イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/04/14


191. 7人の弟子と7つの手紙(第6の手紙)

これまで、黙示録の7つの教会の天使たちへの手紙を、ヨハネ福音書の、ティベリアス湖畔で漁をしていて復活したイエスと出会った7人の弟子たちに当てはめ、その妥当性を検証してきた。ヨハネ福音書には、「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)と書かれており、この順で行くと第6の手紙は「ほかの二人の弟子」の一人ということになる。 

黙示録の第6の手紙は次のように始まる。「フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」(黙3:7)。この言葉は、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタ16:19)という、かつてイエスがペトロに言った言葉を彷彿させる。 

続いて、「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」(黙3:8)とあるのは、イエスがペトロに「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(ヨハ13:38)と言った言葉を思い出させる。これらのことから、第6の手紙の宛名「フィラデルフィアにある教会の天使」は、ペトロの兄弟であり、ペトロを最初にイエスに引き合わせたアンデレであると推定できる。彼も漁師であった。 

手紙は続けて、「見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」(黙3:9~11)と書き、「勝利を得る者」への報いをもって終わっている。「フィラデルフィアにある教会の天使」は、「イゼベル」が出現した第4の手紙、ヤコブと想定される「ティアティラにある教会の天使」とともに、他の天使たちのような厳しい忠告を受けていない。アンデレもヤコブも優秀な弟子だったに違いない。それは、彼らがイエスと出会う前に洗礼者ヨハネの弟子だったからではないだろうか。 

ヨハネ福音書によると初めにイエスに従ったのは、洗礼者ヨハネの二人の弟子たちであり、そのうちの一人は、「シモン・ペトロの兄弟アンデレであった」(ヨハ1:40)と書かれている。もう一人は上記の理由からゼベダイの子ヤコブだと思われる。それゆえ、その時のいきさつをヨハネ福音記者は詳しく記載することができた。「(洗礼者)ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」(1:35~37)とある。二人は師である洗礼者ヨハネからイエスについて、「世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)、「私よりも先におられた」(1:30)、「聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人」(1:33)、「この方こそ神の子である」(1:34)という知識を得ていたのである。 

その後の二人の行動には目を見張るものがあった。彼らが従ってくるのを見たイエスが「何を求めているのか」と問うた言葉に、「ラビ-『先生』という意味-どこに泊まっておられるのですか」(ヨハ1:38)と問い返して、イエスから「来なさい。そうすれば分かる」(1:39)という言葉を引き出している。そして勧められるままにイエスについて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。さらに夕刻であったので、その日はイエスのもとに泊まった。彼らの行動は直観的で迷いがない。その後、アンデレはペトロに会いに行き、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」(1:41)と言って、彼をイエスのところに連れて行っている。彼は非常に読みが深く、的確に行動する人物であった。 

アンデレのこの特性はイエスの弟子になってからも変わらなかった。大勢の群衆がイエスの方へ来るのを見たイエスが、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハ6:5)と言ったとき、イエスが何をしようとしているかを直観的に察し、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」6:9と答えて、イエスがしるしを行うきっかけを作った(6:10~13参照)。 

このように、いつもイエスの意図に的確に従う堅実な彼は、イエスの信任が厚く、弟子たちの中から、ペトロとヤコブとヨハネだけを連れて出るときも、後を任せることができたのだろう。やがて、他の弟子たちも彼を頼みにするようになった。エルサレムで何人かのギリシア人がイエスに面会を求めたとき、初めに受けたフィリポは、行ってアンデレに話してからイエスにつないでいるところからも、それがうかがえる(ヨハ12:20~22参照)。 

アンデレは、次の約束に相応しい者であった。「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう」(黙3:12)。 

つづく

Maria K. M.


 2025/04/07


190. 7人の弟子と7つの手紙(第5の手紙)

前回考察したように、黙示録の第4の手紙の宛名である「ティアティラにある教会の天使」は、ゼベダイの子ヤコブであった。そこで、第5の手紙の「サルディスにある教会の天使」は、同じくゼベダイの子のヨハネに当たる。ヨハネは、使徒ペトロとともに活発に宣教活動をしていたことが、使徒言行録に記されている。しかし、ペトロとサマリアで福音を告げ知らせたことを報じた後、ヨハネの消息を記していない(使8:25参照)。その後、フィリポの活躍、パウロの回心、そして、引き続きペトロは独自の宣教活動を続けている中で、ヨハネはどのように生きていたのだろうか。兄弟ヤコブの共同体を助けていたのかもしれない。 

そうであれば、ヤコブが剣で殺されたとき、そこに居合わせただろうヨハネは(使12:1~2参照)、この悲劇が、かつてイエスが「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」(マコ10:39)と予告したことが実現したのだと思ったに違いない。「イゼベル」の出現によってヤコブは裏切りの杯を飲んだ(黙2:20~25参照)。彼は人々の前で惨殺され、彼の共同体は散らされた。ヨハネはこのとき、自分について「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(ヨハ21:21)と尋ねたペトロに、復活したイエスが、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」(21:22)と言った言葉を思い出しただろう。 

「サルディスにある教会の天使にこう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる』」(黙3:1)で始まる黙示録の第5の手紙は、第1の手紙の「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」(2:1)と似せて描かれている。第1の手紙の宛名の天使は使徒ペトロであった。このことは、この手紙を受け取る天使であるゼベダイの子ヨハネが、使徒ペトロのように、イエスから特別な召命を与えられていたことを示唆している。しかし、続く手紙の内容は、ヨハネが、兄弟ヤコブが剣で殺され、彼の共同体が散らされたことに衝撃を受け、うちのめされたことをうかがわせる。ヨハネも深手を負ったに違いない。 

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない」(黙3:1~2)。ここには、生き残ったヨハネの体験もまた、兄弟ヤコブと同じく、「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と言ったイエスの言葉の実現であり、神は、ヨハネがヤコブとはまた別の仕方でキリストの道を全うするよう計画していたことが暗示されている。 

「だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ」(黙3:3)と励ましているのは、ヨハネが福音書の執筆に向かうことを示唆しているのである。イエスの名によって遣わされた聖霊の引き出す言葉こそは、ヨハネにとって命であり、暗闇の中で輝く光であった(ヨハ1:4~5参照)。その言葉の内にイエスキリストの世界観がある。それを表現できるのは、イエスの愛しておられた弟子、使徒ヨハネをおいて他にはいないのである。 

続いて、「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない」(黙3:3)と記して、やがてヨハネが、に満たされ、ラッパのように響く大声を聞くまでになることを予告している(1:9~10参照)。その体験が黙示録を書かせたのである。 

そして、「しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである」(黙3:4)と書かれている言葉は、ヤコブと、彼と共に殺された者たちについて祈るヨハネに答えを与えている。この手紙の主は最後に次のように約束している。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」(3:5)。「白い衣」と「命の書」のテーマは、永遠の命に導く神の現実を表す黙示録の重大なテーマとなる。 

つづく

Maria K. M.


