イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/12/29


228. ヨハネ福音書と新約の司祭職 聖霊の花嫁

「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(ヨハ1:33~34)と言った洗礼者ヨハネの言葉の中には、洗礼、堅信、叙階のイメージを通して、やがてイエスが使徒たちに授ける新約の司祭職が現れていた。しかし洗礼者ヨハネは、「お遣わしになった方」の言葉ではなく、「この方こそ神の子である」と証ししている。彼には、「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」という言葉を捉えられなかったに違いない。彼は自分の記憶にない言葉を引き出すことができなかったが、彼の直観は、聖霊が降ってとどまったイエスが神の子だと捉えた。 

この事情を、前回考察したマタイ福音書で、イエスが、天の父が現されたことを証しした使徒ペトロの言葉と照らしてみると、もっとはっきりする。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタ16:15)と問うイエスに、ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」16:16)と答えた。洗礼者ヨハネも、初めてイエスを見たとき、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハ1:29)と言って、イエスが「メシア」であることを示唆した。そして、イエスが神の子であると証しした。洗礼者ヨハネはイエスを正しく捉えていた。彼は、「聖霊によって洗礼を授ける人である」という「天から与えられた」言葉が、イエスを証ししたのではなく、イエスが御父のもとから担って来たもの、新約の司祭職であったことが、このとき分からなかったのだ。 

ヨハネ福音書4章の初めには、「――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――」(ヨハ4:2)という但し書きが添えられている。それは、新約の司祭職をもたらした神であるイエスが、人に洗礼を授けることはないということを、明確に告げている。洗礼を授けていたのは、イエスの弟子たちであった。直観がきく漁師であった彼らは、イエスのなさったしるしを間近に見てイエスを信じ、共にいることでイエスを受け入れていたのである。やがてイエスの最期の食卓で、イエスの聖体制定の御言葉と行った動作、そして、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じた御言葉とが一つになって、新約の司祭職として、彼らの記憶に置かれることになる。 

こうして、イエスによって使徒たちの記憶の中に置かれた新約の司祭職は、聖霊降臨後、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって、ミサ典礼の祭壇の上にご聖体を生む。その祭壇は、聖霊と新約の司祭職において婚姻的意味を持つ。そこで使徒たちは、洗礼者ヨハネが、「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハ3:29~30)と言った預言を、祭壇の前で自分のものとして味わうことになる。彼らの記憶から新約の司祭職が引き出され、彼らの記憶は衰え、彼らは無心となって聖霊と協働する人になる。彼らは、無心の内に、自分の内から出るその声を、御言葉に命を吹き入れる聖霊の声として耳を傾け、その声が聞こえると大いに喜び、その喜びで満たされる。 

黙示録に登場する「花嫁」は、まさにこのことを示唆している。「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた」(黙19:7)とある「花嫁」は、イエスが地上にもたらし、ミサ典礼の祭壇上で聖霊と結ばれる新約の司祭職である。なぜなら、黙示録の小羊は、「わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である」(5:6)と描写されているように、イエスの名によって遣わされた聖霊だからである。 

続けて、「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」(黙19:8)とあるのは、新約の司祭職の言葉と業に命を吹き入れる聖霊の声に耳を傾け、無心となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭の行いを表している。そこで、黙示録には、「それから、天使は私に、『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(黙19:9)と書かれている。 

新約聖書の中で、「これらは、神の真実の言葉である」という言葉が該当するのは、イエスがもたらした新約の司祭職を現すために、神が洗礼者ヨハネに授けた、「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」と、天の父が、イエスを証しするために、使徒ペトロに現わされた、「あなたはメシア、生ける神の子です」である。これらの言葉は、常にご聖体に向かっている。ご聖体は、まず、神の子の資格を与えられた信者が、神との真の合一体験を持って、神の子となる道を準備するためにおられる。そして、イエスが死んで陰府に降って死者を救ったように、また、イエスが人として生きておられる間は、追い出す以外に何もなされなかった悪霊を救うために、ご聖体は信者に食べられて、再び死ぬことを繰り返されるのである。 

新約の司祭職を授かった男性が御父に願い、「私はある」と言われる神がご聖体としてお生まれになり、信者たちに食べられて死なれる。それは、ただ神があるようにと望み、女性から生まれる人の命に仕えるためである。イエスが、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マコ10:45)と言われたとおりである。

Maria K. M.


 2025/12/22

227. ヨハネ福音書と新約の司祭職 天から与えられなければ

本ブログ№224~226で考察したように、ヨハネ福音書1章は、初めに、神と御言葉と命=光というキーワードを使って、御父と御子と聖霊である三位一体の神を描写している。そして、洗礼者ヨハネの証しと預言を通して、「神の小羊」、「水の洗礼」、「霊が降る」、「聖霊によって洗礼を授ける人」といった表現に、メシア、洗礼、堅信、司祭職を授ける叙階の秘跡の姿が見えた。また、2章では、カナの婚礼で御血のイメージが、エルサレムの神殿のエピソードで御体のイメージが反映されており、ご聖体の秘跡が姿を見せた。ヨハネ福音書は、このように初めの章から、新約の司祭職を中心テーマとして描いていた。3章では、同じテーマをイエスご自身の言葉で語っている。 

イエスは、ニコデモとの対話の中で、洗礼と堅信と神の国について話され(ヨハ3:5参照)、「わたしたち」(3:11)という言葉によって御自分が三位一体の神であることを示した。また、モーセが荒れ野で上げた青銅の蛇を仰いだ人々が命を得たという故事を引いて、十字架に上げられるイエスご自身のイメージを示し、司祭の手によって上げられるキリストの体を示唆した(3:14~15参照)。続いて述べられた永遠の命と世の救いについてのメッセージも、イエスご自身とご聖体の両方に関わっている。その後再び洗礼者ヨハネが登場し、新約の司祭職について預言した(3:22~36/本ブログ№222参照)。 

このとき洗礼者ヨハネは、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」(ヨハ3:27~28)と言った。これによって読者は、イエスが洗礼者ヨハネから水で洗礼を受けるために来た時の場面を思い出す。読者も彼の弟子たちと共にそこに居合わせていたのだ。その時洗礼者ヨハネは、「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」(1:33)と言った。彼は天から言葉を与えられ、神の子を証しする機会を受けたのである(1:34参照)。 

このように、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」という洗礼者ヨハネの言葉は、彼自身の体験からのものである。「天」とは神のことである。新約聖書の中には、もう一人神から直に言葉を与えられた者がいる。使徒ペトロである。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタ16:15)と問うイエスに、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」16:16)と答えた時、イエスが、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)と証ししているからだ。 

使徒ペトロは、洗礼者ヨハネのように天から言葉を与えられた。そして、続くイエスの次の言葉を受けたのである。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタ16:18~19)。ヨハネ福音書によれば、イエスは初対面で、彼をペトロと呼ぶことを決めた(ヨハ1:42参照)。イエスは初めから彼をその時のために選んでいたのである。「わたしも言っておく。あなたはペトロ」と初めに言ったイエスの言葉には、その思いが込められている。 

イエスの選びが実現する時が来た。ペトロに天の父が現した言葉が与えられ、彼はそれを口にした。そして、イエスの言葉を受けた。イエスが、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言った「この岩」は、「あなたはメシア、生ける神の子です」という、天の父が使徒ペトロに現した言葉であった。イエス・キリストが誰であるかを宣言するこの言葉が、「陰府の力もこれに対抗できない」イエスの教会の隅の親石である。それは一方で、ペトロが手紙の中で書いているように、「つまずきの石、妨げの岩」(一ペト2:8)ともなる。イエスが昇天し、聖霊が降臨した後、この言葉を受けるイエス・キリストがご聖体だからである。 

私は、使徒ペトロが授かった「天の国の鍵」で、地上と天上のミサがつながっている間に、世界中の信者が、ご聖体がメシア、神の子であることを公言する日が来ることを強く願っている。 

Maria K. M.


 2025/12/15

226. ヨハネ福音書と新約の司祭職 ニコデモ

ヨハネ福音書は、初めに三位一体の神のイメージをもって、イエスが神であることをはっきりと伝えた。前回考察したように、洗礼者ヨハネの言葉と、カナの婚礼でイエスの母のために行った最初のしるし、エルサレムの神殿でのエピソードの内に、私たちの教会が教える4つの秘跡、洗礼、堅信、叙階、聖体がその姿を現していたことを確認した。イエスを受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えるための道が、新約聖書の中にできているのだ(ヨハ1:12参照)。そして、2章の最後に次のような解説を入れ、3章のエピソードへとつなげている。 

「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハ2:23~25)。 

イエスが彼らを信用されなかったのは、しるしを見てイエスの名を信じても、イエスを受け入れないからである。そこで3章では、イエスとニコデモの対話から、「何が人間の心の中にあるか」を見せている。この中でイエスは、御自分が三位一体の神であること(ヨハ3:11参照)、人の真の必要を満たす神の仕方が、洗礼、堅信、聖体の秘跡にあることを示していく。そしてニコデモに、彼が闇から出て、光の方に来ていることを気づかせようとする。3章の最後には、洗礼者ヨハネが再び登場し、そのエピソードの内に、新約の司祭職が預言されている(ヨハ3:22~36/本ブログ№222参照)。これらの出来事によって、1~2章のテーマを固めたのである。 

ニコデモはイエスに会うと、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(ヨハ3:2)と言った。「わたしども」という表現に、彼が無意識に自分の共同体を背負っていることが分かる。そこでイエスは、彼の「神が共におられる」という言葉を捉えて、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)と返した。 

