イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/11/24

223. 3羽の鷲と新約の司祭職

「イエス・キリストの黙示」(黙1:1)で始まるヨハネの黙示録は、その独特の構成によって、その意図がはっきり示されている。7つの預言で構成されている黙示録は、大きく二つの部分に分かれており、前半(第1から第3の預言、1~11章)は、新約聖書の成立に向かう預言、後半(第4から第7の預言、12~22章)は、ミサ典礼の完成と聖霊の霊性に向かう預言となっている。黙示録には、3羽の鷲が登場する。最初は、4つの福音書に見立てた四つの生き物の描写に登場する、鷲のような「第四の生き物」であり、それはヨハネ福音書を表していた(4:7参照)。 

次に、7つの封印が次々と開かれるが、これらは新約聖書の7つの書を表している(公同書簡は除かれている・・黙10:4参照)。黙示録を示唆する最後の封印が開かれると、7人の天使が次々に7つのラッパを吹く場面が展開する。それらは再び新約聖書の7つの書に見立てられる。ヨハネ福音書に見立てられた4つ目のラッパが吹かれると、「また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた」(8:13)とある。二番目の鷲の登場である。 

その後12章で、「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)というしるしとして、「新約の司祭職」が現れた。共観福音書の聖体制定の場面で、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と言って、御聖体と表裏一体を成し、使徒たちと切り離すことのできないものとしてイエスが制定した「新約の司祭職」である。続けて、「女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた」(黙12:2)と描写された。この「女」は、「新約の司祭職」を受け取った使徒たちであり、「子」はキリストの体である。迫害者たちはその秘密に迫ろうとするが及ばない(12:3~4参照)。ご聖体は神のもとへ隠され、「新約の司祭職」は、使徒たちの記憶に隠されたからである(12:5~6参照)。 

彼らに向かって迫害の手はさらに伸びる。しかし、「彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった」(黙12:11)。使徒たちの記憶が失われないうちに、それを具体的に残す必要があった。福音書である。黙示録は、「女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである」(12:14)と書いている。ここで最後の鷲が登場したのは、「新約の司祭職」が、ヨハネ福音書に隠されたことを暗示するためであった。 

ヨハネ福音書は、「新約の司祭職」をテーマとしている。しかし、この福音書を手にした者が、それとすぐ気づかぬように、ヨハネ福音書は「使徒」という言葉を使わず、聖体制定の場面を描かなかった。その一方で、イエスが十字架上でご自身の母と使徒を親子の絆で結ぶ場面を描くことで(ヨハ19:26~27参照)、「新約の司祭職」を公にした。「新約の司祭職」を授かった使徒たちは、聖霊に満たされ、男性でありながら、御聖体が生まれるための母となる。彼らは御聖体の誕生をイエスの名によって御父に願い、与えられ、喜びで満たされる者たちであった(16:20~24参照)。 

前回、ヨハネ福音書の中で、洗礼者ヨハネが、「新約の司祭職」を「花嫁」にたとえて預言したことを見た。今回、黙示録も、ヨハネ福音書のテーマが「新約の司祭職」であることを示唆していることが分かった。次回は、このことを念頭に、ヨハネ福音書を見直してみたい。 

Maria K. M.


 2025/11/17



222. 洗礼者ヨハネの預言

洗礼者ヨハネは、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハ1:32)と言い、重ねて、「わたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た」(1:33~34)と言って、「見た」ことを繰り返し主張した。ヨハネ福音記者が洗礼者ヨハネについて、「光ではなく、光について証しをするために来た」(1:8)と書いたように、彼は、「光」、すなわち真理の霊である聖霊を「見た」ことを証ししたのだ。そこでイエスは、後に、「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした」(5:33)と言われたのである。 

そして、福音記者が、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハ1:9)と続けた言葉は、彼自身が体験した聖霊降臨の出来事を示唆している。彼が、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(1:17)と書いたように、またイエスご自身が、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(12:46)と証ししているとおり、恵みと真理の「光」である聖霊は、イエスを通して世に現れたのである。こういう訳で、洗礼者ヨハネは、イエスを証しするためにきたのではなかった。 

イエスは、「わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」(ヨハ5:34~35)と言われた。洗礼者ヨハネは、「燃えて輝くともし火」の光を放っていたのである。その光には、最後の預言者としての使命が現れていた。 

洗礼者ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった時、洗礼者ヨハネが弟子たちに次のように言った。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハ3:29~30)。この文脈の「花嫁」という言葉は、福音書の中ではここにしか登場しない特別な言葉であった。洗礼者ヨハネは、ある神の計画を、「花嫁」にたとえて預言したのである。 

この計画こそが、すべてを成し遂げたイエスが証ししたもの、新しい契約として新約聖書が意図するもの、「新約の司祭職」である。「花嫁」は、御父の御言葉であるイエス・キリストにおいて成し遂げられた新しい契約の司祭職をたとえていた。それは、イエスが渡される夜に使徒たちに授け、記念として行うよう命じた聖体を制定したイエスの御業である(ルカ22:14~20参照)。そこで、イエスが昇天した後、「花婿」にたとえることのできる方は、イエスの名によって新たに遣わされる聖霊である。その夜、使徒たちだけが授かった聖体制定の御言葉が現実のものになるためには、聖霊降臨を待たねばならなかった。 

「新約の司祭職」が実践されるためには、使徒として選ばれた男性の存在が必須であった。創世記でアダムをエデンの園から追放した時から、使徒たちだけを集めたイエスの最期の食卓に至るまで、人間にとって気の遠くなるような長い歴史を通じて、神は人々を導いて来た。イエスが「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ22:15)と言われたとおりである。そして、神の御業である人の創造の担い手として造られた女性たちは、創世記の初めから、人の命を生み支えながら神に従ってきた。女性たちも共に発展してきたのである。 

「新約の司祭職」を授けられた司祭たちは、洗礼者ヨハネのように「花婿の介添え人」として聖霊のそばに立って、聖霊の声に耳を傾け、その声が聞こえると大いに喜ぶ。新約の「花婿の介添え人」は、「聖霊の介添え人」である。イエスは彼らを、「愛する者」という意味を込めて「友」と呼んだ(ヨハ15:14~16参照)。そこにイエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)という言葉を添えられた。 

そして、彼ら自身が、イエスの聖体を支える食卓となり、イエスを支えた十字架の木となるために、イエスは十字架上で、母と使徒を親子の絆で結んだ。その母は、神の子が人となったイエスご自身の身体を身ごもって支えたイエスの母であった。ここに新約の司祭が誕生した。やがて聖霊が降れば、彼らには、天使がイエスの母に告げた、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)という言葉が実現する。彼らのために、イエスは御父に次のように祈った。 

「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハ17:16~19)。

 Maria K. M.



 2025/11/10

221. 聖霊によって洗礼を授ける人

ヨハネ福音書は、初めに洗礼者ヨハネを次のように紹介した。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(ヨハ1:6~8)。「光」とは、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(1:4)と先に書かれた「光」である。 

洗礼者ヨハネは、「わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」(ヨハ1:31)と言って、洗礼を授ける理由を説明した。そして、「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(1:33~34)と告げた。「聖霊によって洗礼を授ける人」とは、イエスであった。 

洗礼者ヨハネが証ししたように、聖霊がイエスにとどまったのは、神であっても人として語るイエスの言葉が、生きた御言葉となるように、聖霊が共に働くためであった。こうして「言」の内にある命が、人間を内奥から照らす光となるのである。ここでヨハネ福音記者は、「わたしはこの方を知らなかった」という洗礼者ヨハネの言葉を二回繰り返して強調している。それは、洗礼者ヨハネが母エリザベトの胎内で6か月だったとき、イエスを身ごもって来訪したイエスの母マリアの挨拶に、胎内でおどったと書かれているルカ福音書の場面に、読者の目を向けさせるためであった。その時、マリアが言ったマニフィカトの言葉が、「聖霊によって洗礼を授ける」事の意味をよく説明しているからである。 

マニフィカトは次のように始まる。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカ1:46~49)。マリアは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)という天使の言葉が実現したことを悟り、聖霊の力によって救い主である神を喜びたたえたのである。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」という実感こそが、聖霊によって洗礼を授かった者であることの証しである。 

続くマリアの言葉は、その実感を人がどのようにして得るかを説明している。「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1:49~53)。 

「その御名は尊く」というのは、聖霊のことである(マタ12:31~32参照)。聖霊の働きで命の言葉となったイエスの言葉は、主を畏れ、その声を聴く者に働きかける。その者の内奥で、人間を照らす光となった御言葉は、その腕、すなわち諸刃の剣をもって力を振るい、その人を思い上がらせる記憶を打ち散らし、自分が権力者であるという錯覚から引き降ろす。その人が、神の御前で身分の低い者であることを自覚するまで。それは、神の子の立場に上げるためである。このようにして、神は、御言葉に飢えた人を良い物で満たし、人間の知識で満たされている者を無知のまま追い返すのである。 

ルカ福音書で、イエスがペトロの舟から群衆に教えを語り終え、ペトロに漁をするように指示した時、ペトロは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)と答えた。また、大漁に驚いたペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(5:8)と言った。このように、イエスご自身を前にし、主を畏れ、その声を聴く者となった彼らに、イエスは、マニフィカトの体験をさせたのである。 

イエスは最期の食卓で、「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハ14:17)と言って、弟子たちがこの時すでに聖霊を受けていたことを証しした。彼らはイエスから聖霊による洗礼を授かっていたのだ。 

ヨハネ福音記者は、仮庵祭でイエスが、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハ7:37~38)と言ったと述べている。そして、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」(7:39)と説明している。「御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”」とは、聖霊降臨のことであり、イエスが言われた「聖書に書いてあるとおり」とは、未来の新約聖書を指している。そこで「新約の司祭職」が明らかにされるのである。 

Maria K. M.


