イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/08/25


210. イエス・キリストの黙示と霊的訓練の書

聖霊が降臨した後、イエスを直接知る証人たちは、言葉や業によってイエスが証ししたことが、新しい預言となって実現していくのを目の当たりにした。イエスの名によって遣わされた聖霊は、彼らの体験の記憶を、イエスを見ないで信じる者たちに授けるために、新約聖書を成立させ、その中に黙示録を置いた。黙示録に「イエスの証しは預言の霊なのだ」(黙19:10)とあるように、黙示録は、イエスの証ししたことが新しい預言として信者の記憶に注入される霊的訓練の書である。 

黙示録の記述は、新約聖書の他の書の内容を暗示し、それらの箇所とつながって、そこでイエスが証ししたことを、新しい預言として信者の記憶に入れる。そのうえで聖霊は、信者があらためて新約聖書の他の書を味わうとき、その人を教え導いて、イエスが証ししたことが、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟らせる(ヨハ16:13参照)。このような黙示録の霊的訓練を継続的に行いながら、新約聖書の他の書を味わうことによって、信者の内に、イエスが証ししたことが、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟るという循環が起こる。この循環が、イエスを直接知る証人たちが保持していた体験の記憶を、訓練者の内に創り、保持させる暗黙知となる。このことは、これまで検討してきたヘブライ人への手紙からも分かる。 

黙示録の筆者ヨハネは、初めに彼に語りかけた声の主を、「右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙1:16)と描写した。また、ペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙にも、「鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる」(2:12)と書いている。この「鋭い両刃の剣」は、ヘブライ人への手紙の筆者も、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブ4:12)と書いた。黙示録の霊的訓練を繰り返し続ける信者は、ヘブライ人への手紙の筆者が書いたこと、すなわち、新約聖書の他の書に書かれたことが、イエスが証ししたこととして、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟る。 

ヘブライ人への手紙の筆者は、今は御父の右に座しておられる神の子イエスを永遠の祭司として、なんとかして教会共同体の「集会」の中心に位置付けようと試みた。イエスは、最期の過ぎ越しの食事のとき、パンとぶどう酒を準備した使徒たちに、新しい契約の司祭職を示した。イエスが司祭職を、ご聖体の制定と同時に使徒たちに授けることによって、また、使徒たちがその職務を受け継いでいくことで、司祭職は、永遠の司祭職となっていく。このイエスの証しは、黙示録において新しい預言となって、実現していく。こうして黙示録の後半は、次のように始まる。「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)。 

図にあるように、黙示録は7つの預言によって構成されている。その後半は、「司祭職とご聖体の神秘が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」から始まる。黙示録の霊的訓練は、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)という言葉を信じて、自分の声で朗読し、朗読している自分の声に集中するようにするだけのことだ。しかし、毎日少しずつしかできないことが多い。それでも、たとえ1行でもやると決めて続けるうちに、この黙示録の習慣が「幸い」となる日が来る。「イエス・キリストの黙示」(1:1)として壮大な預言的構成を持つ黙示録は、それを霊的訓練の書として受け取る一人一人の信者に働きかけ、聖霊の霊性の預言(図第7の預言参照)まで導き、完全なキリスト者の体験を味わわせることができる。次回からその過程を考察する。 

Maria K. M.



 2025/08/18



209. ヘブライ人への手紙から黙示録へ

ヘブライ人への手紙は、今は御父の右に座しておられる神の子イエスを永遠の祭司として、なんとかして教会共同体の「集会」の中心に位置付けようとする試みであった。それは、イエスが兄弟(姉妹)と呼ぶ信者たちが成長して、しまいにイエスから、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」(ヘブ2:13)と言われるまでになるためであった。筆者が、「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています・・・御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(10:19~20)と書いた思いには、イエスが制定したご聖体の意味と、イエスの名によって遣わされた聖霊が働くミサ典礼のイメージが見える。また、彼の「天に登録されている長子たちの集会」(12:23)の描写には、天上の「集会」のイメージがある(12:22~24参照)。

このように、旧約聖書と深いつながりを持っているヘブライ人の信者たちを導くために、筆者は「集会」を拠り所とした。新約聖書のないこの時、彼には、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(ヘブ13:7)と言うより他はなかったし、イエスの名がない旧約聖書に頼ることはできなかったのである。

一方、倫理的な問題を抱えた異邦人キリスト者の共同体に関わっていた使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙で、「酒に酔ってはなりません。それは身を持ち崩す元です。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェ5:18~19)と書いて、詩編にもとづいた霊的訓練を行うことを命じた(4:17~5:14参照)。また、コロサイの信徒への手紙にも、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロ3:16)と書いている。しかし旧約聖書の詩編には、「キリストの言葉」はもとより、イエスの名もない。しかも、イエスの再臨を待つキリスト者に、救い主を待つ旧約の人々のぶどう酒を飲ませれば、「だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方が良い』というのである」(ルカ5:39)と言ったイエスの言葉が現実になる。しかし、パウロにとって、他に頼るものは何もなかった。

イエスの公生活を共に過ごした使徒たちは、彼の受難、死、復活、昇天に遭遇し、聖霊の降臨を体験した。しかし、彼らとは全く異なる時に神の選びを受けた使徒パウロは、イエスとの実体験がなかった。彼は、イエスが、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)と言った「わたしが話したこと」の記憶を持っていなかった。これこそが、イエスの名によって遣わされた聖霊と関わるための重大な記憶になるのである。パウロはそのことを良く知っていた。そこで彼は自分からエルサレムへ行って、使徒たちから多くの聞き取りをした。彼の努力は、彼自身の益よりも未来のキリスト者の益となって新約聖書の中で開花した。

やがて、パウロがコリントの信徒への手紙で伝えているように、イエスの復活の証人たちの中ですでに亡くなる人々が出てきていた(一コリ15:6参照)。彼らには、イエスとの実体験があった。その多くは、直接教えを受け、「わたしが話したこと」の記憶を持っていたであろう。聖霊は、イエスを直接知るこれらの証人たちが保持していた記憶を、未来の信者に特別な仕方で注入するために、新約聖書にヨハネの黙示録を加えた。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)とある黙示録は、聖霊が、これらの証人たちに等しい体験を、信者の記憶の奥に格納する霊的訓練の書である。

ヨハネの黙示録は、新約聖書の他の書と強く結びついて、イエスの名によって遣わされた聖霊のために、信者の内奥に重大な記憶を創る。ヘブライ人への手紙の筆者は、この未来を予見したかのように、次のように祈った。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン」(ヘブ13:20~21)。

Maria K. M.

 2025/08/11



208. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題への解決と実り


ヘブライ人への手紙の筆者は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブ11:1~3)と述べている。その上で、この信仰のゆえに神に認められた旧約の人たちの歴史を簡潔に示し(11:4~38参照)、その結果を次のように結論した。「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」(11:39~40)。

ヘブライ人であったイエス・キリストに従うキリスト者の信仰において、旧約の歴史と切り離されることはない。しかし、ここで筆者は、信仰についての二つの在り方を示し、旧約の民の歴史に全く新しい時代が来たことを告げている。このために、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という定義は、「その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした」という結果となった。一方、聖霊によってイエスの名を信じる人々は、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」という状態を受け取る。「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」とはこのようなことであった。

旧約と新約の信仰の在り方についてのこれらの違いを、ヨハネ福音記者は、ガリラヤのカナでイエスが行った最初のしるしと二回目のしるしによって証ししている。聖霊によってイエスを身ごもった母は、夫ヨセフと共に、「その子をイエスと名付けなさい」(マタ1:21,ルカ1:31)という天使の言葉を信じた。その信仰によって、「この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないこと」を体験した。聖霊に満たされた彼女は、神がわたしたちのために計画してくださった、「更にまさったもの」を先取りし、完全な状態に達していたのである。それは、復活したイエスが「見ないで信じる人は、幸いである」(ヨハ20:29)と言ったとおりである。

「ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った」(ヨハ2:1~3)。イエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(2:4)と答えた。イエスのこの言葉は、イエスが神の計画をもって地上に来たことを表している。イエスと人生のすべてを分かち合ってきたイエスの母はそれを理解して、召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(2:5)と言っておいた。彼女はイエスの言葉に応えたのである。こうして、母も、弟子たちも、そしてイエスの命令に従った召し使いたちも、イエスが水をぶどう酒に変える最初のしるしを行って、「その栄光を現された」(2:11)その時に遭遇したのである。ここに新約の信仰のモデルがある。

ガリラヤのカナで行われた二回目のしるしは、次のようであった。王の役人は、「イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである」(ヨハ4:47)。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」とあるように、彼は、イエスが「息子をいやしてくださる」ことを確信していた。だから、イエスが彼に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(4:48)と言われたことに取り合わず、すぐに、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(4:49)と言ったのだ。イエスが子供を癒すというまだ見えない事柄を確認しようとした。実際、後で彼は、イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(4:50)と言った時刻と子供が癒された時刻を確認している(4:51~53参照)。彼はイエスの言葉を信じて帰って行った。そして、彼の子どもは癒されたのである。これが旧約の信仰のモデルである。

王の役人は、その信仰のゆえにイエスに認められながらも、「約束されたものを手に入れませんでした」。このような結果を受け取る人々は、今も世界中に数多くいる。その歴史を先に進ませるためには、私たちキリスト者が、「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」という結論を理解して受け入れ、「完全な状態に」達する努力が必要だということだ。そこでヘブライ人への手紙の筆者は、続けて次のように信者たちを強く励ましている。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブ12:1~2)。

Maria K. M.