イエスの言葉にニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(ヨハ3:4)と問うた。彼は、次にイエスが指摘しているように、イエスが言った「新たに生まれなければ」という言葉に驚いて、「神の国」という言葉に注意が向かなかった。それは、彼が口にした「神が共におられる」という言葉が虚しいものであったことを示している。彼の環境ではラビと見なされる人に対しての常套句になっていたのかもしれない。しかし彼は、自分が属している環境に疑問を持っていて、解決しなければならない気持ちを背負っていた。それは現代の私たちにも通じる。 

そこで、イエスは、再び、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハ3:5)と言われ、洗礼と堅信の恵みを暗示した。そして、続けて次のように言って、聖霊の働きを証しした。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(3:6~8)。ここで重要なことは、「その音を聞く」ということである。 

しかし、イエスのこれらの言葉に認識が追い付かないニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」(ヨハ3:9)と言うよりなかった。彼は、自分を包む闇が重いことに気付かずにいる。彼はユダヤ人の議員でファリサイ派に属する者であったが、その共同体の価値観と体質に彼はマッチしていなかったのだ(7:45~52参照)。このような重荷のために、彼が本来持っている個性や能力、また獲得した知識などからくる自己認識は委縮していた。イエスは、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」(3:10)と言って、彼が目を覚まし、自分の状態に気づき、自発的に行動するように励ました。彼は、今、神と共にいるのである。 

イエスは続けて語り、ご聖体についての暗示から、「永遠の命」にまで言及した(ヨハ3:14~15参照)。今、私たちは、それを知っており、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)と言ったイエスの言葉が、後の、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(6:51)という言葉につながっていくことが分かっている。 

ニコデモには、これらの話が分からなかったとしても、聞いた御言葉は記憶に入った。それが神の仕方である。霊が告げることを聞く耳を神は求めている。ニコデモは、自分から光の方に来た。ゆえに、最後にイエスが言った次の言葉は、ニコデモの心に届いた。彼がその後登場する場面を見ると、彼が次第に自由になり、霊が告げることを聞く耳のある者となっていく姿が見える。御言葉は、彼が、自分の所属する共同体が重荷であることに気付き(ヨハ7:45~52参照)、決断を支える自発性が御言葉と結びついて、真の自己実現に至るようにと(19:38~42参照)、静かに、力強く働きかけていったのである。 

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(ヨハ3:19~21)。 

Maria K. M.


 2025/12/08



225. ヨハネ福音書と新約の司祭職 イエスの母


新約の司祭職の視点からヨハネ福音書を読むと、様々なことに気付かされる。前回考察したように、ヨハネ福音書の1章は、初めに三位一体の神のイメージを伝えている。後に、「わたしと父とは一つである」(ヨハ10:30)と言われたイエスの上に聖霊が降ってとどまったように、また、イエスご自身が、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(8:58)と言われたように、イエスは、三位一体の神である。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)ということが実現したのは、イエスが神であったからだ。

洗礼者ヨハネの証言の中には、「水で洗礼を授ける」、「“霊”が降って、ある人にとどまる」、「聖霊によって洗礼を授ける人」という言葉が現れている(ヨハ1:33参照)。そこに、私たちの教会が教える3つの秘跡、洗礼、堅信、叙階の秘跡の姿が確認できる。洗礼と堅信は、イエスを受け入れ、イエスの名を信じる人々に神の子となる資格を与えるための道である(1:12参照)。それは、父と子と聖霊の名によって授けられる秘跡であり、そのために、「聖霊によって洗礼を授ける人」が存在する。それは神であるイエスが、やがて使徒たちに授けるために、地上にもたらした新約の司祭職である。

洗礼者ヨハネは、イエスに聖霊が降るのを見て、イエスが神の子であることを確信すると、自分の弟子たちにイエスに従うよう促した(ヨハ1:35~37参照)。イエスに関する師の体験を、そばで見聞きしていた洗礼者ヨハネの弟子たちは、すぐイエスに従うことができた。その一人であったアンデレが、兄弟シモンをイエスのところに連れて行ったとき、「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする』と言われた」(1:42)とある。イエスは、シモンと初対面のこの時、「わたしの教会」(マタ16:18)の土台となる使徒の頭を選んだ。ヨハネ福音書は、新約の司祭職にとって、曖昧になってはならない重要な場面が、いつどこで起こったかをしっかりと書いて残した。

その後、イエスはフィリポとナタナエルも弟子に加えられた(ヨハ1:43~51参照)。フィリポは、「アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身」(1:44)とあり、ナタナエルは、「ガリラヤのカナ出身」(21:2)であった。ガリラヤのカナは、続く2章の初めにある「イエスの最初のしるし」(2:11)が行われた場所である。このように新約の司祭職に呼ばれた男性は、神の運びの手中に置かれ、イエス・キリストの生涯に関連付けられていく。そして、彼らに特別に準備されたイエスとの関係は、イエスの母との交わりに向けられていく。彼女こそが、天使のお告げに応えて、初めてイエスを受け入れ、イエスの名を信じた人であった。

「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(ヨハ2:1~2)と始まる2章では、イエスと人生のすべてを分かち合ってきたイエスの母の対応に目が留まる。イエスの御業のために召し使いたちに命じた彼女の願いは、イエスの名によって遣わされた聖霊が降臨した後も続いている。イエスの母は、新約の司祭職を授かった使徒たちとその後継者たちと今も共にいて、聖霊に聞き従う彼らに同じ言葉で願い、励ます。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(2:5)と。

カナの婚礼の場面で、イエスは水をぶどう酒に変える最初のしるしを行った。このエピソードは、イエスが最期の食卓で、ぶどう酒の入った杯を取って、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:20)と言われた聖体制定の場面とイメージが重なる。そして、ヨハネ福音書は、カナの婚礼に続けて神殿から商人を追い出す場面を描き(ヨハ2:13~22参照)、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(2:21)という解説を挿入した。これらのことから、2章にはご聖体の秘跡が現れていると見ることができる。

新約の司祭職は、神と人の命に関わる職務である。「私はある」と言われる神は、新約の司祭職を授かった男性からご聖体として生まれ出て、神があるようにと願い、女性から生まれる人の命に仕えることを望まれた。それは、イエスを受け入れ、イエスの名を信じ、洗礼によって神の子となる資格を与えられた信者が、ご聖体に育まれて神の子となるためである。

Maria K. M.

(お知らせ)

 インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。 「パトモスの風





 2025/12/01


224. ヨハネ福音書と新約の司祭職、その始まり

ヨハネ福音書の1章の始まりの描写は、イエスが「わたしと父とは一つである」(ヨハ10:30)と言われた言葉を念頭に置いて読むと、この描写が、三位一体である神を表現していることに気付く。公生活に入ったイエスについて、ヨハネ福音書が、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)と書いた通りだ。イエスが男性としてこの世に現れたのは、聖霊と協働する新約の司祭職を受け取る男性が、神である聖霊を認識する人として完成することが必須だったからである。(1:16~18参照)。 

新約の司祭職を授かった者は、男性でありながら、御聖体が生まれるためにイエスの母のように聖霊の力に覆われる。彼らは御聖体の誕生をイエスの名によって御父に願い、与えられ、喜びで満たされる者たちになるのである(ヨハ16:20~24参照)。この司祭職の使命は、胎児を身ごもる女性が人の命に関わるのと同じように、ご聖体の命に関わる使命である。神があるようにと望まれ、女性から生まれ出る、人の命ために、「私はある」と言われる神が、新約の司祭職を授かった男性から生まれ出て、御聖体として人の命に仕えることを望まれたのである。 

新約の司祭職を受ける信者の男性にとって、イエスが「わたしと父とは一つである」と言われたことを理解して聖霊を見ることができることは必須条件である。しかしそれは、すべての信者が持つべき感覚であり、意識的に獲得する必要がある。御父からイエスの名によって遣わされた聖霊は、御言葉である御子を通じて私たちに触れる。祭壇を前にして、触れられるだけではなく、常に聖霊とつながっている新約の司祭職を、私たち信者は理解し、認める必要がある。まさにそれは、私たち信者の命をご聖体とつなぐ「へその緒」なのである。 

イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)と言われた。「道」は御父の御心である。イエスが「父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示される」(5:20)と言われたように、御父への道は御言葉であるイエスが背負っておられる。「真理」はイエスご自身である。イエスが語られる言葉は真理である。「命」は聖霊が真理を教え導く悟りにある。御父が人の命があるようにと望まれる時、御言葉は人に命があるようにと語り掛け、その御言葉を聖霊が悟らせると、人の命が始まる。すべて命はこのようにして生まれる。 

聖霊は、御父から出て、イエス・キリストを通して世に現れた。そこで、イエスは、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)と言われたのである。父がイエスの名によってお遣わしになる聖霊が、イエスが話されたことをことごとく思い起こさせることができるように、御言葉であるイエスは、人となられ、人々の間に住み、全力で語られたのである。 

ヨハネ福音書は次のように始まる。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハ1:1~5)。前半の「初めに言があった」から「言によらずに成ったものは何一つなかった」の部分は、「わたしと父とは一つである」を表現している。 

「言の内に命があった」とは、洗礼者ヨハネが証ししたように、神であっても人となったイエスが、水による洗礼を受け、聖霊が降ったという事実を表している。こうしてイエスは、「父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」(ヨハ5:26)と言った言葉が、人の上に実現することを示したのである。ここには、真理を悟らせる聖霊がおられることを、御言葉と業によって、人が信じるようになる仕組みがある。聖霊は人間を照らす光である。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とある「暗闇」とは、人間の情報と知識である。 

創世記の2章の初めに、「天地万物は完成された」(創2:1)と書いてある。そしてその日、神は安息なさった(2:2参照)。そこで、1章の出だしに「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(1:1~2)とある描写は、神が天地を創造された後、万物の創造(1:3~31参照)に向かう前に、一呼吸置かれた様子を描いているようだ。そのように見ると、この出だしは、天地を創造するという神(御父)の御心を、御言葉(御子)が成しとげられた後、聖霊が働いておられる姿を描いている。 

「神の霊が水の面を動いていた」とあるのは、御父のみ旨を成した御子の御言葉が、聖霊によって悟りに変換されているところである。「深淵」は、神の知識の深い淵だ。ルカ福音書には、「悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った」(ルカ8:31)とある。黙示録には、「底なしの淵に通じる穴を開く鍵」(黙9:1)の話もある。「深淵」が神の知識の深い淵であれば、それは、人間の情報や知識にとっては墓場であるに違いない。 

このように、旧約聖書にも三位一体の神の姿がイメージされている。ヨハネ福音書は、1章6節から洗礼者ヨハネが登場する。彼は最後の預言者として主に先立って行き、聖霊を証しし、新約の司祭職を預言した。創世記も、1章3節から具体的な創造に向かう。 

Maria K. M.