 2025/11/03


220. 新約の司祭職

ヨハネ福音書には「使徒」という言葉が登場しない。それは、ヨハネ福音書のテーマが「新約の司祭職」だからである。しかし「新約の司祭職」は、使徒職と切り離すことのできないように神が計画されたので(ヨハ19:26~27参照)、そのテーマだけに注目しにくく、この福音書がただ高度な霊的問題を扱っているだけのように見える。 

さらに、私たちがヨハネ福音書に難しさを感じるのは、「新約の司祭職」が御聖体と表裏一体を成していることだ。そこには、人間の情報と知識では、現代でもとても追いつけない未知の領域がある。それが明確にならないために、たとえば、「自分はご聖体製造機ではない」、「自分には目指す使徒職がある」というような、「新約の司祭職」とそれを受け取る男性との間には、ご聖体に関する特別な葛藤が起こることもあるのではないだろうか。 

それは、妊娠とそれを受け取る女性との間に起こる葛藤とよく似ているように思う。たとえば、「自分は子供製造機ではない」、「自分には自分の人生がある」というような、自分の体に宿った子に関する特別な葛藤が起こることもあるのではないだろうか。一見結び付かないようでも、この二つのケースにおいて起こるさまざまな問題にも、共通点があるかもしれない。このように葛藤を感じ、問題が起こること自体は、それぞれが永遠の命と人の命について、無意識であっても真摯に係わっていることの証しである。この証しは、これらの問題にさしあたり直接関わることのない周囲の人々の、真摯な対応によって支えられる。この人々の支える力を増大させるのも、究極的に「新約の司祭職」についての真実が明らかになることにあると考える。 

ルカ福音書には、イエスがご聖体を制定した時、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。・・この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:19~20)と言われたと書かれている。「あなたがたのために」と言われた「新しい契約」は、「新約の司祭職」なのである。それを「行いなさい」とイエスは命じた。これは、イエスの名によって集うすべての信者に向けられている。ヨハネ福音書は、共観福音書の「新約の司祭職」を浮き彫りにすべく、自身は聖体制定の場面を描いていない。 

共感福音書の書き出しを見てみると、マタイ福音書はアブラハムから始め、マルコ福音書は預言者イザヤの引用から入り、ルカ福音書は報告書のかたちを取っている。ここだけに注目して区別するなら、マタイ福音書には神の計画を意図する御父、マルコ福音書には預言を成就する御子、そして、ルカ福音書には結果(悟り)に導く聖霊の姿をイメージすることもできる。そして、それぞれに別な方向を向いているようで、それでいて使徒職という同じテーマを扱っているところから、これらの福音書の特徴は捉えやすい。 

一方、ヨハネ福音書の書き出しは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(ヨハ1:1~2)である。これは、御父と御子が一つであることを示唆している。イエスがご聖体と共に授けた「新約の司祭職」が、御父の御心であったことの証しである。続く「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(1:3)という言葉は、天地創造の時と同じく、イエスの最期の食卓で、キリストの体と御血が御言葉によって成ったことを示している。 

そして、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハ1:4~5)とあるように、命のパンについてイエスが証しした言葉を聞いた弟子たちの多くの者が、イエスの言葉を理解しなかった(6:60参照)。同様に、「新約の司祭職」を理解することも難しい。しかし、御言葉によって成ったご聖体と共にある「新約の司祭職」の内に命があって、それは、人間を照らす光である。光は暗闇の中で輝いている。命のパンについての場面の終わりには、次のように書かれている。 

「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』」(ヨハ6:66~69)。 

Maria K. M.

(お知らせ)

 インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。 「パトモスの風


 2025/10/27

219. 司祭職とヨハネ福音書

御言葉を聞いてイエスに従い、使徒となった漁師たちは、それまで誰も食べることのなかった「命の木」から取って食べた“初めの人”になった。こうしてイエス・キリストは、神がアダムを追放し、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置いて守った「命の木に至る道」(創3:24)を世に示した。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)と言ったとおりである。このイエスの言葉は、ヨハネ福音書で語られた。 

ヨハネ福音書において、司祭職は主要なテーマである。司祭が祭壇上で御父に向かって、「主イエス・キリストの御体と御血になりますように」と願う言葉は、イエスの母マリアに起こったことと同じ現象を司祭に引き起こす。この時、聖霊が司祭に降り、いと高き方の力が司祭を包む。だから、生まれる子、すなわちご聖体は、「聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)。聖霊に満たされてこの世にイエスを生んだ母は、司祭職を象徴しているのだ。十字架上で、イエスは、母と弟子を親子の絆で結び、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハ19:27)とある。この場面は、イエスが新しい司祭職を使徒に授け、使徒がそれを受け取ったことの証がここにあることを、使徒の後継者たちに、知らせている。 

ヨハネ福音書の内容は、次のようにたびたび三共観福音書と関わりながら展開される。それは、司祭職のテーマに迫るためである。前回考察したように、ルカ福音書で、イエスが初めの弟子たちを召し出した場面でのイエスとペトロのやりとりには、司祭職に関わる重大な文脈が含まれていた。イエスは、ペトロの舟から群衆に教えを語り終えると、ペトロに漁をするように指示した。それに対し、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)と答えたペトロの言葉は、多くの人の罪のもととなったアダムの神への不従順を、後に司祭職を受ける一人の人の従順によって打ち消すものとなった。イエスに導かれて生じたこの従順は、使徒の後継者たちによって継承され、多くの人が正しいものとされる礎となる。 

大漁に驚いたペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5:8)と言った。この言葉は、神の御心にかなう言葉として受け入れられ、神に対するアダムの背きを覆った。ペトロは、創世記で神がアダムに言った、「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:19)という言葉を実現する者、すなわち司祭職を担う者として選ばれたのである。「お前は顔に汗を流してパンを得る」とは、司祭職を指している。続く神の言葉には、人が土に返る生き物の自然の体をもっていても、神が土の塵から形づくられ、「命の息」(2:7)を吹き入れられた塵の体に返る人として、復活の希望が暗示されている。新しい司祭職は、この希望をすべての人にもたらす責務がある。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)と言ったイエスの言葉がそのことを証ししている。 

ペトロは、使徒の頭、教会の岩として選ばれただけではなく、神が「祝福し、聖別された」日を(創2:3参照)、人々とともに祝うための司祭職を与えるべく、旧約聖書の歴史が準備したいわば第二のアダムであった。ルカ福音書におけるイエスとペトロのこの重要なやり取りは、ヨハネ福音書における、初めの弟子たちを召し出した場面と次のようにつなげることで、より明確に理解される。そして、この重要な場面にペトロの兄弟アンデレの名が記載されていないことも補うことができる。 

ヨハネ福音書によると、洗礼者ヨハネの弟子で、初めてイエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼はシモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」(ヨハ1:42)と言われたのである。この事を前提にルカ福音書の漁師たちの場面を読むと、イエスとペトロが初対面ではなかったことがわかり、ここでの二人のやり取りに注目することになる。 

Maria K. M.


 2025/10/20



218. 和解の成立


キリスト者となった私たちは、今でも創世記に書かれたことから神の計画を読み取ることができる。新約聖書が成立しているからである。

同一種の生き物が複数になったとき、彼らの間に偶発的に情報が発生する。この偶発的情報が初めてその姿を見せたのは、神が創造した「女」を「男」のところへ連れて来た時だ。「男」は、「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」(創2:23)と言った。しかし創世記は、神が「女」の創造に「人」の骨を使ったと記しているが、肉には言及していない。「男」は、神が、あばら骨の一部を抜き取った後、「その跡を肉でふさがれた」(2:21)ことから、偶発的に言葉を発したのだ。

アダムは「男」として特別に神から造られたのではない。あばら骨の一つが取られた後の「人」が「男」である。そこで「人」の体と記憶を受け継ぐ「男」は、3つの記憶を持っていた。神から与えられた「仕事」(創2:15参照)、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16~17)という「知識」、そして「人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」(2:19~20)という「体験」である。しかしこの内の「知識」の記憶について、「男」は「女」と正確に共有できなかったことが後でわかる。二人の間に偶発的情報が絶えず発生し、記憶が新しく上書きされたからだ(3:1~5参照)。

「その日、風の吹くころ」(創3:8)、主なる神が園の中を歩いて来てアダムを呼んだ。神には計画があった。神は、ご自身が「祝福し、聖別された」(2:3)日を人々とともに祝うために、アダムを司祭職に向けて準備しようと考えていた。そのために、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2:15)のであった。しかしアダムと「女」は、記憶が上書きされていたために、「園のすべての木から取って食べなさい」(2:16)という神の言葉を忘れ、「命の木」から取って食べなかった。代わりに、「決して食べてはならない」(2:17)と命じられた「善悪の知識の木」から取って食べたのである。

その後アダムは、自分が名を付けたものには、「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」(創2:20)という「体験」の記憶を無視して、神が「人」から創造した「女」に、他の生き物に名を付けるように名を付けた。「彼女がすべて命あるものの母となったからである」(3:20)と誤った情報を持ったためだ。こうして、女性をすべての生き物と同等に認識したアダムの背きは決定的となって、彼は園を追い出された。しかし、「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた」(3:23)とあるように、神は、アダムに司祭職を与える計画を変更しなかったのである。