 2025/03/31


189. 7人の弟子と7つの手紙(第4の手紙)


これまで、ヨハネ福音書のティベリアス湖畔での大漁の場面で、復活したイエスと出会った7人の弟子たちと、黙示録の7つの教会の天使への手紙との間には、相関があるのではないかと考え、ヨハネ福音書に書かれた順に弟子たちを7つの教会の天使に当てはめ、検証を進めてきた。7人の弟子たちは、「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)と書かれている。そこで、第4と第5の手紙は(黙2:18~3:6参照)、「ゼベダイの子たち」に当たる。今回は第4の手紙、「ティアティラにある教会の天使」に宛てた手紙について考察する。

手紙の初めに、「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる」(黙2:18)と、この手紙の送り主の姿が描写されている。この描写は、黙示録の著者ヨハネが、主の日に“霊”に満たされて聞いた声の主の描写の一部、「目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き・・」(1:14~15)と酷似している。この手掛かりは、著者ヨハネに語りかけた声の主が「神の子」であることを示すと同時に、第4の手紙の「ティアティラにある教会の天使」が、著者ヨハネに似た者であることを示唆している。それは、ヤコブである。 

ヤコブは、イエスが重要な場面でペトロとヨハネと共にいつも伴っていた特別な弟子の一人だった。そこで、「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている」(黙2:19)と書かれている。その一方でイエスは、ヤコブとその兄弟ヨハネに「雷の子ら」(マコ3:17)という名を付けた。実際、彼らには強気に先走りする傾向があって、イエスにたしなめられている(マコ9:38,ルカ9:49,54参照)。その上、彼らは野心家でもあった(マコ10:35~41参照)。彼らは実によく似ていたのである。 

手紙で「神の子」は次のように指摘している。「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている」(黙2:20)。ここでは列王記に登場するイスラエルの王アハブの妻イゼベルが引き合いに出されている(王上16:31~21:25,王下9:7~37参照)。この指摘は、教会共同体において、司祭が、アハブ王のように、自分の身近で重宝する女性を重用するなら起こるに違いない悲劇を示唆している。 

教会共同体には初めから多くの女性たちが奉仕していた(ルカ8:1~3参照)。司祭がその一人のすることを「大目に見ている」と、共同体のさまざまな思惑が彼女に向かい、彼女が相応の能力を備えていれば、司祭と彼の共同体の間に「イゼベル」が出現する。「自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え」とあるように、司祭の後ろ盾を得た彼女は、信徒に向かって権威ある者として振舞い、自分の仕方で彼らを教える。「また惑わして、みだらなことをさせ」とは、その態度と相応の能力で人を惑わし、自分の言うことを聞くようにさせること。そして、「偶像に献げた肉を食べさせている」とあるのは、彼女の言うことを聞く信徒たちが、信仰の純粋さを損なう彼女の行為に慣れ、平然とそれを受け入れるようになることである。 

手紙には「わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない」(黙2:21)と続く。彼女は、「この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らない」(2:24)人々を見つけると、列王記のイゼベルのように彼らに制裁を加える。信徒の中にはそのような共同体から逃げ出す者もいる。司祭が、彼の共同体に何が起こっているのかに気付くには時間がかかる。使徒言行録に、「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」(使12:1~2)とある。ヤコブは、このような状況の中で、虚を突かれたに違いない。 

人の思いや判断を見通す「神の子」は、人が行ったことに応じて一人一人に報いる。そして、「この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らない」人々に対して、「わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない。ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。」(黙2:24~25)と励ましている。信者にとって真の権威は、「神の子」が与える「明けの明星」(2:28)であり、それはイエスご自身である(22:16参照)。 

つづく

Maria K. M.

 


 2025/03/24


188. 7人の弟子と7つの手紙(第3の手紙)

前回の考察を続ける。ヨハネ福音書には「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)とあった。そこから、黙示録の第3の手紙の宛名である「ベルガモにある教会の天使」は、上記の順に行くとガリラヤのカナ出身のナタナエルに当たる。 

ナタナエルは、フィリポに出会ってその召命をつかんだ。フィリポは彼に、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(ヨハ1:45)と告げた。彼はそれに、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(1:46)と応じた。他の箇所では、群衆の中でも聖書を知っている者が、「メシアはガリラヤからでるだろうか。メシアはダビデの子孫で、メシアはダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」(7:41~42)と言ったことや、祭司長やファリサイ派の人々が、「よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」(7:52)と言ったことが記載されている。 

フィリポに対するナタナエルの応答は、彼が聖書についてよく知っていたことを物語っている。しかし、イエスと同じガリラヤ出身の彼には、「ガリラヤから何か良いものが出るだろうか」とは言えなかった。それでも、「来て、見なさい」(ヨハ1:46)と言ったフィリポの言葉に興味をもって彼の後について行ったのである。ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼の考えを知っていたイエスは、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(1:47)という言葉をかけた。この言葉にナタナエルは、「どうしてわたしを知っておられるのですか」(1:48)と問うた。彼は、イエスに内面を見抜かれた思いがしたのだ。 

イエスは、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」(ヨハ1:48)と答えた。当時のユダヤ人にとって、「いちじくの木の下にいる」とは、個人的な祈りや静かな時間を持つことを指すことがある。イエスは、彼がそのような人であることを示唆したのだ。このイエスの答えは彼の心の琴線に触れ、彼は、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(1:49)と告白した。しかし、イエスの対応は次のように少し冷たかった。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(1:50)。 