 2025/11/24

223. 3羽の鷲と新約の司祭職

「イエス・キリストの黙示」(黙1:1)で始まるヨハネの黙示録は、その独特の構成によって、その意図がはっきり示されている。7つの預言で構成されている黙示録は、大きく二つの部分に分かれており、前半(第1から第3の預言、1~11章)は、新約聖書の成立に向かう預言、後半(第4から第7の預言、12~22章)は、ミサ典礼の完成と聖霊の霊性に向かう預言となっている。黙示録には、3羽の鷲が登場する。最初は、4つの福音書に見立てた四つの生き物の描写に登場する、鷲のような「第四の生き物」であり、それはヨハネ福音書を表していた(4:7参照)。 

次に、7つの封印が次々と開かれるが、これらは新約聖書の7つの書を表している(公同書簡は除かれている・・黙10:4参照)。黙示録を示唆する最後の封印が開かれると、7人の天使が次々に7つのラッパを吹く場面が展開する。それらは再び新約聖書の7つの書に見立てられる。ヨハネ福音書に見立てられた4つ目のラッパが吹かれると、「また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた」(8:13)とある。二番目の鷲の登場である。 

その後12章で、「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)というしるしとして、「新約の司祭職」が現れた。共観福音書の聖体制定の場面で、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と言って、御聖体と表裏一体を成し、使徒たちと切り離すことのできないものとしてイエスが制定した「新約の司祭職」である。続けて、「女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた」(黙12:2)と描写された。この「女」は、「新約の司祭職」を受け取った使徒たちであり、「子」はキリストの体である。迫害者たちはその秘密に迫ろうとするが及ばない(12:3~4参照)。ご聖体は神のもとへ隠され、「新約の司祭職」は、使徒たちの記憶に隠されたからである(12:5~6参照)。 

彼らに向かって迫害の手はさらに伸びる。しかし、「彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった」(黙12:11)。使徒たちの記憶が失われないうちに、それを具体的に残す必要があった。福音書である。黙示録は、「女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである」(12:14)と書いている。ここで最後の鷲が登場したのは、「新約の司祭職」が、ヨハネ福音書に隠されたことを暗示するためであった。 

ヨハネ福音書は、「新約の司祭職」をテーマとしている。しかし、この福音書を手にした者が、それとすぐ気づかぬように、ヨハネ福音書は「使徒」という言葉を使わず、聖体制定の場面を描かなかった。その一方で、イエスが十字架上でご自身の母と使徒を親子の絆で結ぶ場面を描くことで(ヨハ19:26~27参照)、「新約の司祭職」を公にした。「新約の司祭職」を授かった使徒たちは、聖霊に満たされ、男性でありながら、御聖体が生まれるための母となる。彼らは御聖体の誕生をイエスの名によって御父に願い、与えられ、喜びで満たされる者たちであった(16:20~24参照)。 

前回、ヨハネ福音書の中で、洗礼者ヨハネが、「新約の司祭職」を「花嫁」にたとえて預言したことを見た。今回、黙示録も、ヨハネ福音書のテーマが「新約の司祭職」であることを示唆していることが分かった。次回は、このことを念頭に、ヨハネ福音書を見直してみたい。 

Maria K. M.


 2025/11/17



222. 洗礼者ヨハネの預言

洗礼者ヨハネは、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハ1:32)と言い、重ねて、「わたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た」(1:33~34)と言って、「見た」ことを繰り返し主張した。ヨハネ福音記者が洗礼者ヨハネについて、「光ではなく、光について証しをするために来た」(1:8)と書いたように、彼は、「光」、すなわち真理の霊である聖霊を「見た」ことを証ししたのだ。そこでイエスは、後に、「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした」(5:33)と言われたのである。 

そして、福音記者が、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハ1:9)と続けた言葉は、彼自身が体験した聖霊降臨の出来事を示唆している。彼が、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(1:17)と書いたように、またイエスご自身が、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(12:46)と証ししているとおり、恵みと真理の「光」である聖霊は、イエスを通して世に現れたのである。こういう訳で、洗礼者ヨハネは、イエスを証しするためにきたのではなかった。 

イエスは、「わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」(ヨハ5:34~35)と言われた。洗礼者ヨハネは、「燃えて輝くともし火」の光を放っていたのである。その光には、最後の預言者としての使命が現れていた。 

洗礼者ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった時、洗礼者ヨハネが弟子たちに次のように言った。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハ3:29~30)。この文脈の「花嫁」という言葉は、福音書の中ではここにしか登場しない特別な言葉であった。洗礼者ヨハネは、ある神の計画を、「花嫁」にたとえて預言したのである。 

この計画こそが、すべてを成し遂げたイエスが証ししたもの、新しい契約として新約聖書が意図するもの、「新約の司祭職」である。「花嫁」は、御父の御言葉であるイエス・キリストにおいて成し遂げられた新しい契約の司祭職をたとえていた。それは、イエスが渡される夜に使徒たちに授け、記念として行うよう命じた聖体を制定したイエスの御業である(ルカ22:14~20参照)。そこで、イエスが昇天した後、「花婿」にたとえることのできる方は、イエスの名によって新たに遣わされる聖霊である。その夜、使徒たちだけが授かった聖体制定の御言葉が現実のものになるためには、聖霊降臨を待たねばならなかった。 

「新約の司祭職」が実践されるためには、使徒として選ばれた男性の存在が必須であった。創世記でアダムをエデンの園から追放した時から、使徒たちだけを集めたイエスの最期の食卓に至るまで、人間にとって気の遠くなるような長い歴史を通じて、神は人々を導いて来た。イエスが「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ22:15)と言われたとおりである。そして、神の御業である人の創造の担い手として造られた女性たちは、創世記の初めから、人の命を生み支えながら神に従ってきた。女性たちも共に発展してきたのである。 

「新約の司祭職」を授けられた司祭たちは、洗礼者ヨハネのように「花婿の介添え人」として聖霊のそばに立って、聖霊の声に耳を傾け、その声が聞こえると大いに喜ぶ。新約の「花婿の介添え人」は、「聖霊の介添え人」である。イエスは彼らを、「愛する者」という意味を込めて「友」と呼んだ(ヨハ15:14~16参照)。そこにイエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)という言葉を添えられた。 

そして、彼ら自身が、イエスの聖体を支える食卓となり、イエスを支えた十字架の木となるために、イエスは十字架上で、母と使徒を親子の絆で結んだ。その母は、神の子が人となったイエスご自身の身体を身ごもって支えたイエスの母であった。ここに新約の司祭が誕生した。やがて聖霊が降れば、彼らには、天使がイエスの母に告げた、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)という言葉が実現する。彼らのために、イエスは御父に次のように祈った。 

「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハ17:16~19)。

 Maria K. M.



 2025/11/10

221. 聖霊によって洗礼を授ける人

ヨハネ福音書は、初めに洗礼者ヨハネを次のように紹介した。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(ヨハ1:6~8)。「光」とは、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(1:4)と先に書かれた「光」である。 

洗礼者ヨハネは、「わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」(ヨハ1:31)と言って、洗礼を授ける理由を説明した。そして、「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(1:33~34)と告げた。「聖霊によって洗礼を授ける人」とは、イエスであった。 

洗礼者ヨハネが証ししたように、聖霊がイエスにとどまったのは、神であっても人として語るイエスの言葉が、生きた御言葉となるように、聖霊が共に働くためであった。こうして「言」の内にある命が、人間を内奥から照らす光となるのである。ここでヨハネ福音記者は、「わたしはこの方を知らなかった」という洗礼者ヨハネの言葉を二回繰り返して強調している。それは、洗礼者ヨハネが母エリザベトの胎内で6か月だったとき、イエスを身ごもって来訪したイエスの母マリアの挨拶に、胎内でおどったと書かれているルカ福音書の場面に、読者の目を向けさせるためであった。その時、マリアが言ったマニフィカトの言葉が、「聖霊によって洗礼を授ける」事の意味をよく説明しているからである。 

マニフィカトは次のように始まる。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカ1:46~49)。マリアは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)という天使の言葉が実現したことを悟り、聖霊の力によって救い主である神を喜びたたえたのである。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」という実感こそが、聖霊によって洗礼を授かった者であることの証しである。 

続くマリアの言葉は、その実感を人がどのようにして得るかを説明している。「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1:49~53)。 

