イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/10/13


217. 和解

前回考察したように、司祭が祭壇上で御父に向かって、「主イエス・キリストの御体と御血になりますように」と願う言葉は、イエスの母マリアに起こったことと同じ現象を引き起こす。この時、聖霊が司祭に降り、いと高き方の力が司祭を包む。だから、生まれる子、すなわちご聖体は、「聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)。マリアが天使から受けた言葉は、使徒ペトロがイエスを「メシア、生ける神の子」(マタ16:16)、「神の聖者」(ヨハ6:69)と呼んで証しした。これに倣って、現代も司祭と信者は、ご聖体に向かって、ペトロの言葉を証しし続けるはずである。 

しかし、なぜイエスは、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言った時、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタ16:17)と言って、御父の御心がその言葉にあったことを言ったのだろうか。それは創世記の「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた」(創3:8~9)というところまで引き戻す。神がアダムを呼んだのは、彼に使命を与えるためだったのではないか。しかし、その時すでに二人は神の御心に背いていた。神がそれを知らなかったのは、「ご自分にかたどって人を創造された」(1:27)主なる神は、「その鼻に命の息を吹き入れられ」(2:7)、ご自身の似姿となった人の意志がどう動くかを知ろうとなさらないからだ。 

だから神は、アダムが、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創3:12)と答えた時は、ずいぶんがっかりしたにちがいない。彼は、神に背いたばかりか、その原因を神に帰したからである。そもそもアダムは「男」として特別に神から造られたのではない。神が創造したのは、初めの「人」と「女」であった。そして、人(男と女)を創造する神の御業を継ぐのは胎を持つ「女」である。「男」には、これからの計画があった。神は、「男」と和解することを望んでいたに違いない。 

神は、「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:19)と言ってアダムを励ました。今、私たちはこの言葉が、いつか彼が顔に汗を流して「命のパン」を得るために働き、死んで土に返り、「命の息」を吹き入れられた塵の体が復活する、ということを示唆していたことが分かる。神が園でアダムを呼んで、告げようと思っていた神の計画は、アダムに司祭職を授け、神が「祝福し、聖別された」(2:3)日を、人々とともに祝うことだったのである。この計画は、イエス・キリストが新約の司祭職において実現した。この司祭職の使命は、胎児を身ごもる女性と同じように、命に対する使命である。それは、ご聖体に対する使命である。 

妊娠した女性の子宮に起こる胎盤形成は、受精卵、すなわち胎児側が主導的に働き、母体は受動的に関わって起こる。したがって胎盤を作る主体は母体ではなく胎児なのだ。胎児と胎盤は父方の遺伝子を半分持つために、母体から見れば“異物”だ。それにもかかわらず、母体は胎児を拒絶しない。このことは、「命のパン」について語ったイエスの言葉を拒絶した弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった時も、使徒たちはイエスのもとに留まったことを想起させる(ヨハ6:66~69参照)。 

胎盤形成は、母体側と胎児側の密接な対話の上に成り立っているという。胎児は母体の免疫をいわば “再教育”し、母体は胎児の侵入を“許可しつつ制御”する。子宮が胎盤を受け入れる仕組みは非常に精密で、「母体と胎児の間の和解の奇跡」という、ヒト種特有の胎盤形成プロセスなのである。この微妙な交渉のバランスこそが、「妊娠」という現象の本質であり、ここで起こる和解とは、単なる静的平和ではなく、動的なバランスの維持だというのだ。それはイエスが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハ14:27)と言ったとおりである。この和解は、祭壇の前で聖霊が降る司祭にも起こっているに違いない。 

子宮は単なる“器官”ではない。ヒトの生命の成立を支えている。ヒトという種の発生・免疫・脳・社会性にまで影響するきわめて深い意味をもっている。女性は、ヒト種特有の胎盤形成プロセスという、他の生き物に類を見ない高度な重荷を背負ったのである。それは、新しい契約の司祭職も同じである。聖霊に満たされてご聖体を生むという役割を背負って、イエスの母マリアのように生きる司祭は、神と人の歴史が強く求める「和解」を実現することになる。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と言ったペトロの答えは、御父の御心に適っていたのである。続けてイエスは次のように言った。 

「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタ16:18~19)。 

Maria K. M.


 2025/10/06


216. 新たな「実体変化」への招き

ヨセフは夢の中で、天使に、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタ1:21)と告げられた。この言葉の「自分の民」とは、当時も今も、私たち信者のように、イエスを信じた人々を指している。「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(ヨハ16:9)とイエスが言ったように、イエスは、彼を信じた者たちをいつもこの罪から救った。この後、「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタ1:23)と解説が挿入されているように、イエスは、そのためにこのような神と人との関係を実現したのである。その効果は、イエスを信じた人々に現れる。 

イエスに従って、イエスと共にいた当時の信者たち一人一人は、イエスのそばにいることで、「わたしを信じないこと」という罪から救われた。イエスは信者に触れる機会を得て、信者は神の救いを実感するほどに、神が近くいると感じることができた。こうしてイエスは、「わたしの教会」(マタ16:18)となる「自分の民」を守った。イエスは、ご聖体を制定することによって、神であっても人として体を持っていたご自身には不可能であったことが可能となるよう、準備して行かれた。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(ヨハ6:56)というイエスの言葉は、ご聖体によって実現可能となり、「自分の民を罪から救う」神の御業が継続される。神が近くいるのではない。神が信者の内に入るのである。 

ご聖体は、「実体変化」による、いわば第2の受肉の神秘である。ご聖体は、それを拝領する信者たちを、「わたしを信じないこと」という罪から救い続ける。イエスがご自身で証しした、その誕生と死、復活と昇天、そして、確かにイエスのご遺体を墓に葬り、見届けておいたのに、イエスの体がなくなっていたことなど、新約聖書を通して使徒たちから伝え聞いたこれらの事柄を、信者たちは共有する。ご聖体は、私たち信者に食べられることによって死に、その体は、イエスのご遺体が墓から消えていたように、なくなってしまう。そのわずかな時間に、信者たちには、ご聖体によって、神の現存するキリストの体を持つ者へと「実体変化」が起こる。ゆえに、拝領する者の記憶には、ご聖体が誰であるかが、しっかりと刻まれていなければならない。 

一方、マリアは天使に、まず、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(ルカ1:31~33)と告げられた。それは、イエスが公生活をそのように生き、「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」という言葉を、十字架上で実現するということであった。十字架上のイエスの頭の上に掲げられた札に、「これはユダヤ人の王」(23:38)と書かれていたことが、それを証ししている。まさに、「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」のである。 

次に天使が、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)と告げた言葉は、イエスの母となったマリアの身に実現した。それは、十字架上でイエスが、母マリアと使徒を親子の絆で結んだ場面へとつながっていく。この言葉は、イエスの母マリアの子となった使徒のものとなって継承されたのだ。ゆえに、司祭が御父に向かい、「主イエス・キリストの御体と御血になりますように」と願うとき、聖霊が司祭に降り、いと高き方の力が司祭を包むのである。だから、生まれる子、すなわちご聖体は、「聖なる者、神の子と呼ばれる」。 

イエスが弟子たちに、「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」(マタ16:15)と言ったとき、使徒ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えた。すると、イエスは、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)とお答えになった。御父が使徒ペトロに現した言葉は、神を父と呼ぶすべての信者が、イエスを見て、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言うことを望む御父の御心である。私たち信者は、この同じ言葉をご聖体に向けて言うことによって、私たちの御父の御心に答えるのである。 

ご聖体を見て、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言うことを繰り返すことによって、信者の記憶には、ご聖体が、「メシア、生ける神の子」であると、しっかりと刻まれていく。そして神を天の父と呼ぶ信者が、ご聖体を拝領し、ご聖体が留まるわずかな間、神の現存するキリストの体を持つ者へと「実体変化」が起こる時、自分が神の子であることを、わずかずつでも実感にしていくのである。この実感が、イエスを信じることを確かなものとしていく力となる。 

Maria K. M.

(お知らせ)

 インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。№214とテーマが重複していますが、表現を新しくしています ➡ 「パトモスの風



 2025/09/29


215. 実体変化

ご聖体はキリストの御体と御血である。第二バチカン公会議の教会憲章は、ご聖体が、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である」(「教会憲章」№11)と書いている。従って、ご聖体がキリストの体と血であることを信じることは、私たちの信仰の核心である。しかし、私たち信者は、このことを理解し実感を持って受け入れているだろうか。 

司祭は祭壇上で聖霊の働きを御父に願い、パンと杯を手に取って、「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである」、「これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である」と言って、イエスの最後の食卓での言葉を繰り返す(「ミサ典礼書」参照)。こうして御父への願いはかなえられ、パンとぶどう酒はキリストの体と血に変わる。これを教会は古くから「実体変化」と呼んできた。この言葉をトリエント公会議は次のように明確に定義した。「すなわち、パンとぶどう酒の聖別によって、パンの全実体が私たちの主キリストの実体となり、ぶどう酒の全実体がその血の実体に変化します。聖なるカトリック教会は、この変化をまさしく適切に全実体変化と呼びます」(トリエント公会議第13総会『聖体についての教令』4、DS1642)。 

このことは、パウロ6世教皇の回勅「ミステリウム・フィデイ」(19659月)であらためて確認されている。パンとぶどう酒という、キリストの体と血とは似ても似つかぬものが、御父がイエスの名によって遣わした聖霊と司祭が一つになって働くことで、ご聖体に変わるという「実体変化」は、変わるだけではなく、主ご自身が現存する体そのものになることを意味している。司祭は聖霊と一つになって働き、ご聖体が生まれる。司祭なくしてご聖体は生まれないのである。 

「実体変化」という言葉は、妊娠と出産を体験した女性にとって、深い共感を呼び起こす言葉である。受精卵という、人の体とは似ても似つかぬものが、女性の胎に守られて、やがて人の体となって生まれ出るからである。胎児の体には、「在れ」という御言葉と、聖霊の働きによって、神が望んだ人の命がある。今も女性なくして人の命は生まれないのである。 