ナタナエルの告白には真実があったとしても、聖書の知識を持っていた彼にとってこの答えは、ラビ(先生)や長老とみられる人と出会ったときの常套句であったかもしれない。そこでイエスは、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と言って、彼の真実を固めようとした。その三日後に行われた婚礼の場で、イエスが水をぶどう酒に変えるしるしを行い、その栄光を現すところを、ナタナエルは他の弟子たちと共に目の当たりにすることになる(ヨハ2:1~11参照)。ナタナエルの出身地がガリラヤのカナであったことから、このしるしは他の誰よりも彼の脳裏に焼き付いて残ったにちがいない。そして、最期の食卓でイエスが聖体を制定した時、彼の記憶にカナの婚礼のしるしが鮮明によみがえったことだろう。

後日、さらにイエスは二回目のしるしを再びカナで行った。死にかけている王の役人の子を、御言葉だけでいやしたのである(ヨハ4:46~54参照)。イエスに対するナタナエルの真実は固まった。黙示録の第3の手紙に書かれた、「鋭い両刃の剣を持っている方」(黙2:12)、「すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう」(2:16)という言葉は、ナタナエルにとって真実である。そして、彼が読めば、「勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている」(2:17)とあるこの手紙の最後の言葉の意味が分かる。 

「隠されていたマンナ」は、イエスの最期の食卓の聖体制定の場面を示唆する「キリストの体」である。そして、「キリストの体」は御言葉によって成る。そこで、「その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている」とある言葉から、黙示録19章に登場する「白馬の騎手」の描写に導かれる。そこには、ナタナエルが見たイエスの真実、「白い小石を与えよう」と言った方の真実がある。イエスの名によって遣わされた聖霊の姿が、次のようにイメージされているのだ。 

「私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『忠実』および『真実』と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた。この方は血染めの衣を身にまとい、その名は『神の言葉』と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである」(黙19:11~15)。 

つづく

Maria K. M.


 2025/03/17


187. 7人の弟子と7つの手紙(第1と第2の手紙)

前回の考察で、ヨハネ福音書の復活したイエスの最後の言葉にある「わたしの来るときまで」(ヨハ21:22)が、黙示録のアジア州にある7つの教会の内、スミルナにある教会を除く6つの教会の天使に宛てた手紙のテーマになっていること、そこからこの言葉は「新約聖書が成立するときまで」の意であったこと、そして、その言葉を解釈したヨハネの心には、すでに黙示録が予感されていたことが分かった。そうであれば、この箇所でヨハネ福音書と黙示録、さらに他の福音書をつなぐ側面が見つかるかもしれない。 

そこで、復活したイエスの第5のエピソード、ティベリアス湖畔での大漁の場面で、そこに集まっていた7人の弟子たちと、黙示録の7つの教会の天使への手紙との間には、相関があるのではないかと考えた。7人の弟子たちについては順に、「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)と書かれている。この順に7つの教会の天使に当てはめ、それらの手紙の内容と相関があるかどうかを検証する。 

第1の手紙の宛名である「エフェソにある教会の天使」(黙2:1)は、7人の弟子の順でいくと初めに書かれたシモン・ペトロに当たる。「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」(2:4~5)とあるのは、主の受難の夜、「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハ13:37)と言ったペトロが、鶏が鳴く前に三回否んだことが符合する。続けて、「もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」と言われている。黙示録で「燭台」は教会であって(黙1:20参照)、「あなたの燭台」はここだけに出てくる。そこでこの「燭台」は、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタ16:18)とイエスが言った教会を指すとみられる。 

また最後に、「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」(黙2:7)とあるのは、ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタ19:27)と言ったとき、イエスが、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(19:29)と言ったことと合致する。「永遠の命を受け継ぐ」と「命の木の実を食べさせよう」は同義である。 

第2の手紙の宛名である「スミルナにある教会の天使」(黙2:8)は、ヨハネ福音書の7人の弟子の順でいくと「ディディモと呼ばれるトマス」に当たる。トマスは、復活したイエスが初めて弟子たちに現れたとき、弟子たちと一緒にいなかった。ヨハネ福音書にその名がたびたび登場し、イエスの重要な場面でイエスとのやりとりがあったトマスにとって(ヨハ11:16,14:5参照)、復活したイエスが彼のいないときに弟子たちを訪れたことはショックだったに違いない。福音書には、「ほかの弟子たちが、『私たちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』」(20:25)とある。 

黙示録の第2の手紙は、「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる」(黙2:8)という言葉で始まる。「一度死んだが、また生きた方」とは、イエスの復活を信じないと言ったトマスに向けられている。そして、「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」(2:10)と書かれているのは、イエスが生前ラザロを蘇らせるためにベタニアへ行くとき、トマスが「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハ11:16)と言っていたことと符合する。彼が自身の言葉に忠実に生きて、命の冠を授けられるなら、「決して第二の死から害を受けることはない」(黙2:11)。 

前述のように、この第2の手紙には、他の6つの手紙に載せられている「わたしの来るとき」のテーマがない。復活したイエスが、上記のエピソードでトマスだけのためにもう一度弟子たちの所に来たことを考慮して(ヨハ20:24~29参照)、この手紙から省かれた可能性がある。また、それによって、ヨハネ福音書の7人の弟子たちと黙示録の7つの教会の天使への手紙との間に関りがあることに気付くサインになっているのかもしれない。 

つづく

Maria K. M.



 2025/03/10


186. 使徒ヨハネの証し

ヨハネ福音記者は、復活したイエスが漁をしていた7人の弟子たちに現れた最後のシーンで、使徒ペトロの質問に答えたイエスの言葉を、次のように解説した。「それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである」(ヨハ21:23)。「この弟子」とは、「イエスの愛しておられた弟子」(21:20)、すなわち使徒ヨハネである。「この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった」のは、イエスが生前、「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(マルコ9:1)と言っていたからだ。 

続く、「しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである」という意味深長な言い回しは、「わたしの来るとき」が手掛かりになって、ヨハネの黙示録を示唆している。黙示録は、アジア州にある七つの教会に送るために、著者ヨハネが見ていることを巻物に書いたものだ(黙1:11参照)。その手紙の内、スミルナにある教会を除く六つの教会への手紙の中心テーマになっているのが「わたしの来るとき」なのである。 

「わたしの来るとき」についての各手紙の表現に注目すると、次のように時を追って変化していることが分かる。エフェソにある教会への手紙では、「もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」(黙2:5)、ベルガモンにある教会への手紙では、「だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう」(2:16)、ティアティラにある教会への手紙では、「ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ」(2:25)、サルディスにある教会への手紙では、「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない」(3:3)と書かれている。ここまでの「わたしの来るとき」のテーマは未来の予告になっている。 

それが、フィラデルフィアにある教会への手紙では、「わたしは、すぐに来る」(3:11)と近未来になる。そして、最後のラオディキアにある教会への手紙では、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」(3:20)と現在になっている。そして、「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と書かれている。「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者」とは、羊のために命を捨てる良い羊飼いの声を聞き分ける羊(ヨハ10:11~14参照)、すなわちイエスの弟子である。「戸を開ける」とは、新約聖書を成立させることである。その中には、イエスが聖体を制定した最後の食卓の場面がある。そこでヨハネの黙示は、続けて次のように書いている。 

「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」(3:21)。 

ヨハネ福音書の復活したイエスの最後の言葉、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」の「わたしの来るときまで」は、「新約聖書が成立するときまで」の意であった。そして、その言葉を解釈したヨハネの心には、すでに黙示録が予感されていたのだ。 

Maria K. M.