「その御名は尊く」というのは、聖霊のことである(マタ12:31~32参照)。聖霊の働きで命の言葉となったイエスの言葉は、主を畏れ、その声を聴く者に働きかける。その者の内奥で、人間を照らす光となった御言葉は、その腕、すなわち諸刃の剣をもって力を振るい、その人を思い上がらせる記憶を打ち散らし、自分が権力者であるという錯覚から引き降ろす。その人が、神の御前で身分の低い者であることを自覚するまで。それは、神の子の立場に上げるためである。このようにして、神は、御言葉に飢えた人を良い物で満たし、人間の知識で満たされている者を無知のまま追い返すのである。 

ルカ福音書で、イエスがペトロの舟から群衆に教えを語り終え、ペトロに漁をするように指示した時、ペトロは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)と答えた。また、大漁に驚いたペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(5:8)と言った。このように、イエスご自身を前にし、主を畏れ、その声を聴く者となった彼らに、イエスは、マニフィカトの体験をさせたのである。 

イエスは最期の食卓で、「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハ14:17)と言って、弟子たちがこの時すでに聖霊を受けていたことを証しした。彼らはイエスから聖霊による洗礼を授かっていたのだ。 

ヨハネ福音記者は、仮庵祭でイエスが、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハ7:37~38)と言ったと述べている。そして、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」(7:39)と説明している。「御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”」とは、聖霊降臨のことであり、イエスが言われた「聖書に書いてあるとおり」とは、未来の新約聖書を指している。そこで「新約の司祭職」が明らかにされるのである。 

Maria K. M.


 2025/11/03


220. 新約の司祭職

ヨハネ福音書には「使徒」という言葉が登場しない。それは、ヨハネ福音書のテーマが「新約の司祭職」だからである。しかし「新約の司祭職」は、使徒職と切り離すことのできないように神が計画されたので(ヨハ19:26~27参照)、そのテーマだけに注目しにくく、この福音書がただ高度な霊的問題を扱っているだけのように見える。 

さらに、私たちがヨハネ福音書に難しさを感じるのは、「新約の司祭職」が御聖体と表裏一体を成していることだ。そこには、人間の情報と知識では、現代でもとても追いつけない未知の領域がある。それが明確にならないために、たとえば、「自分はご聖体製造機ではない」、「自分には目指す使徒職がある」というような、「新約の司祭職」とそれを受け取る男性との間には、ご聖体に関する特別な葛藤が起こることもあるのではないだろうか。 

それは、妊娠とそれを受け取る女性との間に起こる葛藤とよく似ているように思う。たとえば、「自分は子供製造機ではない」、「自分には自分の人生がある」というような、自分の体に宿った子に関する特別な葛藤が起こることもあるのではないだろうか。一見結び付かないようでも、この二つのケースにおいて起こるさまざまな問題にも、共通点があるかもしれない。このように葛藤を感じ、問題が起こること自体は、それぞれが永遠の命と人の命について、無意識であっても真摯に係わっていることの証しである。この証しは、これらの問題にさしあたり直接関わることのない周囲の人々の、真摯な対応によって支えられる。この人々の支える力を増大させるのも、究極的に「新約の司祭職」についての真実が明らかになることにあると考える。 

ルカ福音書には、イエスがご聖体を制定した時、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。・・この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:19~20)と言われたと書かれている。「あなたがたのために」と言われた「新しい契約」は、「新約の司祭職」なのである。それを「行いなさい」とイエスは命じた。これは、イエスの名によって集うすべての信者に向けられている。ヨハネ福音書は、共観福音書の「新約の司祭職」を浮き彫りにすべく、自身は聖体制定の場面を描いていない。 

共感福音書の書き出しを見てみると、マタイ福音書はアブラハムから始め、マルコ福音書は預言者イザヤの引用から入り、ルカ福音書は報告書のかたちを取っている。ここだけに注目して区別するなら、マタイ福音書には神の計画を意図する御父、マルコ福音書には預言を成就する御子、そして、ルカ福音書には結果(悟り)に導く聖霊の姿をイメージすることもできる。そして、それぞれに別な方向を向いているようで、それでいて使徒職という同じテーマを扱っているところから、これらの福音書の特徴は捉えやすい。 

一方、ヨハネ福音書の書き出しは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(ヨハ1:1~2)である。これは、御父と御子が一つであることを示唆している。イエスがご聖体と共に授けた「新約の司祭職」が、御父の御心であったことの証しである。続く「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(1:3)という言葉は、天地創造の時と同じく、イエスの最期の食卓で、キリストの体と御血が御言葉によって成ったことを示している。 

そして、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハ1:4~5)とあるように、命のパンについてイエスが証しした言葉を聞いた弟子たちの多くの者が、イエスの言葉を理解しなかった(6:60参照)。同様に、「新約の司祭職」を理解することも難しい。しかし、御言葉によって成ったご聖体と共にある「新約の司祭職」の内に命があって、それは、人間を照らす光である。光は暗闇の中で輝いている。命のパンについての場面の終わりには、次のように書かれている。 

「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』」(ヨハ6:66~69)。 

Maria K. M.

(お知らせ)

 インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。 「パトモスの風


 2025/10/27

219. 司祭職とヨハネ福音書

御言葉を聞いてイエスに従い、使徒となった漁師たちは、それまで誰も食べることのなかった「命の木」から取って食べた“初めの人”になった。こうしてイエス・キリストは、神がアダムを追放し、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置いて守った「命の木に至る道」(創3:24)を世に示した。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)と言ったとおりである。このイエスの言葉は、ヨハネ福音書で語られた。 

ヨハネ福音書において、司祭職は主要なテーマである。司祭が祭壇上で御父に向かって、「主イエス・キリストの御体と御血になりますように」と願う言葉は、イエスの母マリアに起こったことと同じ現象を司祭に引き起こす。この時、聖霊が司祭に降り、いと高き方の力が司祭を包む。だから、生まれる子、すなわちご聖体は、「聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)。聖霊に満たされてこの世にイエスを生んだ母は、司祭職を象徴しているのだ。十字架上で、イエスは、母と弟子を親子の絆で結び、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハ19:27)とある。この場面は、イエスが新しい司祭職を使徒に授け、使徒がそれを受け取ったことの証がここにあることを、使徒の後継者たちに、知らせている。 

ヨハネ福音書の内容は、次のようにたびたび三共観福音書と関わりながら展開される。それは、司祭職のテーマに迫るためである。前回考察したように、ルカ福音書で、イエスが初めの弟子たちを召し出した場面でのイエスとペトロのやりとりには、司祭職に関わる重大な文脈が含まれていた。イエスは、ペトロの舟から群衆に教えを語り終えると、ペトロに漁をするように指示した。それに対し、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)と答えたペトロの言葉は、多くの人の罪のもととなったアダムの神への不従順を、後に司祭職を受ける一人の人の従順によって打ち消すものとなった。イエスに導かれて生じたこの従順は、使徒の後継者たちによって継承され、多くの人が正しいものとされる礎となる。 

大漁に驚いたペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5:8)と言った。この言葉は、神の御心にかなう言葉として受け入れられ、神に対するアダムの背きを覆った。ペトロは、創世記で神がアダムに言った、「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:19)という言葉を実現する者、すなわち司祭職を担う者として選ばれたのである。「お前は顔に汗を流してパンを得る」とは、司祭職を指している。続く神の言葉には、人が土に返る生き物の自然の体をもっていても、神が土の塵から形づくられ、「命の息」(2:7)を吹き入れられた塵の体に返る人として、復活の希望が暗示されている。新しい司祭職は、この希望をすべての人にもたらす責務がある。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)と言ったイエスの言葉がそのことを証ししている。 

ペトロは、使徒の頭、教会の岩として選ばれただけではなく、神が「祝福し、聖別された」日を(創2:3参照)、人々とともに祝うための司祭職を与えるべく、旧約聖書の歴史が準備したいわば第二のアダムであった。ルカ福音書におけるイエスとペトロのこの重要なやり取りは、ヨハネ福音書における、初めの弟子たちを召し出した場面と次のようにつなげることで、より明確に理解される。そして、この重要な場面にペトロの兄弟アンデレの名が記載されていないことも補うことができる。 

ヨハネ福音書によると、洗礼者ヨハネの弟子で、初めてイエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼はシモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」(ヨハ1:42)と言われたのである。この事を前提にルカ福音書の漁師たちの場面を読むと、イエスとペトロが初対面ではなかったことがわかり、ここでの二人のやり取りに注目することになる。 

Maria K. M.


