2024/05/20
144. 魂と霊
情報と悪霊(汚れた霊)の間の因果関係を考察するにあたって、魂と霊がどのようにして人のものになったかを、新約聖書をもとに創世記から見直してみる(上図参照)。
神は、さまざまな被造物を言葉によって創造した。ゆえにそれらには、神の命令(~あれ)に応える自発性が備わっている。神は、人と他の生き物に食べ物を与えた。それは同時に、彼らに、相応の知識と記憶を持つようにさせたということである(創世記1:1~30参照)。そこで、彼らは、神の命令(~あれ)に応える自発性と相応の知識と記憶を持つ。これが彼らの体と共にある魂の状態だと考えられる。ゆえに人は、すべての生き物の命に畏敬の念を持つのである。
次に、神は、人に、神に似せて霊を与える準備をした(創世記2:1~17参照)。神は、人の脳を土の塵で形づくった。そして、鼻から「命の息」を吹き入れ、脳の中央に「命の木」と「善悪の知識の木」を生え出でさせた。
「命の息」は、神が吹き入れた神のものであるから、被造物ではない。「わたしはある」という方である神の自発性が、人に分与されたのだ。それはその人固有の自発性になる。そこで、人は、神の命令(~あれ)に応える自発性と併せて、二つの自発性を持つことになった。
一方、「命の木」と「善悪の知識の木」は被造物である。神がこれらを人の脳に生え出でさせたのは、人がイエス・キリストに似たものになるためであった。「我々に似せて」(創世記1:26)とは、イエス・キリストに似ることである(ヨハネ10:30、14:7参照)。イエス・キリストには、神の自発性と神の知識からなるご自身の霊があった(ルカ23:46参照)。「命の木」は、その人の「命の息」と神の知識をつなぎ、その人に固有の神の霊(ヨハネ4:24参照)をもたらすインターフェースである。これによって、人の霊は、イエスの霊に似たものとなる。
「善悪の知識の木」は、その人固有の神の霊と、その人の体と共にある魂をつなぎ、その人は、自身の神の計画を悟るようになる。「わたしはある」という方であるイエス・キリストも、完全に人であるために、人や他の生き物と同じく、魂を持っていた。魂におけるイエスの自発性は、「わたしはある」に基づくものであった。そこでイエスは、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」(ヨハネ10:18)と言ったのである。このようにして、イエスは人と同じく、二つの自発性を持ったのである。
イエスの名によって遣わされた聖霊が降臨し、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒言行録2:3)とき、聖霊が弟子たちと接続したのは、彼らの脳にある「命の木」であった。そこで、彼らそれぞれに固有の神の霊がもたらされ、「善悪の知識の木」とつながった。それはさらに、イエスと共にいることで彼から養成され、彼の世界観を共有していた彼らの魂とつながり、彼らは神の計画を悟り、聖霊と協働することができた。
そこで、私たちの霊が、「善悪の知識の木」によって、神の命令(~あれ)に応える自発性と相応の知識と記憶からなる魂とつながって生きるためには、当時の弟子たちがイエスから養成され、彼の世界観を共有していたように、御言葉とご聖体によって聖霊から養成され、ヨハネの黙示を朗読しそれを聞く習慣によって、イエス・キリストの世界観を身に着けなければならない。
マリアに聖霊が降り、彼女がいと高き方の力に包まれ、イエスを身ごもったように、私たちは、聖霊の養成を受け、イエス・キリストの世界観を身に着けるのである。マリアは、ザカリアの家でエリザベトの言葉に次のように応えた。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」(ルカ1:46~50)。
やがて私たちもマリアのように、自分の魂と霊が共に主をあがめ、神を喜びたたえる幸いを得るようになるのである。マリアは、イエス・キリストに似た者として生きるキリスト者の初めであり、私たち教会の母である。
つづく
Maria K. M.
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