ルカ福音書によれば、「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」(ルカ1:41)と書かれている。母の胎内で洗礼者ヨハネは、この時、人となったイエスを証ししたのだ。受精卵という、人とは似ても似つかぬものが、女性の体内で成長し、胎動するようになる。それは、またもう一つの「実体変化」と言えるのではないだろうか。ゆえに、イエスは、最期の食卓で使徒たちに、女が子供を産むときのたとえを語り、一人の人間が世に生まれ出た喜びに言及したのである。

「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(ヨハ16:21)と言ったイエスは続けて、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(16:22)と言って、ご自身の復活と同時に、ご聖体の誕生を予告した。 

そして、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハ16:23~24)と保証した。教会はこの世で最高のものを願ってきた。「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」と願って祈り、イエスのこの言葉に応えてきた。「父に願うならば、父はお与えになる」という言葉は即座に実現する。このとき司祭は、聖霊とひとつになって、イエスの言葉を実証しているのである。 

このように考えてくると、祭壇上でパンとぶどう酒がキリストの御からだと御血に「実体変化」するということは、現代人にとっても、受け入れがたいことではない。私たち信者は、ご聖体を拝領した時、神の現存するキリストの体と一体になったことを実感しなければならない。そこに、新たな「実体変化」に呼ばれる未来への希望がある。 

Maria K. M.


 2025/09/22



214. 「カトリック教会のカテキズム」№1386


このブログでは、これまでかなり長い時間をかけて、マタイとルカ福音書にある百人隊長のエピソードを注意深く観察し、考察してきた。イエスに僕(部下)の癒しを願う百人隊長の言葉が、世界中のミサ典礼において、司祭が掲げるご聖体を前にして、司祭と会衆が共に聖体拝領の招きに答えるという重要な場面で使われる言葉である、という観点から、このエピソードを見直す必要があると考えたからだ。上記両福音書ともに、百人隊長は二つの場面に登場する。イエスに僕(部下)の癒しを願う場面と、イエスの十字架のそばに立ってイエスへの信仰を吐露する場面である。後者の場面は、マルコ福音書も記載している。これらの場面に登場する百人隊長が同一人物かどうかは別にしても、百人隊長の言葉には、信仰における二つのステージを見ることができる。

初めの、イエスに僕(部下)の癒しを願う場面では、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(ヨハ6:44)とイエスが言った通り、百人隊長は、御父の引き寄せる力によって、イエスのもとへ来ることができた。そして、その信仰によってイエスに病気の僕(部下)を癒していただいた。第1のステージである。一方、イエスが十字架にかけられた場面では、「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」(マコ15:39)と書かれている。ここでの百人隊長の言葉は、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハ12:32)というイエスの言葉の実現となっている。第2のステージである。

「カトリック教会のカテキズム」(1997年規範版)の№1386には、「この秘跡の偉大さを前にして、信者はただ百人隊長の次のことばを謙虚にまた熱烈な信仰をもって繰り返す以外にはありません。『主よ、わたしはあなたをお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます』」と書かれている。 しかし、この百人隊長の言葉は、御父に引き寄せられてイエスのそばに来た第1のステージのものである。「わたしは地上から上げられるとき・・」と言ったイエスの言葉によって引き寄せられ、イエスのそばに来た私たちキリスト者とはステージが異なっている。私たち信者は、地上から上げられたイエス、すなわち十字架上のイエスに引き寄せられたのだ。

「カトリック教会のカテキズム」は、これに続いて、聖ヨハネ・クリゾストモの聖典礼での祈りの言葉を紹介している。それは、イエスと共に十字架にかけられた盗賊の、「主よ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」という叫びを含んでいる。この叫びは、いわば、十字架上のイエスに引き寄せられた最初の人の叫びだということができる。

聖ヨハネ・クリゾストモの聖典礼は、確かに十字架上のイエスに向かう応答を含んでいるが、この場面は、聖霊が降臨した後の使徒言行録の記述にある、百人隊長の場面に行き着くことはない。そこには、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(使10:2)という百人隊長の姿が描かれている。そして、この百人隊長と使徒ペトロとの関りから(10:1~48参照)、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれた。百人隊長のエピソードが伝える信仰の軌跡には、私たち信者が目指す教会の発展が映し出されている。

同じカテキズムの№1382に、「ミサは十字架上のいけにえが永続する記念であると同時に、主の体と血にあずかる聖なる会食でもあります。感謝のいけにえの祭儀は、聖体拝領(コムニオ)によるキリストと信者たちとの親密な一致に向けられたものです。聖体拝領とは、わたしたちのためにいのちをささげられたキリストご自身をいただくことです」と書かれているように、私たち信者は、ご聖体という、「この秘跡の偉大さを前にして」する応答に、「本当に、この人は神の子だった」という十字架上のイエスに向かう百人隊長の第2ステージの言葉を応用すべきではないだろうか。

「ローマ・ミサ典礼書」による司祭の聖体拝領への招きの言葉は、「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」である。「世の罪を取り除く神の小羊」は、洗礼者ヨハネが自分の方へ来るイエスを見て言った言葉だ。ゆえに「神の小羊の食卓」は、イエスの最期の食卓である。ミサの中で、この時私たちは、司祭が掲げたご聖体に、十字架の上に上げられたイエスを確かに見ているのだ。

Maria K. M.

 2025/09/16



213. 完全なキリスト者の体験を味わう過程とそこで得られる実感


前回の考察を振り返ると、マタイとルカ福音書にある百人隊長の言葉は、ローマについての神の計画を知る由もないこの時の百人隊長が、イエスを信じた自分と、ローマの兵隊としての立場との折り合いをつけた言葉であったと言える。彼は、イエスに「従っていた人々」(マタ8:10)や、イエスと長老たちに付いて来ていた「群衆」(ルカ7:9参照)に、家まで来てほしくなかったのである。しかし、百人隊長は、十字架上のイエスが息を引き取った時には、その出来事を見て、「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)と実感するところまできていた。

さらに、聖霊が降臨した後の使徒言行録の記述には、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(使10:2)と書かれた百人隊長の姿がある。この百人隊長と使徒ペトロとの関りから(10:1~48参照)、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれた。ここに描かれた百人隊長の一連のエピソードには、完全なキリスト者の体験を味わう過程と、そこで得られる実感とを見ることができる。イエスを五感で捉えた者の恵みの力である。

このような百人隊長の信仰の成長を、黙示録の前半で辿ることができる。黙示録の1~3章には、百人隊長が、イエスを信じた自分と自分の立場との折り合いをつけたように、手紙というかたちをとって、自分自身と教会の現状との折り合いをつけながら宣教して行こうとする7つの教会の天使たちを描いている。続く4章から始まる新約聖書成立の預言は、百人隊長がイエスの十字架のそばに立ったように、この書を読むすべての人を、イエスの十字架のそばに連れて来るのである。

さらに、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と書かれた百人隊長の姿にあやかるのは、ミサ典礼の場である。黙示録の霊的訓練のルーティンは、ミサ典礼のルーティンと密接に重なるように意図されており、ミサ典礼から出て、次に入るまでの信者の日常の記憶を支え準備する。ミサ典礼の中で信者は、ご聖体と対面する。ここで、ご聖体がイエス・キリストであることを告白し、拝領することによって、「本当に、この人は神の子だった」と言った百人隊長と同じ実感を得る。このルーティンを行くことこそが、完全なキリスト者の体験を味わう過程であり、黙示録の霊的訓練の過程なのである。

百人隊長と使徒ペトロとの関りから、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれたように、宣教を支える黙示録の霊的訓練が後半に向かうと、訓練者は、自身の記憶に入った啓示の言葉と「人間の情報」を区別しながら、自分自身を知っていく工程に進む。黙示録の霊的訓練のルーティンを何度も繰り返すうちに、少しずつ明らかになっていく自分の姿を認めることによって、自分の周囲の見え方も変わって来る。ここから宣教に向かうきっかけが生まれる。さらに「人間の情報」に敏感になって、その働きが見えるようになってくると、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハ16:7~8)と証ししたイエスの言葉を悟り、聖霊と協働する機会に恵まれるようになる。

御父と御子は、新しい預言が、未来の私たち信者の上に実証されるのを待っている。イエスの名によって遣わされた聖霊は、そのために、すべての信者たちが完全なキリスト者の体験を味わう過程と、そこで得られる実感とを与えるために、黙示録を含む新約聖書とミサ典礼を準備した。ゆえに、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(ヨハ6:39)と言ったイエスの言葉は、どこまでも弱さが残る多くの信者たちのものである。続けて、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(6:40)と言った言葉は、人類の希望である。

Maria K. M.