 



 2025/03/03


185. 預言された者 その7

サン・ダミアーノの十字架像の上では、ヨハネの福音書と黙示録の登場人物たちが再会している。十字架像の上方には封印のついた巻物を片手に、黙示録のヨハネがいる。十字架のイエスの右にイエスの母と使徒ヨハネ、左にマグダラのマリアとクロパの妻マリアが立っている。 

さらに、十字架上のイエスに一途な眼差しを向ける者たちがいる。マグダラのマリアとクロパの妻マリアの左手には、ローマ帝国のキリスト教改宗を象徴する百人隊長がいて、彼の真剣な眼差しは、ローマへの道を開いたパウロを思い起させる。また、百人隊長の肩越しにイエスを見上げる人物には、この十字架像に出会うことになるフランシスコが預言されている。彼はこの十字架像との出会いによって、ヨハネの福音書と黙示録を背負うことになった。彼は使徒ヨハネの眼差しを持ったのだ。 

十字架像の下方、イエスの左膝下の横に小さく描かれた雄鶏もまた、上方のイエスをじっと見つめている。最期の夕食の席で、血気にはやり、「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハ13:37)と言った使徒ペトロに、イエスは、「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう」(13:38)と予告することによって彼の命を守った。ここに描かれた雄鶏の眼差しには、ペトロの思いが込められている。 

他にも、十字架上のイエスにその眼差しを向ける二人が、イエスの両側に小さく描かれている。彼らは伝統的に次のように言われている。イエスの左にいる人は、イエスに酸いぶどう酒のしみたスポンジを差し出した人である。ヨハネ福音記者は、イエスがこれを受けたと書いている(ヨハ19:29~30参照)。それは、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)とイエスが言った「神の国」が到来したことのしるしである。彼はその目撃者となった。 

イエスの右にいる人は、イエスのわき腹を槍でついたローマ兵である。彼は、新しい契約の締結と教会の誕生に立ち会い、彼自身もイエスのわき腹から流れ出た血と水を浴びたのである。ここで、ヨハネ福音書に「また、聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある」(ヨハネ19:37)と書かれた記述は、新約聖書ではこの箇所と黙示録だけに見られる(黙1:7参照)。 

ここで、ヨハネ福音書と黙示録が関わったことは、次のように書かれたヨハネ福音書の主の復活の場面の最後のエピソードの最終テーマと重なってくる。それは、サン・ダミアーノの十字架像において、ヨハネの福音書と黙示録のテーマが一緒に描かれていることの理由であり、この十字架像に呼ばれ、預言された者となった聖フランシスコにとっても大きな意味があったに違いない。次回に考察したい。 

「それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである』(ヨハ21:23)。 

Maria K. M.



 2025/02/24


184. 使徒ペトロ

十字架上でイエスが、母と使徒を親子の絆で結ぶことによって公に使徒に託したものは、司祭職であった(ヨハ19:26~27参照)。司祭職の中心に、聖霊と協働して生まれるキリストの御体と御血がある。ご聖体は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(6:56)と言ったイエスの言葉を実現し、信者を父の御心に向かわせる(6:40参照)。そこには、罪の赦しを得させる新しい永遠の契約がある。神の子が天から降って来たのはこのためであった(6:38参照)。 

神の子が私たちの間に宿るために、神は天使を送ってマリアとヨセフに神の子の権威を託した(マタ1:20~21、ルカ1:28~38参照)。神が天使をとおしてマリアにその承諾を求めたのは、神の子の命を身ごもったマリアの記憶には、子を身ごもるすべての女性がそうであるように、神の創造の業の助け手となったという消えない跡が残るからである。 

復活したイエスは、三位一体の神の一致の内で、ペトロに、「わたしを愛しているか」と三回問うた(ヨハ21:15~17参照)。その朝、御言葉によって大漁の体験を共にした他の使徒たちの前で(21:1~14参照)、また、イエスがご自分の母と親子の絆で結び、司祭職を託したイエスの「愛する弟子」(19:26)の前で、神は、ペトロが使徒たちの頭となって、聖霊と協働してご聖体を生む司祭職を受け取ることの承諾を求めたのである。それは、イエスの母となったマリアがそうであったように、司祭職を受け取った男性の記憶には、神の救いの業の助け手となったという消えない跡が残るからである。 

ペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ヨハ21:15)と答えた。それはマリアが天使に向かって、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と答えた言葉に相当する。このように見ると、かつてペトロに御父が現し、イエスが授けた神の権威は、次のようにイエスの両親が託された権威に符合していたことが分かる。 

ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16:16)という御言葉を天の父から授かった(16:17参照)。一方、神の子を迎えるヨセフとマリアは、「その子をイエスと名付けなさい」(マタ1:21、ルカ1:31)という言葉を主の天使から授かった。そこには、「神は我々と共におられる」という意味の名である「インマヌエル」が実現されていた。この名は、神が宿るご聖体の内に継続している。 

イエスは、ペトロに、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタ16:18)と言った。それは、マリアが天使から「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(ルカ1:32~33)と言われた言葉と符合する。 

最後にイエスがペトロに、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタ16:19)と言った言葉は、ヨセフが天使から、「この子は自分の民を罪から救うからである」(1:21)と言われた言葉に符合する。「自分の民を罪から救う」ためには、信者たちを誘惑から守り、悪から救う「天の国の鍵」を、使徒たちの頭ペトロに与えることが必要であった。 

復活したイエスの三回「わたしを愛しているか」という問いに応えたペトロには、かつてイエスが授けたこれらの御言葉が宿り、その使命は彼の内で固まった。神と使徒たちの前で承認されたペトロの使命は、その後継者たちに受け継がれていく。 

こうして教会の運命を背負ったペトロは、パウロの登場によって予想もしなかった場所でその最期を迎えることになる。パウロは、イエスの命じた言葉に従って、キリスト者にローマへの道を切り開いた(使23:11参照)。ペトロは、そのローマで、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言ったイエスの言葉を実現する。イエスが次のように予告したとおりである。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハ21:18)。前回考察した、二度目の「わたしに従いなさい」(21:22)とは、神の計画に従ってペトロがローマへ行くことであった。 

Maria K. M.