やがて、洪水を通り抜けたノアが、主のために祭壇を築き(創8:20参照)、アブラハムが、いと高き神の祭司サレムの王メルキゼデクと出会い(14:18参照)、神は、アロンとその子らを祭司に任職した(出29:9参照)。こうして創世記から始まる旧約聖書の長い物語は、神が目指す司祭職を与えるにふさわしくアダムを、すなわち男性を養成し、成長させる歴史を形づくった。これらの旧約聖書の歴史と旧い祭司職は、洗礼者ヨハネの誕生とその生涯をもって終了する。イエスが、「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」(マタ11:13)と言ったとおりである。そして、神の子イエス・キリストは、その宣教の初めに、遂に新しい契約の司祭職を与える新しいアダムを見つけた。後に使徒と呼ばれる彼らこそが、神との和解を成し遂げるまでに成長したアダムの子孫であった。

「イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた」(ルカ5:2~3)。

漁師たちも聞くとはなしに耳を傾けていたに違いない。「話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。シモンは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた」(ルカ5:4~5)。神は、アダムの子孫とこのようなやり取りをすることを、どれほど待っていただろう。

「そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。・・・これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った」(ルカ5:6~8)。ペトロのこの言葉によって、神は、創世記のあの日、「取って食べるなと命じた木から食べたのか」(創3:11)という問いに対する、「男」の真実な答えを受け取ったのである。

「シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:10~11)。御言葉を聞いてイエスに従った彼らは、「命の木」からその実を取って食べた“初めの人”になった。

Maria K. M.


 2025/10/13


217. 和解

前回考察したように、司祭が祭壇上で御父に向かって、「主イエス・キリストの御体と御血になりますように」と願う言葉は、イエスの母マリアに起こったことと同じ現象を引き起こす。この時、聖霊が司祭に降り、いと高き方の力が司祭を包む。だから、生まれる子、すなわちご聖体は、「聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)。マリアが天使から受けた言葉は、使徒ペトロがイエスを「メシア、生ける神の子」(マタ16:16)、「神の聖者」(ヨハ6:69)と呼んで証しした。これに倣って、現代も司祭と信者は、ご聖体に向かって、ペトロの言葉を証しし続けるはずである。 

しかし、なぜイエスは、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言った時、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタ16:17)と言って、御父の御心がその言葉にあったことを言ったのだろうか。それは創世記の「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた」(創3:8~9)というところまで引き戻す。神がアダムを呼んだのは、彼に使命を与えるためだったのではないか。しかし、その時すでに二人は神の御心に背いていた。神がそれを知らなかったのは、「ご自分にかたどって人を創造された」(1:27)主なる神は、「その鼻に命の息を吹き入れられ」(2:7)、ご自身の似姿となった人の意志がどう動くかを知ろうとなさらないからだ。 

だから神は、アダムが、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創3:12)と答えた時は、ずいぶんがっかりしたにちがいない。彼は、神に背いたばかりか、その原因を神に帰したからである。そもそもアダムは「男」として特別に神から造られたのではない。神が創造したのは、初めの「人」と「女」であった。そして、人(男と女)を創造する神の御業を継ぐのは胎を持つ「女」である。「男」には、これからの計画があった。神は、「男」と和解することを望んでいたに違いない。 

神は、「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:19)と言ってアダムを励ました。今、私たちはこの言葉が、いつか彼が顔に汗を流して「命のパン」を得るために働き、死んで土に返り、「命の息」を吹き入れられた塵の体が復活する、ということを示唆していたことが分かる。神が園でアダムを呼んで、告げようと思っていた神の計画は、アダムに司祭職を授け、神が「祝福し、聖別された」(2:3)日を、人々とともに祝うことだったのである。この計画は、イエス・キリストが新約の司祭職において実現した。この司祭職の使命は、胎児を身ごもる女性と同じように、命に対する使命である。それは、ご聖体に対する使命である。 

妊娠した女性の子宮に起こる胎盤形成は、受精卵、すなわち胎児側が主導的に働き、母体は受動的に関わって起こる。したがって胎盤を作る主体は母体ではなく胎児なのだ。胎児と胎盤は父方の遺伝子を半分持つために、母体から見れば“異物”だ。それにもかかわらず、母体は胎児を拒絶しない。このことは、「命のパン」について語ったイエスの言葉を拒絶した弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった時も、使徒たちはイエスのもとに留まったことを想起させる(ヨハ6:66~69参照)。 

胎盤形成は、母体側と胎児側の密接な対話の上に成り立っているという。胎児は母体の免疫をいわば “再教育”し、母体は胎児の侵入を“許可しつつ制御”する。子宮が胎盤を受け入れる仕組みは非常に精密で、「母体と胎児の間の和解の奇跡」という、ヒト種特有の胎盤形成プロセスなのである。この微妙な交渉のバランスこそが、「妊娠」という現象の本質であり、ここで起こる和解とは、単なる静的平和ではなく、動的なバランスの維持だというのだ。それはイエスが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハ14:27)と言ったとおりである。この和解は、祭壇の前で聖霊が降る司祭にも起こっているに違いない。 

子宮は単なる“器官”ではない。ヒトの生命の成立を支えている。ヒトという種の発生・免疫・脳・社会性にまで影響するきわめて深い意味をもっている。女性は、ヒト種特有の胎盤形成プロセスという、他の生き物に類を見ない高度な重荷を背負ったのである。それは、新しい契約の司祭職も同じである。聖霊に満たされてご聖体を生むという役割を背負って、イエスの母マリアのように生きる司祭は、神と人の歴史が強く求める「和解」を実現することになる。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と言ったペトロの答えは、御父の御心に適っていたのである。続けてイエスは次のように言った。 

「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタ16:18~19)。 

Maria K. M.


 2025/10/06


216. 新たな「実体変化」への招き

ヨセフは夢の中で、天使に、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタ1:21)と告げられた。この言葉の「自分の民」とは、当時も今も、私たち信者のように、イエスを信じた人々を指している。「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(ヨハ16:9)とイエスが言ったように、イエスは、彼を信じた者たちをいつもこの罪から救った。この後、「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタ1:23)と解説が挿入されているように、イエスは、そのためにこのような神と人との関係を実現したのである。その効果は、イエスを信じた人々に現れる。 

イエスに従って、イエスと共にいた当時の信者たち一人一人は、イエスのそばにいることで、「わたしを信じないこと」という罪から救われた。イエスは信者に触れる機会を得て、信者は神の救いを実感するほどに、神が近くいると感じることができた。こうしてイエスは、「わたしの教会」(マタ16:18)となる「自分の民」を守った。イエスは、ご聖体を制定することによって、神であっても人として体を持っていたご自身には不可能であったことが可能となるよう、準備して行かれた。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(ヨハ6:56)というイエスの言葉は、ご聖体によって実現可能となり、「自分の民を罪から救う」神の御業が継続される。神が近くいるのではない。神が信者の内に入るのである。 

ご聖体は、「実体変化」による、いわば第2の受肉の神秘である。ご聖体は、それを拝領する信者たちを、「わたしを信じないこと」という罪から救い続ける。イエスがご自身で証しした、その誕生と死、復活と昇天、そして、確かにイエスのご遺体を墓に葬り、見届けておいたのに、イエスの体がなくなっていたことなど、新約聖書を通して使徒たちから伝え聞いたこれらの事柄を、信者たちは共有する。ご聖体は、私たち信者に食べられることによって死に、その体は、イエスのご遺体が墓から消えていたように、なくなってしまう。そのわずかな時間に、信者たちには、ご聖体によって、神の現存するキリストの体を持つ者へと「実体変化」が起こる。ゆえに、拝領する者の記憶には、ご聖体が誰であるかが、しっかりと刻まれていなければならない。 

一方、マリアは天使に、まず、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(ルカ1:31~33)と告げられた。それは、イエスが公生活をそのように生き、「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」という言葉を、十字架上で実現するということであった。十字架上のイエスの頭の上に掲げられた札に、「これはユダヤ人の王」(23:38)と書かれていたことが、それを証ししている。まさに、「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」のである。 

次に天使が、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)と告げた言葉は、イエスの母となったマリアの身に実現した。それは、十字架上でイエスが、母マリアと使徒を親子の絆で結んだ場面へとつながっていく。この言葉は、イエスの母マリアの子となった使徒のものとなって継承されたのだ。ゆえに、司祭が御父に向かい、「主イエス・キリストの御体と御血になりますように」と願うとき、聖霊が司祭に降り、いと高き方の力が司祭を包むのである。だから、生まれる子、すなわちご聖体は、「聖なる者、神の子と呼ばれる」。 

イエスが弟子たちに、「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」(マタ16:15)と言ったとき、使徒ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えた。すると、イエスは、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)とお答えになった。御父が使徒ペトロに現した言葉は、神を父と呼ぶすべての信者が、イエスを見て、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言うことを望む御父の御心である。私たち信者は、この同じ言葉をご聖体に向けて言うことによって、私たちの御父の御心に答えるのである。 

ご聖体を見て、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言うことを繰り返すことによって、信者の記憶には、ご聖体が、「メシア、生ける神の子」であると、しっかりと刻まれていく。そして神を天の父と呼ぶ信者が、ご聖体を拝領し、ご聖体が留まるわずかな間、神の現存するキリストの体を持つ者へと「実体変化」が起こる時、自分が神の子であることを、わずかずつでも実感にしていくのである。この実感が、イエスを信じることを確かなものとしていく力となる。 

Maria K. M.