(お知らせ)

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 2025/08/04



207. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題から解決へ(集会)


ヘブライ人の手紙の筆者は、迫害や社会的圧力の中で(ヘブ10:32~34参照)、旧約の習慣に回帰しがちな共同体の人々を(2:1参照)、手紙で支えければならなかった。そこで彼は、「集会」という言葉を用いて、キリストを中心とした新しい神の民の共同体をイメージさせようとした。それこそが「これほど大きな救い」(2:3)と彼が呼ぶものだからである。この「集会」において神は、イエスの名によって遣わされた「聖霊の賜物を御心に従って分け与え」(2:4)、その礼拝と賛美の中心にいるキリストは、信者を「兄弟」と呼び、共に神を賛美する(2:12参照)。そして、「見よ、私と神が私に与えてくださった子たちがいます」(2:13)と言われる。黙示録にも、「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(黙21:7)とある。「集会」という場こそが、人々が神の安息にあずかる約束の地、「新しいエルサレム」になるはずのものである(21:2~6参照)。

筆者は、信者たちが「集会」に与るよう努力することを勧めた。そこで聖霊は、神を父と呼んでキリストの子となった信者に、御父の御心に従ってその賜物を分け与えようとする。しかし、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブ4:12)と彼が確信しているその力は、信者にとっては厳しい鍛錬に感じ、気持ちがなえることもある。それを乗り越えることは、当時の環境の中で難しかった(10:32~34参照)。さらに、「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(4:13)という神の現実を突き付けられることは、人間的な恐れにつながることもある。

筆者は、「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている」(ヘブ4:14)ことや、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(4:15)と諭し、「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(4:16)と言って励ましている。だからこそ筆者は、この「集会」の中心にイエス・キリストがあることを徹底的に証しするために、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(5:6)というテーマを展開し力説したのだ。

しかしながら、前号まで考察したように、筆者の共同体には、育った環境から植え付けられた習慣的な思考に強く巻き戻ってしまうという人元来の性質が教会共同体に大きな影響を与える問題や、悪魔やサタンと呼ばれる情報に対峙するためにイエスの助けをどのように受けるのかといった問題があった。これらの問題は、むしろ「集会」の外で起こるものだと言える。これらを解決し、イエスの名によって遣わされた聖霊とともに生きる信者たちが、イエスの言葉を保持するためには、現実的で具体的な養成方法が必要である。それは、筆者の確信していた「集会」を支え、生きた教会である信者一人一人がそれを信じて実行することによって、「集会」自体を完成に向かわせ、筆者の確信を実現するものとなるはずの養成である。それにはまず新約聖書が成立しなければならない。旧約聖書にはイエスの名が存在しないのである。

彼は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブ11:1~3)と書いた。ここには、信仰について二つの在り方が見える。ここに現実的で具体的な養成方法につながる手掛かりが隠されていると思う。次回はここから考察をしていきたい。

Maria K. M.

 2025/07/28



206. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題(人間の情報)


ヘブライ人への手紙2章の終わりには、「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(ヘブ2:14~15)とある。私たちが筆者の言葉を理解するには、「悪魔」の正体を知っている必要がある。悪魔やサタンは情報であって、人に取り込まれて人間の思いになる。黙示録には、悪魔とかサタンとか呼ばれるものは、「年を経たあの蛇」(黙20:2)であると書かれ、創世記の初めの男と女の物語に注意を向けるよう促している。

人と人の関わり合いから発生する情報は、人の記憶と親和性が高く、取り込まれると容易に人間の思いが形成される。そういう風にして、初めに「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創2:16~17)と命じた神の言葉は、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」(3:2~3)という人間の思いに取って代わられていた。創世記の初めの男と女が先に持っていた神の言葉の記憶は、上書きされてしまったのだ。

二人は、神の思いをよそに、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(創3:4~5)という人間の思いを持って行為に至った。そして、事実その通りになった。彼らは善悪の知識の木から食べても死ななかったし、目も開けた。しかし、目が開けたことによって、やがて彼らは、塵にすぎない自分たちの肉体が、塵に返ることを知ることになる(3:19参照)。「食べると必ず死んでしまう」とは、肉体の死を知って、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態になることを意味していた。神のことを思えば、それは死んだも同然であった。これらの人々を開放するために、神の子イエスは人となった。そして、ご自身の受難と死と復活について初めて弟子たちに打ち明けた時、それをいさめたペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタ16:23)と厳しい言葉で対応している。

福音書は、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で40日の断食をした後に起こった出来事を記載し、神の子であるイエスが、悪魔とかサタンとか呼ばれる人間の情報とどのように対峙したか明らかにしている。まさに公生活に入ろうとするイエスの脳裏には、御父から任された神の計画があって、それを遂行する決意に満ちていたにちがいない。しかし、断食後に空腹を感じたイエスの頭には、神の子の思いに、人として生きてきた人間の思いが相まって、石がパンになるように命じるという奇妙な発想が起こった(マタ4:1参照)。イエスには、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハ6:54)という言葉を実現するために、パンとぶどう酒が御言葉によって御体と御血になるように命じるという、聖体制定の計画があったからだ。イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタ4:4)と答えて、人間の思いを神の計画と区別した。

こうしている間に、すでに肉体の限界を超えていたイエスの人性は、幻覚を見る。彼は神殿の屋根の端に立っている。彼が持った「神の子なら、飛び降りたらどうだ」(マタ4:6)という発想には、十字架につけられたイエスを見た人々が、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(27:40)とののしる姿が生起されているように見える。イエスも、肉体を備えた人間として、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちと同じ思いでご自分の死と向き合わねばならなかったのである。しかしイエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(4:7)と言って、神の計画を背負ったご自身の思いを人間の思いと区別した。

幻覚は続く。イエスは非常に高い山に連れて行かれ、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見ている。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マタ4:9)という発想が起こる。ここでは、「神の子なら」という提案形式が使われていない。神の子イエスには、この言葉の前にひざを折り、あらゆる偶像崇拝に身を任せ、滅んでいった人々の記憶があったからだ。これは、イエスの記憶の中に区別して置かれている人間の情報である。イエスは、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(4:10)とその名を呼んで、この情報を完全に他者として扱った。そこで、人間の情報は離れ去った。「すると、天使たちが来てイエスに仕えた」(4:11)とある。平安が訪れたのだ。

ヘブライ人への手紙に、「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブ2:18)と書かれているように、荒れ野でのイエスの体験は、私たちにとって大きな助けである。イエスは、自らの内に生じる人間の思いに対して、それに応じた神の言葉によって対処した。彼は旧約聖書の言葉を保持していたからだ。しかし、旧約聖書にはイエスの名はない。体系的な新約聖書が未成立の時代にあって、イエスの名によって遣わされた聖霊と生きる信者たちが、イエスの荒れ野での体験に倣うためには、イエスの言葉を保持するための現実的で具体的な方法が必要だった。これがなかったことが、前回に続いて、教会共同体に影響を与える第2の問題となる。

Maria K. M.

 2025/07/21


205. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題(1~2章)

ヘブライ人への手紙の筆者は、体系的な新約聖書が未成立の時代にあって、伝え聞いたことをもとに信仰の目で見たイエス・キリストと新しい契約を、旧約聖書を使って、なんとかして理論的に説明しようとしているように見える。そこには、前回考察した司祭職についての議論とは別の流れがあって、信仰をテーマに際立った考察を展開している。そこで、筆者が彼の共同体を指導するに当たって抱えていたであろう諸問題を抽出し、最後に解決につなげたいと思う。

筆者は初めに、神の御子であるイエスが誰であるかを明確にし(ヘブ1:1~3参照)、次に、御子と天使の違いを説明している(1:4~14参照)。天使のテーマに筆者がこれほどこだわったのは、ヨセフとマリアに、神の子の到来を告げたのも天使であったように、当時のヘブライ人は、天使が神と人の仲介者であり、神の啓示は天使によって告げられるという認識を持っていたからだ。そこで筆者は、完全に神であっても人でもあったイエス・キリストの人性が天使以下に見えることに対して、本質的には天使を超えた存在であることを丁寧に論証しなければならなかった。ヨハネの黙示録もその初めに、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」(黙1:1)と書いており、キリストが天使を超えた存在であることを明確に示すことが重要であったことを物語っている。

さらに、ヘブライ人への手紙の筆者は、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」(ヘブ1:14)と言っている。それは、黙示録で、天使自身が、「わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である」(黙19:10)、「わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である」(22:9)と言っているとおりである。しかし、続けてヘブライ人への手紙の筆者が、「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」(ヘブ2:1)と書いて克己を促しているように、人は往々にして育った環境から植え付けられた習慣的な思考に強く巻き戻ってしまう。

こう考えると、「わたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう」(ヘブ2:3)と書いた筆者の思いは察するにあまりある。この救いは、天使からではなく、「主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証しして」(2:3~4)いるからである。

ゆえに筆者が、「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」(ヘブ2:10)と言っているとおり、私たち人の前に、神の子であるイエスが、数々の苦しみを通して御父のみ旨を完全に成し遂げていく姿が現されたことによってはじめて、神に創造された人が、万物の目標であり源である方の似姿、すなわち神の似姿に造られたことを受け取ることができたのだ。

このように見ていくと、ここで筆者が彼の共同体を指導するに当たって抱えていたであろう問題の一つは、人は育った環境から植え付けられた習慣的な思考に強く巻き戻ってしまうということにあるといえる。この問題をかかえて、信者は、「これほど大きな救いに対してむとんちゃく」になる。これが教会共同体に影響を与える第1の問題である。

Maria K. M.