 2025/09/08

212. 完全なキリスト者の体験を味わう過程を知る手掛かり

イエスがご聖体を定め、地上に残した理由は、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」(ヨハ6:40)である。前回考察したように、「子を見て信じる者」になるには、感謝の典礼の中で、聖霊と協働する司祭が会衆に示すご聖体を見て信じる者になること以外にはない。ご聖体に向かって、「あなたは、神の子、キリストです」(マタ16:16、ヨハ11:27参照)と宣言することを、ミサのたびに繰り返すことによって、信者一人一人の記憶に、「子を見て信じる者」となった事実が焼き付いていく。しかしこの重要な場面で、私たち教会は、世界中が百人隊長の信仰を宣言してきた。このテーマは、これから、黙示録がどのようにして完全なキリスト者の体験を味わわせるのか、その過程を考察するにあたって、重要な課題を含んでいるので、もう一度別の角度から考察してから先に進むことにする。 

ヨハネ福音書は、イエスとピラトのやり取りを詳しく伝えている。その最期の時に、イエスがローマ総督ピラトと関わる場面を残すことによって、神が、ローマをキリスト者のものにするという狙いがあったことを印象付けようとしたと捉えると、すべてがはっきりとしてくる。イエスは、ヤコブの井戸で出会ったサマリアの女に、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハ4:21)と証しした。それは、結果的にローマだった。エルサレムが崩壊することを知っていた神は、新しい契約の上に、イエスが生み出し、聖霊が設立する教会のために、初めからローマに新しい都を計画していた。 

百人隊長のエピソードは、マタイ福音書とルカ福音書にある。僕の癒しを願ったルカ福音書の百人隊長は、イエスに家に来てほしくないという状況に遭遇した。イエスと長老たちに加えて「群衆」も付いて来ていたからだ(ルカ7:9参照)。そこで彼らが、「その家からほど遠からぬ所」(7:6)まで来たとき、百人隊長は、友人たちを送って、次のように言わせて、イエスの来訪を断った。マタイ福音書の場合は、イエスに付いて来たのは、「群衆」ではなく「従っていた人々」(マタ8:10)であったが、それでも百人隊長は、イエスの来訪を断っている。

 「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(ルカ7:6~8)。 

神がローマに新しい都を計画していたことを念頭に置いてこの伝言を聞くと、百人隊長の言葉は、そのままローマ帝国の未来にあてはめることができる。イエスはこれを聞いて驚き、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(ルカ7:9)と言った。ローマの兵隊であった百人隊長が、預言者のように語ったからだ。「主よ、御足労には及びません・・」とあるように、ローマ帝国は、十字架上で亡くなったイエスを迎え入れることはない。しかし、イエスがローマ帝国の刑罰である十字架刑を受けたことは、ローマにイエスの名を刻印することになった。こうして、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」という言葉は実現した。御言葉は、パウロより先にローマに辿り着き、すでにその民に働きかけていた(ロマ1:6~7参照)。 

また、百人隊長の軍務体験から出た言葉は、一見平凡なものに見えるかもしれない。しかし、その言葉の裏には、当時のローマ帝国が持つ法律や軍事に関する、合理的なシステムがあった。そこに、神が十字架上で成し遂げた新しい契約を生きる教会のために、都をローマに求めた理由がある。神の子が地上に来たために起こる、人類の急速な進歩を受け止める器が、ローマ人の文化や伝統、気質にはあったのだ。今、歴史を経た私たちは、新約聖書の中に新しい預言があったことを知る。 

イエスの驚きの言葉は、百人隊長の僕に届き、僕は元気になっていた。イエスを信じる百人隊長の気持ちは、直観的で純粋であった。それはイエスが、「また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」(ルカ4:27)と言って引用した、アラムの王の軍司令官ナアマンのようだ。彼が、妻の召使のイスラエルの少女から聞いて預言者エリシャを信じたように、百人隊長は、長老たちからイエスのことを聞いて信じたのだ。 

イエスが、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」(ヨハ6:44~45)と言った言葉は、旧約の預言が実現したことを証ししている。当時イエスが関わった人々は、御父の引き寄せる力によってイエスのもとに来ることができた人々であった。百人隊長もその一人であり、その信仰は、旧約の民の信仰の延長線上にあった。 

しかし、百人隊長は、その信仰に留まっていることはできなかった。後にイエスが、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハ12:32)と証ししたように、十字架上のイエスに、その見張りを一緒にしていた人々と共に引き寄せられ、「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)と言うことになったからだ。ルカ福音書では、「『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」(ルカ23:47)と書かれている。 

御父に引き寄せられてイエスのもとに来た百人隊長は、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。・・ひと言おっしゃってください」と言った。それは、旧約の民の預言に支えられた信仰であった。やがて、十字架上のイエスに引き寄せられ、「本当に、この人は神の子だった」と言った言葉は、まさにイエスが今成し遂げたばかりの、新しい契約に向かっていた。さらに、聖霊が降臨した後の私たち信者は、ご聖体を前にして、「子を見て信じる者」の信仰を告白するのである。ここに、黙示録が完全なキリスト者の体験を味わわせる過程を知る手がかりがある。 

Maria K. M.

 

(お知らせ)

 今回の内容は、本ブログ執筆者が、インターネットマガジン「カトリック・あい」に投稿した内容と一部重複しています。 「パトモスの風


 2025/09/01



211. まず、世の誤りを明らかにしておくこと


前回話したように、「イエス・キリストの黙示」(黙1:1)は、黙示録を霊的訓練の書として受け取る一人一人の信者に働きかけ、新約聖書の他の書と一体となって、聖霊の霊性にまで導き、完全なキリスト者となる体験を味わわせる。このことが、聖霊によってなされることから、その過程を考察する前に、まず、聖霊についてイエスが最後に証しした、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハ16:7~8)という言葉を確認しておきたい。

「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(ヨハ16:9)とある。それは、イエスが、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」(6:35~36)と言った言葉から明らかになる。この箇所でイエスが、「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言った言葉は、未来の私たち信者にも向けられていることに気付かされる。

イエスは、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(6:40)と言った。そして、その仕方を次に具体的に語ると、ユダヤ人たちは混乱状態に陥った。しかしイエスは、さらに、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:54)と言って話を進めた。これを聞いていた弟子たちの多くが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6:60)と言ったとある。彼らは、生きているイエスが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」と言ったのを聞いて、それを信じることができなかった。彼らは、「大変な思い違い」(マコ12:27)をしていたのだ。これが「世の誤り」である。

私たち信者は、パンとぶどう酒のかたちを取るご聖体を見て、「わたしが命のパンである」と言ったイエスの言葉を信じているだろうか。ご聖体が生きているイエスだと言えるだろうか。言えるのであれば、それをどこで証しするのだろうか。それは、イエスの名によって遣わされた聖霊が、司祭の手を通してミサの中で明らかに示すご聖体を前にしてである。信者たちが、ご聖体を前にして、「あなたは、神の子、キリストです」(マタ16:16、ヨハ11:27参照)と宣言する場面がないなら、それは「世の誤り」に惑わされているからだ。

イエスは、ファリサイ派の人々に、「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」(ヨハ8:17~18)と言った。ミサの中で教会全体がご聖体を「神の子、キリストです」と宣言することは、信者一人一人が御父と御子の証しに加わって、聖霊と協働して全世界を救うほどの業になる。ご聖体を前にした私たちが、もしそれを宣言しないでいるなら、イエスから「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言われ続けるだろう。それは罪について問われているのである。

「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」(ヨハ16:10)である。ヨハネ福音書を読むと、イエスが、「見る」という感覚の働きと「信じる」ことの関係に特別に注意を払っていたことが分かる。イエスがご聖体を定め、地上に残した理由は、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである」(6:40)。「子を見て信じる者」となること、すなわち、感謝の典礼の中で、聖霊と協働する司祭が会衆に示すご聖体を見て信じる者になることは、私たちが、ご聖体に向かって、ご聖体が「神の子、キリスト」であると宣言したとき実現する。この宣言をミサのたびに繰り返すことによって、信者一人一人が「子を見て信じる者」となったという認識を固めていくのである。

しかし、イエスを見ないで信じたにもかかわらず、御父のみ旨を完全に成し遂げたイエスのイメージが頭から離れず、ご聖体をよそに、そのイエスを知りたい、そのイエスを見たい、そのイエスと合一したいという思いに惑わされる者がいる。「世の誤り」からくるその思いは、義について「もはやわたしを見なくなること」と言ったイエスの言葉に反して、見たこともないはずのイエスの姿をその人に感じさせる。それは、その人自身の執拗な欲求と欲望が見せているものだ。これらの欲求や欲望は、人の最も高次の欲求と言われる自己実現の欲求から生じる。そしてそれは、一度達成されたと感じても終わりがなく、生涯にわたってそのプロセスを幾重にも編み出す。その都度あらゆる欲望を総動員して、「世の誤り」を認識せず、「大変な思い違いをしている」(マコ12:27)信者たちへ向かう。そして、彼らがこの自己実現の欲求を自分と同一視すれば、自己実現の欲求は、その人の支配者となる。

イエスは、「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」(ヨハ16:11)と証しした。自己実現の欲求に支配された信者たちに、それを知る機会を、黙示録の霊的訓練は与える。この訓練を続けるうちに、「鋭い両刃の剣を持っている方」(黙2:12)に、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通されて、自分の心の思いや考えを見分けることができるようになっていくのだ(ヘブ4:12参照)。やがて、自分のあるがままの姿を見る時がくる。イエスは、信者たちが、自身の自己実現の欲求を断罪する言葉を、生きている神の言葉であると気付いて受け取ることを切に願ったに違いない。それが可能となるために、イエスは、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハ16:7)と言ったのである。その弁護者こそが、「神の言葉は生きており、力を発揮」(ヘブ4:12)することを教え、悟らせる聖霊なのである。

聖霊に従って黙示録の霊的訓練を行うこと、それは言い換えれば聖霊と協働して訓練することである。人が聖霊と協働するとき、人は本来持っている可能性を発揮し、真に自分らしく生きることができる。聖霊の霊的訓練によって、やがて私たち信者は、自分がイエスに似たもの、神の似姿になるのを見ることになる。これこそが真の自己実現であり、ここにイエスが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハ14:27)と約束した神の平和がある。

Maria K. M.