 2025/10/20



218. 和解の成立


キリスト者となった私たちは、今でも創世記に書かれたことから神の計画を読み取ることができる。新約聖書が成立しているからである。

同一種の生き物が複数になったとき、彼らの間に偶発的に情報が発生する。この偶発的情報が初めてその姿を見せたのは、神が創造した「女」を「男」のところへ連れて来た時だ。「男」は、「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」(創2:23)と言った。しかし創世記は、神が「女」の創造に「人」の骨を使ったと記しているが、肉には言及していない。「男」は、神が、あばら骨の一部を抜き取った後、「その跡を肉でふさがれた」(2:21)ことから、偶発的に言葉を発したのだ。

アダムは「男」として特別に神から造られたのではない。あばら骨の一つが取られた後の「人」が「男」である。そこで「人」の体と記憶を受け継ぐ「男」は、3つの記憶を持っていた。神から与えられた「仕事」(創2:15参照)、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16~17)という「知識」、そして「人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」(2:19~20)という「体験」である。しかしこの内の「知識」の記憶について、「男」は「女」と正確に共有できなかったことが後でわかる。二人の間に偶発的情報が絶えず発生し、記憶が新しく上書きされたからだ(3:1~5参照)。

「その日、風の吹くころ」(創3:8)、主なる神が園の中を歩いて来てアダムを呼んだ。神には計画があった。神は、ご自身が「祝福し、聖別された」(2:3)日を人々とともに祝うために、アダムを司祭職に向けて準備しようと考えていた。そのために、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2:15)のであった。しかしアダムと「女」は、記憶が上書きされていたために、「園のすべての木から取って食べなさい」(2:16)という神の言葉を忘れ、「命の木」から取って食べなかった。代わりに、「決して食べてはならない」(2:17)と命じられた「善悪の知識の木」から取って食べたのである。

その後アダムは、自分が名を付けたものには、「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」(創2:20)という「体験」の記憶を無視して、神が「人」から創造した「女」に、他の生き物に名を付けるように名を付けた。「彼女がすべて命あるものの母となったからである」(3:20)と誤った情報を持ったためだ。こうして、女性をすべての生き物と同等に認識したアダムの背きは決定的となって、彼は園を追い出された。しかし、「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた」(3:23)とあるように、神は、アダムに司祭職を与える計画を変更しなかったのである。

やがて、洪水を通り抜けたノアが、主のために祭壇を築き(創8:20参照)、アブラハムが、いと高き神の祭司サレムの王メルキゼデクと出会い(14:18参照)、神は、アロンとその子らを祭司に任職した(出29:9参照)。こうして創世記から始まる旧約聖書の長い物語は、神が目指す司祭職を与えるにふさわしくアダムを、すなわち男性を養成し、成長させる歴史を形づくった。これらの旧約聖書の歴史と旧い祭司職は、洗礼者ヨハネの誕生とその生涯をもって終了する。イエスが、「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」(マタ11:13)と言ったとおりである。そして、神の子イエス・キリストは、その宣教の初めに、遂に新しい契約の司祭職を与える新しいアダムを見つけた。後に使徒と呼ばれる彼らこそが、神との和解を成し遂げるまでに成長したアダムの子孫であった。

「イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた」(ルカ5:2~3)。

漁師たちも聞くとはなしに耳を傾けていたに違いない。「話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。シモンは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた」(ルカ5:4~5)。神は、アダムの子孫とこのようなやり取りをすることを、どれほど待っていただろう。

「そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。・・・これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った」(ルカ5:6~8)。ペトロのこの言葉によって、神は、創世記のあの日、「取って食べるなと命じた木から食べたのか」(創3:11)という問いに対する、「男」の真実な答えを受け取ったのである。

「シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:10~11)。御言葉を聞いてイエスに従った彼らは、「命の木」からその実を取って食べた“初めの人”になった。

Maria K. M.


 2025/10/13


217. 和解

前回考察したように、司祭が祭壇上で御父に向かって、「主イエス・キリストの御体と御血になりますように」と願う言葉は、イエスの母マリアに起こったことと同じ現象を引き起こす。この時、聖霊が司祭に降り、いと高き方の力が司祭を包む。だから、生まれる子、すなわちご聖体は、「聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)。マリアが天使から受けた言葉は、使徒ペトロがイエスを「メシア、生ける神の子」(マタ16:16)、「神の聖者」(ヨハ6:69)と呼んで証しした。これに倣って、現代も司祭と信者は、ご聖体に向かって、ペトロの言葉を証しし続けるはずである。 

しかし、なぜイエスは、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言った時、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタ16:17)と言って、御父の御心がその言葉にあったことを言ったのだろうか。それは創世記の「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた」(創3:8~9)というところまで引き戻す。神がアダムを呼んだのは、彼に使命を与えるためだったのではないか。しかし、その時すでに二人は神の御心に背いていた。神がそれを知らなかったのは、「ご自分にかたどって人を創造された」(1:27)主なる神は、「その鼻に命の息を吹き入れられ」(2:7)、ご自身の似姿となった人の意志がどう動くかを知ろうとなさらないからだ。 

だから神は、アダムが、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創3:12)と答えた時は、ずいぶんがっかりしたにちがいない。彼は、神に背いたばかりか、その原因を神に帰したからである。そもそもアダムは「男」として特別に神から造られたのではない。神が創造したのは、初めの「人」と「女」であった。そして、人(男と女)を創造する神の御業を継ぐのは胎を持つ「女」である。「男」には、これからの計画があった。神は、「男」と和解することを望んでいたに違いない。 

神は、「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:19)と言ってアダムを励ました。今、私たちはこの言葉が、いつか彼が顔に汗を流して「命のパン」を得るために働き、死んで土に返り、「命の息」を吹き入れられた塵の体が復活する、ということを示唆していたことが分かる。神が園でアダムを呼んで、告げようと思っていた神の計画は、アダムに司祭職を授け、神が「祝福し、聖別された」(2:3)日を、人々とともに祝うことだったのである。この計画は、イエス・キリストが新約の司祭職において実現した。この司祭職の使命は、胎児を身ごもる女性と同じように、命に対する使命である。それは、ご聖体に対する使命である。 

妊娠した女性の子宮に起こる胎盤形成は、受精卵、すなわち胎児側が主導的に働き、母体は受動的に関わって起こる。したがって胎盤を作る主体は母体ではなく胎児なのだ。胎児と胎盤は父方の遺伝子を半分持つために、母体から見れば“異物”だ。それにもかかわらず、母体は胎児を拒絶しない。このことは、「命のパン」について語ったイエスの言葉を拒絶した弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった時も、使徒たちはイエスのもとに留まったことを想起させる(ヨハ6:66~69参照)。 

胎盤形成は、母体側と胎児側の密接な対話の上に成り立っているという。胎児は母体の免疫をいわば “再教育”し、母体は胎児の侵入を“許可しつつ制御”する。子宮が胎盤を受け入れる仕組みは非常に精密で、「母体と胎児の間の和解の奇跡」という、ヒト種特有の胎盤形成プロセスなのである。この微妙な交渉のバランスこそが、「妊娠」という現象の本質であり、ここで起こる和解とは、単なる静的平和ではなく、動的なバランスの維持だというのだ。それはイエスが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハ14:27)と言ったとおりである。この和解は、祭壇の前で聖霊が降る司祭にも起こっているに違いない。 

子宮は単なる“器官”ではない。ヒトの生命の成立を支えている。ヒトという種の発生・免疫・脳・社会性にまで影響するきわめて深い意味をもっている。女性は、ヒト種特有の胎盤形成プロセスという、他の生き物に類を見ない高度な重荷を背負ったのである。それは、新しい契約の司祭職も同じである。聖霊に満たされてご聖体を生むという役割を背負って、イエスの母マリアのように生きる司祭は、神と人の歴史が強く求める「和解」を実現することになる。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と言ったペトロの答えは、御父の御心に適っていたのである。続けてイエスは次のように言った。 

「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタ16:18~19)。 

Maria K. M.


 2025/10/06


216. 新たな「実体変化」への招き

ヨセフは夢の中で、天使に、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタ1:21)と告げられた。この言葉の「自分の民」とは、当時も今も、私たち信者のように、イエスを信じた人々を指している。「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(ヨハ16:9)とイエスが言ったように、イエスは、彼を信じた者たちをいつもこの罪から救った。この後、「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタ1:23)と解説が挿入されているように、イエスは、そのためにこのような神と人との関係を実現したのである。その効果は、イエスを信じた人々に現れる。 

イエスに従って、イエスと共にいた当時の信者たち一人一人は、イエスのそばにいることで、「わたしを信じないこと」という罪から救われた。イエスは信者に触れる機会を得て、信者は神の救いを実感するほどに、神が近くいると感じることができた。こうしてイエスは、「わたしの教会」(マタ16:18)となる「自分の民」を守った。イエスは、ご聖体を制定することによって、神であっても人として体を持っていたご自身には不可能であったことが可能となるよう、準備して行かれた。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(ヨハ6:56)というイエスの言葉は、ご聖体によって実現可能となり、「自分の民を罪から救う」神の御業が継続される。神が近くいるのではない。神が信者の内に入るのである。 

ご聖体は、「実体変化」による、いわば第2の受肉の神秘である。ご聖体は、それを拝領する信者たちを、「わたしを信じないこと」という罪から救い続ける。イエスがご自身で証しした、その誕生と死、復活と昇天、そして、確かにイエスのご遺体を墓に葬り、見届けておいたのに、イエスの体がなくなっていたことなど、新約聖書を通して使徒たちから伝え聞いたこれらの事柄を、信者たちは共有する。ご聖体は、私たち信者に食べられることによって死に、その体は、イエスのご遺体が墓から消えていたように、なくなってしまう。そのわずかな時間に、信者たちには、ご聖体によって、神の現存するキリストの体を持つ者へと「実体変化」が起こる。ゆえに、拝領する者の記憶には、ご聖体が誰であるかが、しっかりと刻まれていなければならない。 

一方、マリアは天使に、まず、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(ルカ1:31~33)と告げられた。それは、イエスが公生活をそのように生き、「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」という言葉を、十字架上で実現するということであった。十字架上のイエスの頭の上に掲げられた札に、「これはユダヤ人の王」(23:38)と書かれていたことが、それを証ししている。まさに、「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」のである。 

次に天使が、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)と告げた言葉は、イエスの母となったマリアの身に実現した。それは、十字架上でイエスが、母マリアと使徒を親子の絆で結んだ場面へとつながっていく。この言葉は、イエスの母マリアの子となった使徒のものとなって継承されたのだ。ゆえに、司祭が御父に向かい、「主イエス・キリストの御体と御血になりますように」と願うとき、聖霊が司祭に降り、いと高き方の力が司祭を包むのである。だから、生まれる子、すなわちご聖体は、「聖なる者、神の子と呼ばれる」。 

イエスが弟子たちに、「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」(マタ16:15)と言ったとき、使徒ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えた。すると、イエスは、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)とお答えになった。御父が使徒ペトロに現した言葉は、神を父と呼ぶすべての信者が、イエスを見て、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言うことを望む御父の御心である。私たち信者は、この同じ言葉をご聖体に向けて言うことによって、私たちの御父の御心に答えるのである。 

ご聖体を見て、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言うことを繰り返すことによって、信者の記憶には、ご聖体が、「メシア、生ける神の子」であると、しっかりと刻まれていく。そして神を天の父と呼ぶ信者が、ご聖体を拝領し、ご聖体が留まるわずかな間、神の現存するキリストの体を持つ者へと「実体変化」が起こる時、自分が神の子であることを、わずかずつでも実感にしていくのである。この実感が、イエスを信じることを確かなものとしていく力となる。 

Maria K. M.

