イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2025/01/20


179. 預言された者 その4

アッシジの聖フランシスコは、「イエスの召命」を持っていたのに、助祭職を引き受けた。そして、聖痕を受けた。それは、彼がキリスト者の男性だったからだ。このことについて、復活したイエスがマグダラのマリアに、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(ヨハ20:17)と命じた言葉から考察する。

 「わたしの兄弟たちのところ」とは、シモン・ペトロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」(20:2)と書かれたヨハネのいた家、すなわちマグダラのマリアが墓から石が取りのけてあるのを見て、知らせに走って行った家である。それは、その前の木曜日に「過越の小羊を屠るべき除酵祭」(ルカ22:7)の準備のために、イエスがペトロとヨハネとを使いに出した先の家である。その時イエスは二人に、「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい」(22:10~12)と言った。ペトロとヨハネは、このイエスの言葉どおりに体験した。イエスが「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋」がある家、その家に彼らは泊っていたのである。 

水がめを運んでいる男に出会い、その人が入る家までついて行き、家の主人に何かを願うという場面を、聖霊の降臨した後、彼らは日常的に経験することになる。水がめを運んでいる男は聖霊であり、その人が入る家とは、イエスが「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋」がある家、それは、ミサ典礼が行われる場である。家の主人は御父である。御父に司祭が願うことは、この世で彼らが求める最高のもの、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」という願いである。ペトロとヨハネが過ぎ越しの食事を準備したその家で、イエスはご聖体を制定した。聖霊と御父も同席していた。イエスと共に食卓を囲んだ使徒たちはその目撃者、証人であり、その業を継ぐ者であった。彼らによって、ともに食卓を囲むすべての信者の未来がそこにあった。神が我々と共に食卓を囲んでおられるのだ。 

そこで、復活したイエスが、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」という、ご自身と使徒たちの関係に距離を取るような言い方をわざわざしたのは、彼らの目を御父に向けさせるためであった。神は、イエスを世に遣わすまで、歴史の中で、いくつもの旧い契約を通してご自身が選んだ民を導き、共に歩んできた。イエスが弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタ16:15)と問うた時、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えたシモン・ペトロに、イエスは、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16:17)と言った。御父の熱情は、この時すでに新しい民「キリスト者」の男性の上に注がれていたのだ。 

サン・ダミアーノの十字架像は、視覚に訴えることで、ヨハネ福音書の同じ場面の意味を悟らせる。イエスの左に描かれた二人の女性、「イエスの召命」を持つマグダラのマリアと「ヨセフの召命」を持つクロパの妻マリアの背後には、暗に、それらの召命を持つ男性たちがいる。しかし、その姿は描かれていない。それは、彼らがキリスト者の男性であり、条件が整えば、教会の必要に応えて、すぐにも「マリアの召命」を受け取ること、すなわち司祭職を受け取る準備があるはずだからだ。 

聖フランシスコは、「イエスの召命」を持っていたにもかかわらず、教会の必要に応えて助祭職を受けた。フランシスコが聖痕を受けたのは、このような彼に御父が報いたのであった。 

つづく

Maria K. M.


 2025/01/13


178. 預言された者 その3

聖フランシスコの小品集に残された彼の記憶、そして彼についての伝記は、そこに現わされた真理によって、私たちが信仰において前進するよう強く促している。フランシスコは、サン・ダミアーノの十字架像で、眼を見開いて十字架上のイエスを凝視している男として預言されていた(本ブログ№174参照) 。彼が聖痕を受け、「わたしが、あの方を引き取ります」と言ったマグダラのマリアの言葉を身をもって実現したことと、助祭職を受けていたことは、教会の召命を知る重大な手がかりになった。 

「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハ20:17)とイエスがマグダラのマリアに言ったのは、彼女が女性だったからである。ヨハネ福音記者がこの場面を挿入したのは適切だった。イエス・キリストの教えは男女の弟子たちが対等に受け取り、「イエスの召命」を生きることができるものであったので、女性も男性と同様に司祭職を受けることになるという錯覚が生じる可能性があったからだ。 

イエスの十字架のそばに立ち、イエスがご自分の母と愛された弟子を親子の絆で結んだのに立ち会ったマグダラのマリアは、十字架上のイエスの言葉によって男性である使徒が、司祭職と分かたれない絆で結ばれたことの証人となった。また、イエスの復活の場面では、復活したイエスに、イエスの遺体を引き取ると宣言して、彼女に「イエスの召命」があることを証しした。ここでイエスが、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言った言葉は、彼女に続いて「イエスの召命」に呼ばれることになる女性たちが、司祭職への錯覚を抱くことがないように、イエスにすがりつく手を放し、まだ父のもとへ上っていないキリストの体への執着を捨て、聖霊に向かって一歩を踏み出すように諭すためであった。 

イエスは、続けて「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(ヨハ20:17)とマグダラのマリアに命じている。彼女は迷うことなく「弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」(20:18)。それは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた弟子たちに、イエスが訪れる心の準備をさせた。 