 2025/07/14



204. 黙示録とヘブライ人への手紙


黙示録の後半には、その冒頭に、司祭職が十二の星の冠をかぶった女のかたちで、象徴的に現れる(黙12:1~2参照)。ヘブライ人への手紙は、創世記14章を引用しながら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(ヘブ5:6他)というテーマを展開している。前回考察したように、戦いに勝利したアブラハムに、パンとぶどう酒を持って来た「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」の存在は(創14:1~18参照)、イエスの最後の過ぎ越しの食事のとき、パンとぶどう酒を準備した使徒たちに示した、新しい契約の司祭職を象徴している。このときイエスは、創世記の場面におけるアブラハムの位置にあったのだ。イエスはこれを、聖体の制定と同時に使徒たちに授けることによって、永遠の司祭職を設定した。

イエスがヤコブの井戸のところでサマリアの婦人に、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハ4:21)と語ったように、この司祭職は、旧い契約の祭司職とは全く異なる発想であった。ヘブライ人への手紙の中で著者が、「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(ヘブ7:3)と書いて、メルキゼデクの祭司職を力説しているのは、異邦人の共同体のために、また、ユダヤ人の共同体のためにも、イエス・キリストという、律法の枠を超えた完全な祭司を渇望していたからに違いない。

創世記で、アブラハムとメルキゼデクのやりとりの場面が終わると、「これらのことの後で・・」(創15:1)との出だしで、アブラハムが、神の命じたように、三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とを神のもとに持って来た場面が語られる(15:9参照)。この場面は、ヨハネ福音書のイエスの十字架のそばに来た人々を想起させる(ヨハ19:25~26参照)。三歳の雌牛はクロパの妻マリアに、三歳の雌山羊はマグダラのマリアに、三歳の雄羊は愛する弟子に、また、山鳩と、鳩の雛はイエスの母に対応している。イエスの母は、夫ヨセフと共に、イエスが聖別される日に「主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げる」(ルカ2:24)ために、エルサレムにイエスを連れて行ったからである。これらの場面の相似性も、イエスが、アブラハムの位置に置かれていたことを物語っている。

ヤコブの井戸の場面でイエスは、サマリアの婦人に、「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ」(ヨハ4:22)と続けた。イエスは旧い契約の祭司職とつながっている。そこには、人を創造した神の計画と、預言があるからだ。イエスの母が、祭司ザカリアとその妻でアロン家の娘エリザベトの親類である必要もそこにあった(ルカ1:5参照)。

なぜ、司祭職を人に与えなければならなかったか、その理由をイエスは、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:23~24)と言っている。父である神は、真理を望む人が聖霊と協働して神を礼拝する姿を求めているのである。これこそがミサを執り行う新しい契約の司祭の姿である。「今がその時である」とは、そのように礼拝されるイエスがここに“ある”ことを示している。

このように見ていくと、ヘブライ人への手紙には、今は御父の右に座しておられる神の子イエス・キリストを、なんとかして教会共同体の永遠の祭司として位置付けようとする試みがあったことが読み取れる。ここで、メルキゼデクの祭司職が力説されている根底には、当時の教会共同体のために、また、福音を受け取るすべての人が納得できる「祭司制度」(ヘブ7:11~12参照)を著者が求めていたことがあったのではないかと考えられる。しかし、それだけではない。この手紙には、別の流れがあって、信仰をテーマに際立った考察を広げている。次回は、そこに焦点を当てる。

Maria K. M.


 2025/07/07

203. 天にある神の神殿の中に契約の箱が見えた


「第七の天使がラッパを吹いた」(黙11:15)。黙示録の11章の終わりには、新約聖書のすべての書が出そろった。信者に対して具体的な指示を書いている使徒言行録とパウロの書簡に、四つの福音書と共に活躍の場が与えられる。黙示録の後半が来るのだ。「すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。『この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される』」(同)とある。主が統治するということは、イエスが完全に神であっても、この世の人として生きたためにできなかったことをする時が来たということだ。それは、死者を裁くこと、神の僕、預言者、聖なる者、御名を畏れるすべての者に報いを与えること、地を滅ぼす者どもを滅ぼすことである(11:18参照)。それらはまず預言の書である黙示録の世界で起きる(1:3,22:19参照)。

「そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った」(黙11:19)とある。「天にある神の神殿」は、ヨハネ福音書に「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(ヨハ2:21)と書かれたように、キリストの体である。その中にある「契約の箱」とは、何だろうか。

イエスは、マタイ福音書に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタ1:1)とあるように、またご自身も、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(ヨハ8:58)と言っているように、その出自は、アブラハムからつながるダビデの側、すなわちユダ族の側にある。

一方、マリアのもとを訪れた天使が語ったように(ルカ1:36参照)、マリアは祭司ザカリアとその妻でアロン家の娘エリザベトの親類であった(1:5参照)。イエスの母マリアはレビ族の血を引いていたのだ。実際に彼女は、身重のエリザベトを訪問し、3か月も滞在して手伝うような間柄であった。彼女の息子として生まれたイエスにも、その血が入っていたとみなされる。

まさに「契約の箱」は、イエスの体の内にあったレビ族の血、司祭職を示すのである。黙示録は、司祭職をイエスの母のイメージで、「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)と描写した。

ヘブライ人への手紙は、創世記14章を引用しながら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(ヘブ5:6他)という言葉をキーにして、イエスの祭司職が旧約の「レビの系統の祭司制度」(7:11)を超えていることを主張している。アブラハムがアブラムであったとき、彼は、甥のロトを連れ去った王たちを撃ち破って、ロトを救出して帰って来た。ソドムの王はアブラムを出迎えた。そのとき、いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来たと書いている(創14:1~18参照)。メルキゼデクはアブラムを祝福し、アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った(14:19~20参照)。

このエピソードは、「パンとぶどう酒」のイメージから、イエスの最後の過ぎ越しの食事のときの出来事と対比できる。そのときイエスに命じられ、食事の準備をしたのはペトロとヨハネであった(ルカ22:7参照)。そこで「パンとぶどう酒」を持って来たのも彼らだったと考えるのが自然だ。創世記で「パンとぶどう酒」を持って来たのは、「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」であり、福音書では、イエスが選んで使徒と名付けられた弟子たちであった(ルカ6:12~16参照)。イエスは、ご自身を「すべての物の十分の一を彼に贈った」アブラムの立場におき、「パンとぶどう酒」を準備した使徒たちに、御体と御血を与えた。イエスは、彼のすべてを使徒たちに贈ったのだ。

さらに、十字架上でイエスは、イエスの誕生と死を完全に共有する唯一の人である母と一人の使徒を、親子の絆で結ぶことによって、公に司祭職を使徒たちに授けた(ヨハ19:26~27参照)。イエスの母マリアは、聖霊と協働してご聖体を生み、その誕生と死を共有する司祭たちの体験の源である。イエスは使徒たちに、イエスの名によって御父に何でも願うことを求めた(16:23~24参照)。ゆえに司祭たちは、格別にパンとぶどう酒がキリストの御体と御血になることを願うのである。それは、イエスが水をぶどう酒に変えるしるしを行ったときの、イエスの母の姿勢が模範となる(2:1~12参照)。こうして使徒たちは、イエスの司祭職と解けない絆で結ばれた。

これらはすべて、黙示録の初めに次のように預言されている。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(黙1:4~6)。

Maria K. M.

(お知らせ)

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 2025/06/30


202. 一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう


黙示録11章に登場する二人の証人は、使徒言行録とパウロの書簡を表していた。これら二つの書が証言を終えると、「一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである」(黙11:7~8)とある。それは、「底なしの淵」すなわち過去の世界の知識を使って、これら二つの書を解釈し、彼らが伝える真実を改ざんしてしまい、主の十字架の教えさえも過去の知識で解釈するようになるという預言である。さらに、その結果、地上の人々は、金品や富を追い求め、権力や権威が売り買いされる未来を予告している。この「一匹の獣」は、黙示録13章で登場する「海の中から上がって来る」(13:1)獣と、「地中から上がって来る」(13:11) 獣が、歴史の中で絡み合っていくことで起こる現象を先取りしている。

「海の中から上がって来る」という言葉に、モーセの時代に紅海を渡ったイスラエルの民を思い出す。「この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した」(黙13:3)とある。「致命的な傷」とは、神がダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サムエル記下7:14)と告げたにもかかわらず、ソロモンが神から離れたために実現しなかったことである(列王記上11:1~10参照)。イスラエルの民は、神との間に父と子の関係を結ぶことで神と等しい者とされる機会を失った。そこで、彼らの歴史から一匹の獣が上がって来る。神と神の民の関係を婚姻にたとえる神学である。この錯覚によってその致命的な傷も癒え、民はこの神学に身を任せた。しかし傷は残った。そのために神を父と呼ぶイエスに、ユダヤ人たちが強い妬みを持って、ますます殺そうと狙うようになったのである(ヨハ5:17~18参照)。