 2025/02/17



183. 「あなたは、わたしに従いなさい」

前回、ヨハネ福音書の最後の夕食の場面の「イエスの愛しておられた弟子」について回想した。彼は、イエスが御父の内におり、御父がイエスの内におられることを信じ、体験していた。この弟子がイエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言っている様子から、彼には、母の胸でやすらぐ幼子の平和が感じられる。彼は実際に眠かったのだ。 

ルカ福音書には、ペトロとヤコブとヨハネが、イエスと共に山に登りイエスの変容に与った場面で、「見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9:30~31)とある。マタイとマルコ福音書の並行箇所には、下山するときイエスが、「エリヤは既に来たのだ」(マタ17:12)と言ったとある。これは洗礼者ヨハネのことで、イエスが、「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」(11:13)と言っていることから、モーセとエリヤがイエスの未来に関わるはずがない。弟子たちが見た二人はモーセとエリヤではなかった。彼らは、特別なかたちで三位一体の神を見る機会を授かったのだ。ルカ福音書は、「ペトロと仲間は、ひどく眠かった」(ルカ9:32)と記載している。 

また、ゲッセマネの園で祈るイエスとともにいた時も三人は眠っていた。ここでも、弟子たちは、「ひどく眠かったのである」(マタ26:43)と書かれている。夜通し漁に出ることに慣れていた彼らにとって、それは不自然な状況に見える。まして各福音書はそれぞれ、弟子の誰かが剣を持っていたことを伝えている。またイエスもその夜、剣を持つように言っている(ルカ22:35~38参照)。このように緊張感のみなぎるその夜に弟子たちが眠るわけがなかった。彼らは祈るイエスの姿に三位一体の神を見たのだ。これらの記述から、この体験は人間の認知の限界を超えてしまったのだと言える。それでは、信者はいつまでも神を見たと認知することができない。そこで神は初めからご聖体を制定することを計画していた。「命の木」から取って食べさせようとしていたのだ(黙2:7参照)。 

前々回考察したように、ペトロは、復活したイエスに、「愛しているか」と問われた場面で、三位一体の神の一致の内に入る「神の愛」の体験をした。しかしこの時ペトロは眠くならなかった。それどころか、イエスが「わたしを愛しているか」と三回目に問うた時、「イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」(ヨハ21:17)と書かれている。彼がこれほど平静だったのは、目の前にいた方が復活したイエスだったからだ。それは、私たちが、復活したイエスの御体と御血であるご聖体を前にした時と同じだ。 

復活したイエスは、ペトロにこの体験をさせることで、かつてイエスが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16:16)と答えたペトロに、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)と明かし、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」(16:18~19)と言った場面の記憶を固めた。ペトロにこれらの御言葉が宿ったのである。すべては聖霊と協働してご聖体を生み出す司祭職のためであった。 

ペトロは、続けてどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして言ったイエスの言葉を悟った(ヨハ21:18~19参照)。「わたしに従いなさい」(21:19)と言った言葉に、イエスと同じ最期に与ることを覚悟したのである。そして、「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた」(21:20)。彼は、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21:21)とイエスに尋ねた。ペトロは、自分の死を悟って、若い彼のことが心配になったのである。 

イエスはペトロに答えて言った。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」21:22)。この二度目の「わたしに従いなさい」には、また別の意味があった。ペトロとヨハネ、主の最期の食卓を準備した二人は(ルカ22:8参照)、聖霊が降臨した後、いつも一緒に宣教したことが使徒言行録に記されている。やがて、全く異なる道を通って、サン・ダミアーノの十字架像の上で再会する。 

つづく

Maria K. M.



 2025/02/10


182. 預言された者 その6

ヨハネ福音書の主の復活の場面の最後のエピソードは、次のように始まっている。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である」(ヨハ21:20)。そこで、まず、「あの夕食のとき」の「イエスの愛しておられた弟子」について思い出す必要がある。 

ヨハネ福音書の最期の食事の席で、イエスは、ペトロの足を洗うとき、「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」(ヨハ13:10)と言った。ペトロは近くでその声を聞いていたはずである。そしてイエスは、使徒たちの足を洗った後、「『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない」(13:18)と言い、「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」(13:19)と前置きしてから、「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」13:21)と断言した。 

この緊迫した流れの中で、弟子たちは、誰について言っているのか察しかねて、ペトロが、イエスのすぐ隣にいた「イエスの愛しておられた弟子」に、誰について言っているのかと尋ねるように合図したのだ。「その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、それはだれのことですか』と言うと、イエスは、『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた」(13:25~26)とある。その後の物語の流れを見ると、このイエスの答えは、胸に寄りかかっていた弟子だけに聞こえたのではないかと思う。他の使徒たちは、イエスがユダに浸したパン切れを与え、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(13:27)と言ったことにすぐ注意を向けた。だから、「座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった」(13:28)と書かれている。 

ユダが出て行った後、残った彼らは、何事もなかったように、イエスとの語らいに戻った。先に「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」と言ったイエスの言葉を聞いていたペトロでさえ、もう関心を失くしてしまったようだ。その原因は、「イエスの愛しておられた弟子」が、イエスの胸もとに寄りかかったままで、平和の内にイエスに尋ねたことにある。彼は、イエスが使徒たちの足を洗う姿に、御父の熱情とともに、母の思いをもって示した神の愛を見て信じたのだ。彼は、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」(14:10)というイエスの言葉をすでに体験していた。御父がイエスの内におられることを信じ、神であるイエスの「子」となっていたのである。 

「イエスの愛しておられた弟子」とは、神であるイエスの「子」となる者である。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(1:12~13)と書かれたとおりである。その後イエスは、使徒たちに向かって「子たちよ」(13:33)と語りかけた。そして復活後、イエスはもう一度「子たちよ」と呼びかけている。それはまさに、復活したイエスが漁をしている彼らに「子たちよ、何か食べる物があるか」(21:5)と問うた時であった。 

聖フランシスコは、このように「イエスの愛しておられた弟子」が神であるイエスの「子」であったこと、さらに黙示録に「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(黙21:7)とあること、そして、「また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」(マタ23:9)と言ったイエスの言葉を鑑みて、修道生活に母と子というビジョンを持ったのではないか。ここから、彼がどれほど新約聖書を知っていたかが伺えるのである。サン・ダミアーノの十字架像は、ヨハネ福音書と黙示録の訓練を身に着けることがそれを可能にすることを暗示している。 

:『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)第十章「兄弟レオへの手紙」、第二十三章「隠遁所のために与えられた規則」参照。 

つづく

Maria K. M.