 2025/08/25


210. イエス・キリストの黙示と霊的訓練の書

聖霊が降臨した後、イエスを直接知る証人たちは、言葉や業によってイエスが証ししたことが、新しい預言となって実現していくのを目の当たりにした。イエスの名によって遣わされた聖霊は、彼らの体験の記憶を、イエスを見ないで信じる者たちに授けるために、新約聖書を成立させ、その中に黙示録を置いた。黙示録に「イエスの証しは預言の霊なのだ」(黙19:10)とあるように、黙示録は、イエスの証ししたことが新しい預言として信者の記憶に注入される霊的訓練の書である。 

黙示録の記述は、新約聖書の他の書の内容を暗示し、それらの箇所とつながって、そこでイエスが証ししたことを、新しい預言として信者の記憶に入れる。そのうえで聖霊は、信者があらためて新約聖書の他の書を味わうとき、その人を教え導いて、イエスが証ししたことが、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟らせる(ヨハ16:13参照)。このような黙示録の霊的訓練を継続的に行いながら、新約聖書の他の書を味わうことによって、信者の内に、イエスが証ししたことが、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟るという循環が起こる。この循環が、イエスを直接知る証人たちが保持していた体験の記憶を、訓練者の内に創り、保持させる暗黙知となる。このことは、これまで検討してきたヘブライ人への手紙からも分かる。 

黙示録の筆者ヨハネは、初めに彼に語りかけた声の主を、「右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙1:16)と描写した。また、ペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙にも、「鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる」(2:12)と書いている。この「鋭い両刃の剣」は、ヘブライ人への手紙の筆者も、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブ4:12)と書いた。黙示録の霊的訓練を繰り返し続ける信者は、ヘブライ人への手紙の筆者が書いたこと、すなわち、新約聖書の他の書に書かれたことが、イエスが証ししたこととして、黙示録において新しい預言となって、実現していくことを悟る。 

ヘブライ人への手紙の筆者は、今は御父の右に座しておられる神の子イエスを永遠の祭司として、なんとかして教会共同体の「集会」の中心に位置付けようと試みた。イエスは、最期の過ぎ越しの食事のとき、パンとぶどう酒を準備した使徒たちに、新しい契約の司祭職を示した。イエスが司祭職を、ご聖体の制定と同時に使徒たちに授けることによって、また、使徒たちがその職務を受け継いでいくことで、司祭職は、永遠の司祭職となっていく。このイエスの証しは、黙示録において新しい預言となって、実現していく。こうして黙示録の後半は、次のように始まる。「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)。 

図にあるように、黙示録は7つの預言によって構成されている。その後半は、「司祭職とご聖体の神秘が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」から始まる。黙示録の霊的訓練は、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)という言葉を信じて、自分の声で朗読し、朗読している自分の声に集中するようにするだけのことだ。しかし、毎日少しずつしかできないことが多い。それでも、たとえ1行でもやると決めて続けるうちに、この黙示録の習慣が「幸い」となる日が来る。「イエス・キリストの黙示」(1:1)として壮大な預言的構成を持つ黙示録は、それを霊的訓練の書として受け取る一人一人の信者に働きかけ、聖霊の霊性の預言(図第7の預言参照)まで導き、完全なキリスト者の体験を味わわせることができる。次回からその過程を考察する。 

Maria K. M.



 2025/08/18



209. ヘブライ人への手紙から黙示録へ

ヘブライ人への手紙は、今は御父の右に座しておられる神の子イエスを永遠の祭司として、なんとかして教会共同体の「集会」の中心に位置付けようとする試みであった。それは、イエスが兄弟(姉妹)と呼ぶ信者たちが成長して、しまいにイエスから、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」(ヘブ2:13)と言われるまでになるためであった。筆者が、「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています・・・御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(10:19~20)と書いた思いには、イエスが制定したご聖体の意味と、イエスの名によって遣わされた聖霊が働くミサ典礼のイメージが見える。また、彼の「天に登録されている長子たちの集会」(12:23)の描写には、天上の「集会」のイメージがある(12:22~24参照)。

このように、旧約聖書と深いつながりを持っているヘブライ人の信者たちを導くために、筆者は「集会」を拠り所とした。新約聖書のないこの時、彼には、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(ヘブ13:7)と言うより他はなかったし、イエスの名がない旧約聖書に頼ることはできなかったのである。

一方、倫理的な問題を抱えた異邦人キリスト者の共同体に関わっていた使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙で、「酒に酔ってはなりません。それは身を持ち崩す元です。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェ5:18~19)と書いて、詩編にもとづいた霊的訓練を行うことを命じた(4:17~5:14参照)。また、コロサイの信徒への手紙にも、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロ3:16)と書いている。しかし旧約聖書の詩編には、「キリストの言葉」はもとより、イエスの名もない。しかも、イエスの再臨を待つキリスト者に、救い主を待つ旧約の人々のぶどう酒を飲ませれば、「だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方が良い』というのである」(ルカ5:39)と言ったイエスの言葉が現実になる。しかし、パウロにとって、他に頼るものは何もなかった。

イエスの公生活を共に過ごした使徒たちは、彼の受難、死、復活、昇天に遭遇し、聖霊の降臨を体験した。しかし、彼らとは全く異なる時に神の選びを受けた使徒パウロは、イエスとの実体験がなかった。彼は、イエスが、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)と言った「わたしが話したこと」の記憶を持っていなかった。これこそが、イエスの名によって遣わされた聖霊と関わるための重大な記憶になるのである。パウロはそのことを良く知っていた。そこで彼は自分からエルサレムへ行って、使徒たちから多くの聞き取りをした。彼の努力は、彼自身の益よりも未来のキリスト者の益となって新約聖書の中で開花した。

やがて、パウロがコリントの信徒への手紙で伝えているように、イエスの復活の証人たちの中ですでに亡くなる人々が出てきていた(一コリ15:6参照)。彼らには、イエスとの実体験があった。その多くは、直接教えを受け、「わたしが話したこと」の記憶を持っていたであろう。聖霊は、イエスを直接知るこれらの証人たちが保持していた記憶を、未来の信者に特別な仕方で注入するために、新約聖書にヨハネの黙示録を加えた。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(黙1:3)とある黙示録は、聖霊が、これらの証人たちに等しい体験を、信者の記憶の奥に格納する霊的訓練の書である。

ヨハネの黙示録は、新約聖書の他の書と強く結びついて、イエスの名によって遣わされた聖霊のために、信者の内奥に重大な記憶を創る。ヘブライ人への手紙の筆者は、この未来を予見したかのように、次のように祈った。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン」(ヘブ13:20~21)。

Maria K. M.

 2025/08/11



208. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題への解決と実り


ヘブライ人への手紙の筆者は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブ11:1~3)と述べている。その上で、この信仰のゆえに神に認められた旧約の人たちの歴史を簡潔に示し(11:4~38参照)、その結果を次のように結論した。「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」(11:39~40)。

ヘブライ人であったイエス・キリストに従うキリスト者の信仰において、旧約の歴史と切り離されることはない。しかし、ここで筆者は、信仰についての二つの在り方を示し、旧約の民の歴史に全く新しい時代が来たことを告げている。このために、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という定義は、「その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした」という結果となった。一方、聖霊によってイエスの名を信じる人々は、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」という状態を受け取る。「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」とはこのようなことであった。

旧約と新約の信仰の在り方についてのこれらの違いを、ヨハネ福音記者は、ガリラヤのカナでイエスが行った最初のしるしと二回目のしるしによって証ししている。聖霊によってイエスを身ごもった母は、夫ヨセフと共に、「その子をイエスと名付けなさい」(マタ1:21,ルカ1:31)という天使の言葉を信じた。その信仰によって、「この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないこと」を体験した。聖霊に満たされた彼女は、神がわたしたちのために計画してくださった、「更にまさったもの」を先取りし、完全な状態に達していたのである。それは、復活したイエスが「見ないで信じる人は、幸いである」(ヨハ20:29)と言ったとおりである。

「ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った」(ヨハ2:1~3)。イエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(2:4)と答えた。イエスのこの言葉は、イエスが神の計画をもって地上に来たことを表している。イエスと人生のすべてを分かち合ってきたイエスの母はそれを理解して、召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(2:5)と言っておいた。彼女はイエスの言葉に応えたのである。こうして、母も、弟子たちも、そしてイエスの命令に従った召し使いたちも、イエスが水をぶどう酒に変える最初のしるしを行って、「その栄光を現された」(2:11)その時に遭遇したのである。ここに新約の信仰のモデルがある。

ガリラヤのカナで行われた二回目のしるしは、次のようであった。王の役人は、「イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである」(ヨハ4:47)。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」とあるように、彼は、イエスが「息子をいやしてくださる」ことを確信していた。だから、イエスが彼に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(4:48)と言われたことに取り合わず、すぐに、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(4:49)と言ったのだ。イエスが子供を癒すというまだ見えない事柄を確認しようとした。実際、後で彼は、イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(4:50)と言った時刻と子供が癒された時刻を確認している(4:51~53参照)。彼はイエスの言葉を信じて帰って行った。そして、彼の子どもは癒されたのである。これが旧約の信仰のモデルである。

王の役人は、その信仰のゆえにイエスに認められながらも、「約束されたものを手に入れませんでした」。このような結果を受け取る人々は、今も世界中に数多くいる。その歴史を先に進ませるためには、私たちキリスト者が、「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」という結論を理解して受け入れ、「完全な状態に」達する努力が必要だということだ。そこでヘブライ人への手紙の筆者は、続けて次のように信者たちを強く励ましている。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブ12:1~2)。

Maria K. M.