その日の夕方、家の戸に鍵をかけていたのに、イエスが来て真ん中に立った。そして、「あなたがたに平和があるように」と二度も言ったのは、彼らを宣教に遣わす前に罪を許す権能を与えるためであった。マタイ福音書に、「ペトロは、『たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った」(マタイ26:35)と書かれている。使徒たちは、ペトロを筆頭にイエスを決して見捨てないとの証しを立てていたのだ。しかし、イエスの受難を目の当たりにした弟子たちは皆逃げ去り、ペトロは、イエスを「知らない」と言って三度否んだ。彼らがそれぞれに、まず自分自身を赦さないなら、彼らはイエスを証しすることができない。宣教することができないのだ。これがヨハネ福音書の主の復活の場面に描かれた7つのエピソードの3つ目のエピソードである。 

4つ目のエピソードは、復活したイエスが現れたことを信じなかった使徒トマスに、イエスが現れて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハ20:27)と言った場面だ。この言葉は、マグダラのマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と諭した言葉とは対照的である。彼が司祭職と結ばれた使徒の一人だったからである。 

続けてイエスがトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)と言ったように、キリストの体になるために特別に取り分けられたパンとぶどう酒に触れることになる司祭は、「見ないのに信じる人」の幸いを持っているのである。ヨハネ福音記者は、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20:31)と解説している。ご聖体を挙げる司祭自身と、彼と共に祭壇を囲む信徒たちが、ご聖体を「神の子メシアである」と信じて告白し、イエスの名により命を受けることになると言っているのである。 

つづく 

Maria K. M.


 2025/01/06


177. 預言された者 その2

ヨハネ福音書の主の復活の場面には、7つのエピソードが描かれている。前々回、175で初めの2つのエピソードを考察し、「わたしが、あの方を引き取ります」と言ったマグダラのマリアの言葉を、1000年以上たって、聖痕を受けた聖フランシスコが、身をもって実現したという結論を得た。フランシスコを捉えたサン・ダミアーノの十字架像には、フランシスコの登場が預言されていた(本ブログ№174参照)。彼は、難解とされていたヨハネ福音書と黙示録の真理を身に着けた者として、その時代に現れるべく呼ばれたのだ。聖霊は、フランシスコが生きている間も、また彼の死後も、彼の書き物や伝記から浮かび上がってくる真理によって当時の教会を鼓舞した。それは今も続いている。このような理解に立って、ヨハネ福音書の復活の場面を続けて考察していく。 

マグダラのマリアは、イエスの十字架のそばに立ち、彼の最期に立ち会い、その血と水を受けて、新しい契約の証人、また、誕生した教会の最初の四人の一人となった。彼女の召命については、これまで何度も考察してきた。そして、彼女が、復活したイエスに初めに出会い、それがイエスとは気付かず、図らずもイエスに向かって、イエスのご遺体を「引き取る」と宣言したことは、彼女の召命を証ししていると確信した。しかし、この場面でイエスが「マリア」と声をかけ、振り向いた彼女に、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハ20:17)と言った言葉の意味が見えてこなかった。それがここにきて、サン・ダミアーノの十字架像と、聖痕を受けたフランシスコの召命についての考察によって明らかになってきた。 

イエスの声に振り向いたマグダラのマリアが思わず「先生」と言ったように、また、イエスご自身も「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである」(ヨハ13:13)と断言したように、イエスはその人生を救い主として生きたのではなく、ましてや司祭として生きたのでもなかった。だから当時の人々は、イエスを預言者だと思っていたのだ。このイエスに多くの弟子たちが従っていた。その中には婦人たちもいたのである。 

彼女たちは、自分の持ち物を出し合ってイエスの一行に奉仕していた(ルカ8:1~3参照)。これらの女性たちは、復活したイエスから「イエスの召命」を受けたマグダラのマリアを筆頭に、イエスの前でイエスが誰であるかを告白したマルタ(ヨハ11:17~27参照)や、イエスとの問答から命の水と新しい礼拝のテーマを引き出したサマリアの女(ヨハ4:1~30参照)のように、イエスに導かれながら彼から具体的に対話を引き出し、自発的に神の言葉を求め、その実りを自身の言動に結び付けていく女性たちだった。こうして男女の弟子たちが対等に「イエスの召命」を継承することができるようになっていた。一方で、当時の人々が、イエスを預言者だと思っていた間も、イエスは、私たちと共にいる神の子であり、救い主であり、彼の短い人生の終わりにその姿を現す司祭であった。イエスのこれらの隠れた特徴は、「マリアの召命」によって明らかになる。 

ヨハネ福音書と黙示録の真理を身に着けたフランシスコは、サン・ダミアーノの十字架像に描かれたヨハネ福音書の描写が実現するために、「イエスの召命」を身をもって表現することで、十字架のそばに生まれた教会の召命をあらわにすることになった。ゆえに彼は、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言ったイエスの言葉の意味を悟っていたに違いない。「イエスの召命」に呼ばれたにもかかわらず、彼は教会の勧めに従って助祭職を受けたからだ。教会への愛のためにキリスト者の男性としての使命を受け入れたのだ。この言葉には、キリストの体となるために特別に取り分けられたパンとぶどう酒は、ご聖体として司祭の手によって上げられるまで、触れてはならないという戒めが込められていた。マグダラのマリアが女性だったからである。 

つづく 

Maria K. M.


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