パウロは、フィリピの信徒への手紙の中で、「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」(フィリ3:5~7)と書いている。続けて、「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(3:8~9)と言った言葉に、神と人の関係が父と子、神と子にあることを取り戻した者の姿がある(ヨハ1:12,ロマ8:14~17,ガラ4:6~7,黙21:7参照)。

一方、「地中から上がって来る」獣は、地上のことについて追及したギリシャ哲学である。「この獣は、小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた」(黙13:11)とある。この「二本の角」は、キリスト教に大きな影響を与えたプラトン(紀元前427~347)と、アリストテレス(紀元前384~322)の哲学だと思われる。パウロは、コロサイの信徒への手紙で、「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」(コロ2:8)と書いている。そして続けた次の言葉からは、キリストの体であるご聖体のイメージが読み取れる。「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です」(2:9~10)。

「何とかして死者の中からの復活に達したい」(フィリ3:11)と願っているパウロにとっては、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること」(3:14)以外にはなかった。「しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます」(3:15)と励ましてもいる。それでも彼は、今、自分が到達したところに基づいて皆が前進することを望み、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」(3:17)と強く勧める。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」(3:18)と言っているからである。どこに漂着するかもしれない自己実現を目指し、腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていないような信者は今もいる(3:19参照)。洗礼を受けたにもかかわらず、彼らも「獣の刻印」を押された者たちなのだ(黙13:16参照)。

しかし、パウロはそれらを恐れてはいなかった。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(フィリ3:21)という確信があったからだ。黙示録の後半冒頭には、次のように「万物を支配下に置くことさえできる力」が現わされている。「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)。ゆえにパウロは、次のように力強く励ましている。「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」(フィリ4:1)。

Maria K. M.

 2025/06/23


201. 黙示録7章と11

黙示録は、主の昇天までを記述する四つの福音書に加えて、使徒言行録とパウロの書簡が新約聖書に載ることを預言した。その理由を述べた7章と、これら二つの書が天に上げられるてんまつが描かれている11章を考察する。 

7章の初めに「この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた」(黙7:1)と書かれている。ここで2回出てくる「四隅」という言葉が、新約聖書では使徒言行録だけに同じく2回出てくる「四隅」を暗示している(使10:11,11:5参照)。それは、ペトロがヤッファの町で祈っているとき見た幻の中に出てくる。ペトロは、幻の意味を、聖霊が働きかけた異邦人との出会いから悟った(10:1~48参照)。彼がこの体験を、エルサレムの教会に帰って報告すると(11:1~17参照)、それを聞いた人びとは、「『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した」(11:18)とある。これを機にエルサレムの教会は異邦人への宣教にも向かっていくことになる。この方針転換が、「大地の四隅から吹く風」である。 

四人の天使が、大地の四隅から吹く風を吹き付けないようにしていたのは、回心した後タルソスへ行ったパウロを、バルナバが見つけ出してくるまで、異邦人への宣教を待つためであった(使11:19~26参照)。主がパウロの回心を助けたアナニアに、「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(9:15)と言ったように、また、パウロがローマへ船出する前にアグリッパ王に語り掛け、「こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました」(26:19~20)と証ししたように、パウロは、異邦人だけではなく、イスラエルの子らにもイエスの名を伝える使命を帯びていた。

 ここで黙示録を見ると、パウロの宣教は、イスラエルの子らの全部族の中から十四万四千人を選んで神の刻印を押すためであるとともに(黙7:2~4参照)、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」(7:9)が、「玉座の前と小羊の前」(同)に立つことができるようになるためであった。ここから、11章の初めに、筆者が、杖のような物差しを与えられ、「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ」(11:1)と命じられたのは、イスラエルの子らの全部族の中から、神の刻印を押す人々を選ぶためであったことが分かる。 

続けて、「しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう」(黙11:2)という預言があって、これはイエスのエルサレム崩壊の預言を示唆している(ルカ13:34~35参照)そこで、「わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう。この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である」(黙11:3~4)と続いている。「粗布をまとわせ」は、「自分の二人の証人」が書物や手紙であることを示唆し、「千二百六十日の間、預言させよう」とは、「四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじる」ことになるローマ帝国で、この預言が実現することを暗示している。時間を示すこれら二つの表現は、神の忍耐の時を表している。 

また、黙示録で「燭台」が、教会を指すことから(黙1:20参照)、「二本のオリーブの木、また二つの燭台」は、使徒パウロのローマの信徒への手紙に登場する「野生であるオリーブの木」と「栽培されているオリーブの木」でたとえられた二つの教会(ロマ11:24参照)、すなわちユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の教会共同体を暗示している。そして、これら二つの教会を支えるものとして、すでに使徒言行録とパウロの書簡が、「地上の主の御前に立つ」、すなわち、イエスの名によって地上に遣わされた聖霊に認められていることを証ししている。ゆえに、大きな効能を発揮するこれら二つの書に害を加える者は、神から敵とみなされる(黙11:5~6参照)。 

そして、「二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう」(黙11:7)とある。これら二つの書が世に出ると、「一匹の獣」が、「底なしの淵」、すなわち、過去の世界の知識を使って、これら二つの書を解釈し、彼らが伝える真実を改ざんしてしまう。続けて、「彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである」(11:8)と書かれたように、その「獣」は、主の十字架の教えさえも過去の知識で解釈する。パウロが書いたものが、「難しく理解しにくい箇所があって」(二ペト3:16)、「地上の人々を苦しめたからである」(黙11:10)。

 しかし、これら二つの書から真実を悟って救われ、天上にいる人々が(黙7:9~17参照)、「三日半の間」(11:9)この成り行きを見守り、二つの書の真実を伝える力が墓に葬られないよう祈り支えている。一方、地上の人々は、「獣」が行った改ざんを大いに喜ぶ。「贈り物をやり取りするであろう」(11:10)とあるように、その解釈によって、金品や富が行きかい、権力や権威が売り買いされる未来が予告されている。そこで、「三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた」(11:11)とある。「三日半」とは、ここでも神の忍耐の時である。 

「二人は、天から大きな声があって、『ここに上って来い』と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た」(黙11:12)とは、やがて、これらの書が四つの福音書と関連付けられて、すべての人々に正当に解釈される日が来ることを預言している。黙示録の前半の訓練が新約聖書の暗黙知を、その人の記憶に創り始めるからだ。

 Maria K. M.


 2025/06/16


200. 新約聖書の成立を順に預言したヨハネの黙示録の証し(黙示録)

黙示録を構成する7つの預言の内、第3の預言は「新約聖書成立の預言」である(4~11章)。そこに出てくる7つの封印は、新約聖書を表していた。最後の第7の封印は黙示録である。これが開かれたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれ、7つのラッパが与えられた7人の天使と、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つ天使が登場する。金の香炉を持った天使の手から、香の煙は、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。それから、天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上へ投げつけると、雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こったとある(黙8:1~5参照)。この描写は、イエスが十字架上で息を引き取った直後に起こった現象を想起させる(マタ27:51~52参照)。このような現象は、黙示録の中で6回起こるが、そのうちの3回は黙示録の中に黙示録が現れるときに起こっている(黙8:5, 11:19, 16:18)。黙示録には特別な使命がある。 

7人の天使がラッパを吹くときの描写は、新約聖書が世に現れることによって起こる数々の「災い」、すなわち新約聖書の効能を表している(黙8:6~9:21,11:15~19参照)。次々に吹かれるこれら7つのラッパも、小さな手掛かりから次のように新約聖書の順に並べられていることが分かる。第1のラッパから第4のラッパは、その直後に一羽の鷲が登場することから、四つの福音書と考えられる。第5のラッパは使徒言行録である。第5の天使がラッパを吹いたとき、天から星が落ちてきて、「この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと・・」(9:1~2)とある。この描写は、使徒言行録で、使徒たちが牢に入れられたとき、牢にはしっかり鍵がかかっていたのに、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出したこととつながる(使5:19~23参照)。黙示録で「星」は天使を表しているからである(黙1:20参照)。第6のラッパは、偶像礼拝がテーマとなっており(9:20参照)、このテーマに多くを割いているパウロの書簡である。ゆえに、最後の第7のラッパは黙示録である。 

黙示録は「7つの雷」のたとえで公同書簡にも言及する(黙10:1~4参照)。ここに新約聖書の全貌が預言されたと言える。その後、筆者は天使の手から小さな巻物を取って食べた(10:5~10参照)。それは、旧約聖書に比べて小さい新約聖書である。「取って食べた」とは、コインの裏表のように新約聖書とつながっている黙示録の訓練を自発的にすることで、自分の記憶に新約聖書の暗黙知を持ったということである。「それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった」(10:10)とある。「口には蜜のように甘かった」とは、黙示録の訓練が容易に始められるということだ。それがたとえ毎日一句ずつでも、黙示録を自分で声に出して朗読し、それを聞くことを続けることは、けして難しいことではない(1:3参照)。しかし、「食べると、わたしの腹は苦くなった」とあるように、さまざまな考えを思いめぐらす腹にとって、新約聖書の暗黙知を持つことは、苦い薬となることも多い。それは、実際に食べ続けてみれば分かる。 

「新約聖書成立の預言」である第3の預言の初めに、四つの生き物に象徴される四福音書が天の玉座の周りにいた(黙4:6~8参照)。それは、四福音書が新約聖書に加えられることは比較的早く決まっていたことを意味している。聖霊の降臨前までを記述する四つの福音書に加えて、新たに使徒言行録とパウロの書簡が、活用されるために天に上げられる必要があった。第7の封印が開かれて黙示録が登場する前、7章に挿入された出来事は、これら二つが天に上げられる理由を述べている。また、そのてんまつが第7の天使がラッパを吹く直前の11章に描かれている。次回は、これらを検証したうえで、第7の天使がラッパを吹いた後の黙示録の効能を考察した後、黙示録の後半に向かう準備に入る。黙示録の後半は、ミサ典礼の完成と聖霊の霊性に向かう預言となっており、信者が実生活の中でそこに向かうにあたって、起こり得る多くの困難を乗り切っていくための新約聖書の暗黙知を創る。 

Maria K. M.