 2025/02/03

181. 預言された者 その5

『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)の第一章「訓戒の言葉」の第20のテーマ「よい修道者とむなしい修道者」では、次のように書いている。「主のいと聖なる御言葉と御業の内にのみ、自分のすべての楽しみと喜びを見いだし、それらによって人々を満足と喜びのうちに神の愛へ導く修道者は幸いです。暇つぶしのむなしい言葉を喜び、それによって人々を笑いへ導く修道者は不幸です。」ここには、サン・ダミアーノの十字架像をとおしてフランシスコが受け取ったヨハネの福音書と黙示録の極意がある。彼はまさしく、「主のいと聖なる御言葉と御業の内にのみ」という言葉をヨハネ福音書から身に着け、「幸い」と「不幸」の感覚、そして、それを自分自身の中で他者を見るかのように見分ける力、メタ認知力を黙示録の訓練から身に着けていたのだ。それこそが、「イエスの愛しておられた弟子」の姿である。彼はこのポジション、「イエスの召命」に留まりたかったと思う。 

ヨハネ福音書の主の復活の場面に描かれた7つのエピソードの最後の3つは、まさに「主のいと聖なる御言葉と御業の内にのみ」ある「神の愛」について明らかにしている。前回考察したように、イエスが、御父の熱情とともに、母の思いをもって神の愛を示したのは、イエスの喜びが「彼らの内に満ち溢れるようになるため」(ヨハ17:13)であった。人々をそこに導くこと、すなわち「主のいと聖なる御言葉と御業の内にのみ、自分のすべての楽しみと喜びを見いだし、それらによって人々を満足と喜びのうちに神の愛へ導く」ことは、すべてのキリスト者の務めである。キリスト者は、キリストの弟子、キリストの名を背負った修道者だからだ。 

その可否は、新しい契約の司祭職にかかっていた。新約聖書を読むと、御父の熱情とそれを負った御子の思いが、新しい契約の司祭職を目指していたことが伝わってくる。神は、初めの男性に、「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで」(創3:19)と言った時から、聖霊が降臨し、新しい契約の司祭が聖霊と協働してご聖体を生み出すその時を待ち構えていたのである。この神の計画は、私たちの間にある「神の国」が、キリスト者によって証しされ、全世界に認知されるまで、今も止むことがない。それが、すべてのものを御覧になって、「見よ、それは極めて良かった」(創1:31)と神が言った時点に到達する時である。ミサ典礼が完成したなら、それが「神の国」であったと私たちキリスト者が実感するだろう。ご聖体を生み出すために聖霊と協働する男性、使徒とその後継者たちは、イエスの母マリアから受け継いだ司祭職を存続させて(ヨハ19:26~27参照)、イエスが示した「神の愛」を未来のキリスト者に保証し続けるのである。 

5つ目のエピソードでは、大漁の後、使徒たちが魚のかかった網を引いて、舟で戻って陸に上がって見ると、炭火がおこしてあった。パンもあった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(ヨハ21:12)と声をかけた。そして、「パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」(21:13)。イエスは、やがて使徒たちの言葉によってイエスを信じる人々に、使徒たちが成すべき手本を見せたのである。ここにこそ、男性である使徒がイエスの母マリアから受け継いだ司祭職の本質がある(ルカ22:27参照)。 

6つ目のエピソードで、イエスは、ペトロの体験をとおして「神の愛」を伝えようとした。復活した日の夕方、イエスは使徒たちの前に現れて、主の平和を与え、彼らを派遣するために、彼らに罪を赦す権能を授けた(ヨハ20:19~23参照)。これによって彼らは、イエスを見捨てて逃げたことや、ペトロがイエスを三度否んだことから癒されていた。この状態が、「神の愛」を伝えることができる時である。 

「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた」(ヨハ21:15)と書かれている。かつてイエスは、使徒たちの前で「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16:16)と答えたペトロに、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)と明かし、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」(16:18~19)と約束した。イエスの眼差しは、今再び御父の熱情と母の思いをもって使徒ペトロに注がれた。「この人たち以上に」という条件に、ペトロは応えられるはずであった。 

「ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた」(ヨハ21:15)。「わたしの小羊」と言えるのは、御父である。このときペトロに愛を問うたのは御父の御心であった。イエスは続けて愛を問うて、「わたしの羊の世話をしなさい」(21:16)と命じた。これは母の思いを持った御子の御心である。三度目に同じように問うて、「わたしの羊を飼いなさい」(21:17)と命じて続けたイエスの言葉には、これから起こることを告げる聖霊の働きがあった(16:13参照)。著者は、聖霊が降臨した後でその言葉の意味を知ったのである(21:19参照)。三位一体の神の愛を知ることは、人が神の一致の内に入る体験である(17:21~26参照)。そして、イエスは、ペトロに「私に従いなさい」(21:19)と言った。「神の愛」を体験したペトロに再びキリスト者としての道を示したのだ。 

つづく

Maria K. M.