(お知らせ)

 インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。№214とテーマが重複していますが、表現を新しくしています ➡ 「パトモスの風



 2025/09/29


215. 実体変化

ご聖体はキリストの御体と御血である。第二バチカン公会議の教会憲章は、ご聖体が、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である」(「教会憲章」№11)と書いている。従って、ご聖体がキリストの体と血であることを信じることは、私たちの信仰の核心である。しかし、私たち信者は、このことを理解し実感を持って受け入れているだろうか。 

司祭は祭壇上で聖霊の働きを御父に願い、パンと杯を手に取って、「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである」、「これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である」と言って、イエスの最後の食卓での言葉を繰り返す(「ミサ典礼書」参照)。こうして御父への願いはかなえられ、パンとぶどう酒はキリストの体と血に変わる。これを教会は古くから「実体変化」と呼んできた。この言葉をトリエント公会議は次のように明確に定義した。「すなわち、パンとぶどう酒の聖別によって、パンの全実体が私たちの主キリストの実体となり、ぶどう酒の全実体がその血の実体に変化します。聖なるカトリック教会は、この変化をまさしく適切に全実体変化と呼びます」(トリエント公会議第13総会『聖体についての教令』4、DS1642)。 

このことは、パウロ6世教皇の回勅「ミステリウム・フィデイ」(19659月)であらためて確認されている。パンとぶどう酒という、キリストの体と血とは似ても似つかぬものが、御父がイエスの名によって遣わした聖霊と司祭が一つになって働くことで、ご聖体に変わるという「実体変化」は、変わるだけではなく、主ご自身が現存する体そのものになることを意味している。司祭は聖霊と一つになって働き、ご聖体が生まれる。司祭なくしてご聖体は生まれないのである。 

「実体変化」という言葉は、妊娠と出産を体験した女性にとって、深い共感を呼び起こす言葉である。受精卵という、人の体とは似ても似つかぬものが、女性の胎に守られて、やがて人の体となって生まれ出るからである。胎児の体には、「在れ」という御言葉と、聖霊の働きによって、神が望んだ人の命がある。今も女性なくして人の命は生まれないのである。 

ルカ福音書によれば、「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」(ルカ1:41)と書かれている。母の胎内で洗礼者ヨハネは、この時、人となったイエスを証ししたのだ。受精卵という、人とは似ても似つかぬものが、女性の体内で成長し、胎動するようになる。それは、またもう一つの「実体変化」と言えるのではないだろうか。ゆえに、イエスは、最期の食卓で使徒たちに、女が子供を産むときのたとえを語り、一人の人間が世に生まれ出た喜びに言及したのである。

「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(ヨハ16:21)と言ったイエスは続けて、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(16:22)と言って、ご自身の復活と同時に、ご聖体の誕生を予告した。 

そして、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハ16:23~24)と保証した。教会はこの世で最高のものを願ってきた。「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」と願って祈り、イエスのこの言葉に応えてきた。「父に願うならば、父はお与えになる」という言葉は即座に実現する。このとき司祭は、聖霊とひとつになって、イエスの言葉を実証しているのである。 

このように考えてくると、祭壇上でパンとぶどう酒がキリストの御からだと御血に「実体変化」するということは、現代人にとっても、受け入れがたいことではない。私たち信者は、ご聖体を拝領した時、神の現存するキリストの体と一体になったことを実感しなければならない。そこに、新たな「実体変化」に呼ばれる未来への希望がある。 

Maria K. M.


 2025/09/22



214. 「カトリック教会のカテキズム」№1386


このブログでは、これまでかなり長い時間をかけて、マタイとルカ福音書にある百人隊長のエピソードを注意深く観察し、考察してきた。イエスに僕(部下)の癒しを願う百人隊長の言葉が、世界中のミサ典礼において、司祭が掲げるご聖体を前にして、司祭と会衆が共に聖体拝領の招きに答えるという重要な場面で使われる言葉である、という観点から、このエピソードを見直す必要があると考えたからだ。上記両福音書ともに、百人隊長は二つの場面に登場する。イエスに僕(部下)の癒しを願う場面と、イエスの十字架のそばに立ってイエスへの信仰を吐露する場面である。後者の場面は、マルコ福音書も記載している。これらの場面に登場する百人隊長が同一人物かどうかは別にしても、百人隊長の言葉には、信仰における二つのステージを見ることができる。

初めの、イエスに僕(部下)の癒しを願う場面では、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(ヨハ6:44)とイエスが言った通り、百人隊長は、御父の引き寄せる力によって、イエスのもとへ来ることができた。そして、その信仰によってイエスに病気の僕(部下)を癒していただいた。第1のステージである。一方、イエスが十字架にかけられた場面では、「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」(マコ15:39)と書かれている。ここでの百人隊長の言葉は、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハ12:32)というイエスの言葉の実現となっている。第2のステージである。

「カトリック教会のカテキズム」(1997年規範版)の№1386には、「この秘跡の偉大さを前にして、信者はただ百人隊長の次のことばを謙虚にまた熱烈な信仰をもって繰り返す以外にはありません。『主よ、わたしはあなたをお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます』」と書かれている。 しかし、この百人隊長の言葉は、御父に引き寄せられてイエスのそばに来た第1のステージのものである。「わたしは地上から上げられるとき・・」と言ったイエスの言葉によって引き寄せられ、イエスのそばに来た私たちキリスト者とはステージが異なっている。私たち信者は、地上から上げられたイエス、すなわち十字架上のイエスに引き寄せられたのだ。

「カトリック教会のカテキズム」は、これに続いて、聖ヨハネ・クリゾストモの聖典礼での祈りの言葉を紹介している。それは、イエスと共に十字架にかけられた盗賊の、「主よ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」という叫びを含んでいる。この叫びは、いわば、十字架上のイエスに引き寄せられた最初の人の叫びだということができる。

聖ヨハネ・クリゾストモの聖典礼は、確かに十字架上のイエスに向かう応答を含んでいるが、この場面は、聖霊が降臨した後の使徒言行録の記述にある、百人隊長の場面に行き着くことはない。そこには、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(使10:2)という百人隊長の姿が描かれている。そして、この百人隊長と使徒ペトロとの関りから(10:1~48参照)、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれた。百人隊長のエピソードが伝える信仰の軌跡には、私たち信者が目指す教会の発展が映し出されている。

同じカテキズムの№1382に、「ミサは十字架上のいけにえが永続する記念であると同時に、主の体と血にあずかる聖なる会食でもあります。感謝のいけにえの祭儀は、聖体拝領(コムニオ)によるキリストと信者たちとの親密な一致に向けられたものです。聖体拝領とは、わたしたちのためにいのちをささげられたキリストご自身をいただくことです」と書かれているように、私たち信者は、ご聖体という、「この秘跡の偉大さを前にして」する応答に、「本当に、この人は神の子だった」という十字架上のイエスに向かう百人隊長の第2ステージの言葉を応用すべきではないだろうか。

「ローマ・ミサ典礼書」による司祭の聖体拝領への招きの言葉は、「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」である。「世の罪を取り除く神の小羊」は、洗礼者ヨハネが自分の方へ来るイエスを見て言った言葉だ。ゆえに「神の小羊の食卓」は、イエスの最期の食卓である。ミサの中で、この時私たちは、司祭が掲げたご聖体に、十字架の上に上げられたイエスを確かに見ているのだ。

Maria K. M.

 2025/09/16



213. 完全なキリスト者の体験を味わう過程とそこで得られる実感


前回の考察を振り返ると、マタイとルカ福音書にある百人隊長の言葉は、ローマについての神の計画を知る由もないこの時の百人隊長が、イエスを信じた自分と、ローマの兵隊としての立場との折り合いをつけた言葉であったと言える。彼は、イエスに「従っていた人々」(マタ8:10)や、イエスと長老たちに付いて来ていた「群衆」(ルカ7:9参照)に、家まで来てほしくなかったのである。しかし、百人隊長は、十字架上のイエスが息を引き取った時には、その出来事を見て、「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)と実感するところまできていた。

さらに、聖霊が降臨した後の使徒言行録の記述には、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(使10:2)と書かれた百人隊長の姿がある。この百人隊長と使徒ペトロとの関りから(10:1~48参照)、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれた。ここに描かれた百人隊長の一連のエピソードには、完全なキリスト者の体験を味わう過程と、そこで得られる実感とを見ることができる。イエスを五感で捉えた者の恵みの力である。

このような百人隊長の信仰の成長を、黙示録の前半で辿ることができる。黙示録の1~3章には、百人隊長が、イエスを信じた自分と自分の立場との折り合いをつけたように、手紙というかたちをとって、自分自身と教会の現状との折り合いをつけながら宣教して行こうとする7つの教会の天使たちを描いている。続く4章から始まる新約聖書成立の預言は、百人隊長がイエスの十字架のそばに立ったように、この書を読むすべての人を、イエスの十字架のそばに連れて来るのである。

さらに、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と書かれた百人隊長の姿にあやかるのは、ミサ典礼の場である。黙示録の霊的訓練のルーティンは、ミサ典礼のルーティンと密接に重なるように意図されており、ミサ典礼から出て、次に入るまでの信者の日常の記憶を支え準備する。ミサ典礼の中で信者は、ご聖体と対面する。ここで、ご聖体がイエス・キリストであることを告白し、拝領することによって、「本当に、この人は神の子だった」と言った百人隊長と同じ実感を得る。このルーティンを行くことこそが、完全なキリスト者の体験を味わう過程であり、黙示録の霊的訓練の過程なのである。

百人隊長と使徒ペトロとの関りから、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれたように、宣教を支える黙示録の霊的訓練が後半に向かうと、訓練者は、自身の記憶に入った啓示の言葉と「人間の情報」を区別しながら、自分自身を知っていく工程に進む。黙示録の霊的訓練のルーティンを何度も繰り返すうちに、少しずつ明らかになっていく自分の姿を認めることによって、自分の周囲の見え方も変わって来る。ここから宣教に向かうきっかけが生まれる。さらに「人間の情報」に敏感になって、その働きが見えるようになってくると、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハ16:7~8)と証ししたイエスの言葉を悟り、聖霊と協働する機会に恵まれるようになる。

御父と御子は、新しい預言が、未来の私たち信者の上に実証されるのを待っている。イエスの名によって遣わされた聖霊は、そのために、すべての信者たちが完全なキリスト者の体験を味わう過程と、そこで得られる実感とを与えるために、黙示録を含む新約聖書とミサ典礼を準備した。ゆえに、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(ヨハ6:39)と言ったイエスの言葉は、どこまでも弱さが残る多くの信者たちのものである。続けて、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(6:40)と言った言葉は、人類の希望である。

Maria K. M.