(お知らせ)

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 2025/06/09


199. 黙示録と新約聖書 その2


黙示録は、7つの預言で構成されているが、大きく二つの部分に分かれている。前半(第一から第三の預言、1~11章)は、新約聖書に向かう預言であり、後半(第四から第七の預言、12~22章)は、ミサ典礼の完成と聖霊の霊性に向かう預言となっている。前回と前々回考察したように、第三の預言において第1から第6の封印が次々に開かれる黙示録の6章は、現在の順と同じく成立した新約聖書の6つの書とつながっていた。このことから、第三の預言が確かに新約聖書の預言となっていることを確認した。最後に黙示録である第7の封印が開かれると、その特異性が明らかになる。そこで黙示録に入る前に、その性質をよく理解できるように、第一の預言から、これまでつかんだ各預言の特徴を振り返っておきたい。

第一の預言(1章) 教会と共にいるイエス・キリストの預言

「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(1:3) とあるように、 新約聖書の他の書とつながっている黙示録は、自分の声という直観的な感覚を使って人の五感から入り、新約聖書の暗黙知を創る。イエスの名によって救われ、イエスが神の子であることを信じるということは、それを認知するということである。認知は、受け取った情報が、持っている記憶と合致したとき起こる。そこで、イエスに対する信仰を成長させるためには、新約聖書の言葉を受け取ったとき、それと合致する記憶を持っていることが必要で、黙示録がこれを創る。黙示録が直観的に捉えにくく、理解できないような言葉で書かれているのは、新約聖書とつながりながらもそれを意識させずに、暗黙知としてその記憶を創るためである。やがて信者は、複雑な手順を意識することなく、御言葉を直観的に認知するようになる。そして、その暗黙知は、黙示録の言葉を日々五感から取り込む信者の記憶の内で自己組織化し、成長する。 

第二の預言(2~3章) 教会共同体が抱えた問題とその解決の預言

この預言では、7つの教会の天使に宛てた手紙が紹介される。これら7人の天使は、ヨハネ福音書の復活したイエスと出会った7人の使徒たちであり、彼らは皆漁師であった。それは、彼らが、職業がら直観的であったことが重要だったからだ。直感的な彼らの認知力は、漁をするという複雑な手順を、体験から五感をとおして受け取り、暗黙知にしてきた結果である。ルカ福音書で、イエスがペトロに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)と言った場面のやり取りは、このことを証ししている。先にイエスを見て、肉声でその教えを聞き(5:3参照)、その後にこのように声をかけられた彼らは、漁師として磨かれた直観を土台に、イエスの言葉を認知した。こうしてイエスを信じて従っていった後、イエスと共にいて体験した多くのことが彼らの新しい暗黙知になっていったのだ(ヨハ21:25参照)。やがて彼らは、聖霊の声掛けを聴き、その声を直観的に認知するようになっていく。それは、彼らに新約聖書の必要性を強く感じさせたに違いない。黙示録の7つの手紙の内容は、未来から近未来、現在という形で時系列になっており、第三の預言である新約聖書の成立という解決に向かっていた。そして、すべての手紙の結びにある「勝利を得る者」と「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」という言葉は、これらの手紙が、全信者に向けられていることを示している。 

第三の預言(4~11章) 新約聖書の成立の預言(黙示録の前まで)

「開かれた門が天にあった」(黙4:1)と書かれた門は、イエスが天から降ってきて、再び天に上り、聖霊が降臨したために開かれたままになっている門である(ヨハ3:13参照)。イエスは、世に命を与える神のパンとなるために天から降って来て(6:33参照)、聖霊を送るために去っていった(16:7参照)。「すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた」(黙4:2)とある、「その玉座の上に座っている方」は御父と御子である(3:21参照)。「玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった」(4:6)とある目は、神の知識の象徴であり、「前にも後ろにも一面に目があった」のは、四つの福音書の神の知識が一体をなしてすべての出来事に対処するためである。それは、七つの角(完全な権威)と七つの目(完全な知識)を持つ「屠られたような小羊」(5:6)と連動して働くためである。「屠られたような」という表現から、この小羊がイエスの名によって遣わされた聖霊を表わしていることが分かる。 

Maria K. M.


 2025/06/02


198. 新約聖書の成立を順に預言したヨハネの黙示録の証し(使徒言行録とパウロの書簡)


黙示録において7つの封印が次々に解かれる場面が、新約聖書の成立の預言となっているとの考えをもとに、個々の場面を詳しく検討することにした。前回は、最初の4つの封印が解かれる場面が、4福音書を預言していることを見た。今回は引き続き、第5、第6の封印について考察する。

第5の封印が解かれた時の描写は、使徒言行録の預言となっている。その描写が提起している問いの答えを、聖霊が降臨した直後のペトロの説教に見出すことができるからである。「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々の魂を、祭壇の下に見た」(黙6:9)という描写の「自分たちが立てた証し」とは、「ペトロは、『たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った」(マタ26:35)という、イエスの最期の食事のときの出来事を指している。しかし、イエスがユダの裏切りによってゲッセマネの園で捉えられたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(26:56)。その後、遠く離れてイエスに従い、大祭司の中庭まで行ったペトロも、女中に見とがめられ、イエスと一緒にいたことを問われると、「そんな人は知らない」と誓って打ち消してしまった(26:69~75参照)。これらの成り行きは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」(ヨハ18:9)と言ったイエスの言葉が実現するためであったが、弟子たちは、「自分たちが立てた証し」を全うできなかったのである。それは、聖霊が降臨して初めて成し遂げられることになる。そこで、黙示録の筆者が「祭壇の下に見た」魂は、使徒たちの魂である。そして、「彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。』」(黙6:10)。この問いには、使徒言行録の聖霊が降臨した直後のペトロの説教にその答えがある(使2:22~36参照)。イエスに起こったことが彼らにも起こるのである。彼らに「魂」があるのは、「殺された」のに生きているからだ。黙示録は、「彼らの一人一人に白い衣が与えられ、それから、『あなたがたと同じように殺されようとしているきょうだいであり、同じ僕である者の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と告げられた」(黙6:11)と続ける。彼らは、「祭壇の下」で、自分たちと同じように「神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに」、今日もミサ典礼を挙行する「きょうだいであり、同じ僕である」司祭たちを見つめ、その数が満ちるのを待っている。彼らは、祭壇の下にいて私たち信者と共にミサ典礼に与っている。

第6の封印が解かれる場面は、パウロの書簡を預言している。ここで描かれたことの意味が、使徒パウロのローマの信徒への手紙によって明らかになるからである。「また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された」(黙6:12~14)。この描写は、パウロが回心したときのたとえである。それは彼にとっても、ダマスコの信者たちにとっても想像を絶する激しい仕方で起こった(使9:1~9参照)。イエス・キリストに回心したパウロは、まさに「天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された」かのようだった(9:10~20参照)。アナニアに助けられ、洗礼を受けたパウロは力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコの他の人々をうろたえさせた。やがて彼らがパウロを殺そうとたくらんだときのことを、パウロは次のように語っている。「ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした」(二コリ11:32~33)。一方、黙示録には、「地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に向かって、『わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ』と言った。神と小羊の大いなる怒りの日が来たのだ。誰がそれに耐えられようか」(黙6:15~17)とある。これらの悲劇の原因は、「怒りの日」という表現によってつながる使徒パウロのローマの信徒への手紙の次の箇所によって明らかになる。「怒りの日」という表現は、新約聖書の中ではこれら2箇所にだけ見られるものだ。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」(ロマ2:1~5)。

Maria K. M.