(お知らせ)

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 2025/08/04



207. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題から解決へ(集会)


ヘブライ人の手紙の筆者は、迫害や社会的圧力の中で(ヘブ10:32~34参照)、旧約の習慣に回帰しがちな共同体の人々を(2:1参照)、手紙で支えければならなかった。そこで彼は、「集会」という言葉を用いて、キリストを中心とした新しい神の民の共同体をイメージさせようとした。それこそが「これほど大きな救い」(2:3)と彼が呼ぶものだからである。この「集会」において神は、イエスの名によって遣わされた「聖霊の賜物を御心に従って分け与え」(2:4)、その礼拝と賛美の中心にいるキリストは、信者を「兄弟」と呼び、共に神を賛美する(2:12参照)。そして、「見よ、私と神が私に与えてくださった子たちがいます」(2:13)と言われる。黙示録にも、「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(黙21:7)とある。「集会」という場こそが、人々が神の安息にあずかる約束の地、「新しいエルサレム」になるはずのものである(21:2~6参照)。

筆者は、信者たちが「集会」に与るよう努力することを勧めた。そこで聖霊は、神を父と呼んでキリストの子となった信者に、御父の御心に従ってその賜物を分け与えようとする。しかし、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブ4:12)と彼が確信しているその力は、信者にとっては厳しい鍛錬に感じ、気持ちがなえることもある。それを乗り越えることは、当時の環境の中で難しかった(10:32~34参照)。さらに、「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(4:13)という神の現実を突き付けられることは、人間的な恐れにつながることもある。

筆者は、「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている」(ヘブ4:14)ことや、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(4:15)と諭し、「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(4:16)と言って励ましている。だからこそ筆者は、この「集会」の中心にイエス・キリストがあることを徹底的に証しするために、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(5:6)というテーマを展開し力説したのだ。

しかしながら、前号まで考察したように、筆者の共同体には、育った環境から植え付けられた習慣的な思考に強く巻き戻ってしまうという人元来の性質が教会共同体に大きな影響を与える問題や、悪魔やサタンと呼ばれる情報に対峙するためにイエスの助けをどのように受けるのかといった問題があった。これらの問題は、むしろ「集会」の外で起こるものだと言える。これらを解決し、イエスの名によって遣わされた聖霊とともに生きる信者たちが、イエスの言葉を保持するためには、現実的で具体的な養成方法が必要である。それは、筆者の確信していた「集会」を支え、生きた教会である信者一人一人がそれを信じて実行することによって、「集会」自体を完成に向かわせ、筆者の確信を実現するものとなるはずの養成である。それにはまず新約聖書が成立しなければならない。旧約聖書にはイエスの名が存在しないのである。

彼は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブ11:1~3)と書いた。ここには、信仰について二つの在り方が見える。ここに現実的で具体的な養成方法につながる手掛かりが隠されていると思う。次回はここから考察をしていきたい。

Maria K. M.

 2025/07/28



206. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題(人間の情報)


ヘブライ人への手紙2章の終わりには、「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(ヘブ2:14~15)とある。私たちが筆者の言葉を理解するには、「悪魔」の正体を知っている必要がある。悪魔やサタンは情報であって、人に取り込まれて人間の思いになる。黙示録には、悪魔とかサタンとか呼ばれるものは、「年を経たあの蛇」(黙20:2)であると書かれ、創世記の初めの男と女の物語に注意を向けるよう促している。

人と人の関わり合いから発生する情報は、人の記憶と親和性が高く、取り込まれると容易に人間の思いが形成される。そういう風にして、初めに「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創2:16~17)と命じた神の言葉は、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」(3:2~3)という人間の思いに取って代わられていた。創世記の初めの男と女が先に持っていた神の言葉の記憶は、上書きされてしまったのだ。

二人は、神の思いをよそに、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(創3:4~5)という人間の思いを持って行為に至った。そして、事実その通りになった。彼らは善悪の知識の木から食べても死ななかったし、目も開けた。しかし、目が開けたことによって、やがて彼らは、塵にすぎない自分たちの肉体が、塵に返ることを知ることになる(3:19参照)。「食べると必ず死んでしまう」とは、肉体の死を知って、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態になることを意味していた。神のことを思えば、それは死んだも同然であった。これらの人々を開放するために、神の子イエスは人となった。そして、ご自身の受難と死と復活について初めて弟子たちに打ち明けた時、それをいさめたペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタ16:23)と厳しい言葉で対応している。

福音書は、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で40日の断食をした後に起こった出来事を記載し、神の子であるイエスが、悪魔とかサタンとか呼ばれる人間の情報とどのように対峙したか明らかにしている。まさに公生活に入ろうとするイエスの脳裏には、御父から任された神の計画があって、それを遂行する決意に満ちていたにちがいない。しかし、断食後に空腹を感じたイエスの頭には、神の子の思いに、人として生きてきた人間の思いが相まって、石がパンになるように命じるという奇妙な発想が起こった(マタ4:1参照)。イエスには、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハ6:54)という言葉を実現するために、パンとぶどう酒が御言葉によって御体と御血になるように命じるという、聖体制定の計画があったからだ。イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタ4:4)と答えて、人間の思いを神の計画と区別した。

こうしている間に、すでに肉体の限界を超えていたイエスの人性は、幻覚を見る。彼は神殿の屋根の端に立っている。彼が持った「神の子なら、飛び降りたらどうだ」(マタ4:6)という発想には、十字架につけられたイエスを見た人々が、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(27:40)とののしる姿が生起されているように見える。イエスも、肉体を備えた人間として、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちと同じ思いでご自分の死と向き合わねばならなかったのである。しかしイエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(4:7)と言って、神の計画を背負ったご自身の思いを人間の思いと区別した。

幻覚は続く。イエスは非常に高い山に連れて行かれ、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見ている。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マタ4:9)という発想が起こる。ここでは、「神の子なら」という提案形式が使われていない。神の子イエスには、この言葉の前にひざを折り、あらゆる偶像崇拝に身を任せ、滅んでいった人々の記憶があったからだ。これは、イエスの記憶の中に区別して置かれている人間の情報である。イエスは、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(4:10)とその名を呼んで、この情報を完全に他者として扱った。そこで、人間の情報は離れ去った。「すると、天使たちが来てイエスに仕えた」(4:11)とある。平安が訪れたのだ。

ヘブライ人への手紙に、「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブ2:18)と書かれているように、荒れ野でのイエスの体験は、私たちにとって大きな助けである。イエスは、自らの内に生じる人間の思いに対して、それに応じた神の言葉によって対処した。彼は旧約聖書の言葉を保持していたからだ。しかし、旧約聖書にはイエスの名はない。体系的な新約聖書が未成立の時代にあって、イエスの名によって遣わされた聖霊と生きる信者たちが、イエスの荒れ野での体験に倣うためには、イエスの言葉を保持するための現実的で具体的な方法が必要だった。これがなかったことが、前回に続いて、教会共同体に影響を与える第2の問題となる。

Maria K. M.

 2025/07/21


205. ヘブライ人への手紙が提起する諸問題(1~2章)

ヘブライ人への手紙の筆者は、体系的な新約聖書が未成立の時代にあって、伝え聞いたことをもとに信仰の目で見たイエス・キリストと新しい契約を、旧約聖書を使って、なんとかして理論的に説明しようとしているように見える。そこには、前回考察した司祭職についての議論とは別の流れがあって、信仰をテーマに際立った考察を展開している。そこで、筆者が彼の共同体を指導するに当たって抱えていたであろう諸問題を抽出し、最後に解決につなげたいと思う。

筆者は初めに、神の御子であるイエスが誰であるかを明確にし(ヘブ1:1~3参照)、次に、御子と天使の違いを説明している(1:4~14参照)。天使のテーマに筆者がこれほどこだわったのは、ヨセフとマリアに、神の子の到来を告げたのも天使であったように、当時のヘブライ人は、天使が神と人の仲介者であり、神の啓示は天使によって告げられるという認識を持っていたからだ。そこで筆者は、完全に神であっても人でもあったイエス・キリストの人性が天使以下に見えることに対して、本質的には天使を超えた存在であることを丁寧に論証しなければならなかった。ヨハネの黙示録もその初めに、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」(黙1:1)と書いており、キリストが天使を超えた存在であることを明確に示すことが重要であったことを物語っている。

さらに、ヘブライ人への手紙の筆者は、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」(ヘブ1:14)と言っている。それは、黙示録で、天使自身が、「わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である」(黙19:10)、「わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である」(22:9)と言っているとおりである。しかし、続けてヘブライ人への手紙の筆者が、「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」(ヘブ2:1)と書いて克己を促しているように、人は往々にして育った環境から植え付けられた習慣的な思考に強く巻き戻ってしまう。

こう考えると、「わたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう」(ヘブ2:3)と書いた筆者の思いは察するにあまりある。この救いは、天使からではなく、「主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証しして」(2:3~4)いるからである。

ゆえに筆者が、「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」(ヘブ2:10)と言っているとおり、私たち人の前に、神の子であるイエスが、数々の苦しみを通して御父のみ旨を完全に成し遂げていく姿が現されたことによってはじめて、神に創造された人が、万物の目標であり源である方の似姿、すなわち神の似姿に造られたことを受け取ることができたのだ。

このように見ていくと、ここで筆者が彼の共同体を指導するに当たって抱えていたであろう問題の一つは、人は育った環境から植え付けられた習慣的な思考に強く巻き戻ってしまうということにあるといえる。この問題をかかえて、信者は、「これほど大きな救いに対してむとんちゃく」になる。これが教会共同体に影響を与える第1の問題である。

Maria K. M.