 2025/09/08

212. 完全なキリスト者の体験を味わう過程を知る手掛かり

イエスがご聖体を定め、地上に残した理由は、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」(ヨハ6:40)である。前回考察したように、「子を見て信じる者」になるには、感謝の典礼の中で、聖霊と協働する司祭が会衆に示すご聖体を見て信じる者になること以外にはない。ご聖体に向かって、「あなたは、神の子、キリストです」(マタ16:16、ヨハ11:27参照)と宣言することを、ミサのたびに繰り返すことによって、信者一人一人の記憶に、「子を見て信じる者」となった事実が焼き付いていく。しかしこの重要な場面で、私たち教会は、世界中が百人隊長の信仰を宣言してきた。このテーマは、これから、黙示録がどのようにして完全なキリスト者の体験を味わわせるのか、その過程を考察するにあたって、重要な課題を含んでいるので、もう一度別の角度から考察してから先に進むことにする。 

ヨハネ福音書は、イエスとピラトのやり取りを詳しく伝えている。その最期の時に、イエスがローマ総督ピラトと関わる場面を残すことによって、神が、ローマをキリスト者のものにするという狙いがあったことを印象付けようとしたと捉えると、すべてがはっきりとしてくる。イエスは、ヤコブの井戸で出会ったサマリアの女に、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハ4:21)と証しした。それは、結果的にローマだった。エルサレムが崩壊することを知っていた神は、新しい契約の上に、イエスが生み出し、聖霊が設立する教会のために、初めからローマに新しい都を計画していた。 

百人隊長のエピソードは、マタイ福音書とルカ福音書にある。僕の癒しを願ったルカ福音書の百人隊長は、イエスに家に来てほしくないという状況に遭遇した。イエスと長老たちに加えて「群衆」も付いて来ていたからだ(ルカ7:9参照)。そこで彼らが、「その家からほど遠からぬ所」(7:6)まで来たとき、百人隊長は、友人たちを送って、次のように言わせて、イエスの来訪を断った。マタイ福音書の場合は、イエスに付いて来たのは、「群衆」ではなく「従っていた人々」(マタ8:10)であったが、それでも百人隊長は、イエスの来訪を断っている。

 「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(ルカ7:6~8)。 

神がローマに新しい都を計画していたことを念頭に置いてこの伝言を聞くと、百人隊長の言葉は、そのままローマ帝国の未来にあてはめることができる。イエスはこれを聞いて驚き、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(ルカ7:9)と言った。ローマの兵隊であった百人隊長が、預言者のように語ったからだ。「主よ、御足労には及びません・・」とあるように、ローマ帝国は、十字架上で亡くなったイエスを迎え入れることはない。しかし、イエスがローマ帝国の刑罰である十字架刑を受けたことは、ローマにイエスの名を刻印することになった。こうして、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」という言葉は実現した。御言葉は、パウロより先にローマに辿り着き、すでにその民に働きかけていた(ロマ1:6~7参照)。 

また、百人隊長の軍務体験から出た言葉は、一見平凡なものに見えるかもしれない。しかし、その言葉の裏には、当時のローマ帝国が持つ法律や軍事に関する、合理的なシステムがあった。そこに、神が十字架上で成し遂げた新しい契約を生きる教会のために、都をローマに求めた理由がある。神の子が地上に来たために起こる、人類の急速な進歩を受け止める器が、ローマ人の文化や伝統、気質にはあったのだ。今、歴史を経た私たちは、新約聖書の中に新しい預言があったことを知る。 

イエスの驚きの言葉は、百人隊長の僕に届き、僕は元気になっていた。イエスを信じる百人隊長の気持ちは、直観的で純粋であった。それはイエスが、「また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」(ルカ4:27)と言って引用した、アラムの王の軍司令官ナアマンのようだ。彼が、妻の召使のイスラエルの少女から聞いて預言者エリシャを信じたように、百人隊長は、長老たちからイエスのことを聞いて信じたのだ。 

イエスが、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」(ヨハ6:44~45)と言った言葉は、旧約の預言が実現したことを証ししている。当時イエスが関わった人々は、御父の引き寄せる力によってイエスのもとに来ることができた人々であった。百人隊長もその一人であり、その信仰は、旧約の民の信仰の延長線上にあった。 

しかし、百人隊長は、その信仰に留まっていることはできなかった。後にイエスが、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハ12:32)と証ししたように、十字架上のイエスに、その見張りを一緒にしていた人々と共に引き寄せられ、「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)と言うことになったからだ。ルカ福音書では、「『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」(ルカ23:47)と書かれている。 

御父に引き寄せられてイエスのもとに来た百人隊長は、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。・・ひと言おっしゃってください」と言った。それは、旧約の民の預言に支えられた信仰であった。やがて、十字架上のイエスに引き寄せられ、「本当に、この人は神の子だった」と言った言葉は、まさにイエスが今成し遂げたばかりの、新しい契約に向かっていた。さらに、聖霊が降臨した後の私たち信者は、ご聖体を前にして、「子を見て信じる者」の信仰を告白するのである。ここに、黙示録が完全なキリスト者の体験を味わわせる過程を知る手がかりがある。 

Maria K. M.

 

(お知らせ)

 今回の内容は、本ブログ執筆者が、インターネットマガジン「カトリック・あい」に投稿した内容と一部重複しています。 「パトモスの風


 2025/09/01



211. まず、世の誤りを明らかにしておくこと


前回話したように、「イエス・キリストの黙示」(黙1:1)は、黙示録を霊的訓練の書として受け取る一人一人の信者に働きかけ、新約聖書の他の書と一体となって、聖霊の霊性にまで導き、完全なキリスト者となる体験を味わわせる。このことが、聖霊によってなされることから、その過程を考察する前に、まず、聖霊についてイエスが最後に証しした、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハ16:7~8)という言葉を確認しておきたい。

「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(ヨハ16:9)とある。それは、イエスが、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」(6:35~36)と言った言葉から明らかになる。この箇所でイエスが、「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言った言葉は、未来の私たち信者にも向けられていることに気付かされる。

イエスは、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(6:40)と言った。そして、その仕方を次に具体的に語ると、ユダヤ人たちは混乱状態に陥った。しかしイエスは、さらに、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:54)と言って話を進めた。これを聞いていた弟子たちの多くが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6:60)と言ったとある。彼らは、生きているイエスが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」と言ったのを聞いて、それを信じることができなかった。彼らは、「大変な思い違い」(マコ12:27)をしていたのだ。これが「世の誤り」である。

私たち信者は、パンとぶどう酒のかたちを取るご聖体を見て、「わたしが命のパンである」と言ったイエスの言葉を信じているだろうか。ご聖体が生きているイエスだと言えるだろうか。言えるのであれば、それをどこで証しするのだろうか。それは、イエスの名によって遣わされた聖霊が、司祭の手を通してミサの中で明らかに示すご聖体を前にしてである。信者たちが、ご聖体を前にして、「あなたは、神の子、キリストです」(マタ16:16、ヨハ11:27参照)と宣言する場面がないなら、それは「世の誤り」に惑わされているからだ。

イエスは、ファリサイ派の人々に、「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」(ヨハ8:17~18)と言った。ミサの中で教会全体がご聖体を「神の子、キリストです」と宣言することは、信者一人一人が御父と御子の証しに加わって、聖霊と協働して全世界を救うほどの業になる。ご聖体を前にした私たちが、もしそれを宣言しないでいるなら、イエスから「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言われ続けるだろう。それは罪について問われているのである。

「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」(ヨハ16:10)である。ヨハネ福音書を読むと、イエスが、「見る」という感覚の働きと「信じる」ことの関係に特別に注意を払っていたことが分かる。イエスがご聖体を定め、地上に残した理由は、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである」(6:40)。「子を見て信じる者」となること、すなわち、感謝の典礼の中で、聖霊と協働する司祭が会衆に示すご聖体を見て信じる者になることは、私たちが、ご聖体に向かって、ご聖体が「神の子、キリスト」であると宣言したとき実現する。この宣言をミサのたびに繰り返すことによって、信者一人一人が「子を見て信じる者」となったという認識を固めていくのである。