 2025/05/26

197. 新約聖書の成立を順に預言したヨハネの黙示録の証し(四つの福音書)

黙示録で小羊が7つの封印のうち最初の四つを開いたとき、「四つの生き物」が次々と「出て来い」と呼びかけた。そして、それぞれの呼びかけに応えて、4頭の馬とその騎手が現れる。これらの馬と騎手の描写は、それぞれ次に記載するように、四つの福音書に書かれた復活したイエスの最後の命令に符合する。このことから、著者は以下のとおり特定できる。 

第1の生き物(マタイ福音書) 「また、わたしが見ていると、小羊が七つの封印の一つを開いた。すると、四つの生き物の一つが、雷のような声で『出て来い』と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、白い馬が現れ、乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った」(黙6:1~2)という描写には、マタイ福音書の復活したイエスの最後の命令「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28:18~20)という言葉が符合する。「弓」は、「天と地の一切の権能を授かっている」ことと、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」ということの保証であり、「冠」は勝利のしるしである。「更に勝利を得ようと出て行った」のは、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という命令に従ったのである。 

第2の生き物(マルコ福音書) 「小羊が第二の封印を開いたとき、第二の生き物が『出て来い』と言うのを、わたしは聞いた。すると、火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた」(黙6:3~4)という描写には、マルコ福音書の復活したイエスの最後の命令「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」(マコ16:15~18)という言葉が符合する。「平和を奪い取って、殺し合いをさせる力」は、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」という言葉が人を分けるとき働く。また、「大きな剣」は、「彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」という権能の事である。 

第3の生き物(ルカ福音書) 「小羊が第三の封印を開いたとき、第三の生き物が『出て来い』と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、黒い馬が現れ、乗っている者は、手に秤を持っていた。わたしは、四つの生き物の間から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた。『小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな。』」(黙6:5~6)という第3の封印が解かれたときの描写には、ルカ福音書の復活したイエスの最後の命令「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:46~49)という言葉が符合する。「小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン」とは、「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(ルカ6:38)というイエスの言葉がテーマになっている。黒い馬の騎手が手に秤を持っているのは「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」とあるからだ。また、オリーブ油は病気の人のために(ヤコ5:14参照)、ぶどう酒は聖体祭儀のために損なってはならなかった。これらのことは、キリストの受難と死と復活よって、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことによって実現する。そしてイエスが、「都にとどまっていなさい」と言ったのは、これらのことを実現させる聖霊が降臨するのを待つためであった。 

第4の生き物(ヨハネ福音書) 「小羊が第四の封印を開いたとき、『出て来い』と言う第四の生き物の声を、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は『死』といい、これに陰府が従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた」(黙示録6:7~8)という描写には、ヨハネ福音書の復活したイエスの最後の命令「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハ21:22)という言葉が符合する。この言葉は、イエスがペトロに、彼がどのような死に方で神の栄光を現すことになるかを示し(ヨハ21:19参照)、ご自分の「死」に従うように命じた後、ペトロが、イエスの愛しておられた弟子を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21:21)と尋ねたときの答えである。イエスの愛しておられた弟子は、イエスの昇天後ペトロと共に宣教するが、やがて二人は別の道をたどる。福音書と黙示録に関わることになるこの弟子は、イエスの死に従うことができない。そこでイエスは、ペトロに再び「わたしに従いなさい」と言って、ご自分の死に従うよう命じたのである。「乗っている者の名は『死』といい、これに陰府が従っていた」とあるのは、「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(一ペト3:18~19)というペトロの手紙が反映されている。ヨハネはペトロと共にいて、彼のこの考えを聞いていたに違いない。 

Maria K. M.



 2025/05/19


196. 王の王、主の主

私は、ある日、黙示録の「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)というフレーズを読んだとき、この書が訓練の書になっていることに気付いた。試しにそれを始めてからその効力を知り、続けて4年近くになる。このごろ使徒パウロのテモテへの手紙の「王の王、主の主」(一テモ6:15)という言葉を読んだとき、黙示録にも同じ言葉が一か所あることを思い出した(黙19:16参照)。そこで、聖書検索をかけてみると、この言葉は、全聖書の中で黙示録と使徒パウロのテモテへの手紙にだけ載せられていることが分かった。 

この言葉があるパウロのテモテへの手紙は、「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン」(一テモテ6:15~16)という祈りになっている。同じく黙示録の箇所を見てみると、次のようにパウロの祈りに答えているように見える。 

「そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『誠実』および『真実』と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。・・この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。・・その名は『神の言葉』と呼ばれた。・・この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。・・この方の衣と腿のあたりには、『王の王、主の主』という名が記されていた」(黙19:11~16)。 

この手紙で、使徒パウロは、弟子のテモテに具体的にさまざまな勧めを与えている。その中で「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」(一テモ4:13)と命じ、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(二テモ3:15~16)と教えている。パウロがここで書いている「聖書」は、旧約聖書である。そこには、「キリスト」の預言はあるが、「キリスト・イエス」の名はない。自身の信仰体験から、パウロにとって救いに導く知恵が与えられるのは、キリストとイエスの名が結びついたときであった(使9:4~5参照)。そこで彼は、「与えることができます」、「訓練をするうえに有益です」といった消極的な表現をしているのである。 

イエスは、使徒たちを選び、公生活を共に過ごし、彼の受難、死、復活、昇天に遭遇させ、聖霊の降臨を体験させた。しかし、使徒パウロは、彼らとは全く異なる神の選びの上に立っていた。他の使徒たちのようなイエスとの実際の体験がなかった。彼は、イエスが「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)と言った「わたしが話したこと」の記憶を持っていなかったのだ。そこで彼は自分からエルサレムへ行って、使徒たちから多くの聞き取りをした。彼の努力は、彼自身の益よりも未来のキリスト者の益となった。 

パウロは、彼自身が「キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから」(二テモ1:1)と書いているように、いわばイエスに先立ってその道を整えた洗礼者ヨハネのような役割を神から与えられていた。キリスト者の未来を、崩壊するエルサレムから救い出し、ローマを新しい都とする神の計画のために選ばれたのである。聖霊の特別な導きによって、パウロの歩いた道はローマに向かっていた。彼は、「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」(使22:21)、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(23:11)と主が命じるままに前進し、「異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(9:15)というイエスの言葉を証しした。 

これらすべての物語は新約聖書の中にある。新約聖書には、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」聖霊と、聖霊と協働して新約聖書を執筆した筆者がいる。黙示録には、聖霊と筆者の関係があらわに表現されており、私たちが黙示録を朗読してそれを聞くとき、聖霊と筆者の関係を追体験することになる。一方、朗読される黙示録の描写には、対応する新約聖書の記述があり、両者はコインの裏表のような関係にある。こうして、私たちは黙示録を朗読しそれを聞くことによって新約聖書の記憶を生き生きと保つことができる。新約聖書であるパウロの上記の祈りは、「王の王、主の主」という言葉を含む黙示録の箇所とコインの裏表の関係にあった。黙示録の箇所がパウロの祈りに答えているように見えたのは、このためであった。

Maria K. M.


 2025/05/12

195. 時制を司る神

黙示録の書き出しは次のとおりである。「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」(黙1:1)。「僕ヨハネに」と書かれ、個人に伝えられた黙示録は、それを朗読するとき、初めから個人的に行うことが前提になっているようだ。人は自分で音読した単語は、他人の声で聞くよりも記憶に残る傾向があると言われている。 

黙示録には、「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)と書かれているが、ここで一番幸いな者は、「朗読する人」である。自分で朗読し、これを聞く人は、「視覚入力」+「運動出力(話す)」+「聴覚入力(聞く)」が同時に働くことで、記憶ネットワークが強化されやすい。複数の感覚や行動を同時に使って情報を処理・記憶することは非常に効果的なのだ。「中に記されたことを守る」と書かれたのは、このように記憶に保持することを指している。それは、「短く頻繁に」が効果的で、記憶に定着させるためには、長く時間をかけるよりも頻度がカギになると考えられる。ゆえに、黙示録は、自分に合った量を、それがたとえ一句ずつでも、来る日も来る日も続けて声に出して朗読し、それを聞くことを、全生涯をかけて続けるのである。 

前回、黙示録の構成について説明したが、第1章は、私たち教会と共にいるイエス・キリストについて預言的に書かれている。ここで、黙示録の「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン」(黙1:7)という記述が、ヨハネ福音書の「しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」(ヨハ19:34)と書かれた記述の未来を示唆していると気づいたとき、それが、黙示録から得た未来の出来事につながる過去の事実として認知される。そして、続けて書かれた「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」(19:35)という言葉に共感し、イエスのわき腹から血と水とが流れ出たことを信じることになるのだ。 

同じように、黙示録の「わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。『恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている』」(黙1:17~18)という記述が、ヨハネ福音書の「イエスが『わたしである』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた」(ヨハ18:6)と書かれた記述の未来を示唆していると気づいたとき、それが、黙示録から得た未来の出来事につながる過去の事実として認知される。そして、彼らが「後ずさりして、地に倒れた」のは、イエスが「世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」方であったからだと分かる。このとき死に向かっていたイエスは、今や世々限りなく生きている方となっているのである。彼は確かに私たち教会と共にいるイエス・キリストなのである。 

さらに、「7人の弟子と7つの手紙」のテーマで6回に渡り考察したように、黙示録の言葉同士を合成した表現が、新約聖書の該当箇所を示唆することもある。例えば、「七つの燭台は七つの教会である」(黙1:20)と第1の手紙の「あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」(黙2:5)を合成すると、「あなたの教会をその場所から取りのけてしまおう」となる。第1の手紙の宛先である「エフェソにある教会の天使」(黙2:1)は、ペトロであった。そこで、彼にとって「その場所」とは、イエスが「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタ16:18)と言った「この岩の上」を指す。それはすなわち、ペトロから首位権を取りのけてしまうという意である。聖霊は、福音書の未来を生きるペトロを諭し導いているのである。 

このように、黙示録に働いている時制は、「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(黙1:8)と書かれ、時制を司る方として表現された神からくる。神の司る時制に伴われて、黙示録は、「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たち」の記憶に、イエス・キリストの世界観を注ぎ込むのである。 

Maria K. M.


