2022/02/07
25. 意識の領域
人が、「存在」を「ある」ものとして感じるのは、自発性を持っているからだ。その源は、創世記1章によれば、天と地、そしてその森羅万象が、「~あれ」という神の言葉によって創造されたことによる。この神の言葉が、すべての被造物に自発性をもたらしたのだ。人は、この自発性を自身が持っていることを意識できるために、自分が向かう対象に「ある」ものを感じて、それを「存在」だと受け取っている。そこで、聖書の中で、神が「私はある」と言うときも、神が「存在」することだと受け取ってしまう。しかし、聖書において神が「私はある」と言うとき、それは、神が人と共にいることを意味している。出エジプト記の柴の箇所で、その名を尋ねたモーセに、「私はいる、という者である」(出エジプト記3:14)と答えた神は、「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである」(出エジプト記3:12)と教えている。イエスもまた「私はある」という言葉を、「神が人と共にいる」という意味で使った1。私たちがリアルだと感じている世界は、脳の意識の領域で組み立てられる。つまり、人間の脳は、外界から取り込んだ情報を構成しなおして、いわばバーチャル・リアリティーを作っているのだ。神が人と共にいることを、人がリアリティーと確認するためには、その空間とそこで起こる事柄を共有する複数の人のつながりが必要だ。イエスは、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18:20)と言って、そのつながりがイエスの名であることを求めた。イエスが3人の使徒たちに強烈な体験をさせた主の変容2の場面は、まるでメタバースのようだ。私たちは、メタバースでもイエスの名によって集まることができる。
Maria K.
M.
0 件のコメント:
コメントを投稿