(お知らせ)

 インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。№214とテーマが重複していますが、表現を新しくしています ➡ 「パトモスの風



 2025/09/29


215. 実体変化

ご聖体はキリストの御体と御血である。第二バチカン公会議の教会憲章は、ご聖体が、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である」(「教会憲章」№11)と書いている。従って、ご聖体がキリストの体と血であることを信じることは、私たちの信仰の核心である。しかし、私たち信者は、このことを理解し実感を持って受け入れているだろうか。 

司祭は祭壇上で聖霊の働きを御父に願い、パンと杯を手に取って、「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである」、「これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である」と言って、イエスの最後の食卓での言葉を繰り返す(「ミサ典礼書」参照)。こうして御父への願いはかなえられ、パンとぶどう酒はキリストの体と血に変わる。これを教会は古くから「実体変化」と呼んできた。この言葉をトリエント公会議は次のように明確に定義した。「すなわち、パンとぶどう酒の聖別によって、パンの全実体が私たちの主キリストの実体となり、ぶどう酒の全実体がその血の実体に変化します。聖なるカトリック教会は、この変化をまさしく適切に全実体変化と呼びます」(トリエント公会議第13総会『聖体についての教令』4、DS1642)。 

このことは、パウロ6世教皇の回勅「ミステリウム・フィデイ」(19659月)であらためて確認されている。パンとぶどう酒という、キリストの体と血とは似ても似つかぬものが、御父がイエスの名によって遣わした聖霊と司祭が一つになって働くことで、ご聖体に変わるという「実体変化」は、変わるだけではなく、主ご自身が現存する体そのものになることを意味している。司祭は聖霊と一つになって働き、ご聖体が生まれる。司祭なくしてご聖体は生まれないのである。 

「実体変化」という言葉は、妊娠と出産を体験した女性にとって、深い共感を呼び起こす言葉である。受精卵という、人の体とは似ても似つかぬものが、女性の胎に守られて、やがて人の体となって生まれ出るからである。胎児の体には、「在れ」という御言葉と、聖霊の働きによって、神が望んだ人の命がある。今も女性なくして人の命は生まれないのである。 

ルカ福音書によれば、「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」(ルカ1:41)と書かれている。母の胎内で洗礼者ヨハネは、この時、人となったイエスを証ししたのだ。受精卵という、人とは似ても似つかぬものが、女性の体内で成長し、胎動するようになる。それは、またもう一つの「実体変化」と言えるのではないだろうか。ゆえに、イエスは、最期の食卓で使徒たちに、女が子供を産むときのたとえを語り、一人の人間が世に生まれ出た喜びに言及したのである。

「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(ヨハ16:21)と言ったイエスは続けて、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(16:22)と言って、ご自身の復活と同時に、ご聖体の誕生を予告した。 

そして、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハ16:23~24)と保証した。教会はこの世で最高のものを願ってきた。「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」と願って祈り、イエスのこの言葉に応えてきた。「父に願うならば、父はお与えになる」という言葉は即座に実現する。このとき司祭は、聖霊とひとつになって、イエスの言葉を実証しているのである。 

このように考えてくると、祭壇上でパンとぶどう酒がキリストの御からだと御血に「実体変化」するということは、現代人にとっても、受け入れがたいことではない。私たち信者は、ご聖体を拝領した時、神の現存するキリストの体と一体になったことを実感しなければならない。そこに、新たな「実体変化」に呼ばれる未来への希望がある。 

Maria K. M.


 2025/09/22



214. 「カトリック教会のカテキズム」№1386


このブログでは、これまでかなり長い時間をかけて、マタイとルカ福音書にある百人隊長のエピソードを注意深く観察し、考察してきた。イエスに僕(部下)の癒しを願う百人隊長の言葉が、世界中のミサ典礼において、司祭が掲げるご聖体を前にして、司祭と会衆が共に聖体拝領の招きに答えるという重要な場面で使われる言葉である、という観点から、このエピソードを見直す必要があると考えたからだ。上記両福音書ともに、百人隊長は二つの場面に登場する。イエスに僕(部下)の癒しを願う場面と、イエスの十字架のそばに立ってイエスへの信仰を吐露する場面である。後者の場面は、マルコ福音書も記載している。これらの場面に登場する百人隊長が同一人物かどうかは別にしても、百人隊長の言葉には、信仰における二つのステージを見ることができる。

初めの、イエスに僕(部下)の癒しを願う場面では、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(ヨハ6:44)とイエスが言った通り、百人隊長は、御父の引き寄せる力によって、イエスのもとへ来ることができた。そして、その信仰によってイエスに病気の僕(部下)を癒していただいた。第1のステージである。一方、イエスが十字架にかけられた場面では、「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」(マコ15:39)と書かれている。ここでの百人隊長の言葉は、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハ12:32)というイエスの言葉の実現となっている。第2のステージである。

「カトリック教会のカテキズム」(1997年規範版)の№1386には、「この秘跡の偉大さを前にして、信者はただ百人隊長の次のことばを謙虚にまた熱烈な信仰をもって繰り返す以外にはありません。『主よ、わたしはあなたをお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます』」と書かれている。 しかし、この百人隊長の言葉は、御父に引き寄せられてイエスのそばに来た第1のステージのものである。「わたしは地上から上げられるとき・・」と言ったイエスの言葉によって引き寄せられ、イエスのそばに来た私たちキリスト者とはステージが異なっている。私たち信者は、地上から上げられたイエス、すなわち十字架上のイエスに引き寄せられたのだ。

「カトリック教会のカテキズム」は、これに続いて、聖ヨハネ・クリゾストモの聖典礼での祈りの言葉を紹介している。それは、イエスと共に十字架にかけられた盗賊の、「主よ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」という叫びを含んでいる。この叫びは、いわば、十字架上のイエスに引き寄せられた最初の人の叫びだということができる。

聖ヨハネ・クリゾストモの聖典礼は、確かに十字架上のイエスに向かう応答を含んでいるが、この場面は、聖霊が降臨した後の使徒言行録の記述にある、百人隊長の場面に行き着くことはない。そこには、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(使10:2)という百人隊長の姿が描かれている。そして、この百人隊長と使徒ペトロとの関りから(10:1~48参照)、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれた。百人隊長のエピソードが伝える信仰の軌跡には、私たち信者が目指す教会の発展が映し出されている。

同じカテキズムの№1382に、「ミサは十字架上のいけにえが永続する記念であると同時に、主の体と血にあずかる聖なる会食でもあります。感謝のいけにえの祭儀は、聖体拝領(コムニオ)によるキリストと信者たちとの親密な一致に向けられたものです。聖体拝領とは、わたしたちのためにいのちをささげられたキリストご自身をいただくことです」と書かれているように、私たち信者は、ご聖体という、「この秘跡の偉大さを前にして」する応答に、「本当に、この人は神の子だった」という十字架上のイエスに向かう百人隊長の第2ステージの言葉を応用すべきではないだろうか。

「ローマ・ミサ典礼書」による司祭の聖体拝領への招きの言葉は、「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」である。「世の罪を取り除く神の小羊」は、洗礼者ヨハネが自分の方へ来るイエスを見て言った言葉だ。ゆえに「神の小羊の食卓」は、イエスの最期の食卓である。ミサの中で、この時私たちは、司祭が掲げたご聖体に、十字架の上に上げられたイエスを確かに見ているのだ。

Maria K. M.