 2025/05/05


194. 黙示録と新約聖書

黙示録は、その内容を人に暗黙知として記憶させるために、直観的に捉えにくく、理解できないように構成されている。ヨハネ福音記者が、福音書の最後に、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハ21:25)と書いているように、人がイエス・キリストの世界観、すなわち、完全に神であり、人でもあったイエス・キリストの記憶を、意識的に持つことは不可能だからだ。 

黙示録の第1章に、「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)と書かれたのは、いわば黙示録が指南書であることを告げているのである。そこで、七つの教会の天使に宛てた手紙には、必ず「耳ある者は、が諸教会に告げることを聞くがよい」という勧めの言葉が添えられている。「この預言の言葉を朗読する人」は「“霊”が諸教会に告げること」を声に出し、自身の記憶に流し込むのだ。この訓練を、人は一朝一夕で仕上げることはできない。自分に合った量を、それがたとえ一句ずつでも、来る日も来る日も続けて声に出して朗読し、それを聞くことを、全生涯をかけて続けるのである。たとえ視聴覚や発声に障害があっても、何とか工夫して五感から記憶に注ぎ入れることをするに値する途方もない価値が、黙示録にはある。 

聖霊は、イエスが父のもとから私たちに遣わした弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊である。イエスについて証しするために来た聖霊は、私たちキリスト者にも証しすることを求める(ヨハ15:26~27参照)。そのためには、私たちにも、初めからイエスと一緒にいた使徒たちがイエスと共有した世界観が必要である。それは、完全に神であり、人でもあったイエス・キリストの世界観である。この必要に、黙示録は応える。黙示録を五感から記憶に注ぐことによって、イエス・キリストの世界観を暗黙のうちに疑似体験する。だからこの訓練には、人の想像を超える崇高な光景も、また、おどろおどろしい光景も設定されている。黙示録は、このような意図をもって新約聖書に置かれている。 

黙示録の構成は次のようである。第1章は、私たち教会と共にいるイエス・キリストについて預言的に書かれている。次に七つの教会の天使に宛てた手紙では、教会共同体が抱えた問題とその解決が預言されている(2~3章)。その解決は、新約聖書の成立の預言(4~11章)によって示される。しかし、司祭職とご聖体の秘儀は、荒れ野と天に隠され明らかにならない。そこに教会がたどる運命の預言(12~16章)が起こり、歴史の流れに翻弄された教会の堕落の預言(17~18章)が続く。それは、教会が抱え、隠されていたさまざまな問題が暴露されることによって、その闇に光が当る預言である。その先にはミサ典礼の完成の預言(19~20章)があって、それは、真理に向かう希望となる。しかし、同時に厳しい裁きの預言が入っていのは、神に造られたすべての人が、神の命と神の愛を悟らせる「聖霊の霊性の預言」(21~22章)の只中に入るためである。 

このように、黙示録は、7つの預言によって構成されている。その中で、最も驚くべきことは、1世紀に書かれた黙示録が、4世紀に成立した新約聖書を預言していることである。それも、現在私たちが手にしている聖書の順に預言しているのだ。まず天に玉座があって、座っている方がいる(黙4:1~6参照)。そこにはすでに四つの福音書のイメージが、「四つの生き物」で暗示され、それらがすでに天にあることが示唆されている(4:7~11参照)。黙示録の筆者は、玉座に座っている方の右の手に、七つの封印で封じられている巻物を見る。そして、「屠られたような小羊」、すなわちイエスの名によって遣わされた聖霊がこの封印を解いて巻物、すなわち新約聖書を開くのである(5:1~14参照)。 

7つの封印が次々解かれると、そこには、四つの福音書(黙6:1~8参照)、使徒言行録6:9~11参照)、パウロの書簡(6:12~17参照)がこの順に預言的な言葉で紹介される。最後の封印が解かれると黙示録が紹介され、その中で公同書簡も言及される(8~11章参照)。それらは、直観的に捉えにくく、理解できないように構成されているが、これまでに検証した七つの教会の天使に宛てた手紙に見られたように、その記述内容と、それに関連付けられ、ここで証しされようとしている新約聖書の内容が、コインの裏表のように同時に存在しながら物語が進んでいく。黙示録の特徴的な技法で書かれているのだ。 

次回から、各封印が解かれた時の記述と、それらに関連する新約聖書の内容をまとめながら、ヨハネの黙示録が、イエス・キリストの世界観を暗黙のうちに疑似体験させる可能性を考察していきたい。 

Maria K. M.


 2025/04/28

193. 聖霊降臨と黙示録

これまでの6回に渡る考察から、黙示録の2章から3章に書かれた7つの教会の天使たちは、ヨハネ福音書のティベリアス湖畔で復活したイエスと出会った7人の弟子たちに当てはまることが分かった。そもそもこの考察を始める発端になったのは、アッシジの聖フランシスコを回心に導いたと言われるサン・ダミアーノの十字架像であった。そこに描かれている構図が、ヨハネの福音書と黙示録のテーマをもっていたこと、また、中心に描かれているキリスト像が「復活したイエス」を表現しているとみられることから、聖フランシスコに関連する資料と合わせて、ヨハネ福音書における復活したイエスが現れた場面を検証していった。

その結果、ヨハネ福音書の復活したイエスとの最後の場面で、使徒ペトロの質問に答えたイエスの言葉を、ヨハネ福音記者が、「それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである」(ヨハ21:23)と、意味深長な言い回しで解説していることに注目した。ここで、ヨハネが「彼は死なないと言われたのではない」と強調していることから、ヨハネの意図を解く鍵が、「わたしの来るときまで」にあることが示唆されていることが分かった。

黙示録では数字が重要な意味を持つ。そこで、復活したイエスと出会った7人の弟子を念頭に黙示録を開くと、まず目に留まるのは「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」(黙1:4-5)という言葉である。そして、2番目のスミルナの教会への手紙を除く6つの手紙で、ヨハネ福音書の復活したイエスの最後の言葉にある「わたしの来るときまで」がテーマとなっており、しかもそれらの手紙が時系列に並んでいることが分かった。エフェソ、ベルガモン、ティアティラ、サルディスにある教会への手紙では未来の予告、フィラデルフィアにある教会では、「わたしは、すぐに来る」(3:11)と近未来、そして、ラオディキアにある教会では、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」(3:20)と現在形で書かれていた。 

ただし、2番目の手紙、トマスに当たったスミルナにある教会への手紙には、このテーマが除外されていた。それは、イエスの復活を頑なに信じないトマスのために、イエスが再来したことが考慮されていたと思われる(ヨハ20:24~29参照)。このように黙示録は、その記述内容と、それに関連付けられた福音書の内容が、コインの裏表のように同時に存在しながら物語が進んでいく。人が直観的に捉えにくく、理解できないように構成されているのだ。 

イエスは、人々に教えを語るとき、悟りなくしては人に理解されない真理を、たとえによって伝えた。そして、弟子たちにはその意味を解き明かしていた。しかし一方で、御父の御心を成し遂げるイエスご自身については、「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった」(ルカ18:34)と書かれている。イエスの両親も同じ体験をした(2:50参照)。この体験は、彼らに、聖霊が降臨した時を(使2:2参照)、聖霊に触れられた瞬間を(2:3参照)、それによってすべてを理解した時を、そのコントラストによって鮮やかに認識させた。彼らは聖霊を知ったのである。 

黙示録が、人が直観的に捉えにくく、理解できないように構成されているという現実は、これを朗読し、聞いて記憶に収める「黙示録の訓練」を実践する私たちを、イエスと共にいた弟子たちや、彼の両親と同じ体験に与るという幸いに導く(黙1:3参照)。「黙示録の訓練」から、「理解できない」という体験を日々積むことによって、聖霊が私たちを導いて、新約聖書を思い起こさせるとき(ヨハ16:12~15参照)、その体験のコントラストから、私たちは、聖霊の働く時、聖霊に触れられた瞬間を捉えるようになっていく。聖霊を知るようになるのである。 

Maria K. M.


 2025/04/21


192. 7人の弟子と7つの手紙(第7の手紙)

前回考察したように、ティベリアス湖畔で漁をしていて復活したイエスと出会った7人の弟子たちの内、「ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)という言葉に当てはまる一人は、ペトロの兄弟アンデレであった。続けてもう一人の弟子、すなわち黙示録の第7の手紙の「ラオディキアにある教会の天使」に当たる弟子について考察する。 

ここで、ヨハネ福音書の中で名前が挙がっている男性の弟子たちを見ると、ペトロ、アンドレ、フィリポ、ナタナエル、トマス、イスカリオテのユダ、(もう一人の)ユダである。この6人の弟子たちの中で、ティベリアス湖畔の「7人の弟子」としてすでに名前が挙がっている者たちを除くと、フィリポ、イスカリオテのユダ、(もう一人の)ユダとなる。そこで、ヨハネ福音記者が、フィリポが、アンデレとペトロの町、「ベトサイダの出身であった」ことを強調していることを考えると(ヨハ1:44,12:21参照)、この弟子はフィリポだと言える。 

フィリポは、ナタナエルと出会い、すぐに彼をイエスに導いた(ヨハ1:45~46参照)。この時、フィリポがナタナエルに言った「来て、見なさい」(1:46)という言葉は、洗礼者ヨハネの弟子であったアンデレともう一人が付いて来るのを見たイエスが言った言葉、「来なさい。そうすれば分かる」(1:39)と同義である。漁師であった彼は、他の仲間と同じく直観的な人物であった。彼は自分の直観に自信を持っていたに違いない。しかしその姿勢は、時にその背後にある物事の本質を捉える感覚を鈍くする。フィリポはその後、イエスと共にいて、水をぶどう酒に変えたしるし(2:1~11参照)、役人の子をいやしたしるし(4:43~54参照)、病人をいやしたしるし(5:1~9参照)を体験し、それに伴うイエスの教えを見聞きしたにもかかわらず、自分の傾向に気付かないでいた。 

