彼女の作である。 

わたしのブログは、聖フランシスコから大きな助けをいただくようになりました。もともとわたしは、聖フランシスコに興味がなく、サン・ダミアーノの十字架像も注意して見たこともなかったものですから、まさか、そこに描かれた図柄が、ヨハネ福音書と黙示録に関わっているとは夢にも思っていませんでした。神のみ手に運ばれていろいろと出会いがあってここへ導かれました。大きなお恵みをいただいたと感謝しています。このお恵みをなんとかして生かし、伝えようと決心しています。どうかお祈りください。 

神は、唯一、「わたしはある」(ヨハ8:58)と言える方で、ヨハネの手紙が次のように伝えているように、また、聖フランシスコも書いているように、「神は愛」です。この真理を夢中になって述べ伝える証人になりましょう。 

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(一ヨハ4:7~8)、「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(4:16)。 

「神の愛」に留まるために、わたしたち信者は、ご聖体が示す神の無情報に注目し、あらゆる情報から貧しくなって、「聖霊と協働する時」に集中できるように努力が必要です。「イエス」の名によって遣わされた聖霊とよく協働するためには、イエス・キリストの世界観を保持していることが必須です。それを注入する力が、ヨハネの黙示録を朗読し、聞く訓練にあります。黙示録の言葉を文字通り受け取り、実行する者は、神の洗いを受け入れる小さい者です。 

わたしは、聖フランシスコが黙示録の「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)という箇所を読んで、子供のように素直にこの言葉を実行したと思います。彼の書き物を読むと、彼が、ご聖体と「人間の情報」、すなわち善悪の知識に向かったことが分かるからです(本ブログ№169№170参照)。それは、無情報としてのみ人が捉えることのできる偉大な神の「わたしはある」を知って、神の自発性と神の知識によって創造された自分、すなわち情報の塊である自分自身を理解するためです。黙示録のこの箇所は、黙示録を朗読し、その声を聞いて、自分の記憶に入るままにさせる訓練を日々続けることで、「中に記されたことを守る人たち」になることができることを保証しています。忙しいとき、自分に難しさがあるとき、一日にたった一行しかできなかったとしても、また、何かの事情でもっとたくさんできるときも、その声は、流れる水のように自分の記憶に入り、神の洗いは続きます。 

神の洗いを受け入れる小さい者は、ご聖体の前でいつも神の無情報を見つけます。それは、その人がご聖体に集中すると、たとえ一瞬でも、自分の内と外の「人間の情報」から貧しくなるからです。そして、ご聖体を拝領するとき、日々神の洗いを受け入れる小さい者には、真に貧しい者となる瞬間が訪れます。そこで、わたしは、いつもお話ししているように、ご聖体を拝領する時、ご聖体がわたしたちに次の二つのことを尋ねていると思うのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16:15)と、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25~26)という問いです。 

わたしたちは、その答えを知っています。マリアとヨセフが天使によって、生まれる子がイエスと名付けられることを知っていたように、わたしたちは、新約聖書によってそれらの答えを知っています。マリアとヨセフが聖霊とマリアの協働によって授かった命は、完全な人として人間の肉を取った神でした。その名はイエスです。一方で、わたしたちが聖霊と司祭の協働によって授かる命は、パンとぶどう酒がキリストの肉となった神です。その名は「メシア、生ける神の子」(マタ16:16)です。イエスは、この名を現したのは「人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタ16:17)とはっきりと証ししました。 

そして、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」という問いは、イエスがベタニアでラザロを復活させる前に、マルタに問うたものです。それは、イエスが命のパンであることを証しした箇所で語ったすべてのことを信じるかという問いです(ヨハ6:22~59参照)。マルタの次の答えは、彼女がそれらすべてを理解できずとも、信じたことを証ししています。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(ヨハ11:27)。 

ずいぶん長くなってしまい、また終わりには、これまで何度も取り上げたテーマに行き着いていますが、あなたにも真剣に考えてもらいたいからです。世界中のカトリック信者は、ミサの中で司祭が奉挙するご聖体を前に、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と唱えて、ご聖体を拝領しに出ていきますが、それは信者にとって相応しいこととして満足できるのでしょうか。 

イエスがご自身から出向いてきても、その謙遜ゆえにけして自分の家に彼を迎え入れることがなかった百人隊長の信仰を、それでもイエスは、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(ルカ7:9)と言って褒めました。それは、彼に従ってくる群衆を前にしていたからです。しかし、最期の食事の前に、ペトロの足を洗おうとするイエスに対して「わたしの足など、決して洗わないでください」(ヨハ13:8)と言ったペトロの謙遜を、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」という言葉によって、イエスは、厳しく退けました。神の謙遜を前にして、人の謙遜は、むしろ神との関わりを断つことになります。実際に百人隊長の謙遜は、彼の僕や家族がイエスに出会う機会を奪うことになったのです。 

現代のわたしたちにとって、ご聖体が「神の子、キリスト」であることを告白すること、声に出して告白することが必要ではないでしょうか。信者の内奥には、ご聖体に向かって、「あなたは神の子、キリストです」と告白したいという望みがあるのです。どうか、考えてみてください。 

Maria K. M.






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