 2025/09/16



213. 完全なキリスト者の体験を味わう過程とそこで得られる実感


前回の考察を振り返ると、マタイとルカ福音書にある百人隊長の言葉は、ローマについての神の計画を知る由もないこの時の百人隊長が、イエスを信じた自分と、ローマの兵隊としての立場との折り合いをつけた言葉であったと言える。彼は、イエスに「従っていた人々」(マタ8:10)や、イエスと長老たちに付いて来ていた「群衆」(ルカ7:9参照)に、家まで来てほしくなかったのである。しかし、百人隊長は、十字架上のイエスが息を引き取った時には、その出来事を見て、「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)と実感するところまできていた。

さらに、聖霊が降臨した後の使徒言行録の記述には、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(使10:2)と書かれた百人隊長の姿がある。この百人隊長と使徒ペトロとの関りから(10:1~48参照)、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれた。ここに描かれた百人隊長の一連のエピソードには、完全なキリスト者の体験を味わう過程と、そこで得られる実感とを見ることができる。イエスを五感で捉えた者の恵みの力である。

このような百人隊長の信仰の成長を、黙示録の前半で辿ることができる。黙示録の1~3章には、百人隊長が、イエスを信じた自分と自分の立場との折り合いをつけたように、手紙というかたちをとって、自分自身と教会の現状との折り合いをつけながら宣教して行こうとする7つの教会の天使たちを描いている。続く4章から始まる新約聖書成立の預言は、百人隊長がイエスの十字架のそばに立ったように、この書を読むすべての人を、イエスの十字架のそばに連れて来るのである。

さらに、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と書かれた百人隊長の姿にあやかるのは、ミサ典礼の場である。黙示録の霊的訓練のルーティンは、ミサ典礼のルーティンと密接に重なるように意図されており、ミサ典礼から出て、次に入るまでの信者の日常の記憶を支え準備する。ミサ典礼の中で信者は、ご聖体と対面する。ここで、ご聖体がイエス・キリストであることを告白し、拝領することによって、「本当に、この人は神の子だった」と言った百人隊長と同じ実感を得る。このルーティンを行くことこそが、完全なキリスト者の体験を味わう過程であり、黙示録の霊的訓練の過程なのである。

百人隊長と使徒ペトロとの関りから、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれたように、宣教を支える黙示録の霊的訓練が後半に向かうと、訓練者は、自身の記憶に入った啓示の言葉と「人間の情報」を区別しながら、自分自身を知っていく工程に進む。黙示録の霊的訓練のルーティンを何度も繰り返すうちに、少しずつ明らかになっていく自分の姿を認めることによって、自分の周囲の見え方も変わって来る。ここから宣教に向かうきっかけが生まれる。さらに「人間の情報」に敏感になって、その働きが見えるようになってくると、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハ16:7~8)と証ししたイエスの言葉を悟り、聖霊と協働する機会に恵まれるようになる。

御父と御子は、新しい預言が、未来の私たち信者の上に実証されるのを待っている。イエスの名によって遣わされた聖霊は、そのために、すべての信者たちが完全なキリスト者の体験を味わう過程と、そこで得られる実感とを与えるために、黙示録を含む新約聖書とミサ典礼を準備した。ゆえに、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(ヨハ6:39)と言ったイエスの言葉は、どこまでも弱さが残る多くの信者たちのものである。続けて、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(6:40)と言った言葉は、人類の希望である。

Maria K. M.

 2025/09/08

212. 完全なキリスト者の体験を味わう過程を知る手掛かり

イエスがご聖体を定め、地上に残した理由は、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」(ヨハ6:40)である。前回考察したように、「子を見て信じる者」になるには、感謝の典礼の中で、聖霊と協働する司祭が会衆に示すご聖体を見て信じる者になること以外にはない。ご聖体に向かって、「あなたは、神の子、キリストです」(マタ16:16、ヨハ11:27参照)と宣言することを、ミサのたびに繰り返すことによって、信者一人一人の記憶に、「子を見て信じる者」となった事実が焼き付いていく。しかしこの重要な場面で、私たち教会は、世界中が百人隊長の信仰を宣言してきた。このテーマは、これから、黙示録がどのようにして完全なキリスト者の体験を味わわせるのか、その過程を考察するにあたって、重要な課題を含んでいるので、もう一度別の角度から考察してから先に進むことにする。 

ヨハネ福音書は、イエスとピラトのやり取りを詳しく伝えている。その最期の時に、イエスがローマ総督ピラトと関わる場面を残すことによって、神が、ローマをキリスト者のものにするという狙いがあったことを印象付けようとしたと捉えると、すべてがはっきりとしてくる。イエスは、ヤコブの井戸で出会ったサマリアの女に、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハ4:21)と証しした。それは、結果的にローマだった。エルサレムが崩壊することを知っていた神は、新しい契約の上に、イエスが生み出し、聖霊が設立する教会のために、初めからローマに新しい都を計画していた。 

百人隊長のエピソードは、マタイ福音書とルカ福音書にある。僕の癒しを願ったルカ福音書の百人隊長は、イエスに家に来てほしくないという状況に遭遇した。イエスと長老たちに加えて「群衆」も付いて来ていたからだ(ルカ7:9参照)。そこで彼らが、「その家からほど遠からぬ所」(7:6)まで来たとき、百人隊長は、友人たちを送って、次のように言わせて、イエスの来訪を断った。マタイ福音書の場合は、イエスに付いて来たのは、「群衆」ではなく「従っていた人々」(マタ8:10)であったが、それでも百人隊長は、イエスの来訪を断っている。

 「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(ルカ7:6~8)。 

神がローマに新しい都を計画していたことを念頭に置いてこの伝言を聞くと、百人隊長の言葉は、そのままローマ帝国の未来にあてはめることができる。イエスはこれを聞いて驚き、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(ルカ7:9)と言った。ローマの兵隊であった百人隊長が、預言者のように語ったからだ。「主よ、御足労には及びません・・」とあるように、ローマ帝国は、十字架上で亡くなったイエスを迎え入れることはない。しかし、イエスがローマ帝国の刑罰である十字架刑を受けたことは、ローマにイエスの名を刻印することになった。こうして、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」という言葉は実現した。御言葉は、パウロより先にローマに辿り着き、すでにその民に働きかけていた(ロマ1:6~7参照)。 

また、百人隊長の軍務体験から出た言葉は、一見平凡なものに見えるかもしれない。しかし、その言葉の裏には、当時のローマ帝国が持つ法律や軍事に関する、合理的なシステムがあった。そこに、神が十字架上で成し遂げた新しい契約を生きる教会のために、都をローマに求めた理由がある。神の子が地上に来たために起こる、人類の急速な進歩を受け止める器が、ローマ人の文化や伝統、気質にはあったのだ。今、歴史を経た私たちは、新約聖書の中に新しい預言があったことを知る。 

イエスの驚きの言葉は、百人隊長の僕に届き、僕は元気になっていた。イエスを信じる百人隊長の気持ちは、直観的で純粋であった。それはイエスが、「また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」(ルカ4:27)と言って引用した、アラムの王の軍司令官ナアマンのようだ。彼が、妻の召使のイスラエルの少女から聞いて預言者エリシャを信じたように、百人隊長は、長老たちからイエスのことを聞いて信じたのだ。 

イエスが、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」(ヨハ6:44~45)と言った言葉は、旧約の預言が実現したことを証ししている。当時イエスが関わった人々は、御父の引き寄せる力によってイエスのもとに来ることができた人々であった。百人隊長もその一人であり、その信仰は、旧約の民の信仰の延長線上にあった。 

しかし、百人隊長は、その信仰に留まっていることはできなかった。後にイエスが、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハ12:32)と証ししたように、十字架上のイエスに、その見張りを一緒にしていた人々と共に引き寄せられ、「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)と言うことになったからだ。ルカ福音書では、「『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」(ルカ23:47)と書かれている。 

御父に引き寄せられてイエスのもとに来た百人隊長は、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。・・ひと言おっしゃってください」と言った。それは、旧約の民の預言に支えられた信仰であった。やがて、十字架上のイエスに引き寄せられ、「本当に、この人は神の子だった」と言った言葉は、まさにイエスが今成し遂げたばかりの、新しい契約に向かっていた。さらに、聖霊が降臨した後の私たち信者は、ご聖体を前にして、「子を見て信じる者」の信仰を告白するのである。ここに、黙示録が完全なキリスト者の体験を味わわせる過程を知る手がかりがある。 

Maria K. M.

 

(お知らせ)

 今回の内容は、本ブログ執筆者が、インターネットマガジン「カトリック・あい」に投稿した内容と一部重複しています。 「パトモスの風


 2025/09/01



211. まず、世の誤りを明らかにしておくこと


前回話したように、「イエス・キリストの黙示」(黙1:1)は、黙示録を霊的訓練の書として受け取る一人一人の信者に働きかけ、新約聖書の他の書と一体となって、聖霊の霊性にまで導き、完全なキリスト者となる体験を味わわせる。このことが、聖霊によってなされることから、その過程を考察する前に、まず、聖霊についてイエスが最後に証しした、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハ16:7~8)という言葉を確認しておきたい。

「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(ヨハ16:9)とある。それは、イエスが、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」(6:35~36)と言った言葉から明らかになる。この箇所でイエスが、「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言った言葉は、未来の私たち信者にも向けられていることに気付かされる。

イエスは、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(6:40)と言った。そして、その仕方を次に具体的に語ると、ユダヤ人たちは混乱状態に陥った。しかしイエスは、さらに、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:54)と言って話を進めた。これを聞いていた弟子たちの多くが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6:60)と言ったとある。彼らは、生きているイエスが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」と言ったのを聞いて、それを信じることができなかった。彼らは、「大変な思い違い」(マコ12:27)をしていたのだ。これが「世の誤り」である。

私たち信者は、パンとぶどう酒のかたちを取るご聖体を見て、「わたしが命のパンである」と言ったイエスの言葉を信じているだろうか。ご聖体が生きているイエスだと言えるだろうか。言えるのであれば、それをどこで証しするのだろうか。それは、イエスの名によって遣わされた聖霊が、司祭の手を通してミサの中で明らかに示すご聖体を前にしてである。信者たちが、ご聖体を前にして、「あなたは、神の子、キリストです」(マタ16:16、ヨハ11:27参照)と宣言する場面がないなら、それは「世の誤り」に惑わされているからだ。

イエスは、ファリサイ派の人々に、「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」(ヨハ8:17~18)と言った。ミサの中で教会全体がご聖体を「神の子、キリストです」と宣言することは、信者一人一人が御父と御子の証しに加わって、聖霊と協働して全世界を救うほどの業になる。ご聖体を前にした私たちが、もしそれを宣言しないでいるなら、イエスから「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言われ続けるだろう。それは罪について問われているのである。