福音書には、「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」(ヨハ6:5~6)とある。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(6:7)と答えた。しかしこの答えは、イエスが群衆のためにパンと魚を増やすしるしには、結びつかなかった。そこで、そのときイエスがしるしを行うきっかけを作ったアンデレの見事な答えを、フィリポは目の当たりにすることになった(6:9参照)。彼は、このとき自分の傾きに気付いたに違いない。そして、それを克服するようになったことが次の場面で分かる。 

イエスがエルサレムに登った時、何人かのギリシア人が来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(ヨハ12:21)と頼んだ。それは、「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた」(12:17)とあるように、イエスの評判が弟子たちを超えて群衆によって遠方まで達したことを意味していた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタ15:24)と語っていたイエスの宣教は終わりに来ていた。このギリシア人たちの申し出を最初に受けたのは、フィリポであったが、直接イエスに取り次ぐことはしなかった。「フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した」(ヨハ12:22)と書かれている。 

そして、最期の食卓では、トマス、イスカリオテでない方のユダとともに、子供のようにイエスに質問し、イエスから多くの御言葉を引き出している(ヨハ14:5~24参照)。フィリポの成長のプロセスは、私たち信者のものでもある。ゆえに、黙示録の第7の手紙の主は、「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方」(黙3:14)と書かれ、これまでとは異なり、私たちが受け取りやすい方として表現されている。この方が、「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(3:15~16)と言われる言葉に、現代の私たち信者は返す言葉がない。その通りだからである。「なまぬるい」状態は、どのようにして起こるのか。 

誰もが、自己充足や自己実現のために、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」(黙3:17)といった感覚を持って行動する。それは同時に人を、「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(3:17)状態に置く。自分の真の姿を自身に隠しているのだ。これが「なまぬるい」状態を生む。ゆえに手紙の主は次のように続ける。「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」(3:18)。さらに、「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」(3:19)と励ます。「わたしから買うがよい」とはどこで実現されるのか。どこで「叱ったり、鍛えたりする」のか。それはこれら7つの手紙を含む黙示録の訓練の場である。 

つづく

Maria K. M.


 2025/04/14


191. 7人の弟子と7つの手紙(第6の手紙)

これまで、黙示録の7つの教会の天使たちへの手紙を、ヨハネ福音書の、ティベリアス湖畔で漁をしていて復活したイエスと出会った7人の弟子たちに当てはめ、その妥当性を検証してきた。ヨハネ福音書には、「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)と書かれており、この順で行くと第6の手紙は「ほかの二人の弟子」の一人ということになる。 

黙示録の第6の手紙は次のように始まる。「フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」(黙3:7)。この言葉は、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタ16:19)という、かつてイエスがペトロに言った言葉を彷彿させる。 

続いて、「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」(黙3:8)とあるのは、イエスがペトロに「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(ヨハ13:38)と言った言葉を思い出させる。これらのことから、第6の手紙の宛名「フィラデルフィアにある教会の天使」は、ペトロの兄弟であり、ペトロを最初にイエスに引き合わせたアンデレであると推定できる。彼も漁師であった。 

手紙は続けて、「見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」(黙3:9~11)と書き、「勝利を得る者」への報いをもって終わっている。「フィラデルフィアにある教会の天使」は、「イゼベル」が出現した第4の手紙、ヤコブと想定される「ティアティラにある教会の天使」とともに、他の天使たちのような厳しい忠告を受けていない。アンデレもヤコブも優秀な弟子だったに違いない。それは、彼らがイエスと出会う前に洗礼者ヨハネの弟子だったからではないだろうか。 

ヨハネ福音書によると初めにイエスに従ったのは、洗礼者ヨハネの二人の弟子たちであり、そのうちの一人は、「シモン・ペトロの兄弟アンデレであった」(ヨハ1:40)と書かれている。もう一人は上記の理由からゼベダイの子ヤコブだと思われる。それゆえ、その時のいきさつをヨハネ福音記者は詳しく記載することができた。「(洗礼者)ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」(1:35~37)とある。二人は師である洗礼者ヨハネからイエスについて、「世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)、「私よりも先におられた」(1:30)、「聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人」(1:33)、「この方こそ神の子である」(1:34)という知識を得ていたのである。 

その後の二人の行動には目を見張るものがあった。彼らが従ってくるのを見たイエスが「何を求めているのか」と問うた言葉に、「ラビ-『先生』という意味-どこに泊まっておられるのですか」(ヨハ1:38)と問い返して、イエスから「来なさい。そうすれば分かる」(1:39)という言葉を引き出している。そして勧められるままにイエスについて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。さらに夕刻であったので、その日はイエスのもとに泊まった。彼らの行動は直観的で迷いがない。その後、アンデレはペトロに会いに行き、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」(1:41)と言って、彼をイエスのところに連れて行っている。彼は非常に読みが深く、的確に行動する人物であった。 

アンデレのこの特性はイエスの弟子になってからも変わらなかった。大勢の群衆がイエスの方へ来るのを見たイエスが、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハ6:5)と言ったとき、イエスが何をしようとしているかを直観的に察し、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」6:9と答えて、イエスがしるしを行うきっかけを作った(6:10~13参照)。 

このように、いつもイエスの意図に的確に従う堅実な彼は、イエスの信任が厚く、弟子たちの中から、ペトロとヤコブとヨハネだけを連れて出るときも、後を任せることができたのだろう。やがて、他の弟子たちも彼を頼みにするようになった。エルサレムで何人かのギリシア人がイエスに面会を求めたとき、初めに受けたフィリポは、行ってアンデレに話してからイエスにつないでいるところからも、それがうかがえる(ヨハ12:20~22参照)。 

アンデレは、次の約束に相応しい者であった。「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう」(黙3:12)。 

つづく

Maria K. M.


 2025/04/07


190. 7人の弟子と7つの手紙(第5の手紙)

前回考察したように、黙示録の第4の手紙の宛名である「ティアティラにある教会の天使」は、ゼベダイの子ヤコブであった。そこで、第5の手紙の「サルディスにある教会の天使」は、同じくゼベダイの子のヨハネに当たる。ヨハネは、使徒ペトロとともに活発に宣教活動をしていたことが、使徒言行録に記されている。しかし、ペトロとサマリアで福音を告げ知らせたことを報じた後、ヨハネの消息を記していない(使8:25参照)。その後、フィリポの活躍、パウロの回心、そして、引き続きペトロは独自の宣教活動を続けている中で、ヨハネはどのように生きていたのだろうか。兄弟ヤコブの共同体を助けていたのかもしれない。 

そうであれば、ヤコブが剣で殺されたとき、そこに居合わせただろうヨハネは(使12:1~2参照)、この悲劇が、かつてイエスが「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」(マコ10:39)と予告したことが実現したのだと思ったに違いない。「イゼベル」の出現によってヤコブは裏切りの杯を飲んだ(黙2:20~25参照)。彼は人々の前で惨殺され、彼の共同体は散らされた。ヨハネはこのとき、自分について「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(ヨハ21:21)と尋ねたペトロに、復活したイエスが、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」(21:22)と言った言葉を思い出しただろう。 

「サルディスにある教会の天使にこう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる』」(黙3:1)で始まる黙示録の第5の手紙は、第1の手紙の「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」(2:1)と似せて描かれている。第1の手紙の宛名の天使は使徒ペトロであった。このことは、この手紙を受け取る天使であるゼベダイの子ヨハネが、使徒ペトロのように、イエスから特別な召命を与えられていたことを示唆している。しかし、続く手紙の内容は、ヨハネが、兄弟ヤコブが剣で殺され、彼の共同体が散らされたことに衝撃を受け、うちのめされたことをうかがわせる。ヨハネも深手を負ったに違いない。 

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない」(黙3:1~2)。ここには、生き残ったヨハネの体験もまた、兄弟ヤコブと同じく、「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と言ったイエスの言葉の実現であり、神は、ヨハネがヤコブとはまた別の仕方でキリストの道を全うするよう計画していたことが暗示されている。 

「だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ」(黙3:3)と励ましているのは、ヨハネが福音書の執筆に向かうことを示唆しているのである。イエスの名によって遣わされた聖霊の引き出す言葉こそは、ヨハネにとって命であり、暗闇の中で輝く光であった(ヨハ1:4~5参照)。その言葉の内にイエスキリストの世界観がある。それを表現できるのは、イエスの愛しておられた弟子、使徒ヨハネをおいて他にはいないのである。 

続いて、「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない」(黙3:3)と記して、やがてヨハネが、に満たされ、ラッパのように響く大声を聞くまでになることを予告している(1:9~10参照)。その体験が黙示録を書かせたのである。 

そして、「しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである」(黙3:4)と書かれている言葉は、ヤコブと、彼と共に殺された者たちについて祈るヨハネに答えを与えている。この手紙の主は最後に次のように約束している。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」(3:5)。「白い衣」と「命の書」のテーマは、永遠の命に導く神の現実を表す黙示録の重大なテーマとなる。 

つづく

Maria K. M.


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