 2025/07/14



204. 黙示録とヘブライ人への手紙


黙示録の後半には、その冒頭に、司祭職が十二の星の冠をかぶった女のかたちで、象徴的に現れる(黙12:1~2参照)。ヘブライ人への手紙は、創世記14章を引用しながら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(ヘブ5:6他)というテーマを展開している。前回考察したように、戦いに勝利したアブラハムに、パンとぶどう酒を持って来た「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」の存在は(創14:1~18参照)、イエスの最後の過ぎ越しの食事のとき、パンとぶどう酒を準備した使徒たちに示した、新しい契約の司祭職を象徴している。このときイエスは、創世記の場面におけるアブラハムの位置にあったのだ。イエスはこれを、聖体の制定と同時に使徒たちに授けることによって、永遠の司祭職を設定した。

イエスがヤコブの井戸のところでサマリアの婦人に、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハ4:21)と語ったように、この司祭職は、旧い契約の祭司職とは全く異なる発想であった。ヘブライ人への手紙の中で著者が、「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(ヘブ7:3)と書いて、メルキゼデクの祭司職を力説しているのは、異邦人の共同体のために、また、ユダヤ人の共同体のためにも、イエス・キリストという、律法の枠を超えた完全な祭司を渇望していたからに違いない。

創世記で、アブラハムとメルキゼデクのやりとりの場面が終わると、「これらのことの後で・・」(創15:1)との出だしで、アブラハムが、神の命じたように、三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とを神のもとに持って来た場面が語られる(15:9参照)。この場面は、ヨハネ福音書のイエスの十字架のそばに来た人々を想起させる(ヨハ19:25~26参照)。三歳の雌牛はクロパの妻マリアに、三歳の雌山羊はマグダラのマリアに、三歳の雄羊は愛する弟子に、また、山鳩と、鳩の雛はイエスの母に対応している。イエスの母は、夫ヨセフと共に、イエスが聖別される日に「主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げる」(ルカ2:24)ために、エルサレムにイエスを連れて行ったからである。これらの場面の相似性も、イエスが、アブラハムの位置に置かれていたことを物語っている。

ヤコブの井戸の場面でイエスは、サマリアの婦人に、「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ」(ヨハ4:22)と続けた。イエスは旧い契約の祭司職とつながっている。そこには、人を創造した神の計画と、預言があるからだ。イエスの母が、祭司ザカリアとその妻でアロン家の娘エリザベトの親類である必要もそこにあった(ルカ1:5参照)。

なぜ、司祭職を人に与えなければならなかったか、その理由をイエスは、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:23~24)と言っている。父である神は、真理を望む人が聖霊と協働して神を礼拝する姿を求めているのである。これこそがミサを執り行う新しい契約の司祭の姿である。「今がその時である」とは、そのように礼拝されるイエスがここに“ある”ことを示している。

このように見ていくと、ヘブライ人への手紙には、今は御父の右に座しておられる神の子イエス・キリストを、なんとかして教会共同体の永遠の祭司として位置付けようとする試みがあったことが読み取れる。ここで、メルキゼデクの祭司職が力説されている根底には、当時の教会共同体のために、また、福音を受け取るすべての人が納得できる「祭司制度」(ヘブ7:11~12参照)を著者が求めていたことがあったのではないかと考えられる。しかし、それだけではない。この手紙には、別の流れがあって、信仰をテーマに際立った考察を広げている。次回は、そこに焦点を当てる。

Maria K. M.


 2025/07/07

203. 天にある神の神殿の中に契約の箱が見えた


「第七の天使がラッパを吹いた」(黙11:15)。黙示録の11章の終わりには、新約聖書のすべての書が出そろった。信者に対して具体的な指示を書いている使徒言行録とパウロの書簡に、四つの福音書と共に活躍の場が与えられる。黙示録の後半が来るのだ。「すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。『この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される』」(同)とある。主が統治するということは、イエスが完全に神であっても、この世の人として生きたためにできなかったことをする時が来たということだ。それは、死者を裁くこと、神の僕、預言者、聖なる者、御名を畏れるすべての者に報いを与えること、地を滅ぼす者どもを滅ぼすことである(11:18参照)。それらはまず預言の書である黙示録の世界で起きる(1:3,22:19参照)。

「そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った」(黙11:19)とある。「天にある神の神殿」は、ヨハネ福音書に「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(ヨハ2:21)と書かれたように、キリストの体である。その中にある「契約の箱」とは、何だろうか。

イエスは、マタイ福音書に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタ1:1)とあるように、またご自身も、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(ヨハ8:58)と言っているように、その出自は、アブラハムからつながるダビデの側、すなわちユダ族の側にある。

一方、マリアのもとを訪れた天使が語ったように(ルカ1:36参照)、マリアは祭司ザカリアとその妻でアロン家の娘エリザベトの親類であった(1:5参照)。イエスの母マリアはレビ族の血を引いていたのだ。実際に彼女は、身重のエリザベトを訪問し、3か月も滞在して手伝うような間柄であった。彼女の息子として生まれたイエスにも、その血が入っていたとみなされる。

まさに「契約の箱」は、イエスの体の内にあったレビ族の血、司祭職を示すのである。黙示録は、司祭職をイエスの母のイメージで、「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)と描写した。

ヘブライ人への手紙は、創世記14章を引用しながら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(ヘブ5:6他)という言葉をキーにして、イエスの祭司職が旧約の「レビの系統の祭司制度」(7:11)を超えていることを主張している。アブラハムがアブラムであったとき、彼は、甥のロトを連れ去った王たちを撃ち破って、ロトを救出して帰って来た。ソドムの王はアブラムを出迎えた。そのとき、いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来たと書いている(創14:1~18参照)。メルキゼデクはアブラムを祝福し、アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った(14:19~20参照)。

このエピソードは、「パンとぶどう酒」のイメージから、イエスの最後の過ぎ越しの食事のときの出来事と対比できる。そのときイエスに命じられ、食事の準備をしたのはペトロとヨハネであった(ルカ22:7参照)。そこで「パンとぶどう酒」を持って来たのも彼らだったと考えるのが自然だ。創世記で「パンとぶどう酒」を持って来たのは、「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」であり、福音書では、イエスが選んで使徒と名付けられた弟子たちであった(ルカ6:12~16参照)。イエスは、ご自身を「すべての物の十分の一を彼に贈った」アブラムの立場におき、「パンとぶどう酒」を準備した使徒たちに、御体と御血を与えた。イエスは、彼のすべてを使徒たちに贈ったのだ。

さらに、十字架上でイエスは、イエスの誕生と死を完全に共有する唯一の人である母と一人の使徒を、親子の絆で結ぶことによって、公に司祭職を使徒たちに授けた(ヨハ19:26~27参照)。イエスの母マリアは、聖霊と協働してご聖体を生み、その誕生と死を共有する司祭たちの体験の源である。イエスは使徒たちに、イエスの名によって御父に何でも願うことを求めた(16:23~24参照)。ゆえに司祭たちは、格別にパンとぶどう酒がキリストの御体と御血になることを願うのである。それは、イエスが水をぶどう酒に変えるしるしを行ったときの、イエスの母の姿勢が模範となる(2:1~12参照)。こうして使徒たちは、イエスの司祭職と解けない絆で結ばれた。

これらはすべて、黙示録の初めに次のように預言されている。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(黙1:4~6)。

Maria K. M.

(お知らせ)

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 2025/06/30


202. 一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう


黙示録11章に登場する二人の証人は、使徒言行録とパウロの書簡を表していた。これら二つの書が証言を終えると、「一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである」(黙11:7~8)とある。それは、「底なしの淵」すなわち過去の世界の知識を使って、これら二つの書を解釈し、彼らが伝える真実を改ざんしてしまい、主の十字架の教えさえも過去の知識で解釈するようになるという預言である。さらに、その結果、地上の人々は、金品や富を追い求め、権力や権威が売り買いされる未来を予告している。この「一匹の獣」は、黙示録13章で登場する「海の中から上がって来る」(13:1)獣と、「地中から上がって来る」(13:11) 獣が、歴史の中で絡み合っていくことで起こる現象を先取りしている。

「海の中から上がって来る」という言葉に、モーセの時代に紅海を渡ったイスラエルの民を思い出す。「この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した」(黙13:3)とある。「致命的な傷」とは、神がダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サムエル記下7:14)と告げたにもかかわらず、ソロモンが神から離れたために実現しなかったことである(列王記上11:1~10参照)。イスラエルの民は、神との間に父と子の関係を結ぶことで神と等しい者とされる機会を失った。そこで、彼らの歴史から一匹の獣が上がって来る。神と神の民の関係を婚姻にたとえる神学である。この錯覚によってその致命的な傷も癒え、民はこの神学に身を任せた。しかし傷は残った。そのために神を父と呼ぶイエスに、ユダヤ人たちが強い妬みを持って、ますます殺そうと狙うようになったのである(ヨハ5:17~18参照)。

パウロは、フィリピの信徒への手紙の中で、「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」(フィリ3:5~7)と書いている。続けて、「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(3:8~9)と言った言葉に、神と人の関係が父と子、神と子にあることを取り戻した者の姿がある(ヨハ1:12,ロマ8:14~17,ガラ4:6~7,黙21:7参照)。

一方、「地中から上がって来る」獣は、地上のことについて追及したギリシャ哲学である。「この獣は、小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた」(黙13:11)とある。この「二本の角」は、キリスト教に大きな影響を与えたプラトン(紀元前427~347)と、アリストテレス(紀元前384~322)の哲学だと思われる。パウロは、コロサイの信徒への手紙で、「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」(コロ2:8)と書いている。そして続けた次の言葉からは、キリストの体であるご聖体のイメージが読み取れる。「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です」(2:9~10)。

「何とかして死者の中からの復活に達したい」(フィリ3:11)と願っているパウロにとっては、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること」(3:14)以外にはなかった。「しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます」(3:15)と励ましてもいる。それでも彼は、今、自分が到達したところに基づいて皆が前進することを望み、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」(3:17)と強く勧める。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」(3:18)と言っているからである。どこに漂着するかもしれない自己実現を目指し、腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていないような信者は今もいる(3:19参照)。洗礼を受けたにもかかわらず、彼らも「獣の刻印」を押された者たちなのだ(黙13:16参照)。

しかし、パウロはそれらを恐れてはいなかった。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(フィリ3:21)という確信があったからだ。黙示録の後半冒頭には、次のように「万物を支配下に置くことさえできる力」が現わされている。「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙12:1)。ゆえにパウロは、次のように力強く励ましている。「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」(フィリ4:1)。

Maria K. M.