しかし、イエスを見ないで信じたにもかかわらず、御父のみ旨を完全に成し遂げたイエスのイメージが頭から離れず、ご聖体をよそに、そのイエスを知りたい、そのイエスを見たい、そのイエスと合一したいという思いに惑わされる者がいる。「世の誤り」からくるその思いは、義について「もはやわたしを見なくなること」と言ったイエスの言葉に反して、見たこともないはずのイエスの姿をその人に感じさせる。それは、その人自身の執拗な欲求と欲望が見せているものだ。これらの欲求や欲望は、人の最も高次の欲求と言われる自己実現の欲求から生じる。そしてそれは、一度達成されたと感じても終わりがなく、生涯にわたってそのプロセスを幾重にも編み出す。その都度あらゆる欲望を総動員して、「世の誤り」を認識せず、「大変な思い違いをしている」(マコ12:27)信者たちへ向かう。そして、彼らがこの自己実現の欲求を自分と同一視すれば、自己実現の欲求は、その人の支配者となる。

イエスは、「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」(ヨハ16:11)と証しした。自己実現の欲求に支配された信者たちに、それを知る機会を、黙示録の霊的訓練は与える。この訓練を続けるうちに、「鋭い両刃の剣を持っている方」(黙2:12)に、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通されて、自分の心の思いや考えを見分けることができるようになっていくのだ(ヘブ4:12参照)。やがて、自分のあるがままの姿を見る時がくる。イエスは、信者たちが、自身の自己実現の欲求を断罪する言葉を、生きている神の言葉であると気付いて受け取ることを切に願ったに違いない。それが可能となるために、イエスは、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハ16:7)と言ったのである。その弁護者こそが、「神の言葉は生きており、力を発揮」(ヘブ4:12)することを教え、悟らせる聖霊なのである。

聖霊に従って黙示録の霊的訓練を行うこと、それは言い換えれば聖霊と協働して訓練することである。人が聖霊と協働するとき、人は本来持っている可能性を発揮し、真に自分らしく生きることができる。聖霊の霊的訓練によって、やがて私たち信者は、自分がイエスに似たもの、神の似姿になるのを見ることになる。これこそが真の自己実現であり、ここにイエスが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハ14:27)と約束した神の平和がある。

Maria K. M.

 2025/08/25


210. イエス・キリストの黙示と霊的訓練の書

聖霊が降臨した後、イエスを直接知る証人たちは、言葉や業によってイエスが証ししたことが、新しい預言となって実現していくのを目の当たりにした。イエスの名によって遣わされた聖霊は、彼らの体験の記憶を、イエスを見ないで信じる者たちに授けるために、新約聖書を成立させ、その中に黙示録を置いた。黙示録に「イエスの証しは預言の霊なのだ」(黙19:10)とあるように、黙示録は、イエスの証ししたことが新しい預言として信者の記憶に注入される霊的訓練の書である。 

黙示録の記述は、新約聖書の他の書の内容を暗示し、それらの箇所とつながって、そこでイエスが証ししたことを、新しい預言として信者の記憶に入れる。そのうえで聖霊は、信者があらためて新約聖書の他の書を味わうとき、その人を教え導いて、イエスが証ししたことが、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟らせる(ヨハ16:13参照)。このような黙示録の霊的訓練を継続的に行いながら、新約聖書の他の書を味わうことによって、信者の内に、イエスが証ししたことが、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟るという循環が起こる。この循環が、イエスを直接知る証人たちが保持していた体験の記憶を、訓練者の内に創り、保持させる暗黙知となる。このことは、これまで検討してきたヘブライ人への手紙からも分かる。 

黙示録の筆者ヨハネは、初めに彼に語りかけた声の主を、「右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙1:16)と描写した。また、ペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙にも、「鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる」(2:12)と書いている。この「鋭い両刃の剣」は、ヘブライ人への手紙の筆者も、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブ4:12)と書いた。黙示録の霊的訓練を繰り返し続ける信者は、ヘブライ人への手紙の筆者が書いたこと、すなわち、新約聖書の他の書に書かれたことが、イエスが証ししたこととして、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟る。 

ヘブライ人への手紙の筆者は、今は御父の右に座しておられる神の子イエスを永遠の祭司として、なんとかして教会共同体の「集会」の中心に位置付けようと試みた。イエスは、最期の過ぎ越しの食事のとき、パンとぶどう酒を準備した使徒たちに、新しい契約の司祭職を示した。イエスが司祭職を、ご聖体の制定と同時に使徒たちに授けることによって、また、使徒たちがその職務を受け継いでいくことで、司祭職は、永遠の司祭職となっていく。このイエスの証しは、黙示録において新しい預言となって、実現していく。こうして黙示録の後半は、次のように始まる。「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)。 

図にあるように、黙示録は7つの預言によって構成されている。その後半は、「司祭職とご聖体の神秘が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」から始まる。黙示録の霊的訓練は、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)という言葉を信じて、自分の声で朗読し、朗読している自分の声に集中するようにするだけのことだ。しかし、毎日少しずつしかできないことが多い。それでも、たとえ1行でもやると決めて続けるうちに、この黙示録の習慣が「幸い」となる日が来る。「イエス・キリストの黙示」(1:1)として壮大な預言的構成を持つ黙示録は、それを霊的訓練の書として受け取る一人一人の信者に働きかけ、聖霊の霊性の預言(図第7の預言参照)まで導き、完全なキリスト者の体験を味わわせることができる。次回からその過程を考察する。 

Maria K. M.



 2025/08/18



209. ヘブライ人への手紙から黙示録へ

ヘブライ人への手紙は、今は御父の右に座しておられる神の子イエスを永遠の祭司として、なんとかして教会共同体の「集会」の中心に位置付けようとする試みであった。それは、イエスが兄弟(姉妹)と呼ぶ信者たちが成長して、しまいにイエスから、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」(ヘブ2:13)と言われるまでになるためであった。筆者が、「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています・・・御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(10:19~20)と書いた思いには、イエスが制定したご聖体の意味と、イエスの名によって遣わされた聖霊が働くミサ典礼のイメージが見える。また、彼の「天に登録されている長子たちの集会」(12:23)の描写には、天上の「集会」のイメージがある(12:22~24参照)。

このように、旧約聖書と深いつながりを持っているヘブライ人の信者たちを導くために、筆者は「集会」を拠り所とした。新約聖書のないこの時、彼には、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(ヘブ13:7)と言うより他はなかったし、イエスの名がない旧約聖書に頼ることはできなかったのである。

一方、倫理的な問題を抱えた異邦人キリスト者の共同体に関わっていた使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙で、「酒に酔ってはなりません。それは身を持ち崩す元です。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェ5:18~19)と書いて、詩編にもとづいた霊的訓練を行うことを命じた(4:17~5:14参照)。また、コロサイの信徒への手紙にも、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロ3:16)と書いている。しかし旧約聖書の詩編には、「キリストの言葉」はもとより、イエスの名もない。しかも、イエスの再臨を待つキリスト者に、救い主を待つ旧約の人々のぶどう酒を飲ませれば、「だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方が良い』というのである」(ルカ5:39)と言ったイエスの言葉が現実になる。しかし、パウロにとって、他に頼るものは何もなかった。

イエスの公生活を共に過ごした使徒たちは、彼の受難、死、復活、昇天に遭遇し、聖霊の降臨を体験した。しかし、彼らとは全く異なる時に神の選びを受けた使徒パウロは、イエスとの実体験がなかった。彼は、イエスが、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)と言った「わたしが話したこと」の記憶を持っていなかった。これこそが、イエスの名によって遣わされた聖霊と関わるための重大な記憶になるのである。パウロはそのことを良く知っていた。そこで彼は自分からエルサレムへ行って、使徒たちから多くの聞き取りをした。彼の努力は、彼自身の益よりも未来のキリスト者の益となって新約聖書の中で開花した。

やがて、パウロがコリントの信徒への手紙で伝えているように、イエスの復活の証人たちの中ですでに亡くなる人々が出てきていた(一コリ15:6参照)。彼らには、イエスとの実体験があった。その多くは、直接教えを受け、「わたしが話したこと」の記憶を持っていたであろう。聖霊は、イエスを直接知るこれらの証人たちが保持していた記憶を、未来の信者に特別な仕方で注入するために、新約聖書にヨハネの黙示録を加えた。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)とある黙示録は、聖霊が、これらの証人たちに等しい体験を、信者の記憶の奥に格納する霊的訓練の書である。

ヨハネの黙示録は、新約聖書の他の書と強く結びついて、イエスの名によって遣わされた聖霊のために、信者の内奥に重大な記憶を創る。ヘブライ人への手紙の筆者は、この未来を予見したかのように、次のように祈った。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン」(ヘブ13:20~21)。

Maria K. M.