 2025/01/27


180. 御父の熱情と新しい男と女

前回考察したように、御父の熱情は、新しい民、キリスト者の男性の上に注がれていた。それは、神が、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創1:26)と言って始めた御業が、創世記1章にすでに書かれた時点、すべてのものを御覧になって、「見よ、それは極めて良かった」(創1:31)と言った時点に到達するためである。 

創世記において、神が自ら土の塵で形づくった初めの「人」は、「第一の人」であった。次に神は、この初めの「人」のあばら骨の一部から女性を創造した。彼女は「第二の人」であり、神の創造の助け手として人の命を生み出す女性となった。ゆえに女性は、体内に人の命となる多くの卵子を持ち、その記憶は、女性に他者の命に開かれた本性をもたらす。この本性は、神と共にあり、神であり、万物を成し、その内に命を持つ「言」(ヨハ1:1~4参照)、第二のペルソナである御言葉との親和性が高い。女性が、初めに言葉を発し、「人間の情報」(蛇)とのやり取りが始まったことからもそれが分かる(3:1~6参照)。 

そして、神は、「第一の人」からあばら骨の一部を抜き取った後、その跡を肉でふさいで「第三の人」、男性を創造した。男性は、女性を見て自身の肉体的不足を知ることとなった(創2:23参照)。その不足の記憶は、男性にそれを満たすために他者に向かう本性をもたらす。神は、男性がこの本性を挙げて神の第三のペルソナである聖霊に向かうようになるために、民を選び、預言者を立て、いくつもの契約を結びながら熱情を注いで導いた。そしてついに、御子を遣わしたのである。ヨハネ福音書の17:6~19のイエスの祈りは、御父の熱情を背負い、これを全うした御子の思いである。そこに映された深い神の愛は、逝こうとしている母が、残していく子を思って祈る姿をイメージさせる。 

時が満ちて神は、ナザレのマリアの協力を得て、神の第二のペルソナをイエス・キリストとして世に遣わした。こうして、空きになっていた「第一の人」のポストは、人々と共にいる神のものとなった。旧約聖書には、女性が性交によらず子を生むことがすでに預言されていた(イザ7:14参照)。それは、新約聖書において、ナザレのマリアによって実現した。1978年イギリスで最初の体外受精による子供が誕生して以来、すでに多くの女性が性交によらず子を生んでいる。イエスの誕生によって起こった出来事は、未来の私たちの時代についての預言になった(黙19:10参照)。このように預言が実現していく過程は、人の歴史に神の現実が関わっていることを実証している。 

以上のことから、神が人を男と女に創造したのは、人が聖霊によって三位一体の神の似姿になるためであったということが分かる。ゆえに、イエス・キリストは、選んだ使徒たちを、ご聖体を生み出す新約の司祭職へと導いたのであった。司祭職を受けた使徒たちは、イエスがご自身の十字架上の死によって生み出した教会の土台となった(黙21:14参照)。サン・ダミアーノの十字架像に描かれた教会は、確かに、新しい男と女に創造された人々によって構成されている。そこには御父の熱情が聖霊を通して吹き込んでいる。 

Maria K. M.


 2025/01/20


179. 預言された者 その4

アッシジの聖フランシスコは、「イエスの召命」を持っていたのに、助祭職を引き受けた。そして、聖痕を受けた。それは、彼がキリスト者の男性だったからだ。このことについて、復活したイエスがマグダラのマリアに、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(ヨハ20:17)と命じた言葉から考察する。

 「わたしの兄弟たちのところ」とは、シモン・ペトロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」(20:2)と書かれたヨハネのいた家、すなわちマグダラのマリアが墓から石が取りのけてあるのを見て、知らせに走って行った家である。それは、その前の木曜日に「過越の小羊を屠るべき除酵祭」(ルカ22:7)の準備のために、イエスがペトロとヨハネとを使いに出した先の家である。その時イエスは二人に、「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい」(22:10~12)と言った。ペトロとヨハネは、このイエスの言葉どおりに体験した。イエスが「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋」がある家、その家に彼らは泊っていたのである。 

水がめを運んでいる男に出会い、その人が入る家までついて行き、家の主人に何かを願うという場面を、聖霊の降臨した後、彼らは日常的に経験することになる。水がめを運んでいる男は聖霊であり、その人が入る家とは、イエスが「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋」がある家、それは、ミサ典礼が行われる場である。家の主人は御父である。御父に司祭が願うことは、この世で彼らが求める最高のもの、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」という願いである。ペトロとヨハネが過ぎ越しの食事を準備したその家で、イエスはご聖体を制定した。聖霊と御父も同席していた。イエスと共に食卓を囲んだ使徒たちはその目撃者、証人であり、その業を継ぐ者であった。彼らによって、ともに食卓を囲むすべての信者の未来がそこにあった。神が我々と共に食卓を囲んでおられるのだ。 

そこで、復活したイエスが、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」という、ご自身と使徒たちの関係に距離を取るような言い方をわざわざしたのは、彼らの目を御父に向けさせるためであった。神は、イエスを世に遣わすまで、歴史の中で、いくつもの旧い契約を通してご自身が選んだ民を導き、共に歩んできた。イエスが弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタ16:15)と問うた時、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えたシモン・ペトロに、イエスは、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)と言った。御父の熱情は、この時すでに新しい民「キリスト者」の男性の上に注がれていたのだ。 

サン・ダミアーノの十字架像は、視覚に訴えることで、ヨハネ福音書の同じ場面の意味を悟らせる。イエスの左に描かれた二人の女性、「イエスの召命」を持つマグダラのマリアと「ヨセフの召命」を持つクロパの妻マリアの背後には、暗に、それらの召命を持つ男性たちがいる。しかし、その姿は描かれていない。それは、彼らがキリスト者の男性であり、条件が整えば、教会の必要に応えて、すぐにも「マリアの召命」を受け取ること、すなわち司祭職を受け取る準備があるはずだからだ。 

聖フランシスコは、「イエスの召命」を持っていたにもかかわらず、教会の必要に応えて助祭職を受けた。フランシスコが聖痕を受けたのは、このような彼に御父が報いたのであった。 

つづく

Maria K. M.