 2025/06/23


201. 黙示録7章と11

黙示録は、主の昇天までを記述する四つの福音書に加えて、使徒言行録とパウロの書簡が新約聖書に載ることを預言した。その理由を述べた7章と、これら二つの書が天に上げられるてんまつが描かれている11章を考察する。 

7章の初めに「この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた」(黙7:1)と書かれている。ここで2回出てくる「四隅」という言葉が、新約聖書では使徒言行録だけに同じく2回出てくる「四隅」を暗示している(使10:11,11:5参照)。それは、ペトロがヤッファの町で祈っているとき見た幻の中に出てくる。ペトロは、幻の意味を、聖霊が働きかけた異邦人との出会いから悟った(10:1~48参照)。彼がこの体験を、エルサレムの教会に帰って報告すると(11:1~17参照)、それを聞いた人びとは、「『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した」(11:18)とある。これを機にエルサレムの教会は異邦人への宣教にも向かっていくことになる。この方針転換が、「大地の四隅から吹く風」である。 

四人の天使が、大地の四隅から吹く風を吹き付けないようにしていたのは、回心した後タルソスへ行ったパウロを、バルナバが見つけ出してくるまで、異邦人への宣教を待つためであった(使11:19~26参照)。主がパウロの回心を助けたアナニアに、「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(9:15)と言ったように、また、パウロがローマへ船出する前にアグリッパ王に語り掛け、「こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました」(26:19~20)と証ししたように、パウロは、異邦人だけではなく、イスラエルの子らにもイエスの名を伝える使命を帯びていた。

 ここで黙示録を見ると、パウロの宣教は、イスラエルの子らの全部族の中から十四万四千人を選んで神の刻印を押すためであるとともに(黙7:2~4参照)、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」(7:9)が、「玉座の前と小羊の前」(同)に立つことができるようになるためであった。ここから、11章の初めに、筆者が、杖のような物差しを与えられ、「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ」(11:1)と命じられたのは、イスラエルの子らの全部族の中から、神の刻印を押す人々を選ぶためであったことが分かる。 

続けて、「しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう」(黙11:2)という預言があって、これはイエスのエルサレム崩壊の預言を示唆している(ルカ13:34~35参照)そこで、「わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう。この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である」(黙11:3~4)と続いている。「粗布をまとわせ」は、「自分の二人の証人」が書物や手紙であることを示唆し、「千二百六十日の間、預言させよう」とは、「四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじる」ことになるローマ帝国で、この預言が実現することを暗示している。時間を示すこれら二つの表現は、神の忍耐の時を表している。 

また、黙示録で「燭台」が、教会を指すことから(黙1:20参照)、「二本のオリーブの木、また二つの燭台」は、使徒パウロのローマの信徒への手紙に登場する「野生であるオリーブの木」と「栽培されているオリーブの木」でたとえられた二つの教会(ロマ11:24参照)、すなわちユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の教会共同体を暗示している。そして、これら二つの教会を支えるものとして、すでに使徒言行録とパウロの書簡が、「地上の主の御前に立つ」、すなわち、イエスの名によって地上に遣わされた聖霊に認められていることを証ししている。ゆえに、大きな効能を発揮するこれら二つの書に害を加える者は、神から敵とみなされる(黙11:5~6参照)。 

そして、「二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう」(黙11:7)とある。これら二つの書が世に出ると、「一匹の獣」が、「底なしの淵」、すなわち、過去の世界の知識を使って、これら二つの書を解釈し、彼らが伝える真実を改ざんしてしまう。続けて、「彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである」(11:8)と書かれたように、その「獣」は、主の十字架の教えさえも過去の知識で解釈する。パウロが書いたものが、「難しく理解しにくい箇所があって」(二ペト3:16)、「地上の人々を苦しめたからである」(黙11:10)。

 しかし、これら二つの書から真実を悟って救われ、天上にいる人々が(黙7:9~17参照)、「三日半の間」(11:9)この成り行きを見守り、二つの書の真実を伝える力が墓に葬られないよう祈り支えている。一方、地上の人々は、「獣」が行った改ざんを大いに喜ぶ。「贈り物をやり取りするであろう」(11:10)とあるように、その解釈によって、金品や富が行きかい、権力や権威が売り買いされる未来が予告されている。そこで、「三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた」(11:11)とある。「三日半」とは、ここでも神の忍耐の時である。 

「二人は、天から大きな声があって、『ここに上って来い』と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た」(黙11:12)とは、やがて、これらの書が四つの福音書と関連付けられて、すべての人々に正当に解釈される日が来ることを預言している。黙示録の前半の訓練が新約聖書の暗黙知を、その人の記憶に創り始めるからだ。

 Maria K. M.


 2025/06/16


200. 新約聖書の成立を順に預言したヨハネの黙示録の証し(黙示録)

黙示録を構成する7つの預言の内、第3の預言は「新約聖書成立の預言」である(4~11章)。そこに出てくる7つの封印は、新約聖書を表していた。最後の第7の封印は黙示録である。これが開かれたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれ、7つのラッパが与えられた7人の天使と、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つ天使が登場する。金の香炉を持った天使の手から、香の煙は、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。それから、天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上へ投げつけると、雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こったとある(黙8:1~5参照)。この描写は、イエスが十字架上で息を引き取った直後に起こった現象を想起させる(マタ27:51~52参照)。このような現象は、黙示録の中で6回起こるが、そのうちの3回は黙示録の中に黙示録が現れるときに起こっている(黙8:5, 11:19, 16:18)。黙示録には特別な使命がある。 

7人の天使がラッパを吹くときの描写は、新約聖書が世に現れることによって起こる数々の「災い」、すなわち新約聖書の効能を表している(黙8:6~9:21,11:15~19参照)。次々に吹かれるこれら7つのラッパも、小さな手掛かりから次のように新約聖書の順に並べられていることが分かる。第1のラッパから第4のラッパは、その直後に一羽の鷲が登場することから、四つの福音書と考えられる。第5のラッパは使徒言行録である。第5の天使がラッパを吹いたとき、天から星が落ちてきて、「この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと・・」(9:1~2)とある。この描写は、使徒言行録で、使徒たちが牢に入れられたとき、牢にはしっかり鍵がかかっていたのに、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出したこととつながる(使5:19~23参照)。黙示録で「星」は天使を表しているからである(黙1:20参照)。第6のラッパは、偶像礼拝がテーマとなっており(9:20参照)、このテーマに多くを割いているパウロの書簡である。ゆえに、最後の第7のラッパは黙示録である。 

黙示録は「7つの雷」のたとえで公同書簡にも言及する(黙10:1~4参照)。ここに新約聖書の全貌が預言されたと言える。その後、筆者は天使の手から小さな巻物を取って食べた(10:5~10参照)。それは、旧約聖書に比べて小さい新約聖書である。「取って食べた」とは、コインの裏表のように新約聖書とつながっている黙示録の訓練を自発的にすることで、自分の記憶に新約聖書の暗黙知を持ったということである。「それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった」(10:10)とある。「口には蜜のように甘かった」とは、黙示録の訓練が容易に始められるということだ。それがたとえ毎日一句ずつでも、黙示録を自分で声に出して朗読し、それを聞くことを続けることは、けして難しいことではない(1:3参照)。しかし、「食べると、わたしの腹は苦くなった」とあるように、さまざまな考えを思いめぐらす腹にとって、新約聖書の暗黙知を持つことは、苦い薬となることも多い。それは、実際に食べ続けてみれば分かる。 

「新約聖書成立の預言」である第3の預言の初めに、四つの生き物に象徴される四福音書が天の玉座の周りにいた(黙4:6~8参照)。それは、四福音書が新約聖書に加えられることは比較的早く決まっていたことを意味している。聖霊の降臨前までを記述する四つの福音書に加えて、新たに使徒言行録とパウロの書簡が、活用されるために天に上げられる必要があった。第7の封印が開かれて黙示録が登場する前、7章に挿入された出来事は、これら二つが天に上げられる理由を述べている。また、そのてんまつが第7の天使がラッパを吹く直前の11章に描かれている。次回は、これらを検証したうえで、第7の天使がラッパを吹いた後の黙示録の効能を考察した後、黙示録の後半に向かう準備に入る。黙示録の後半は、ミサ典礼の完成と聖霊の霊性に向かう預言となっており、信者が実生活の中でそこに向かうにあたって、起こり得る多くの困難を乗り切っていくための新約聖書の暗黙知を創る。 

Maria K. M.

(お知らせ)

 インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。➡ https://catholic-i.net/koramu/%ef%bc%88%e8%aa%ad%e8%80%85%e6%8a%95%e7%a8%bf%ef%bc%89%e8%81%96%e9%9c%8a%e3%81%af%e3%80%81%e7%9c%9f%e5%ae%9f%e3%82%92%e5%8f%97%e3%81%91%e5%85%a5%e3%82%8c%e3%82%8b%e5%a7%bf%e5%8b%a2%e3%82%92%e6%8c%81/

 2025/06/09


199. 黙示録と新約聖書 その2


黙示録は、7つの預言で構成されているが、大きく二つの部分に分かれている。前半(第一から第三の預言、1~11章)は、新約聖書に向かう預言であり、後半(第四から第七の預言、12~22章)は、ミサ典礼の完成と聖霊の霊性に向かう預言となっている。前回と前々回考察したように、第三の預言において第1から第6の封印が次々に開かれる黙示録の6章は、現在の順と同じく成立した新約聖書の6つの書とつながっていた。このことから、第三の預言が確かに新約聖書の預言となっていることを確認した。最後に黙示録である第7の封印が開かれると、その特異性が明らかになる。そこで黙示録に入る前に、その性質をよく理解できるように、第一の預言から、これまでつかんだ各預言の特徴を振り返っておきたい。