 2025/08/11



208. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題への解決と実り


ヘブライ人への手紙の筆者は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブ11:1~3)と述べている。その上で、この信仰のゆえに神に認められた旧約の人たちの歴史を簡潔に示し(11:4~38参照)、その結果を次のように結論した。「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」(11:39~40)。

ヘブライ人であったイエス・キリストに従うキリスト者の信仰において、旧約の歴史と切り離されることはない。しかし、ここで筆者は、信仰についての二つの在り方を示し、旧約の民の歴史に全く新しい時代が来たことを告げている。このために、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という定義は、「その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした」という結果となった。一方、聖霊によってイエスの名を信じる人々は、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」という状態を受け取る。「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」とはこのようなことであった。

旧約と新約の信仰の在り方についてのこれらの違いを、ヨハネ福音記者は、ガリラヤのカナでイエスが行った最初のしるしと二回目のしるしによって証ししている。聖霊によってイエスを身ごもった母は、夫ヨセフと共に、「その子をイエスと名付けなさい」(マタ1:21,ルカ1:31)という天使の言葉を信じた。その信仰によって、「この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないこと」を体験した。聖霊に満たされた彼女は、神がわたしたちのために計画してくださった、「更にまさったもの」を先取りし、完全な状態に達していたのである。それは、復活したイエスが「見ないで信じる人は、幸いである」(ヨハ20:29)と言ったとおりである。

「ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った」(ヨハ2:1~3)。イエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(2:4)と答えた。イエスのこの言葉は、イエスが神の計画をもって地上に来たことを表している。イエスと人生のすべてを分かち合ってきたイエスの母はそれを理解して、召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(2:5)と言っておいた。彼女はイエスの言葉に応えたのである。こうして、母も、弟子たちも、そしてイエスの命令に従った召し使いたちも、イエスが水をぶどう酒に変える最初のしるしを行って、「その栄光を現された」(2:11)その時に遭遇したのである。ここに新約の信仰のモデルがある。

ガリラヤのカナで行われた二回目のしるしは、次のようであった。王の役人は、「イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである」(ヨハ4:47)。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」とあるように、彼は、イエスが「息子をいやしてくださる」ことを確信していた。だから、イエスが彼に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(4:48)と言われたことに取り合わず、すぐに、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(4:49)と言ったのだ。イエスが子供を癒すというまだ見えない事柄を確認しようとした。実際、後で彼は、イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(4:50)と言った時刻と子供が癒された時刻を確認している(4:51~53参照)。彼はイエスの言葉を信じて帰って行った。そして、彼の子どもは癒されたのである。これが旧約の信仰のモデルである。

王の役人は、その信仰のゆえにイエスに認められながらも、「約束されたものを手に入れませんでした」。このような結果を受け取る人々は、今も世界中に数多くいる。その歴史を先に進ませるためには、私たちキリスト者が、「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」という結論を理解して受け入れ、「完全な状態に」達する努力が必要だということだ。そこでヘブライ人への手紙の筆者は、続けて次のように信者たちを強く励ましている。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブ12:1~2)。

Maria K. M.

(お知らせ)

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 2025/08/04



207. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題から解決へ(集会)


ヘブライ人の手紙の筆者は、迫害や社会的圧力の中で(ヘブ10:32~34参照)、旧約の習慣に回帰しがちな共同体の人々を(2:1参照)、手紙で支えければならなかった。そこで彼は、「集会」という言葉を用いて、キリストを中心とした新しい神の民の共同体をイメージさせようとした。それこそが「これほど大きな救い」(2:3)と彼が呼ぶものだからである。この「集会」において神は、イエスの名によって遣わされた「聖霊の賜物を御心に従って分け与え」(2:4)、その礼拝と賛美の中心にいるキリストは、信者を「兄弟」と呼び、共に神を賛美する(2:12参照)。そして、「見よ、私と神が私に与えてくださった子たちがいます」(2:13)と言われる。黙示録にも、「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(黙21:7)とある。「集会」という場こそが、人々が神の安息にあずかる約束の地、「新しいエルサレム」になるはずのものである(21:2~6参照)。

筆者は、信者たちが「集会」に与るよう努力することを勧めた。そこで聖霊は、神を父と呼んでキリストの子となった信者に、御父の御心に従ってその賜物を分け与えようとする。しかし、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブ4:12)と彼が確信しているその力は、信者にとっては厳しい鍛錬に感じ、気持ちがなえることもある。それを乗り越えることは、当時の環境の中で難しかった(10:32~34参照)。さらに、「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(4:13)という神の現実を突き付けられることは、人間的な恐れにつながることもある。

筆者は、「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている」(ヘブ4:14)ことや、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(4:15)と諭し、「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(4:16)と言って励ましている。だからこそ筆者は、この「集会」の中心にイエス・キリストがあることを徹底的に証しするために、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(5:6)というテーマを展開し力説したのだ。

しかしながら、前号まで考察したように、筆者の共同体には、育った環境から植え付けられた習慣的な思考に強く巻き戻ってしまうという人元来の性質が教会共同体に大きな影響を与える問題や、悪魔やサタンと呼ばれる情報に対峙するためにイエスの助けをどのように受けるのかといった問題があった。これらの問題は、むしろ「集会」の外で起こるものだと言える。これらを解決し、イエスの名によって遣わされた聖霊とともに生きる信者たちが、イエスの言葉を保持するためには、現実的で具体的な養成方法が必要である。それは、筆者の確信していた「集会」を支え、生きた教会である信者一人一人がそれを信じて実行することによって、「集会」自体を完成に向かわせ、筆者の確信を実現するものとなるはずの養成である。それにはまず新約聖書が成立しなければならない。旧約聖書にはイエスの名が存在しないのである。

彼は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブ11:1~3)と書いた。ここには、信仰について二つの在り方が見える。ここに現実的で具体的な養成方法につながる手掛かりが隠されていると思う。次回はここから考察をしていきたい。

Maria K. M.

 2025/07/28



206. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題(人間の情報)


ヘブライ人への手紙2章の終わりには、「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(ヘブ2:14~15)とある。私たちが筆者の言葉を理解するには、「悪魔」の正体を知っている必要がある。悪魔やサタンは情報であって、人に取り込まれて人間の思いになる。黙示録には、悪魔とかサタンとか呼ばれるものは、「年を経たあの蛇」(黙20:2)であると書かれ、創世記の初めの男と女の物語に注意を向けるよう促している。

人と人の関わり合いから発生する情報は、人の記憶と親和性が高く、取り込まれると容易に人間の思いが形成される。そういう風にして、初めに「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創2:16~17)と命じた神の言葉は、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」(3:2~3)という人間の思いに取って代わられていた。創世記の初めの男と女が先に持っていた神の言葉の記憶は、上書きされてしまったのだ。

二人は、神の思いをよそに、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(創3:4~5)という人間の思いを持って行為に至った。そして、事実その通りになった。彼らは善悪の知識の木から食べても死ななかったし、目も開けた。しかし、目が開けたことによって、やがて彼らは、塵にすぎない自分たちの肉体が、塵に返ることを知ることになる(3:19参照)。「食べると必ず死んでしまう」とは、肉体の死を知って、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態になることを意味していた。神のことを思えば、それは死んだも同然であった。これらの人々を開放するために、神の子イエスは人となった。そして、ご自身の受難と死と復活について初めて弟子たちに打ち明けた時、それをいさめたペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタ16:23)と厳しい言葉で対応している。

福音書は、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で40日の断食をした後に起こった出来事を記載し、神の子であるイエスが、悪魔とかサタンとか呼ばれる人間の情報とどのように対峙したか明らかにしている。まさに公生活に入ろうとするイエスの脳裏には、御父から任された神の計画があって、それを遂行する決意に満ちていたにちがいない。しかし、断食後に空腹を感じたイエスの頭には、神の子の思いに、人として生きてきた人間の思いが相まって、石がパンになるように命じるという奇妙な発想が起こった(マタ4:1参照)。イエスには、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハ6:54)という言葉を実現するために、パンとぶどう酒が御言葉によって御体と御血になるように命じるという、聖体制定の計画があったからだ。イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタ4:4)と答えて、人間の思いを神の計画と区別した。

こうしている間に、すでに肉体の限界を超えていたイエスの人性は、幻覚を見る。彼は神殿の屋根の端に立っている。彼が持った「神の子なら、飛び降りたらどうだ」(マタ4:6)という発想には、十字架につけられたイエスを見た人々が、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(27:40)とののしる姿が生起されているように見える。イエスも、肉体を備えた人間として、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちと同じ思いでご自分の死と向き合わねばならなかったのである。しかしイエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(4:7)と言って、神の計画を背負ったご自身の思いを人間の思いと区別した。

幻覚は続く。イエスは非常に高い山に連れて行かれ、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見ている。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マタ4:9)という発想が起こる。ここでは、「神の子なら」という提案形式が使われていない。神の子イエスには、この言葉の前にひざを折り、あらゆる偶像崇拝に身を任せ、滅んでいった人々の記憶があったからだ。これは、イエスの記憶の中に区別して置かれている人間の情報である。イエスは、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(4:10)とその名を呼んで、この情報を完全に他者として扱った。そこで、人間の情報は離れ去った。「すると、天使たちが来てイエスに仕えた」(4:11)とある。平安が訪れたのだ。

ヘブライ人への手紙に、「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブ2:18)と書かれているように、荒れ野でのイエスの体験は、私たちにとって大きな助けである。イエスは、自らの内に生じる人間の思いに対して、それに応じた神の言葉によって対処した。彼は旧約聖書の言葉を保持していたからだ。しかし、旧約聖書にはイエスの名はない。体系的な新約聖書が未成立の時代にあって、イエスの名によって遣わされた聖霊と生きる信者たちが、イエスの荒れ野での体験に倣うためには、イエスの言葉を保持するための現実的で具体的な方法が必要だった。これがなかったことが、前回に続いて、教会共同体に影響を与える第2の問題となる。

Maria K. M.