「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」(ヨハ16:10)である。ヨハネ福音書を読むと、イエスが、「見る」という感覚の働きと「信じる」ことの関係に特別に注意を払っていたことが分かる。イエスがご聖体を定め、地上に残した理由は、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである」(6:40)。「子を見て信じる者」となること、すなわち、感謝の典礼の中で、聖霊と協働する司祭が会衆に示すご聖体を見て信じる者になることは、私たちが、ご聖体に向かって、ご聖体が「神の子、キリスト」であると宣言したとき実現する。この宣言をミサのたびに繰り返すことによって、信者一人一人が「子を見て信じる者」となったという認識を固めていくのである。

しかし、イエスを見ないで信じたにもかかわらず、御父のみ旨を完全に成し遂げたイエスのイメージが頭から離れず、ご聖体をよそに、そのイエスを知りたい、そのイエスを見たい、そのイエスと合一したいという思いに惑わされる者がいる。「世の誤り」からくるその思いは、義について「もはやわたしを見なくなること」と言ったイエスの言葉に反して、見たこともないはずのイエスの姿をその人に感じさせる。それは、その人自身の執拗な欲求と欲望が見せているものだ。これらの欲求や欲望は、人の最も高次の欲求と言われる自己実現の欲求から生じる。そしてそれは、一度達成されたと感じても終わりがなく、生涯にわたってそのプロセスを幾重にも編み出す。その都度あらゆる欲望を総動員して、「世の誤り」を認識せず、「大変な思い違いをしている」(マコ12:27)信者たちへ向かう。そして、彼らがこの自己実現の欲求を自分と同一視すれば、自己実現の欲求は、その人の支配者となる。

イエスは、「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」(ヨハ16:11)と証しした。自己実現の欲求に支配された信者たちに、それを知る機会を、黙示録の霊的訓練は与える。この訓練を続けるうちに、「鋭い両刃の剣を持っている方」(黙2:12)に、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通されて、自分の心の思いや考えを見分けることができるようになっていくのだ(ヘブ4:12参照)。やがて、自分のあるがままの姿を見る時がくる。イエスは、信者たちが、自身の自己実現の欲求を断罪する言葉を、生きている神の言葉であると気付いて受け取ることを切に願ったに違いない。それが可能となるために、イエスは、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハ16:7)と言ったのである。その弁護者こそが、「神の言葉は生きており、力を発揮」(ヘブ4:12)することを教え、悟らせる聖霊なのである。

聖霊に従って黙示録の霊的訓練を行うこと、それは言い換えれば聖霊と協働して訓練することである。人が聖霊と協働するとき、人は本来持っている可能性を発揮し、真に自分らしく生きることができる。聖霊の霊的訓練によって、やがて私たち信者は、自分がイエスに似たもの、神の似姿になるのを見ることになる。これこそが真の自己実現であり、ここにイエスが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハ14:27)と約束した神の平和がある。

Maria K. M.

 2025/08/25


210. イエス・キリストの黙示と霊的訓練の書

聖霊が降臨した後、イエスを直接知る証人たちは、言葉や業によってイエスが証ししたことが、新しい預言となって実現していくのを目の当たりにした。イエスの名によって遣わされた聖霊は、彼らの体験の記憶を、イエスを見ないで信じる者たちに授けるために、新約聖書を成立させ、その中に黙示録を置いた。黙示録に「イエスの証しは預言の霊なのだ」(黙19:10)とあるように、黙示録は、イエスの証ししたことが新しい預言として信者の記憶に注入される霊的訓練の書である。 

黙示録の記述は、新約聖書の他の書の内容を暗示し、それらの箇所とつながって、そこでイエスが証ししたことを、新しい預言として信者の記憶に入れる。そのうえで聖霊は、信者があらためて新約聖書の他の書を味わうとき、その人を教え導いて、イエスが証ししたことが、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟らせる(ヨハ16:13参照)。このような黙示録の霊的訓練を継続的に行いながら、新約聖書の他の書を味わうことによって、信者の内に、イエスが証ししたことが、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟るという循環が起こる。この循環が、イエスを直接知る証人たちが保持していた体験の記憶を、訓練者の内に創り、保持させる暗黙知となる。このことは、これまで検討してきたヘブライ人への手紙からも分かる。 

黙示録の筆者ヨハネは、初めに彼に語りかけた声の主を、「右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙1:16)と描写した。また、ペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙にも、「鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる」(2:12)と書いている。この「鋭い両刃の剣」は、ヘブライ人への手紙の筆者も、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブ4:12)と書いた。黙示録の霊的訓練を繰り返し続ける信者は、ヘブライ人への手紙の筆者が書いたこと、すなわち、新約聖書の他の書に書かれたことが、イエスが証ししたこととして、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟る。 

ヘブライ人への手紙の筆者は、今は御父の右に座しておられる神の子イエスを永遠の祭司として、なんとかして教会共同体の「集会」の中心に位置付けようと試みた。イエスは、最期の過ぎ越しの食事のとき、パンとぶどう酒を準備した使徒たちに、新しい契約の司祭職を示した。イエスが司祭職を、ご聖体の制定と同時に使徒たちに授けることによって、また、使徒たちがその職務を受け継いでいくことで、司祭職は、永遠の司祭職となっていく。このイエスの証しは、黙示録において新しい預言となって、実現していく。こうして黙示録の後半は、次のように始まる。「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)。 

図にあるように、黙示録は7つの預言によって構成されている。その後半は、「司祭職とご聖体の神秘が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」から始まる。黙示録の霊的訓練は、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)という言葉を信じて、自分の声で朗読し、朗読している自分の声に集中するようにするだけのことだ。しかし、毎日少しずつしかできないことが多い。それでも、たとえ1行でもやると決めて続けるうちに、この黙示録の習慣が「幸い」となる日が来る。「イエス・キリストの黙示」(1:1)として壮大な預言的構成を持つ黙示録は、それを霊的訓練の書として受け取る一人一人の信者に働きかけ、聖霊の霊性の預言(図第7の預言参照)まで導き、完全なキリスト者の体験を味わわせることができる。次回からその過程を考察する。 

Maria K. M.



 2025/08/18



209. ヘブライ人への手紙から黙示録へ

ヘブライ人への手紙は、今は御父の右に座しておられる神の子イエスを永遠の祭司として、なんとかして教会共同体の「集会」の中心に位置付けようとする試みであった。それは、イエスが兄弟(姉妹)と呼ぶ信者たちが成長して、しまいにイエスから、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」(ヘブ2:13)と言われるまでになるためであった。筆者が、「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています・・・御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(10:19~20)と書いた思いには、イエスが制定したご聖体の意味と、イエスの名によって遣わされた聖霊が働くミサ典礼のイメージが見える。また、彼の「天に登録されている長子たちの集会」(12:23)の描写には、天上の「集会」のイメージがある(12:22~24参照)。

このように、旧約聖書と深いつながりを持っているヘブライ人の信者たちを導くために、筆者は「集会」を拠り所とした。新約聖書のないこの時、彼には、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(ヘブ13:7)と言うより他はなかったし、イエスの名がない旧約聖書に頼ることはできなかったのである。

一方、倫理的な問題を抱えた異邦人キリスト者の共同体に関わっていた使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙で、「酒に酔ってはなりません。それは身を持ち崩す元です。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェ5:18~19)と書いて、詩編にもとづいた霊的訓練を行うことを命じた(4:17~5:14参照)。また、コロサイの信徒への手紙にも、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロ3:16)と書いている。しかし旧約聖書の詩編には、「キリストの言葉」はもとより、イエスの名もない。しかも、イエスの再臨を待つキリスト者に、救い主を待つ旧約の人々のぶどう酒を飲ませれば、「だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方が良い』というのである」(ルカ5:39)と言ったイエスの言葉が現実になる。しかし、パウロにとって、他に頼るものは何もなかった。

イエスの公生活を共に過ごした使徒たちは、彼の受難、死、復活、昇天に遭遇し、聖霊の降臨を体験した。しかし、彼らとは全く異なる時に神の選びを受けた使徒パウロは、イエスとの実体験がなかった。彼は、イエスが、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)と言った「わたしが話したこと」の記憶を持っていなかった。これこそが、イエスの名によって遣わされた聖霊と関わるための重大な記憶になるのである。パウロはそのことを良く知っていた。そこで彼は自分からエルサレムへ行って、使徒たちから多くの聞き取りをした。彼の努力は、彼自身の益よりも未来のキリスト者の益となって新約聖書の中で開花した。

やがて、パウロがコリントの信徒への手紙で伝えているように、イエスの復活の証人たちの中ですでに亡くなる人々が出てきていた(一コリ15:6参照)。彼らには、イエスとの実体験があった。その多くは、直接教えを受け、「わたしが話したこと」の記憶を持っていたであろう。聖霊は、イエスを直接知るこれらの証人たちが保持していた記憶を、未来の信者に特別な仕方で注入するために、新約聖書にヨハネの黙示録を加えた。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)とある黙示録は、聖霊が、これらの証人たちに等しい体験を、信者の記憶の奥に格納する霊的訓練の書である。

ヨハネの黙示録は、新約聖書の他の書と強く結びついて、イエスの名によって遣わされた聖霊のために、信者の内奥に重大な記憶を創る。ヘブライ人への手紙の筆者は、この未来を予見したかのように、次のように祈った。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン」(ヘブ13:20~21)。

Maria K. M.

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