第一の預言(1章) 教会と共にいるイエス・キリストの預言

「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(1:3) とあるように、 新約聖書の他の書とつながっている黙示録は、自分の声という直観的な感覚を使って人の五感から入り、新約聖書の暗黙知を創る。イエスの名によって救われ、イエスが神の子であることを信じるということは、それを認知するということである。認知は、受け取った情報が、持っている記憶と合致したとき起こる。そこで、イエスに対する信仰を成長させるためには、新約聖書の言葉を受け取ったとき、それと合致する記憶を持っていることが必要で、黙示録がこれを創る。黙示録が直観的に捉えにくく、理解できないような言葉で書かれているのは、新約聖書とつながりながらもそれを意識させずに、暗黙知としてその記憶を創るためである。やがて信者は、複雑な手順を意識することなく、御言葉を直観的に認知するようになる。そして、その暗黙知は、黙示録の言葉を日々五感から取り込む信者の記憶の内で自己組織化し、成長する。 

第二の預言(2~3章) 教会共同体が抱えた問題とその解決の預言

この預言では、7つの教会の天使に宛てた手紙が紹介される。これら7人の天使は、ヨハネ福音書の復活したイエスと出会った7人の使徒たちであり、彼らは皆漁師であった。それは、彼らが、職業がら直観的であったことが重要だったからだ。直感的な彼らの認知力は、漁をするという複雑な手順を、体験から五感をとおして受け取り、暗黙知にしてきた結果である。ルカ福音書で、イエスがペトロに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)と言った場面のやり取りは、このことを証ししている。先にイエスを見て、肉声でその教えを聞き(5:3参照)、その後にこのように声をかけられた彼らは、漁師として磨かれた直観を土台に、イエスの言葉を認知した。こうしてイエスを信じて従っていった後、イエスと共にいて体験した多くのことが彼らの新しい暗黙知になっていったのだ(ヨハ21:25参照)。やがて彼らは、聖霊の声掛けを聴き、その声を直観的に認知するようになっていく。それは、彼らに新約聖書の必要性を強く感じさせたに違いない。黙示録の7つの手紙の内容は、未来から近未来、現在という形で時系列になっており、第三の預言である新約聖書の成立という解決に向かっていた。そして、すべての手紙の結びにある「勝利を得る者」と「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」という言葉は、これらの手紙が、全信者に向けられていることを示している。 

第三の預言(4~11章) 新約聖書の成立の預言(黙示録の前まで)

「開かれた門が天にあった」(黙4:1)と書かれた門は、イエスが天から降ってきて、再び天に上り、聖霊が降臨したために開かれたままになっている門である(ヨハ3:13参照)。イエスは、世に命を与える神のパンとなるために天から降って来て(6:33参照)、聖霊を送るために去っていった(16:7参照)。「すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた」(黙4:2)とある、「その玉座の上に座っている方」は御父と御子である(3:21参照)。「玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった」(4:6)とある目は、神の知識の象徴であり、「前にも後ろにも一面に目があった」のは、四つの福音書の神の知識が一体をなしてすべての出来事に対処するためである。それは、七つの角(完全な権威)と七つの目(完全な知識)を持つ「屠られたような小羊」(5:6)と連動して働くためである。「屠られたような」という表現から、この小羊がイエスの名によって遣わされた聖霊を表わしていることが分かる。 

Maria K. M.


 2025/06/02


198. 新約聖書の成立を順に預言したヨハネの黙示録の証し(使徒言行録とパウロの書簡)


黙示録において7つの封印が次々に解かれる場面が、新約聖書の成立の預言となっているとの考えをもとに、個々の場面を詳しく検討することにした。前回は、最初の4つの封印が解かれる場面が、4福音書を預言していることを見た。今回は引き続き、第5、第6の封印について考察する。

第5の封印が解かれた時の描写は、使徒言行録の預言となっている。その描写が提起している問いの答えを、聖霊が降臨した直後のペトロの説教に見出すことができるからである。「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々の魂を、祭壇の下に見た」(黙6:9)という描写の「自分たちが立てた証し」とは、「ペトロは、『たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った」(マタ26:35)という、イエスの最期の食事のときの出来事を指している。しかし、イエスがユダの裏切りによってゲッセマネの園で捉えられたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(26:56)。その後、遠く離れてイエスに従い、大祭司の中庭まで行ったペトロも、女中に見とがめられ、イエスと一緒にいたことを問われると、「そんな人は知らない」と誓って打ち消してしまった(26:69~75参照)。これらの成り行きは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」(ヨハ18:9)と言ったイエスの言葉が実現するためであったが、弟子たちは、「自分たちが立てた証し」を全うできなかったのである。それは、聖霊が降臨して初めて成し遂げられることになる。そこで、黙示録の筆者が「祭壇の下に見た」魂は、使徒たちの魂である。そして、「彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。』」(黙6:10)。この問いには、使徒言行録の聖霊が降臨した直後のペトロの説教にその答えがある(使2:22~36参照)。イエスに起こったことが彼らにも起こるのである。彼らに「魂」があるのは、「殺された」のに生きているからだ。黙示録は、「彼らの一人一人に白い衣が与えられ、それから、『あなたがたと同じように殺されようとしているきょうだいであり、同じ僕である者の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と告げられた」(黙6:11)と続ける。彼らは、「祭壇の下」で、自分たちと同じように「神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに」、今日もミサ典礼を挙行する「きょうだいであり、同じ僕である」司祭たちを見つめ、その数が満ちるのを待っている。彼らは、祭壇の下にいて私たち信者と共にミサ典礼に与っている。

第6の封印が解かれる場面は、パウロの書簡を預言している。ここで描かれたことの意味が、使徒パウロのローマの信徒への手紙によって明らかになるからである。「また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された」(黙6:12~14)。この描写は、パウロが回心したときのたとえである。それは彼にとっても、ダマスコの信者たちにとっても想像を絶する激しい仕方で起こった(使9:1~9参照)。イエス・キリストに回心したパウロは、まさに「天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された」かのようだった(9:10~20参照)。アナニアに助けられ、洗礼を受けたパウロは力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコの他の人々をうろたえさせた。やがて彼らがパウロを殺そうとたくらんだときのことを、パウロは次のように語っている。「ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした」(二コリ11:32~33)。一方、黙示録には、「地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に向かって、『わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ』と言った。神と小羊の大いなる怒りの日が来たのだ。誰がそれに耐えられようか」(黙6:15~17)とある。これらの悲劇の原因は、「怒りの日」という表現によってつながる使徒パウロのローマの信徒への手紙の次の箇所によって明らかになる。「怒りの日」という表現は、新約聖書の中ではこれら2箇所にだけ見られるものだ。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」(ロマ2:1~5)。

Maria K. M.

 2025/05/26

197. 新約聖書の成立を順に預言したヨハネの黙示録の証し(四つの福音書)

黙示録で小羊が7つの封印のうち最初の四つを開いたとき、「四つの生き物」が次々と「出て来い」と呼びかけた。そして、それぞれの呼びかけに応えて、4頭の馬とその騎手が現れる。これらの馬と騎手の描写は、それぞれ次に記載するように、四つの福音書に書かれた復活したイエスの最後の命令に符合する。このことから、著者は以下のとおり特定できる。 

第1の生き物(マタイ福音書) 「また、わたしが見ていると、小羊が七つの封印の一つを開いた。すると、四つの生き物の一つが、雷のような声で『出て来い』と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、白い馬が現れ、乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った」(黙6:1~2)という描写には、マタイ福音書の復活したイエスの最後の命令「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28:18~20)という言葉が符合する。「弓」は、「天と地の一切の権能を授かっている」ことと、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」ということの保証であり、「冠」は勝利のしるしである。「更に勝利を得ようと出て行った」のは、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という命令に従ったのである。 

第2の生き物(マルコ福音書) 「小羊が第二の封印を開いたとき、第二の生き物が『出て来い』と言うのを、わたしは聞いた。すると、火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた」(黙6:3~4)という描写には、マルコ福音書の復活したイエスの最後の命令「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」(マコ16:15~18)という言葉が符合する。「平和を奪い取って、殺し合いをさせる力」は、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」という言葉が人を分けるとき働く。また、「大きな剣」は、「彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」という権能の事である。 

第3の生き物(ルカ福音書) 「小羊が第三の封印を開いたとき、第三の生き物が『出て来い』と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、黒い馬が現れ、乗っている者は、手に秤を持っていた。わたしは、四つの生き物の間から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた。『小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな。』」(黙6:5~6)という第3の封印が解かれたときの描写には、ルカ福音書の復活したイエスの最後の命令「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:46~49)という言葉が符合する。「小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン」とは、「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(ルカ6:38)というイエスの言葉がテーマになっている。黒い馬の騎手が手に秤を持っているのは「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」とあるからだ。また、オリーブ油は病気の人のために(ヤコ5:14参照)、ぶどう酒は聖体祭儀のために損なってはならなかった。これらのことは、キリストの受難と死と復活よって、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことによって実現する。そしてイエスが、「都にとどまっていなさい」と言ったのは、これらのことを実現させる聖霊が降臨するのを待つためであった。 

第4の生き物(ヨハネ福音書) 「小羊が第四の封印を開いたとき、『出て来い』と言う第四の生き物の声を、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は『死』といい、これに陰府が従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた」(黙示録6:7~8)という描写には、ヨハネ福音書の復活したイエスの最後の命令「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハ21:22)という言葉が符合する。この言葉は、イエスがペトロに、彼がどのような死に方で神の栄光を現すことになるかを示し(ヨハ21:19参照)、ご自分の「死」に従うように命じた後、ペトロが、イエスの愛しておられた弟子を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21:21)と尋ねたときの答えである。イエスの愛しておられた弟子は、イエスの昇天後ペトロと共に宣教するが、やがて二人は別の道をたどる。福音書と黙示録に関わることになるこの弟子は、イエスの死に従うことができない。そこでイエスは、ペトロに再び「わたしに従いなさい」と言って、ご自分の死に従うよう命じたのである。「乗っている者の名は『死』といい、これに陰府が従っていた」とあるのは、「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(一ペト3:18~19)というペトロの手紙が反映されている。ヨハネはペトロと共にいて、彼のこの考えを聞いていたに違いない。 

Maria K. M.



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