 2025/01/13


178. 預言された者 その3

聖フランシスコの小品集に残された彼の記憶、そして彼についての伝記は、そこに現わされた真理によって、私たちが信仰において前進するよう強く促している。フランシスコは、サン・ダミアーノの十字架像で、眼を見開いて十字架上のイエスを凝視している男として預言されていた(本ブログ№174参照) 。彼が聖痕を受け、「わたしが、あの方を引き取ります」と言ったマグダラのマリアの言葉を身をもって実現したことと、助祭職を受けていたことは、教会の召命を知る重大な手がかりになった。 

「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハ20:17)とイエスがマグダラのマリアに言ったのは、彼女が女性だったからである。ヨハネ福音記者がこの場面を挿入したのは適切だった。イエス・キリストの教えは男女の弟子たちが対等に受け取り、「イエスの召命」を生きることができるものであったので、女性も男性と同様に司祭職を受けることになるという錯覚が生じる可能性があったからだ。 

イエスの十字架のそばに立ち、イエスがご自分の母と愛された弟子を親子の絆で結んだのに立ち会ったマグダラのマリアは、十字架上のイエスの言葉によって男性である使徒が、司祭職と分かたれない絆で結ばれたことの証人となった。また、イエスの復活の場面では、復活したイエスに、イエスの遺体を引き取ると宣言して、彼女に「イエスの召命」があることを証しした。ここでイエスが、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言った言葉は、彼女に続いて「イエスの召命」に呼ばれることになる女性たちが、司祭職への錯覚を抱くことがないように、イエスにすがりつく手を放し、まだ父のもとへ上っていないキリストの体への執着を捨て、聖霊に向かって一歩を踏み出すように諭すためであった。 

イエスは、続けて「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(ヨハ20:17)とマグダラのマリアに命じている。彼女は迷うことなく「弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」(20:18)。それは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた弟子たちに、イエスが訪れる心の準備をさせた。 

その日の夕方、家の戸に鍵をかけていたのに、イエスが来て真ん中に立った。そして、「あなたがたに平和があるように」と二度も言ったのは、彼らを宣教に遣わす前に罪を許す権能を与えるためであった。マタイ福音書に、「ペトロは、『たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った」(マタイ26:35)と書かれている。使徒たちは、ペトロを筆頭にイエスを決して見捨てないとの証しを立てていたのだ。しかし、イエスの受難を目の当たりにした弟子たちは皆逃げ去り、ペトロは、イエスを「知らない」と言って三度否んだ。彼らがそれぞれに、まず自分自身を赦さないなら、彼らはイエスを証しすることができない。宣教することができないのだ。これがヨハネ福音書の主の復活の場面に描かれた7つのエピソードの3つ目のエピソードである。 

4つ目のエピソードは、復活したイエスが現れたことを信じなかった使徒トマスに、イエスが現れて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハ20:27)と言った場面だ。この言葉は、マグダラのマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と諭した言葉とは対照的である。彼が司祭職と結ばれた使徒の一人だったからである。 

続けてイエスがトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)と言ったように、キリストの体になるために特別に取り分けられたパンとぶどう酒に触れることになる司祭は、「見ないのに信じる人」の幸いを持っているのである。ヨハネ福音記者は、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20:31)と解説している。ご聖体を挙げる司祭自身と、彼と共に祭壇を囲む信徒たちが、ご聖体を「神の子メシアである」と信じて告白し、イエスの名により命を受けることになると言っているのである。 

つづく 

Maria K. M.


 2025/01/06


177. 預言された者 その2

ヨハネ福音書の主の復活の場面には、7つのエピソードが描かれている。前々回、175で初めの2つのエピソードを考察し、「わたしが、あの方を引き取ります」と言ったマグダラのマリアの言葉を、1000年以上たって、聖痕を受けた聖フランシスコが、身をもって実現したという結論を得た。フランシスコを捉えたサン・ダミアーノの十字架像には、フランシスコの登場が預言されていた(本ブログ№174参照)。彼は、難解とされていたヨハネ福音書と黙示録の真理を身に着けた者として、その時代に現れるべく呼ばれたのだ。聖霊は、フランシスコが生きている間も、また彼の死後も、彼の書き物や伝記から浮かび上がってくる真理によって当時の教会を鼓舞した。それは今も続いている。このような理解に立って、ヨハネ福音書の復活の場面を続けて考察していく。 

マグダラのマリアは、イエスの十字架のそばに立ち、彼の最期に立ち会い、その血と水を受けて、新しい契約の証人、また、誕生した教会の最初の四人の一人となった。彼女の召命については、これまで何度も考察してきた。そして、彼女が、復活したイエスに初めに出会い、それがイエスとは気付かず、図らずもイエスに向かって、イエスのご遺体を「引き取る」と宣言したことは、彼女の召命を証ししていると確信した。しかし、この場面でイエスが「マリア」と声をかけ、振り向いた彼女に、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハ20:17)と言った言葉の意味が見えてこなかった。それがここにきて、サン・ダミアーノの十字架像と、聖痕を受けたフランシスコの召命についての考察によって明らかになってきた。 

イエスの声に振り向いたマグダラのマリアが思わず「先生」と言ったように、また、イエスご自身も「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである」(ヨハ13:13)と断言したように、イエスはその人生を救い主として生きたのではなく、ましてや司祭として生きたのでもなかった。だから当時の人々は、イエスを預言者だと思っていたのだ。このイエスに多くの弟子たちが従っていた。その中には婦人たちもいたのである。 

彼女たちは、自分の持ち物を出し合ってイエスの一行に奉仕していた(ルカ8:1~3参照)。これらの女性たちは、復活したイエスから「イエスの召命」を受けたマグダラのマリアを筆頭に、イエスの前でイエスが誰であるかを告白したマルタ(ヨハ11:17~27参照)や、イエスとの問答から命の水と新しい礼拝のテーマを引き出したサマリアの女(ヨハ4:1~30参照)のように、イエスに導かれながら彼から具体的に対話を引き出し、自発的に神の言葉を求め、その実りを自身の言動に結び付けていく女性たちだった。こうして男女の弟子たちが対等に「イエスの召命」を継承することができるようになっていた。一方で、当時の人々が、イエスを預言者だと思っていた間も、イエスは、私たちと共にいる神の子であり、救い主であり、彼の短い人生の終わりにその姿を現す司祭であった。イエスのこれらの隠れた特徴は、「マリアの召命」によって明らかになる。 

ヨハネ福音書と黙示録の真理を身に着けたフランシスコは、サン・ダミアーノの十字架像に描かれたヨハネ福音書の描写が実現するために、「イエスの召命」を身をもって表現することで、十字架のそばに生まれた教会の召命をあらわにすることになった。ゆえに彼は、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言ったイエスの言葉の意味を悟っていたに違いない。「イエスの召命」に呼ばれたにもかかわらず、彼は教会の勧めに従って助祭職を受けたからだ。教会への愛のためにキリスト者の男性としての使命を受け入れたのだ。この言葉には、キリストの体となるために特別に取り分けられたパンとぶどう酒は、ご聖体として司祭の手によって上げられるまで、触れてはならないという戒めが込められていた。マグダラのマリアが女性だったからである。 

つづく 

Maria K. M.


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