 2025/07/21


205. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題(1~2章)

ヘブライ人への手紙の筆者は、体系的な新約聖書が未成立の時代にあって、伝え聞いたことをもとに信仰の目で見たイエス・キリストと新しい契約を、旧約聖書を使って、なんとかして理論的に説明しようとしているように見える。そこには、前回考察した司祭職についての議論とは別の流れがあって、信仰をテーマに際立った考察を展開している。そこで、筆者が彼の共同体を指導するに当たって抱えていたであろう諸問題を抽出し、最後に解決につなげたいと思う。

筆者は初めに、神の御子であるイエスが誰であるかを明確にし(ヘブ1:1~3参照)、次に、御子と天使の違いを説明している(1:4~14参照)。天使のテーマに筆者がこれほどこだわったのは、ヨセフとマリアに、神の子の到来を告げたのも天使であったように、当時のヘブライ人は、天使が神と人の仲介者であり、神の啓示は天使によって告げられるという認識を持っていたからだ。そこで筆者は、完全に神であっても人でもあったイエス・キリストの人性が天使以下に見えることに対して、本質的には天使を超えた存在であることを丁寧に論証しなければならなかった。ヨハネの黙示録もその初めに、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」(黙1:1)と書いており、キリストが天使を超えた存在であることを明確に示すことが重要であったことを物語っている。

さらに、ヘブライ人への手紙の筆者は、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」(ヘブ1:14)と言っている。それは、黙示録で、天使自身が、「わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である」(黙19:10)、「わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である」(22:9)と言っているとおりである。しかし、続けてヘブライ人への手紙の筆者が、「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」(ヘブ2:1)と書いて克己を促しているように、人は往々にして育った環境から植え付けられた習慣的な思考に強く巻き戻ってしまう。

こう考えると、「わたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう」(ヘブ2:3)と書いた筆者の思いは察するにあまりある。この救いは、天使からではなく、「主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証しして」(2:3~4)いるからである。

ゆえに筆者が、「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」(ヘブ2:10)と言っているとおり、私たち人の前に、神の子であるイエスが、数々の苦しみを通して御父のみ旨を完全に成し遂げていく姿が現されたことによってはじめて、神に創造された人が、万物の目標であり源である方の似姿、すなわち神の似姿に造られたことを受け取ることができたのだ。

このように見ていくと、ここで筆者が彼の共同体を指導するに当たって抱えていたであろう問題の一つは、人は育った環境から植え付けられた習慣的な思考に強く巻き戻ってしまうということにあるといえる。この問題をかかえて、信者は、「これほど大きな救いに対してむとんちゃく」になる。これが教会共同体に影響を与える第1の問題である。

Maria K. M.

 2025/07/14



204. 黙示録とヘブライ人への手紙


黙示録の後半には、その冒頭に、司祭職が十二の星の冠をかぶった女のかたちで、象徴的に現れる(黙12:1~2参照)。ヘブライ人への手紙は、創世記14章を引用しながら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(ヘブ5:6他)というテーマを展開している。前回考察したように、戦いに勝利したアブラハムに、パンとぶどう酒を持って来た「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」の存在は(創14:1~18参照)、イエスの最後の過ぎ越しの食事のとき、パンとぶどう酒を準備した使徒たちに示した、新しい契約の司祭職を象徴している。このときイエスは、創世記の場面におけるアブラハムの位置にあったのだ。イエスはこれを、聖体の制定と同時に使徒たちに授けることによって、永遠の司祭職を設定した。

イエスがヤコブの井戸のところでサマリアの婦人に、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハ4:21)と語ったように、この司祭職は、旧い契約の祭司職とは全く異なる発想であった。ヘブライ人への手紙の中で著者が、「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(ヘブ7:3)と書いて、メルキゼデクの祭司職を力説しているのは、異邦人の共同体のために、また、ユダヤ人の共同体のためにも、イエス・キリストという、律法の枠を超えた完全な祭司を渇望していたからに違いない。

創世記で、アブラハムとメルキゼデクのやりとりの場面が終わると、「これらのことの後で・・」(創15:1)との出だしで、アブラハムが、神の命じたように、三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とを神のもとに持って来た場面が語られる(15:9参照)。この場面は、ヨハネ福音書のイエスの十字架のそばに来た人々を想起させる(ヨハ19:25~26参照)。三歳の雌牛はクロパの妻マリアに、三歳の雌山羊はマグダラのマリアに、三歳の雄羊は愛する弟子に、また、山鳩と、鳩の雛はイエスの母に対応している。イエスの母は、夫ヨセフと共に、イエスが聖別される日に「主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げる」(ルカ2:24)ために、エルサレムにイエスを連れて行ったからである。これらの場面の相似性も、イエスが、アブラハムの位置に置かれていたことを物語っている。

ヤコブの井戸の場面でイエスは、サマリアの婦人に、「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ」(ヨハ4:22)と続けた。イエスは旧い契約の祭司職とつながっている。そこには、人を創造した神の計画と、預言があるからだ。イエスの母が、祭司ザカリアとその妻でアロン家の娘エリザベトの親類である必要もそこにあった(ルカ1:5参照)。

なぜ、司祭職を人に与えなければならなかったか、その理由をイエスは、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:23~24)と言っている。父である神は、真理を望む人が聖霊と協働して神を礼拝する姿を求めているのである。これこそがミサを執り行う新しい契約の司祭の姿である。「今がその時である」とは、そのように礼拝されるイエスがここに“ある”ことを示している。

このように見ていくと、ヘブライ人への手紙には、今は御父の右に座しておられる神の子イエス・キリストを、なんとかして教会共同体の永遠の祭司として位置付けようとする試みがあったことが読み取れる。ここで、メルキゼデクの祭司職が力説されている根底には、当時の教会共同体のために、また、福音を受け取るすべての人が納得できる「祭司制度」(ヘブ7:11~12参照)を著者が求めていたことがあったのではないかと考えられる。しかし、それだけではない。この手紙には、別の流れがあって、信仰をテーマに際立った考察を広げている。次回は、そこに焦点を当てる。

Maria K. M.


 2025/07/07

203. 天にある神の神殿の中に契約の箱が見えた


「第七の天使がラッパを吹いた」(黙11:15)。黙示録の11章の終わりには、新約聖書のすべての書が出そろった。信者に対して具体的な指示を書いている使徒言行録とパウロの書簡に、四つの福音書と共に活躍の場が与えられる。黙示録の後半が来るのだ。「すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。『この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される』」(同)とある。主が統治するということは、イエスが完全に神であっても、この世の人として生きたためにできなかったことをする時が来たということだ。それは、死者を裁くこと、神の僕、預言者、聖なる者、御名を畏れるすべての者に報いを与えること、地を滅ぼす者どもを滅ぼすことである(11:18参照)。それらはまず預言の書である黙示録の世界で起きる(1:3,22:19参照)。

「そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った」(黙11:19)とある。「天にある神の神殿」は、ヨハネ福音書に「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(ヨハ2:21)と書かれたように、キリストの体である。その中にある「契約の箱」とは、何だろうか。

イエスは、マタイ福音書に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタ1:1)とあるように、またご自身も、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(ヨハ8:58)と言っているように、その出自は、アブラハムからつながるダビデの側、すなわちユダ族の側にある。

一方、マリアのもとを訪れた天使が語ったように(ルカ1:36参照)、マリアは祭司ザカリアとその妻でアロン家の娘エリザベトの親類であった(1:5参照)。イエスの母マリアはレビ族の血を引いていたのだ。実際に彼女は、身重のエリザベトを訪問し、3か月も滞在して手伝うような間柄であった。彼女の息子として生まれたイエスにも、その血が入っていたとみなされる。

まさに「契約の箱」は、イエスの体の内にあったレビ族の血、司祭職を示すのである。黙示録は、司祭職をイエスの母のイメージで、「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)と描写した。

ヘブライ人への手紙は、創世記14章を引用しながら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(ヘブ5:6他)という言葉をキーにして、イエスの祭司職が旧約の「レビの系統の祭司制度」(7:11)を超えていることを主張している。アブラハムがアブラムであったとき、彼は、甥のロトを連れ去った王たちを撃ち破って、ロトを救出して帰って来た。ソドムの王はアブラムを出迎えた。そのとき、いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来たと書いている(創14:1~18参照)。メルキゼデクはアブラムを祝福し、アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った(14:19~20参照)。

このエピソードは、「パンとぶどう酒」のイメージから、イエスの最後の過ぎ越しの食事のときの出来事と対比できる。そのときイエスに命じられ、食事の準備をしたのはペトロとヨハネであった(ルカ22:7参照)。そこで「パンとぶどう酒」を持って来たのも彼らだったと考えるのが自然だ。創世記で「パンとぶどう酒」を持って来たのは、「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」であり、福音書では、イエスが選んで使徒と名付けられた弟子たちであった(ルカ6:12~16参照)。イエスは、ご自身を「すべての物の十分の一を彼に贈った」アブラムの立場におき、「パンとぶどう酒」を準備した使徒たちに、御体と御血を与えた。イエスは、彼のすべてを使徒たちに贈ったのだ。

さらに、十字架上でイエスは、イエスの誕生と死を完全に共有する唯一の人である母と一人の使徒を、親子の絆で結ぶことによって、公に司祭職を使徒たちに授けた(ヨハ19:26~27参照)。イエスの母マリアは、聖霊と協働してご聖体を生み、その誕生と死を共有する司祭たちの体験の源である。イエスは使徒たちに、イエスの名によって御父に何でも願うことを求めた(16:23~24参照)。ゆえに司祭たちは、格別にパンとぶどう酒がキリストの御体と御血になることを願うのである。それは、イエスが水をぶどう酒に変えるしるしを行ったときの、イエスの母の姿勢が模範となる(2:1~12参照)。こうして使徒たちは、イエスの司祭職と解けない絆で結ばれた。

これらはすべて、黙示録の初めに次のように預言されている。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(黙1:4~6)。

Maria K. M.

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